エピローグ・プラス|「新しい鼓動の予感」
エピローグ・プラス|「新しい鼓動の予感」
二十四歳の冬は、二十歳の頃よりも少しだけ、風が柔らかく感じられた。 それは地球の温暖化のせいかもしれないし、二人が着ているコートが、格安量販店の一番安いものから、二番目に安いものへランクアップしたせいかもしれない。
駅ビルの喧騒を抜け、冷たい夜気を吸い込む。葵は、手元にある厚みのある封筒を、バッグの上からそっと撫でた。中には、届いたばかりの『介護福祉士』の登録証が入っている。
「……ねえ、悠真。これ、重いね」 葵が言うと、隣を歩く悠真が、自分のバッグを肩に担ぎ直しながら鼻を鳴らした。 「紙の重さじゃないだろ。五年分の、腰痛と寝不足と、よし子さんの小言が詰まってる重さだよ」 「ふふ、そうだね。……私たち、本当によく頑張ったよね」
五年前、右も左もわからず、大理石の床に怯えていた二人は、今や『グランド・メゾン・白金』の中核を担う若手リーダーだ。難関の介護福祉士国家試験を突破し、実務者研修の厳しい課題を二人で夜な夜なこなし、ようやく手にした「専門職」の証。
「今日までさ、何度も辞めたいって思ったけど……悠真がいたから、続けられたんだと思う」 「……俺の方こそ。お前が素うどん食べさせてたら、今頃栄養失調で倒れてた」 悠真が照れ隠しに横を向く。街灯のオレンジ色が、彼の少しだけ逞しくなった首筋を照らした。
アパートのいつもの坂道。 商店街の入り口にある惣菜屋から、甘辛いコロッケの匂いが漂ってくる。葵はふと、その匂いに胸が「きゅっ」となるのを感じた。嫌な感じではない。ただ、胃の奥が少しだけ熱を持ち、何かがひっくり返るような、不思議な感覚。
「……葵? どうした、顔色が変だぞ。またよし子さんの入浴介助でのぼせたか?」 「ううん、大丈夫。……ちょっと、お腹が空きすぎただけかも。……ねえ、今夜はさ、お祝いでしょ?」 「ああ。特製エビ入りカップ麺、さらに生卵二個投入の刑だ。奮発してやるよ」
アパートの階段を上がる。 『ギィ、ギィ』と鳴る鉄の手すり。二階の住人の、相変わらず派手なくしゃみ。 部屋の鍵を開け、真っ暗な空間に「ただいま」を投げ込む。 スイッチを入れると、古びた蛍光灯が『チチチッ』と何度か瞬いてから、五年前から少しずつ増えた二人の「生活の痕跡」を照らし出した。
壁には、あの写真館で撮った一枚の写真。 不器用な笑顔の二人。その隣には、よし子さんから「卒業祝いよ」と無理やり押し付けられた、小さな富士山の置物。
葵は、コートを脱ぎながら、不意に鏡の前に立った。 自分でも気づかないうちに、頬のラインが少しだけふっくらしている気がする。 (……なんだろう。最近、眠気がすごいの。……春が近いからかな)
キッチンでお湯を沸かし始めた悠真が、背中越しに言った。 「葵。来月からはさ、少しずつ貯金の種類、変えようか」 「えっ、写真の次は……何?」 「……名前、まだ決めてないけど」 「名前?」 「……いや。……いつか、この部屋じゃ狭くなるだろ。もっと、日当たりのいい部屋。……三人でも、笑えるくらいの」
悠真が、お湯の蒸気に紛れて、ボソッと言った。 彼はまだ、気づいていない。 葵もまだ、確信は持っていない。 けれど、窓の外で鳴り響く冬の風の音よりも、葵の耳には、自分の体の奥で小さく刻まれる「トクトク」という新しいリズムが、確かな音楽として聞こえ始めていた。
「……三人、か。……いいね、悠真」 葵は、自分の下腹部にそっと手を当てた。 そこにはまだ、形も名前もない。 けれど、いないから作ってきた二人の「家族」が、今、確かな「命」として、この六畳一間の宇宙に根を張ろうとしている。
「悠真、これからもよろしくね。……私たち、きっと良いお父さんとお母さんになれるよ。……マニュアルはないけど」 「……ああ。……よし子さんに子育ての説教されるのが、今から目に浮かぶけどな。……『あんた、おむつの当て方が甘いわよ!』とか言って」
二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。 お湯が沸騰し、シュンシュンと威勢の良い音を立てる。 冬の夜の底。 誰にも祝われず、誰にも期待されなかった二人の人生の上に、今、世界で一番温かくて、一番新しい「おめでとう」が、静かに、けれど力強く、降り積もろうとしていた。
「……ねえ、悠真」 「ん」 「……大好きだよ」 「……お湯、入れるぞ。三分待てよ」
不器用な夫の返事に、葵は幸せそうに目を細めた。 来年の今頃、この部屋には、エビ入りカップ麺の匂いに混じって、ミルクの甘い香りと、火がついたような泣き声が響いているはずだ。 祝われなかった結婚から始まった物語は、今、新しい命という名の「完成した富士山」に向かって、再び歩き始めた。
(本当の、完)
写真を撮る日まで 春秋花壇 @mai5000jp
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