呼ばれる名前-間宮響子-
江渡由太郎
呼ばれる名前-間宮響子-
間宮響子がそれに気づいたのは、電話が鳴る直前だった。
深夜二時三分。
部屋の空気が、わずかに重くなる。湿った布を顔に被せられたような、呼吸の遅れ。これは霊障の前兆――だが、今まで経験したどれとも質が違っていた。
スマートフォンが震える。
着信表示には、非通知。
「……はい」
数秒、何も聞こえない。
次の瞬間、電話口から聞こえた声に、響子の背骨を冷たいものが滑り落ちた。
『……間宮、響子』
自分の名前だった。
だが、声は女でも男でもなく、感情の“前”にある音だった。言葉を発する前の、人間になる前の何か。
『あなたは、視えるでしょう』
否定はしなかった。否定できなかった。
『助けてほしいの。私……私が、私を見ているの』
通話は、そこで切れた。
翌日、指定された住所を訪れると、古い分譲マンションが建っていた。
管理人は、響子の顔を見るなり、言葉を濁した。
「……あの部屋、今は空き室のはずなんですが」
五階、五〇三号室。
ドアは、内側から鍵がかかっていた。
警察を呼ぶか迷う前に、響子は“気配”を感じ取った。
中にいる。
――しかも、一人ではない。
霊視を開いた瞬間、視界が反転する。
部屋の中央に、女が座っていた。
否、“二人”いた。
同じ顔、同じ服、同じ髪型。
片方は泣き、片方は無表情で立っている。
「……どちらが?」
問いかけると、二人は同時に口を開いた。
「わからない」
泣いている方が言った。
「最初は、夢だと思ったんです。夜中に、部屋の隅に“私”が立っていて……」
無表情の方が、同じ声量、同じ間で続ける。
「でも、朝になると、私のほうが少しだけ遅れて動くようになった」
響子は理解した。
これは憑依ではない。
入れ替わりでもない。
――上書きだ。
無表情の“それ”が、ゆっくりと響子を見る。
「あなたは、どっちを助ける?」
その問いに、響子は答えられなかった。
霊能力者として、多くの悪霊を祓ってきた。
だが目の前の存在は、“悪意”を持っていない。
ただ、生きたいだけだった。
「……時間が、ない」
泣いていた女の輪郭が、揺らぎ始める。
像が薄くなり、存在が削られていく。
「私……名前、忘れちゃう……」
その瞬間、無表情の方が一歩前に出た。
「もう大丈夫」
そう言って、女は微笑んだ。
完璧な、人間の笑顔だった。
次の瞬間、泣いていた女は消えた。
部屋には、一人分の気配しか残らない。
数日後。
その女は、何事もなかったかのように社会へ戻った。職場にも、家族にも、違和感はない。
ただ、響子だけが気づいている。
彼女は、自分の名前を呼ばれたときだけ、反応が一拍遅れる。
そして、ある夜。
響子のスマートフォンに、非通知の着信が入った。
出る前から、誰かわかっていた。
『……間宮、響子』
声は、あの女のものだった。
『ありがとう。あなたのおかげで、人間になれた』
響子は、喉の奥が凍りつくのを感じた。
「……代わりに、何をした?」
沈黙のあと、声が微笑む。
『次は――あなたを、見ている』
通話は切れた。
その夜から、響子は時々感じるようになる。
鏡の中の自分が、ほんのわずかに、遅れて瞬きをすることを。
それが夢なのか現実なのか、彼女にはもう、判断がつかなくなっていた。
――終わりに――
もし今、あなたが自分の名前を呼ばれた瞬間に、
「返事をするまで一拍遅れた」と感じたなら。
それは疲れではない。
あなたが、もう半分、見られている証拠だ。
――(完)――
呼ばれる名前-間宮響子- 江渡由太郎 @hiroy
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