第4話 祈願もなく、ただ神仏が好きで祈りたい、という信仰もある。 摩利支天、飯綱明神、九頭龍

祈願もなく、

ただ神仏が好きで、祈りたい、という信仰がある。


摩利支天、飯綱明神、九頭龍。

いずれも今なお、人を集め続けている存在だ。


祈りには、もう一つの形がある。


願いがはっきりしていない。

叶えてほしいことも、具体的にはない。

それでも、手を合わせたくなる。


姿が好き。

真言が馴染む。

理由はうまく言葉にできないが、

何となく、祈りたい。


「叶えてほしいこと」が先にあるのではない。

「手を合わせたい」という感情が、先にある。


これは、取引とも、願掛けとも、少し違う祈りだ。


戦国の大軍師・山本勘助が拝んだともされる摩利支天。

「我は毘沙門天なり」と名乗り、

上杉謙信が篤く信仰した毘沙門天。


不動の装束をまとい、

迦楼羅天の姿で、白狐に乗り、

悪魔よりも悪魔している飯綱明神。


人を困らせた末に封じ込められたはずが、

今では恋愛成就で名を馳せる箱根の九頭龍。


散々怖いと言われながら、

大白狐にまたがった神速の女性武人として語られる荼枳尼天。


これらが人を集めるのは、

御利益がきれいに整理されているからではない。


速さ。

鋭さ。

荒さ。

自在さ。


その「在り方」そのものに、人は惹かれている。


そこでは、等価交換という発想は入り込まない。

差し出す代価も、

回収される見返りも、

最初から想定されていない。


ただ、「好きだから祈る」。

それだけだ。


この祈りは、軽いどころか、

実は最も重い。


なぜなら、

何も要求せず、

何も保証されず、

それでも関係を続けることを選んでいるからだ。


願いがない祈りは、

裏切られようがない、とも言える。

だが同時に、

「叶った」「叶わなかった」という物語で、

自分を慰めることもできない。


残るのは、

その神仏と向き合う自分自身だけだ。


これは、

「願いを軽く扱わない」という段階を越え、

願いという枠組みそのものを越えた信仰だと言っていい。


だから、

等価交換は成立しない。

契約も成立しない。

だが、関係は続く。


祈りとは、

欲しいからするものだけではない。

好きだから、するものでもある。


その祈りは、

静かで、理由がなく、

そして、驚くほど折れにくい。


神仏は、

そういう祈りに対しても、

やはり契約を結ばないし、

対価も求めない。


だが、

無視もしない。


それで、

十分なのだと思う。

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尾陽雑記帳 どうたぬき @doutanuki88

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