第三段階(補):他の戦線での動き

1584年6月 美濃国 旧東山道


 明智光秀は久々利城攻めには同行していない。まず高山城にて小里城を落とした遠山勢と合流。旧東山道を北上、御嵩を目指していた。かつて御嵩の小栗信濃守が高山城の奪取を目論んだルートであり、明智光秀にとって非常に慣れ親しんだルートでもあった。

 これはいわば久々利城攻めの助攻勢、支作戦である。御嵩側の出口には小原城、権現山城、本陣山城などの城が立ち並ぶ(権現山城、本陣山城を合わせて御嵩城とも言う)。しかし、劣勢の森氏は十分な守備兵を配置することが出来なかった。十分な兵があれば、権現山城で攻め手を漸減して、本陣山城で足止め、包囲軍の背後に小原城から出撃した部隊が攻撃というような作戦も使えたのだが……。


 御嵩に多くの守備兵が配置されれば、それだけ久々利城が手薄になることに繋がり、それだけでも遠山勢にとっては十分な戦果となる。

 一方で、御嵩を制圧されれば金山城の南方が徳川勢の手に落ち、久々利城が攻撃を凌いでいても、本拠地が危うくなってくる。

 森家は、少数だが軽快な兵を送り出して時間稼ぎに当たらせた。羽柴秀吉には悲鳴のような救援要請を送った。菅沼率いる主力はともかく、遠山勢の別働隊などは、秀吉軍全体から見れば極少数の兵力に過ぎない。

 それにとことん苦しめられてしまっている。だからこそ数千の援軍が森家には慈雨となるのだ。



 足止め部隊を率いる各務元正――以前は岩村城を治めていたが周辺の城が次々と遠山勢に落とされ、木曽義昌も敵方に回って情勢が極端に悪化したため金山城へ撤退していた――は可児川沿いの独立峰、丸山に本陣をおいて粘り強く遊撃戦を展開した。


 しかし、遠山勢の中には味方すら制御しきれないほど強引に前進する一隊があった。明知遠山氏の当主、一行が率いる部隊である。


「あの世で阿子にわび続けろ長可ーーーーッ!!!」


 彼は幼い娘を無惨に処刑した仇敵が死してなお苦しむことを願う。味方の損害も厭わず、長可の家臣たちを死者の元に送り続ける。

 叔父の遠山利景が制御に窮して、明智光秀に協力を求めるほどの暴走ぶりであった。


「ここで討ち死にしては長可弟の忠政を討ち取れませぬぞ!」


 駆けつけた僧形の光秀がそう声を掛けたことで、少しだけ遠山一行は落ち着きを取り戻した。

 彼が鬱憤を募らせた背景には、徳川家康が娘の処刑を聞いて、一行に何度も憐れみの言葉を掛けたことが影響していた。それ自体は慰めになっても、彼には被害の感情が刷り込まれ、癒えないほどに固定されてしまったのだった。

 もし、家康が狙ってやったなら恐ろしいことだった。


 敵将の各務元正はその間になんとか権現山城まで撤退して行った。最終的には久々利城陥落の報を聞いて金山城まで退しりぞくことになる。




 なお、高山城を挟んで反対側、西の戦線では池田城から根本城をうかがう徳川勢――丹羽氏次の陽動があった。こちらは動かせる兵数も少なく、楽田城に位置する羽柴勢の本隊にも近いので、あまり無理はできない。

 しかし、この地域には小牧山城から東濃戦線に兵を送るために好適な内津峠があり重要である。

 ここに徳川家康は本多忠勝を送り込んだ――という噂を流した。実際には、まだ尾張での両軍主力の激突もあると考えて本多忠勝は手元に置いていた。

 長久手の戦いに際して、僅かな手勢で秀吉の本隊を引き付けた本多忠勝の動向は敵を意識させざるを得ない。牽制の布石としては十分と考えた。

 まことに家康が東濃に送り込もうとしているのは、徳川家における第二の重臣、石川数正であった。


参考図は下記の近況ノートにあります。

https://kakuyomu.jp/users/sanasen/news/822139842206087940

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼退治の後:小牧・長久手の戦いに天海=明智光秀参戦!徳川軍の東濃侵攻作戦 真名千 @sanasen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画