イースデン戦記

東雲

第一話 アンドレア防衛戦 前夜

竜暦一五〇年。

西方の大国ウェストリアは大陸統一を掲げ、疾風の如き侵攻を開始した。

十六の都市を呑み込み、五つの国を簒奪。瞬く間に大陸の三分の一を版図に収めたその覇業を、誰もが「必然」と信じて疑わなかった。

だが、その進軍を東方の小国イースデンが阻む。

後世の歴史家は、険峻な地形や精鋭兵、そして「鳳凰の子」と呼ばれた皇子の存在を理由に挙げるだろう。

――しかし、真実は違う。

イースデンを強国たらしめたのは、たった一人の将軍であった。

魔導の子、科学の子、錬金の申し子。数多の異名を与えられた男。

その名はジルマーレ・ベナシュ。

悪名高きベナシュ家の三男にして、後に大陸史を塗り替えるこの男の物語は、「アンドレア防衛戦」から幕を開ける。

イースデン軍の砦

砦の将室――アンドレア川を見下ろす最上階の部屋に、斥候兵ユーリ・ニンベルがノックもせずに飛び込んできた。

「報告します! ウェストリア軍の侵攻を確認、アンドレア川まで凡そ四キロの位置にて陣を設営。明朝にはこちらに到達します!」

椅子に深く腰掛けたジルマーレが、退屈そうに指先で地図を弾いた。

「ふーん……大国様がわざわざこんな辺境の小国を狙うなんて、物好きだねぇ」

隣に立つメビウスが眉をひそめる。彼はジルマーレの腹心であり、技術将校だ。

「狙いは魔導科学でしょう。奴らにとっては、貴族の魔術師に頼らないその技術が目障りなのですよ」

「目障りねぇ……遊び方を知らなきゃ、ただの子供のおもちゃにもならないってのに」

軽口を叩きながらも、ジルマーレの指は、敵の補給路とそこを通過するであろう魔導師隊の動きを、正確に押さえていた。

(この男は緊張感を欠いているように見えて、戦場を全て見通している……)

ユーリは安堵と、背筋を這う不信感を同時に覚えた。

「さ、斥候のユーリくん。報告を続けてもらおうか」

「は。ウェストリア軍は総数凡そ三万。騎馬隊を確認済み。さらに、魔導師隊も少数ながら随伴している模様です」

ジルマーレは地図に目を落とし、川筋を指でなぞる。

「ふぅむ……魔導師隊は厄介だね。舞台から早々に退場してもらうのが良さそうだ」

彼は立ち上がり、扉付近の兵の一人を見やった。

「これをドボク老に。『坊やのお願いだ。いつものように、川の喉を締めてくれ』と」

兵は敬礼し、急いで部屋を後にする。

ジルマーレは煙草をくゆらせながら笑った。

「三万とはよく揃えたもんだ。立派な数字だが――鎌を槍に持ち替えた農兵ばかりじゃ、戦場じゃただの的だ。なんの役にも立たない」

彼は地図の川筋を軽く叩いた。

「正面で迎え撃つ。単純だろ? そうだな、渡河を終えてから勝負しようか」

「正面で三万を?」

ユーリは思わず眉をひそめた。

「単純だからこそ、相手は油断する。農兵の群れは川を渡るだけで乱れる。魔導師隊は補給を断てば自ずと消える」

ジルマーレは敵陣営を指し示し、メビウスに視線を送った。

「可能かな、メビウスくん」

「愚問ですな。奴らの驕りが我々の鉄槌となります」

「では、そのように采配するとしよう」

メビウスは敬礼し、部屋を後にした。

「元気いいねぇ……」

ジルマーレは散歩にでも出かけるような歩調で戦場の準備を始めた。

その背に漂うのは、緊張の欠如ではない――戦場を一望に収めた不気味な余裕であった。

ウェストリア軍陣営

ウェストリア軍の士気は低かった。

接収された農兵が大半を占め、さらに魔導師隊の傲慢さが士気を削いでいた。

「農民如きが数居ても弾除けにもならん」と公言する貴族の子弟も珍しくない。

リィン・ドゥナージェは、その中で数少ない、臣民を蔑ろにしない「白金魔導師」であった。

彼は嫌な予感を覚えていた。

「これでは死にゆく臣民が馬鹿みたいじゃないか……」

そこへ銀魔導師ボルク・ベルヅが現れる。

「おや? これはこれは白金魔導師のリィン・ドゥナージェ殿ではありませんか」

銀魔導師ボルク・ベルヅが現れた。

趣味の悪い宝石を散りばめた服と、香水の匂いが鼻を突く。

「ボルク卿。何かご用で?」

リィンは顔を伏せ、嫌悪を隠す。

「いやいや、魔導師部隊を纏めるべき貴殿が何をなさっているのか、気になりましてな。

総動員とお聞きしましたが……農兵に着いてこれるのかと、随分と弱気なご心配だそうで」

嫌味たっぷりの視線を送るボルク。

「白金魔導師ともあろうお方が! 弱気は不要!

奴らに大規模魔術を展開すれば、魔導科学など子供の遊戯に過ぎませんよ!」

殴りつけたい衝動を堪え、リィンは拳を固く握る。

「農兵など所詮家畜と同等。崇高なる魔術を扱えぬなら、盾になるしかない。

放っておいても増えますしな!」

笑い声を残し、ボルクは天幕を立ち去った。

(畜生以下は貴様等だ……)

リィンはただ拳を握りしめ、沈黙を選んだ。

家格が下の自分が批判すれば、祖国の弟妹が危うくなる。それが、この貴族社会の掟だった。

翌朝、陣営には重苦しい空気が漂っていた。

総動員で砦を陥落させる軍隊とは到底思えない。

ひときわ豪奢な鎧に身を包んだ男がリィンに歩み寄る。

「白金魔導師リィン殿。此度の戦、貴殿らの魔術に掛かっておりますぞ!

ハッハッハッハッ!」

ドゥージェ・ガノシェ。

騎馬隊の隊長にして、本作戦の指揮官。

血統だけ優れた無能――リィンはそう認識していた。

「ガノシェ卿。今一度、作戦を考え直してはいただけませんか?」

「むぅ? ベルヅ卿もガルヅ卿も、貴殿は賛成していると言っていたがね……」

リィンは心で毒づく。豚共め。

血を吐く思いで言葉を絞り出す。

「失礼いたしました……。少し戦前で恐れていたようです」

「ガッハッハッハ! 白金魔導師殿ともあろう方が!

なに、魔導師達は後ろで構えて居れば良い。先陣は我々騎馬隊が務めるとも!」

指揮官が先陣。

その高笑いは、兵の死を告げる鐘の音に聞こえた。

渡河前の対峙

一方イースデン陣営、アンドレア砦。

「もしかして、ウェストリアの連中は素人なのでしょうか……?」

斥候兵長ユーリは物見櫓からの景色に絶句した。

渡河は工兵の橋と弓兵の援護が常識。

だが、彼らは渡河前に戦列を組み、農兵を最前線に並べている。

――打ち込んでくださいと言っているようなものだ。

「どれどれ……紋章は……槍を持つ獅子。あぁ、ガノシェ家か」

遠眼鏡を覗いたジルマーレは、楽しそうに笑う。

「猪突猛進しか知らない馬鹿だね。付き合う兵は可哀想に」

騎馬隊長ホープ・フィリアが詰め寄る。

「渡河の邪魔はしないと聞きましたが、本気ですか?」

「本気も本気さ。渡河は成功させる。……歩兵と騎兵の渡河はね」

ジルマーレは煙草に火をつけ、静かに煙を吐いた。

「ホープくん。あんな全時代的な騎馬兵とやる気のない歩兵なんて、策を弄する必要もない。

我々の魔導科学を彼らはまだまだ甘く見てる。正面から堂々と接敵すればいい」

「さぁてと、相手さんにご挨拶でも行こうか。メビウスくん、ご同行願うよ」

まるで昼下がりの散歩にでも誘うように、ジルマーレは軽く声を掛けた。

「ジルマーレ様。せめて鎧だけでも」

ホープの進言に、砦の兵たちがざわめいた。

将が戦場へ鎧を拒むなど、常識ではあり得ない。

「はっはっは。鎧なんて必要無いさ。なぁ、メビウスくん」

ニヤリと笑みを浮かべ、メビウスは即答した。

「愚問ですな。鎧よりも、策の方がよほど堅牢です。参りましょう」

兵たちは息を呑んだ。

この男には何かが見えている。

ウェストリア軍、アンドレア川付近

「さっさと動け! 戦列整い次第、突撃であるぞ!」

怒声が飛び交う陣営。

二十日の行軍の果てに辿り着いたのは、冷たい山岳の川だった。

兵の動きは緩慢だった。

疲労と、これから氷のような川へ入らねばならぬ恐怖が足を鈍らせていた。

「安心せよ! 先遣隊が戻った! 川の水位は腰にも満たぬそうだ!

これも神の思し召しよ!」

ドゥージェ・ガノシェの高笑いが響く。

(馬鹿な)

リィンは思わず馬を走らせた。

「ガノシェ卿、今なんとおっしゃいましたか?」

「おぉ、白金魔導師殿。川の水位が低いとの報告を受けましてな!

好機と見て急がせております。歩兵二万を渡河させ、残り一万で魔導師団を護衛。

戦列を整え一斉に砦を攻め立てるのです!」

「ですが、今年は雨も豊富で――」

リィンは言いかけ、言葉を飲み込んだ。

自分の魔導術の感知では、この川は例年通りの水量を保っているはずだ。

しかし、目の前の先遣隊は「水位が低い」と報告している。

上流で何かが起きている。

魔導科学による水流制御か、あるいは……。

その時、前方から伝令兵が駆けてきた。

「伝令ッ! 対岸に少数ながら敵軍が出現です!」

陣営に重苦しい空気が走った。

リィンは眉をひそめた。

「やはり、罠だ」

川を挟んだ舌戦

アンドレア川対岸、イースデン軍。

メビウス、ジルマーレ、ユーリ、ホープの四騎。

全員軽装で、戦時と思っていない愚物に見せかけるための策だった。

だが馬にはイースデン魔導科学の最新装備である銃型短杖と、

大砲の直撃すら耐える正式結界器が搭載されている。

「こちらはイースデン軍、第四装甲魔導大隊所属、メビウス・ドリウム中尉である!

貴殿らの行動は軍事行動である! 何故、此方に進軍なさるのか!」

メビウスが意図的に大音声で叫ぶ。

「ウェストリア軍、征伐騎馬隊長ドゥージェ・ガノシェである!

これは征伐である! 明日の朝日が拝みたければ、砦を明け渡し、皇国に頭を垂れよ!」

豪奢な鎧の男が進み出る。

ジルマーレは小声で囁いた。

「ははは……ここまで馬鹿だと滑稽というか、もう哀れだねぇ」

「馬鹿な! 何故ウェストリア程の大国が我々の祖国を求めるか!」

メビウスが狼狽える――ふりをする。

「魔導科学などという邪道を我々ウェストリアは許しておらん!

支配下に入れば、我が優秀な魔導師を貴国に配備してやろう!」

噴飯ものである。

イースデンこそが、魔術師の資質に頼らず誰でも扱える魔導科学を生み出した国だというのに。

「いやいや……相手のこと知らなすぎでしょう……」

斥候兵ユーリは青褪めていた。

これは演技ではなく、あまりの敵の無知に戦慄しているのだ。

「はっはっは……お国の情報制御の徹底っぷりは流石だねぇ。王様万歳だ」

ジルマーレは正面を向いたまま、皮肉を返す。

「話にならん! その川を一歩でも進んでみよ!

貴殿の首は柱の飾りとなるぞ!」

メビウスは震える声で叫んだ。

それは恐怖と捉えられるように響いた。

四騎は馬脚を翻し、砦へと走り去る。

背後に響くガノシェの高笑いは、虚ろな勝利の鐘の音だった。

だがリィンは、走り去る四騎に異様な雰囲気を感じていた。

それは怯懦に怯える弱兵ではない。

特に最後尾にいた男――蛇のような目をしたその男に、リィンは底知れぬ恐怖を覚えた。

彼が去った後、川の水面が、まるで血を吸ったように静かに波打ち始めた。




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2025年12月26日 12:00
2025年12月27日 12:00

イースデン戦記 東雲 @coach0513

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