ゆきさき

田辺すみ

ゆきさき

 糸車の王国、檜皮飾りの民、雪深い山間の村で、おれは生まれた。銀の峰には大主がおわす。だが渓谷沿いにはりついて棲息する人間にとって、雪は美しくも試練であった。犠牲を供さねば生きていけぬ。森と雪に塗り込められて家から出ることも叶わない。冷たい檻。


 父を亡くしては嫁にもいけぬだろうと、“蔵持ち”の奉公に出されたのは、幾つの頃だったろうか。入れ墨も許されなかった。短い夏は朝から晩まで畑と鉱場で働き、雪が降り出せば凍える手で刺繍をし、鬱憤の溜まった奴等に好き勝手された。逃げたいが、雪の中出ていくことは叶わない。疲労と痛みで動かない体、濁った空から絶え間なく降る雪、決して贖われることのない憎しみ。


 その冬、“唄うたい”が村を訪れた。めしいの女であった。夏は村から村へと渡るが、冬の”唄うたい“たちはひとところへ留まり、長い唄をうたう。外のさまざまな出来事や、昔から伝わる物語をうたって聞かせてくれるのだ。身分は賤しいが、口承でしか伝わらない物語を王家は保護していて、“唄うたい”たちに許可証を与えていた。だから道すがら無法者も手が出せない。


 行商に出るくらいしか機会の無い村人にとって、唄を聞くことは得がたい娯楽であった。庄屋の家に集まり、唄を聞いた。おれは塩漬けの岩魚などを煮ながら、座敷から響いてくる唄を聞いた。烏瓜に宿る妖精、岩の怪物を倒した若者、玉虫色の着物を織って、王の妃になった娘、西の森の主と南の川の主の喧嘩を仲裁する子ども、王城の話、港の話、市場の話、一年中雪の降らない島々の話、灼熱の砂漠とオアシスの話…… 聞きながら胸がはち切れそうになった。どうしておれはそこへいけないのだろう。


 音も無く降る雪を分けて、“唄うたい”の声が打ち鳴らす。おれにはもううつつなのか夢なのかも分からなかった。きっと心が凍って麻痺してしまったのだろう。もうそんなに保たないかもしれない。おれが帰れなかったばっかりに、火の無い炉端で冷たくなってしまった母ちゃんみたいになるんだろう。


「縫い物を頼みたい」

 “唄うたい“に声をかけられて、おれは驚いた。皿を下げにいったら、ぎゅうと手を握られた。青みがかった瞳がおれを見る。

「喋ったことはないが、あんたのことを知ってるよ。足音や衣擦れが聞こえるからね」

 バルバットを弾くと袖が切れやすくてね、でも私に針は難しい、と唄うたいは言った。それから二人でこっそり喋るようになった。雪に閉ざされていると、却って人の音はよく聞こえるものなのだそうだ。


 草原の向こうの街で、熱病のために視力を失った。親は面倒を見きれず、渡ってきた“唄うたい”にくれてやった。身の回りのこと、食いものを調達すること、唄をうたうことを習った。

「師匠が言っていた。草原は風が吹く。唄は遠くまで届く。雪は静まる。小さな音もよく聞こえる」

 唄うたいは旋律を語る。師匠にはよく打たれたが、それでもたくさん授けてくれた。

「髪を海に沈めてくれ、と頼まれた」

 東の高原で戦があり、迂回しなければこの国の海岸には出られない。そこでこんな山の中をさまよっていたのだった。

「いろいろなところへ行けていいなあ」

 おれが言うと、唄うたいは笑った。

「帰るところが無いだけだ。あんたも来るか」


 吹雪の晩はひどくされる。ろくに食べていないのでしまいには吐いて、馬小屋の角に転がされた。藁と腐臭に塗れてしばらく寝転んでいたが、身体を洗わねばならず、のろのろと這いつくばる。小屋の戸を薄く開けると、漆黒が吼えるように雪が吹き込んできた。それに混じって唄声が聞こえる。怒っているのか泣いているのか、おれは呼ばれるまま長靴も履かず雪に飛び込んだ。


 真っ黒な空と真っ白な雪の境界に、風に煽られフードを被りバルバットを背負った唄うたいが立っていた。手足を紅く染めて、髪も顔もべたべたに濡らしたおれを掴み、一緒に縫ったボロ切れの綿入れで包んでくれた。

「行こう、海に降る雪を見たことがあるかい」

 おれは唄うたいにしがみついて泣いた。雪が悲しみの凝ってできたものならば、海はそれを溶かして呑み込んでしまうよ。波に紛れて、ずっと揺蕩っていればいい。私たちは、そうして生きていくのだ。


 二人の足跡は、すぐ雪に隠されてしまったまでもなく、金も名も無い女二人が雪に消えたとて、気にかける者は誰もいない。

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ゆきさき 田辺すみ @stanabe

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