喫茶「しらさぎ館」と左京の午後
泊波 佳壱(Kaichi Tonami)
第1話 左京の午後
ここは古くからの温泉が有名な観光地、出湯の香りに包まれた高級旅館が立ち並ぶエリア。
その中心商店街から一つ通りを隔てて、古びたけれど妙に居心地のいい喫茶店「しらさぎ館」がある。
木製の扉を開けると、昭和の香りがふわりと漂い、店内にはジャズが流れている。
観光客も地元の常連も、なぜかこの店では肩の力が抜ける。
その日も、午後の陽ざしが窓辺を照らすなか、店はほどよく賑わっていた。
カウンターには常連の老婦人が新聞を広げ、奥のテーブルでは若いカップルがパンケーキを分け合っている。
店員の美咲は、笑顔でコーヒーを運びながら、時折客と軽い会話を交わしていた。
そこへ、ひとりの男が入ってきた。年の頃は五十代、スーツ姿だがネクタイは緩み、顔には不機嫌の二文字が貼りついている。
男はドスンと音を立てて椅子に座り、メニューも見ずに「コーヒー、すぐ持ってこい」と言った。
美咲が「はい、少々お待ちください」と微笑むと、男は「待たせるなって言ってんだよ」と声を荒げた。
店内の空気がピリつく。
隣の席にいた若い女性が、思わず顔をしかめると、男はそれに気づいて「何だ、その顔は。文句あるのか?」と絡み始めた。
女性は困惑し、周囲の客も視線をそらす。
そのとき、店の奥の席で文庫本を読んでいた男が、ふと顔を上げた。
黒縁の眼鏡に、ゆるいシャツ。どこか飄々とした雰囲気のその男が、静かに立ち上がり、真っすぐに問題の男の方に向けて歩み寄った。
目の前で、微妙に歩む向きを変えて、隣の席の女性の方に向き直り
「こんにちは。お隣、失礼しますね」
そう言って、男は女性の隣の空いていた椅子に腰を下ろした。男=左京は、にこやかに問題の男に向き直る。
「いやあ、今日は暑いですね。コーヒーが待ち遠しい気持ち、よくわかります。
でもね、ここの店員さん、豆を挽くところから始めるんですよ。
急かすと、豆がびっくりして苦くなるって、聞いたことありません?」
男は一瞬、何を言われたのか理解できず、ぽかんとした顔をした。
「それにね、隣の席の方、さっきからずっと『この店、落ち着くなあ』って思ってたんですよ。
そこへ突然、雷みたいな声が飛んできたら、そりゃびっくりしますよね。
僕も昔、雷に驚いて土手道から転げて草むらに落ちたことが有るんです。バッタ達と目が合いました」
店内に、くすくすと笑いが漏れた。
美咲も思わず吹き出しそうになりながら、コーヒーを運んできた。
「お待たせしました。深煎りのブレンドです」
そう言いながら、男のテーブルの隅にコーヒーカップを置いた。
左京はそのコーヒーカップを男の目の前に差し出しながら、「さあ、豆の気持ちを味わってください」と言った。
男は、しばらく黙っていたが、やがて苦笑いを浮かべた。
「……あんた、変なやつだな」
「よく言われます。でも、変なやつって、案外便利なんですよ。
怒ってる人も、笑ってる人も、どっちにも話しかけられる。
怒ってる人には『変なやつが来た』って思われて、笑ってる人には『変なやつが面白い』って思われる。
便利でしょ?」
男は、ふっと肩の力を抜いたようだった。
そして、コーヒーを一口飲み、「…うまいな」とつぶやいた。その口元は少し緩んでいた。
左京は、にっこり笑って
「豆、びっくりしてなかったみたいですね」
と言った。
店内は、再び穏やかな空気に包まれた。
「どうも、お邪魔しました」
左京はそう言って、女性と問題の男に軽く会釈して席を立ち元の席に戻り、文庫本を開いた。
ページの隅には、コーヒーの香りが染み込んでいた。
しばらくして、問題の男は静かにコーヒーを飲み終え、「ごちそうさん」と言って店を出ていった。
去り際、ちらりと見えた男の目元は明らかに緩んでいた。
美咲は木製の扉が閉まるのを見届けたあと、左京の席に駆け寄り、
「左京さんには、また助けられちゃいましたね。感謝です!」
と言って頭を下げた。
「いやいや、僕はただ、バッタの話がしたかっただけです」
左京はそううそぶいた。
そのやりとりを見ていたさっきの女性も、席に着いたままだが左京の方を向いて、拍手だか手を合わせるだか、そういうしぐさをして見せた。
喫茶「しらさぎ館」の午後は、またいつものように、ゆるやかに流れていく。
左京は本を読みながら、時折窓の外を眺めては、何か面白いことが起きないかと待っている。
そして、誰かが困っていたら、ふらりと立ち上がって、きっと読んでいた文庫本の中からでも、適当な話題を拝借してきては、周りを笑わせる事だろう。
次の更新予定
喫茶「しらさぎ館」と左京の午後 泊波 佳壱(Kaichi Tonami) @TonamiKaichi
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