陰翳
中里朔
- 陰翳 -
日記を読み返すと、
児童相談所から連絡がきたのは二日ほど前。年の瀬で児童養護施設での対応が間に合わないため、一時的に真琴を預かってほしいとのことだった。
私は福祉支援活動として、児童養護施設を退所した後の相談や生活指導に当たっている。ちょうど一年前に五歳の男の子を預かり、我が家で養育するようになった。近年では集団生活に馴染めない子も多く、小規模化した施設も増えていると聞く。この
潤一郎は物静かで従順な子だが、どこか深い部分で大人に対して心を閉ざしている様子もみられた。原因はこれまでの生活にあるようで、今後も注意深く見守ってやらねばならない。
ここにもう一人、施設に移り住むまでの間とはいえ、真琴を預かるとなれば私の責務は重く肩にのしかかるであろう。まして真琴は来春から中学生に進学する多感な時期。
難しい顔をする私に、妻はあっさりと「引き受けてあげなさい」と言った。遊び相手にでもなってくれたら潤一郎も楽しいだろうと。なにより、実子のいない私たち夫婦にとって、子どもの声が聞こえる賑やかな家庭は理想だったため、私は妻の声を汲み取ることにした。
「
庭にいた私に声をかけたのは、顔見知りの児童相談所の職員。にこやかな彼の、少し後ろに立つ女の子が例の真琴であろうか。厚手の上着を羽織っているにもかかわらず、線の細さが見て取れた。顔立ちは十二歳というあどけなさを残しつつも、色白で凛とした瓜実顔が大人びて見えた。
突然やってきた真琴を、リビングの離れたところから潤一郎が遠巻きに眺めている。警戒心が強く、興味を示しても自分から近付いたり話しかけたりはしない。当の真琴も、その視線に気付いているとは思うが、潤一郎へ声をかけることもしなかった。
クリスマスの前日、真琴が学校へ行っている間に事故は起きた。両親はその日、家族で食べるためのケーキを買って帰る途中だった。渡っていた横断歩道で信号を無視した車に衝突され、二人はそのまま帰らぬ人となった。運転していた男は酒気帯びも明らかになり、すでに逮捕されている。
遠縁の親戚には頼れず、兄弟姉妹のいない真琴はたった一人で生きていくことを余儀なくされた。
職員が事故の詳細を語っている間、真琴は凝然としたまま黙っていた。
私はこれまでに幾度も憔悴する子どもの顔を見ている。両親を一度に失った悲しみは、言葉では言い表せないほど深く、どんな名医を連れてきても心に負った傷を治すことはできないだろう。時が洗い流してくれるのを待つか、どこかで踏ん切りをつけるしかない。私にできることは立ち直る手助けをし、本人が前を向いて歩み始めるまで見守ることだけだ。
冬の夜空に浮かぶ弓張月が西へ傾き始める頃、寝静まったはずの子どもたちの部屋から震えるような泣き声が漏れてくる。
ああ、あの子はまた泣いているのか。
ドアノブに手をかけると、部屋の中からかすかな声が聞こえた。
「どうしたの?」
それは真琴の声だった。
泣いているのは潤一郎で、時折「夜が怖い」と言って布団に包まって怯える。
真琴の声が聞こえたあと、泣き声は止まり、部屋は静かになった。耳を澄ませてみても中の様子まではわからない。気になった私はドアを少しだけ開けて、部屋を覗き見た。
灯りが消されたままの薄暗闇の部屋は、射し込む月光に照らされてほのかに明るい。二人は窓のほうを向き、ひとつの布団に包まってベッドに並んで座っている。まるで初めからそうする約束でもしていたかのように、静かに夜空を眺めていた。
孤独で不安な夜を過ごすのは真琴も同じであっただろう。思いが伝わる者同士が側に居るだけで安心感は得られる。語らずとも雄弁なメッセージがそこにあるように思えた。
どうやら私の役割は奪われてしまったようだ。そっとドアを閉め、静かに退散した。
あれから潤一郎は真琴がいることで安心して眠りに就けているようだ。まるで仲の良い姉弟のような二人を愛おしく思う。このまま真琴がこの家に留まり続けてくれたらいいのに。
街の慌ただしさは過ぎ去り、ひっそりとした大晦日の夜。除夜の鐘を聞くまで寝ないと言い張っていた潤一郎だったが、睡魔には抗えなかったようで、テレビの前で寝息を立て始めた。
その小さな寝姿に毛布を掛ける。
真琴が、「あの子の両親も事故で亡くなったの?」と私に尋ねた。
幼い子がひとりぼっちの夜を怖がるのは、そこに親がいないからと考えるのは当然のこと。両親の存在を、真琴も気になったのだろう。
私の知っている限りで言えば、潤一郎の両親は健在だ。しかし会ったことはなく、住んでいる場所さえわからない。答えられるのは、この家で暮らすようになるまでの経緯のみ。
物心がついた頃には喧嘩の絶えない家庭だったのではないだろうか。とにかく近所で噂になるほど両親の仲は悪かったそうだ。夜ごと言い争う二人を止めようとして、突き飛ばされた時にできた傷跡が潤一郎の額に残っている。
後に潤一郎を連れて家を出た母親は、仕事と子育ての両立が難しく、少ない収入で生活が困窮していた。やがて潤一郎を放置したまま家を空ける時間が増え、最後には「子どもなんか生まなければよかった」と言い残して、それきり家には戻ってこなかった。
家賃の催促に来た大家が、空腹で動けずにいる潤一郎を見つけて通報、保護された。
「あの子には今の話をしないでおいてくれないか」と私は真琴に頼んだ。潤一郎は昔の記憶を忘れようと葛藤している。時々思い出したように夜を恐れるのは、夜ごと両親の怒鳴り声や物が壊れる音に怯えた日々や、心無い母親の言葉に寂しい夜をひとりで過ごした辛い経験が深い傷になっているからだ。
記憶を消し去ることはできないが、せめて嫌な思い出だけは塗り替えようと、あの子なりに必死に戦っているのだ。
真琴は私の話を聞いている間、寝息を立てる潤一郎をずっと見つめていた。真琴にしても今の辛い気持ちを、いつかは脱ぎ捨てないといけない。時間がかかっても、記憶が消えることはなくても、次の一歩を踏み出すために必要なことだ。
年を越してすぐに、真琴の両親が検視から戻された。損傷が激しかったため、死化粧を施された遺体は火葬場へ直葬された。親類縁者の姿もなく、私と妻、潤一郎、そして真琴だけの寂しいお別れになった。それでも真琴は涙の一粒も見せることがない。木箱二つに収まった両親の遺骨を前にしても、手を固く握りしめ、心火を灯すような強い眼差しでしっかりと前を見る様には、悔しさを必死に堪える姿勢が見て取れた。
空気の乾燥した日が続く。私が庭の花壇を手入れしていると、潤一郎が「僕も手伝う」と言って如雨露を持ってきた。真琴が来てから本来の子どもらしい活気を取り戻しつつある。手伝いを進言したのは、おそらく真琴が家事を手伝う姿を見ていたからだろう。掃除や洗濯など率先して手伝ってくれるので、妻や私も大いに助かっている。
潤一郎は微力ながらも、真琴が部屋の掃除を始めれば遊んでいた玩具を片づけ、洗濯物を見よう見まねで畳んでみたりと、傍から見ていても真琴を姉のように慕っている様子が見て取れる。
児相からはまだ真琴の処遇についての連絡がないが、一緒に過ごせる時間は僅かだろう。このままここに居続けて欲しいという気持ちが、以前より強くなっていることに気付いてしまった。
なみなみと水が注がれた如雨露を、小さな潤一郎が運ぶには重すぎる。今にも転びそうな潤一郎を見かねて、真琴が代わって花壇まで運んだ。半分ほど水やりをして中身を軽くしてから潤一郎に渡してやる。受け取った潤一郎はおぼつかない手つきで残りの水を撒いた。
多彩な花が目を楽しませる中で、潤一郎が水をかけている可憐な花びらを見た真琴が「これってビオラだよね」と品種を言い当てる。
「ほぅ、よく知ってるね」
知識の広さに私は感心した。ビオラの見た目はパンジーによく似ているけれど、花びらは小ぶりで、一株から咲かせる花数も多い。
「お母さん、この花が好きだったから――」
真琴の瞳に浮かんでいたのは、悲しみなのか懐かしさなのか。どちらも過ぎ去った思い出への憂いだ。そこにあったはずの家族が、ビオラを通して真琴には見えているに違いない。
「真琴。施設へ行かず、私たちとこの家で暮らす気はないか? 紋切型の養護施設よりも、環境を変えずに家族のように過ごしてみるのはどうかと思うんだ。それに、真琴のおかげで潤一郎は夜もあまり泣かなくなった。このまま居てくれたらあの子も喜ぶだろう」
自分でも驚くようなことを口にしたと思っている。妻に相談もなしに、子どもをもう一人迎え入れるなんて。しかし、できなくはない。私が望んでいたことだから。
真琴も意表を突かれたようで、しばらく考えた末に、遠慮がちに、けれど希望を含めた声で「ここに居たい」と答えた。
この数年間、四人での生活は幸せそのものだった。傍から見ればごく普通の幸せな家族で、当たり前に起こり得る日常を過ごすことが、こんなにも眩しいものだと色濃く感じていた。
蕾が開いてきたと、潤一郎が嬉しそうに私の袖を引っ張って花壇へ連れていく。小学校に通うようになってからは毎日のように庭の掃除や草木の手入れをするようになった。彼の熱心な世話のおかげで、寒い季節になっても我が家の庭は色とりどりの花を咲かせ、目を楽しませてくれる。
大人しかった潤一郎が活動的になり始めたのは、率先して家事を手伝う真琴の姿を見てきたからだろう。私の目から見ても潤一郎は真琴を慕い、信頼しているのは明らかだ。
真琴は公立の高校へ進学していた。雨の日も雪が降る日も休むことなく通い続け、年明けの春には卒業を迎える。以降の進路は就職すると決めたらしい。真琴の成績ならば進学もできたはずだが、本人が考え、決めたことだ。私は口を挟まず、意思を尊重した。
「真琴も十八になるのか。早いものだな……」
時の流れの早さを痛感しながら、ふと気掛かりなことが思い浮かび、書棚から玉紐封筒を探し出した。紐を解き、取り出した数々の書面には物々しく角印が捺されている。これは真琴の両親を交通事故で殺めた
やはりそうか。
交通刑務所へ送られた時期と刑期から、堀川はすでに罪を償い終えて出所しているはずだ。
堀川の裁判は私と真琴も傍聴してきた。
裁判官の正面に立つ彼は、おそらく弁護士が考えた上辺だけの定型文を、何の感情もなく反省の言葉として発した。法廷で一度たりとも真琴に視線を向けることはなく、これまでに謝罪の手紙一通でさえ転送されてきたことはない。
「たったそれだけの罰なの?」
わずか数年の刑で罪が消えてしまう。判決が出た帰り道で、真琴は悔しさを抑えきれずに声をあげて泣き出した。その苦々しく割り切れない思いが、私にも痛いほど伝わる。もどかしさがいつまでも私たちの胸を焦がし続けた。
数日間は塞ぎ込んでいた真琴も、潤一郎の前では気丈に振舞う。今もこうして色鮮やかに花を咲かせた花壇の前で、二人が並んでビオラを見ている。納得はできなくても、どこかで区切りを付けなければならない。時間が経てば、またいつもの風景が戻るのだと、信じて見守るしかなかった。
夕食の手伝いのために家に戻った真琴に代わり、私は潤一郎と花を眺めた。庭に咲く花の中で、潤一郎の一番のお気に入りはビオラだ。初めて彼が水やりをしたのが、この小さな花だった。
「黄色が一番きれいだよね」
と、指先で花びらを揺らしながら潤一郎が言う。
「でもね、真琴は赤いほうが好きだって言うんだよ」
私は以前の真琴の話を思い出していた。母親も好きだったと言っていたビオラ。家の庭に咲いていたのは赤い色だったのだろうか。
「好みというのは人それぞれだよ。潤一郎は潤一郎の、真琴には真琴の好きな色があっていいんだ。どちらも間違いじゃない。人間の性格や得意なことが違うようにね」
「花にも性格があるの?」
「あるとも。その花を表す例えみたいなものだな。花言葉というんだ。花や色にどんな意味があるのか調べてみると楽しいものだよ」
私は黄色いビオラの花言葉を知っていたが、その場で教えることはせず、花の本を買い与えて自ら学ぶことを促した。思考力は子どもの頃が最も発達する。自身で調べ、意味や理由を考え、どう感じたか。鬱屈した幼少時を過ごした潤一郎には、自分が直接できる経験を積んでもらいたい。
換気のために開けた窓から冷たい空気が吹き込んで、残り一枚となった十二月のカレンダーが揺らめいた。残りの日数を数えると、あと僅かで一年が終わるのだと実感する。年末までに片付けなければならないことをカレンダーに書き込んでいると、潤一郎が小学校から帰ってきた。
彼は今朝から元気がないように見えた。具合でも悪いのかと、妻が体温計を持ってきて熱を計ってみるが、普段と変わりはない。朝食も残さず食べたので、気掛かりを残した状態で学校へ送り出していた。
自室を飛び出して様子を見に行くと、ランドセルを背負ったままぼんやりとしている。
「どうした、潤一郎。嫌なことでもあったか? 夕べ、真琴と喧嘩でもした?」
心配する私の目をじっと見つめ返し、一度は話しかけたものの、すぐに目を伏せてしまった。心理的な何かがあるのだと直感した。
「言いたくないなら無理には聞かないが、困っていることがあるなら誰かに話すと楽になるよ」
潤一郎はカーテンで仕切られた真琴の部屋へちらりと目を向けた。要因が真琴にあるのは間違いないようだ。
「また花のことで意見が合わなかったのかな? 真琴にだって機嫌の悪い時もあるだろうし、言い過ぎてしまったと反省しているかもしれないよ」
「違うよ。喧嘩したわけじゃないんだ。真琴がね、居なくなっちゃうかもしれない……」
「居なくなる? 夕べ、真琴とどんな話をしたのか教えてくれないかな」
居なくなるという言葉に、これまでの真琴への思いが溢れたのか、目に涙を溜めながら昨夜の出来事を話し始めた。
陽が落ちてから、時折上空では唸るような強風が吹き荒れていた。
皆のいるリビングから廊下へ出て突き当りに玄関がある。靴箱の脇には小箱が備え付けられていた。蓋を開けて中身を探るが、そこには何も入っていない。
「探しているのはこれかな?」
手のひらに車のキーを乗せて、箱の中身を探していた人物に見せた。
驚いた表情の真琴が立ち尽くしている。
「そう……。潤一郎から聞いたのね」
「だいぶ悩んでいたようだよ。私をリビングに引き留めておくよう頼んだんだろう?」
真琴は唇を噛んで「うまくいくと思ったのに」と呟いた。
「車のキーを手に入れてどうするつもりだったのか知らないが、復讐なんて愚かなことだと思わないか」
ひと月ほど前、真琴は学校帰りに寄ったコンビニであの男を見かけた。心臓が破裂しそうだった。裁判所で初めて加害者の堀川を見てからというもの、片時も厚顔無知なあの顔を忘れたことはない。ビールを購入した堀川は、そ知らぬ顔で真琴の脇を通り過ぎて店を出て行った。もはや事故のことなど記憶の片隅にもないと言わんばかりに。
「あいつ、絶対に反省なんかしてないよ。人を殺しておきながら、どうして簡単に社会復帰できるの? 罪を背負う感覚もないのなら、私が両親の敵を討ちたい」と、これまでの鬱憤を晴らすように隠してきた胸のうちを明かした。
事故の当事者は互いの居住地を知らされることはなく、出所後の所在も知ることはできない。こんなにも近くにいたというのは偶然としか言いようがなく、真琴が復讐を企てたところで、再び同じ場所に現れるとも限らない。ところが真琴はこの一か月、コンビニ近くで堀川が現れるのを待っていた。作業服を着ていたので、仕事帰りに寄ったと推測したからだ。予想した通り、毎週金曜の仕事終わりにコンビニでビールを買うことがわかった。
両親の敵を討ちたい。その強い恨みが真琴に復讐心を抱かせた。
部屋にいるように伝えたはずの潤一郎が、おずおずと私の後ろから現れる。
「どうして話しちゃったの? これは二人だけの秘密だって約束したじゃない」
真琴の目が静かな怒りを含んでいることを悟った潤一郎は、委縮してその問いかけに答えられずにいた。
「気持ちは痛いほどわかるが、刑を終えた人間に仕返しをすれば、それは犯罪行為だ。真琴が悪いことをすれば刑務所へ入れられてしまう。潤一郎はそうなることを恐れていたんだよ」
「それは覚悟の上よ。私はあの男も法律も憎くて堪らない。反省もしない人間を軽い罰で済ましてしまう法律なんて何の意味があるの。どれだけ叫んでも被害者の声が届かないのなら、私がこの手で罰してやりたい」
真琴の悲痛な言葉が薄暗い廊下に響いた。
如何ともしがたい胸につかえた棘は、私の言葉も詰まらせる。
「僕は――」
黙っていた潤一郎が踏み出すように声をあげた。
「僕は真琴の両親みたいな愛情を受けずにきたから、誰かのためを思って人を憎む気持ちがわからない。だから真琴のために手伝いたいと思ったけど……。真琴がいなくなってしまったら、僕は誰を恨めばいいの?」
「潤一郎だってそんな親じゃなければ幸せに暮らせていたのよ。酷い目に遭ったんでしょう? どうして人生を台無しにした相手を憎まないの?」
昔のことを思い出したのか、潤一郎の顔が強張った。夜が怖い。潤一郎の脳裏に現れる亡霊のような過去が甦ることのないように、これまで昔の話は封印してきた。それは真琴にも話したはずだ。
「やめなさい――」
言いかけた私を遮って潤一郎は答えた。
「苦しかったよ。忘れたいけど今でも思い出すことがある」
「それなら、許せないという気持ちがわかるでしょう? たった一人で置き去りにされて悲しいとか悔しいとか思ったでしょう? どうしてそんな人を許せるの? 怒るべきよ。生きづらいのはあなたのせいだって、どうして言わないの?」
「そんなに責めるな。潤一郎が悪いわけじゃない」
感情を剥き出しする真琴を宥めた。怒りを糧にして悲しみから逃れようとする子どもを、私はこれまでにたくさん見てきた。その多くは嵐が収まるように時間が解決してくれた。
「ごめん。僕にはよくわからない。悲しかったけど、きっと子どもを育てるのって大変なんだろうなって思ってた。暗くなって怖い時は、真琴が隣に来て眠れる魔法をかけてくれたし、庭の花を育てるのも楽しい。もう一人じゃないから寂しく思わないのかもね」
「私は、あの男を許すつもりなんかないよ。一生怨み続けると思う」
「それでもいいよ。僕はずっとこの四人が家族みたいにいられたらいいなって思うんだ。だって僕は、みんな好きだから……」
似ているようで、どこかが違う二人。
明日の朝が果てしなく遠く感じても、側に居てくれる人がいればきっと穏やかに夜は明けていく。
真琴は優しい子だ。いずれ嵐は収まる。
その日は明け方まで降り続いていた雨が止んで、雲の切れ間から青空が見えていた。真琴は卒業後の就職口と、会社の近くに借りたアパートでの新生活が決まった。春にはこの家を出るため、二月の半ば頃から引っ越しの準備を進めている。一人でも欠けてしまうのは寂しくなるが、真琴の独り立ちと幸運を祈りたい。
潤一郎も育てた花を手渡したいと考えていた。家に手ごろな鉢がなかったため、私は潤一郎と共に近くのホームセンターへ車で向かった。
店に入ってすぐの場所にカラフルな傘が陳列してあり、潤一郎が目を留める。彼が使っている傘は絵柄付きで潤一郎の年代には少し合わないのかもしれない。
「新しいのを買ってやろう。好きなのを選びなさい」
そう言うとパッと顔を輝かせて選び始めた。気付けば徐々に大人っぽく成長する潤一郎を、本当の我が子のような目で微笑ましく見つめている自分に気付かされる。この子はいつまで家にいてくれるだろうか。
手に取った傘が、通りかかった男性の足に軽く触れた。潤一郎は当たったことに気付いてすぐに「ごめんなさい」と謝った。私も近寄って謝罪しようとすると、「ちっ」と舌打ちするのが聞こえ、潤一郎を睨みながら通り過ぎていく。
嫌な客だ。そう感じた男の顔に見覚えがある。
「あれは……、堀川じゃないか?」
真琴と裁判所で見た堀川に間違いなかった。堀川を目で追っていると、「ほりかわ?」と潤一郎が私の顔を覗き込む。
「いや、何でもない。傘は決まったかい?」
「たくさんあるね」
ずらりと並べられた植木鉢は、シンプルな素焼きから模様入りまであって、そこからひとつを選ぶのは難儀しそうだった。私が選びあぐねているうちに、他に興味のあるものでも見つけたのだろうか、潤一郎とはぐれてしまった。迷子になるほどの広さはないので、各売り場を探して回る。
「二階へ上がったのかな?」
二階には玩具売り場がある。
長いエスカレーターに乗って上階へ向かっていると、反対側の下りエスカレーターで降りようとする潤一郎を見つけた。目当ての玩具が見つからなかったのか、いつもの柔和な顔が表情を失っているようにも見える。無造作に持った傘の先端が、前にいる人に当たりそうだ。
「真琴がね、笑ったんだ。『私もこの家族が好きだよ』って」
潤一郎は自分で選んだ植木鉢を大事そうに抱えながら言った。鉢に植えるのは黄色いビオラと決めている。真琴は赤がいいと言うかもしれない。思い出が重荷になるならどこかに置いておけばいい。かつて無言で寄り添った夜のように、孤独という翳りから生まれる色彩に『小さな幸せ』を見出す。潤一郎なりの雄弁なメッセージが込められているのだと私は信じたい。
人だかりを掻き分けて、転落した堀川が運び出されて行く。警察官が規制線を張る横を、私と潤一郎が通り過ぎる。建物を出ると澄んだ青空が広がっていた。
車に乗り込んだ潤一郎が、消えかけた額の傷跡を撫でて、ふっと微笑んだ。
「真琴、喜んでくれるかなぁ」
陰翳 中里朔 @nakazato339
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