雪原に咲く桜の木の下で
空咲 零 (そらがき れい)
第1話 雪原に咲く桜の木の下で
「雪原に咲く桜の木の下で」
――一峰狐白の恋物語/狐子記・外伝――
初雪が降りはじめたのは、深夜を過ぎた頃だった。
静かに降り積もる白が世界を包む、その気配を、
桜子はベッド脇のカーテン越しに眺めていた。
「寒いと思ったら、雪が……」
――背後からそっと腕が伸びる。
狐白が毛布ごと桜子を抱き寄せ、
冷えた肩に唇を触れさせた。
「寒いなら、俺の腕の中にいろ」
低く落とされた声が、
胸の奥にゆっくりと染みこんでいく。
柔らかな肌。
細い首筋。
華奢な背中を指でなぞるたび、吐息がかすかに震えた。
人間を愛おしく思うことなどない――そう思っていた。
「明日はクリスマスですね」
「ん? ああ……西洋の初午だろ?」
桜子が目を丸くして「うふふ」と微笑む。
狐白は微かに目を細めた。
「違うのか?」
外の雪明かりがふたりを包む。
桜子に向けられたその横顔は、
夜気の中で溶けてしまいそうなほど優しかった。
「うふふふ……そうですね、初午ですね」
桜子の笑い声が、そよぐように空気を揺らし、
狐白の息がひとつ止まる。
普段は見せぬ照れが頬を掠め、
ぐっと腕の力が増した。
「……そんなに笑うな。
それより、せっかく連休を取ったのだ。明日どこか行こう」
(年の暮れもだが、明ければ祭事つづきで忙しくなる。
下手したら、春まで会えないかもしれない……)
この絡めた指が、この温もりが、
いつまでも続くものだと思っていた。
ー衛生部 衛生隊舎ー
執務室の一番奥で、内線の受話器を肩に挟み、PCを打っていた蕨が顔を上げる。
「どうした? 珍しいな、お前から来るなんて」
受話器を置き、紅茶を一口飲む。
「忙しそうだな」
「あぁ、参ってるよ。
急患続きで、ほとんど寝てない。
天界に行ってる間に事務作業が、こーーーんなに溜まってるってのに、
去年の御咳社の報告書も早く出せって、
お前んとこの事務方がうるせー、うるせー」
狐白は運ばれてきたコーヒーを飲みながら、
机の端に積まれた書類を一枚めくる。
「御咳社は一昨年の十一月だったよな。
もう三月だ。……事務官をつけたらどうだ?」
「そうねえ……部下、何人か貸してくれよ」
「ははは……ウチには結界師しかいないよ」
蕨は椅子に寄りかかり、肩肘を背もたれに置いたまま、
狐白の顔をじっと見た。
「で? 用件は? 遊びに来たわけじゃないんだろ?」
「……――、―――……」
「え? 何? 聞こえない」
狐白はわずかに目をそらし、小さく息を吸った。
「だから……に、人間は、どうやって病を治す」
ティーカップを取る蕨の手が止まる。
「……桜子ちゃんか?」
見透かされた狐白の表情に、
蕨はすぐ真剣な色を帯びた声で続けた。
「桜子ちゃん……最近、お前の眷属姿が見えてたりしてないか?」
狐白の眉がわずかに動く。
「……桜子は、何も言っていない。ただ……」
「ただ?」
狐白は言いかけた言葉を飲み込む。
「……いや、何でもない」
短くそう言うと、踵を返す。
「待て。聞け狐白――」
「モナカの具合はどうだ?
任せきりですまんな。近々見舞いに行くと伝えてくれ」
背を向けたまま蕨の言葉を遮り、
狐白は執務室を出た。
「狐白、待てって――人げ……」
書類の山が雪崩を起こし、床に広がる。
「おい、狐白……」
プルッ、プルッ、プルッ。
内線が鳴り、表示には「ヨモギ」の文字。
無視できる相手ではない。
「あーもぅ!」
―指月梅林公園―
「わぁ、綺麗! 桜もいいけど、梅も好きだな」
「梅まつり」と書かれた旗が風に揺れる。
池にかかる木の橋で、桜子は子供のようにはしゃいでいた。
今日、二人は近くの公園へ梅を見に来ていた。
「桜子、そこの茶屋で一服しよう」
「うん……っ」
目眩に足元を取られた桜子を、
狐白は思わず“尻尾”で支えてしまった。
柔らかいもので包まれた感覚に、
桜子はきょとんと目を瞬かせる。
「……?」
狐白は咄嗟に手を回し、抱き寄せる形に誤魔化した。
「先日も貧血で倒れたばかりだ。気をつけろ」
そのまま茶屋の外の、毛氈の敷かれた椅子に桜子を座らせる。
息が少し上がっているのが、近くで分かった。
「目眩は続いているのか?」
「うん……。お医者様は“何ともない”とおっしゃっていたわ」
枝の上で、鶯が春の訪れを告げるように鳴いた。
(何も憑いてはいないし……。)
「茶をもらってくる」
自分のジャケットを桜子に羽織らせ、
そっと顔を覗き込んでから、店の中へ歩いていった。
―狐白・蕨の部屋―
湯気の残る髪をタオルで拭きながら、
狐白は冷蔵庫から缶ジュースを取り出した。
濡れた髪から落ちる一滴が、
引き締まった腹筋を静かに伝っていく。
パシュッ。
炭酸の弾ける音に重なるように部屋の扉が開き、
タオルを首に掛け、アイスペールとグラスを手にした蕨が戻ってきた。
蕨はソファーへ腰を下ろした。
「飲むか?」
「飲めないの、知ってるだろ」
狐白を横目に、蕨は氷を一つ摘んでグラスに落とした。
カラン。
澄んだ音が静かな部屋に響く。
蕨はその上からウイスキーを静かに注ぐ。
「狐白……お前、桜子ちゃん抱いてるだろ?」
蕨は氷をゆっくり回しながら、息を吐く。
「……」
狐白は答えず、缶ジュースを口に運んだ。
喉が上下するたび、水滴が肌を伝う。
「俺たちは眷属神だ。強い霊力を持っている。
その霊力が人間に少しでも流れれば……そりゃあ身体はもたない」
狐白は窓際の椅子へ移動し、星空を見上げた。
「そうか……」
短くそう返す。
表情は読めない。
だが、缶を握る指先がわずかに強くなったのを、
蕨は見逃さなかった。
「……辛いだけだぞ、狐白」
グラスの氷が、かすかに音を立てた。
―――――
窓から見える景色は様相を変え、
満開の桜が、街を淡い桃色に染めていた。
「あの、狐白さん?」
中堅の出仕(しゅっし)が、決裁印を求めて書類を差し出す。
「あぁ、悪い……何だっけ?」
「決裁印を――って、大丈夫ですか?」
目の下には、くっきりと隈が刻まれている。
ざぁーーーっと風が吹き、満開の桜が揺れる。
狐白は視線を戻し、淡々と決裁印を押した。
「またあの子来てる」
三笠稲荷神社の眷属が顔を見合わせる。
――待ち人 来たる。
なぜ、突然会いにきてくれなくなったのだろう。
この場所で待っていれば、
もしかしたら―――。
桜子は、握りしめたおみくじに記された
わずかな希望を胸に、
待ち合わせに使っていたこの場所へ通い続けていた。
ポタッ、ポタポタッ。
「ヤダ。鼻血?」
ハンカチで押さえると、足元が揺れた。
しばらく治っていたはずなのに、まただ――
膝に力が入らず、身を屈めるようにしてその場に座り込んだ。
――そのとき、
目の前がふっと暗くなり、力が抜けた。
会議中の狐白の元に、
三笠神社からの式神が届いたのは――
桜子が倒れてから、ほどなくのことだった。
倒れ伏す桜子を見つけた神主たちが、
狐白へ向けて式神を放ったのだ。
窓の、わずかな隙間をすり抜けて。
白い人形(ひとがた)が、狐白の元へ降りてくる。
――ドクン。
狐白の胸が、一つ鳴った。
バァァァン——
乾いた破裂音とともに、会議室の窓ガラスが一斉に砕け散った。
会議室の空気が、硬く張り詰めた。
「……どうした、狐白」
幹部の一人の声が、その沈黙を切り裂いた。
「……失礼しました」
狐白は咳払いを一つして式神を袂(たもと)へ収めると、何事もなかったかのように椅子へ座り直した。
会議室に、気まずい沈黙が落ちた。
誰かが咳払いをし、皆が資料に視線を落とす。
「……では、続きを――」
しかし、その静寂はすぐに破られた。
ピシッ、ガチャン。
飾られた壺や花瓶が次々と砕け散り、
会議室の空気が、再び凍りついた。
――そして、視線が狐白へ集まる。
狐白は、何も言わずに一礼した。
夕陽が沈みかけた空が、窓を朱に染める頃、
狐白はPCを雑に閉じ、立ち上がった。
廊下に出たところで、
背後から蕨の声が飛ぶ。
「どこへ行く」
「野暮用だ」
「袴姿で?」
その一言に、狐白はハッとする。
踵を返し、部屋へ戻ろうとした。
「これ以上、桜子ちゃんには関わるな」
狐白が足を止める。
「……お前に関係ない」
狐白は答えず、走り出す。
「狐白!」
蕨が掴んだ肩を狐白の結界が弾く。
「……っ、テメ……」
部屋へ戻っても、言い合いは収まらなかった。
言葉が荒れ、距離が詰まり、やがて拳が飛ぶ。
「そこまでだ!!」
割って入ったのはヨモギだった。
張り詰めていた空気が、ようやく崩れる。
―――――
狐白の姿は、稲荷山にあった。
桜の木の太い枝に腰掛け、
三笠稲荷神社の方を静かに眺めている。
「……家は教えたんだ。
今頃、家族に介抱されているはずだ」
蕨との殴り合いで破れた装束の肩口から、
夜風が入り込み、わずかに肌寒い。
口に溜まった血を吐き出した拍子に、
懐から笛が落ちた。
「……入れっぱなしだったか。
よく割れなかったな。
蕨のヤツ、思いきり殴りやがって」
笛を眺めていた狐白の視線が、ふと上がり、
思い立ったように桜の木の一番上へと跳び上がった。
舞い上がった花びらが弧を描き、
月を飾る。
高熱を出し、苦しんでいた桜子は、
遠くから届く笛の音に目を覚ました。
「……笛の音。
なんて、優しい音......」
そう呟き、微笑みを浮かべたまま、
再び眠りへと落ちていく。
その次の夜も、
月明かりの下で狐白は笛を奏でた。
その次の日も、
そのまた次の日も。
雨の日も、風の日も、
愛を届けるように笛の音を送り、
ひとつずつ、心を結んでいった。
―――――
「お稲荷さんまで行ってきます」
居間でテレビを見ていた日夏里(ひかり)に、
桜子はそう声をかけた。
「一人で大丈夫?」
「えぇ。もうすっかり。
助けてくださった神主さんたちに、
お礼もしたいし」
春の陽気が、眠気を誘うように
やわらかな風を運んでいた。
「こんにちは」
社務所の引き戸を開けると、
中から神主の、おかゆが顔を出す。
「あぁ、先日の。
もうお加減はよろしいのですか?」
「えぇ。おかげさまで」
「それはよかった。
鼻血を出しておられたので、
頭でも打ったのかと心配しましたよ」
「本当にお騒がせしました。
……あ、これ。
おはぎを作ったので、皆さんでどうぞ」
「これはご丁寧に。
神前にお供えしてから、
皆で頂きます」
そう言って、おかゆは一礼した。
桜子が静かに背を向け、社務所を後にする――その後ろ姿に、おかゆはぽつりと呟いた。
「あの狐白さんがね……」
「天界にも、あんなにしとやかな女は
そういない」
奥の部屋から、もう一人の神主、おじやが顔を出す。
横から重箱を取り上げ、くんくんと嬉しそうに香りを嗅いだ。
「全くだ。天界の女は気が強くてかなわん」
小さな笑い声が漏れる。
「今度、大社に出張するから、彼女の様子を伝えて差し上げよう」
「しかし、狐白さんを射止めたのが、人間とはな」
「天女どもが泣いて悔しがるぞ」
ここが人間界でなければ、
とても口にできない話だ。
――――――
この日の朝も、狐白と蕨の部屋は騒がしかった。
「三十八・五分?!」
体温計を見た蕨が、思わず声を上げる。
「ちょっと胸の音を聞かせろ」
「いいよ。そこまでしなくても」
「良くない。ほら寝ろ」
蕨は聴診器を口に咥えたまま、
狐白の肩を押してベッドへ倒した。
「動くな」
胸元へ、聴診器を持つ手が滑り込む。
「......ったく、雨の中で、笛なんぞ吹きやがって。
発作止めの吸入、まだあるよな?」
「ん? あぁ、机にある」
引き出しを開けた蕨の眉間に、深くシワが寄る。
「おい。
市販の薬はお前には強いから、飲むなって言ってるだろ」
「手軽なんだよ」
「俺が隣にいるだろ!」
「分かった、分かった」
蕨は次々に見つかる市販薬をゴミ箱に放り込み、
大きく息を吐いた。
「ヨモギさんには俺から言っておく。
今日は寝てろ。部屋から出るな」
そう言い残して、部屋を出ていく。
蕨が部屋を後にすると、
狐白はベッドを抜け出し、笛の手入れを始めた。
(次は......何の曲にしようかな)
咳が混じるものの、
その表情はどこか緩んでいる。
コンコン——
「はい……?」
返事をすると、
扉の向こうにいたのは和菓子トリオだった。
「お前たち、どうした?」
「蜜、ほら」
「お前が言い出したんだろ」
モナカと羹太郎に背中を押され、
蜜が一歩前に出る。
「あの……こ、これ。
お見舞いです」
差し出されたのは、
フルーツ牛乳の空き瓶に挿した、野の花だった。
「……サンカヨウか。ありがとう。
うつるといけないから、もう行け」
そう言って扉を閉める。
(ん?この時間......
モナカのヤツ、養生所に外出許可を出してないな)
「......まぁ、いいか」
―――――
包丁が、指先をかすめた。
たいした傷ではない。
「困ったわ。血が止まらない。お夕飯どうしましょう」
救急箱の蓋を閉めながら桜子は困っていた。
「お姉ちゃん出前にしよ。私、蕎麦がいい!」
「そうね、そうしましょうか」
次の日の朝。
「ちはー。昨日の器、下げにきました」
蕎麦屋のバイクが家の前に止まり、
洗濯物を干していた桜子が、裏手から顔を出した。
「ありがとうございます。
お玄関に置いてありますから、今、持ってきますね」
そう言って動こうとしたとき、
指先から赤い雫がぽたりと落ちる。
「どっかで引っ掛けたんですかい?」
蕎麦屋が覗き込む。
「昨日、少し切ってしまって……」
桜子はエプロンで押さえながら答えると、
蕎麦屋はポケットから絆創膏を出し、渡した。
「俺、そそっかしいもんで、
いつも持ってるんです。よかったらどうぞ。
器は勝手に持っていきますから、お構いなく!」
洗濯物を干し終えた頃、
桜子はもう一度、指先を見た。
血は止まっている。
けれど、包帯の下が、妙に熱い。
(……一度、診てもらおうかしら)
そう思ったのは、
不安というより、念のためのことだった。
近所の小さな病院は、
休日の午後でも空いていた。
「念のためにね。
お母さんのこともあったし」
医師は血液検査を勧めた。
結果が出るまで、時間はかからなかった。
診察室に戻ってきた医師の表情は、
さきほどとは、少し違っていた。
「桜子ちゃん。
大きな病院、紹介するよ」
それ以上の説明はなかった。
桜子も、聞かなかった。
病院の帰り、
桜子の姿は三笠稲荷神社にあった。
――神様、どうか
彼が、苦しみませんように。
深く、深く祈った。
「さてと。色々、整理しなくちゃ」
境内を掃く、おかゆが桜子に気づき、軽く会釈をした。
鳥居をくぐり、一礼する。
胸に浮かんだ願いは、
考えるよりも先に、形になっていた。
――どうか、狐白様に
知られませんように。
風に混じって、祈りがほどける。
「どうする?」
「どうもこうも......」
神に仕える眷属たちは、人の願いを聞いてしまう。
神に祈りを届け、人に下す。
それが、眷属の仕事。
――運命に干渉することは、
許されていない。
―――――
「お父さん、日夏里、ご飯よー。
今日はエビフライですよー」
家に帰った桜子は、
いつもと変わらない声で、食卓を整えた。
「日夏里。
あとで、私の部屋に来てね。
渡したいものがあるの」
「うん。何かくれるの?」
「ちょっとね。
物が増えちゃって、整理しようと思って」
箸を運んでいた父の手が、
ふと、止まる。
「……何かあったのか?」
「やぁね、何もないわよ。
おかわりは?」
笑ってそう言うと、
桜子は父の茶碗に視線を落とした。
暖かな食卓の時間が、
夏の気配とともに、静かに流れていく。
湯上がりの髪を、指でほどきながら、
桜子は自室へ戻った。
窓を少しだけ開けると、
夜の空気が、笛の音と共に静かに流れ込んできた。
溢れだす愛おしさが、
夜を渡り、そっと心を包み込む。
どうか、
私のことで彼が苦しみませんように――
―――――
紅葉の季節、
桜子は日夏里に支えられながら、
三笠稲荷神社へ参拝に来ていた。
足取りは、ゆっくりと。
息を整えながら、一歩ずつ石段を登る。
――神様、来世があるならば、
短命な運命でも、不満は申しません。
ただ、狐白様と結ばれる縁(えにし)でありますように。
その祈りが、
境内の空気に、深く沈む。
「おい!おじや!」
拝殿で祭壇の準備をしていたおかゆが、
履き物を脱ぎ捨て社務所へ駆け込んだ。
「なに? どうしたんだよ」
「あの子だ。
来てる……すごく、痩せてるけど、
狐白さんの――」
二人は社務所を飛び出した。
「歩くのも、やっとじゃん……」
「あぁ……」
短い沈黙。
「どうする……?」
二人は顔を見合わせ、うなずくと、
狐白に向けて、式神を放った。
式神を受け取った狐白は、
迷いなく桜子のもとへ向かった。
「狐白!」
振り向くと、蕨が立っていた。
「蕨……頼む。止めないでくれ」
短い沈黙。
「行くのか?」
「あぁ……」
蕨は懐に手を入れ、
小さな包みを差し出した。
「これ、桜子ちゃんに渡すつもりだったんだろ」
「すまん......」
蕨は後ろ手を振って去った。
久しぶりに見る茶畑。
庭にある、桜子と同じ歳の桜の木。
どれもこれも、目に入るだけで心が疼いた。
狐白は、通された部屋の障子に手をかけると、目を閉じ深く、息を吐いた。
「桜子、俺だ」
「……どうぞ」
力のない声だった。
けれど、狐白の胸には、それだけで十分だった。
「桜子……」
「笛、お上手ね」
柔らかな微笑みが、
狐白の中に積もっていた罪悪感を、静かに溶かしていく。
桜子は、全身の痛みをこらえて身を起こすと、
狐白の胸にそっと身を預け、揺れる尾に触れた。
「会いたかった」
「……いつから見えていた?」
「ぼんやりと、だけど……最初から」
「桜子は、元々霊力が高いのだな」
狐白は腕を回し、尾で包む。
遠かった距離を確かめるように、
二人は言葉を交わし――
静かに、唇を重ねた。
「桜子。これを」
狐白は、桜子の左手を取り、
薬指に指輪をはめた。
「人間は、こうするのだろう?」
大粒の涙が、桜子の頬を伝う。
少しずつ、身体から力が抜けていくのが分かった。
狐白の肩が震える。
何度も頬を寄せ、桜子の温もりを、必死に抱き留めようとする。
「神様……なぜだ……
なぜ、俺から桜子を奪う。
どんな試練にも耐えてみせる。
だから、桜子を連れて行かないでくれ……」
桜子は最後の力を振り絞り、
狐白の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
「泣かないで……もしかしたらこれが、
来世で一緒になるための試練かもしれませんよ」
桜子は、狐白の腕の中で静かに逝った。
抱きしめているはずの温もりが、
指の隙間から、すべて零れ落ちていく。
俺の世界は、
花びらとなって、音もなく弾け散った。
―――――
狐白には、
忌が明けるまでの五十日間を天界で過ごすよう、命が下った。
三笠稲荷神社の眷属二人は、
人間の運命に干渉した――とまでは言えないものの、
厳重注意という処分を受けることになった。
「では、しばらく留守にする。後のことは、よろしく頼む」
部下や周囲の者に挨拶を済ませると、
狐白は一人、天界へと続く結界の中へ入っていった。
「久しぶりに帰ってきたな」
天界は空気が澄み、やはり過ごしやすい。
暑くもなく、寒くもない。
川はまるで花手水のように澄み、
水面には淡い色が溶け、しゃぼん玉が静かに浮かんでいる。
地平線のようにも見える遠く彼方は、
黄金色に輝いていた。
「まずは宇迦之御魂神に
ご挨拶申し上げねば」
そう呟き、狐白は神殿へと向かった。
禊を済ませ、神前へと進み着座を待つ。
御成の鈴が鳴る。
拝礼。
「琴ノ峰稲荷大社眷属、
一峰(いちのみね)狐白
そなたは、よくやっておる」
御簾の向こうから響く、澄みきった声に
さらに深く拝礼。
再び鈴が鳴り、気配が消えた。
狐白はその足で
荼枳尼天の神殿へと向かい、拝礼を済ませた。
「さてと……」
育った家の門をくぐり、玄関の戸を引くと、
中からぱたぱたと小柄な女性が駆けてきて、
きちんと腰を下ろして出迎えた。
「おかえりなさい、狐白ちゃん」
「ただいま、母さん」
久しぶりに見る育ての母は、
相変わらず、古風で、女性らしい人だ。
「お腹減ってる?
お風呂?
それとも……寝る?」
思わずズッコケそうになるが、慣れている。
「起きたばかりだから、寝るはないかな。
教え子たちがこっちで世話になったから、
挨拶に行ってくるよ」
「まぁ、立派ねぇ」
荷物と土産を渡し、玄関に腰を下ろして草履を脱ぐ。
久しぶりに戻った、ひとりの空間。
長く家を空けていたはずなのに、埃ひとつ見当たらない。
きっと母が、折を見て掃除をしてくれていたのだろう。
「そうだ。蕨に頼まれていたんだった」
向かいの蕨の部屋へ行き、
棚に置かれていたアップルティーの箱を三つ手に取る。
「母さん、そろそろ出るけど、何かある?」
「そう?……じゃぁ、
桃源郷のお父さんのところに、お弁当を持っていってもらおうかな」
差し出されたのは、三段の重箱。
中には、刺身や唐揚げがぎっしり詰まっている。
「母さん……父さん、宴会でもやるの?
というか、弁当に生ものは危ないと思うよ」
「そう?
お父さん、お刺身好きだから」
「……まぁ、一応。
急いで持っていくね」
玄関を出てから、重箱を改めて見つめ、少し考える。
そして狐白は、足早に桃源郷へ向かった。
「こんにちは」
桃源郷の薬草畑で作業をしていた男が、
頭上の影に気付き、顔を上げた。
「おぉ、狐白くんじゃないか。
いつ戻ったんだい」
「さっき、戻ったばかりです。
教え子たちが、お世話になりました」
「あぁ、モナカくんたちね。
重症だったが、退院できて何よりだ」
男は手を止め、
狐白に歩み寄る。
「しばらく、こっちに?」
「……五十日間ほど」
「五十日間、そうか。
お父さんなら、奥にいるよ」
「ありがとうございます」
狐白は一礼し、
建物の奥へと足を向けた。
コンコン――
「どうぞ」
ノックに返ってきた声は、
蕨とよく似ていた。
「父さん、ただいま帰りました」
「おかえり。元気そうだな」
少し、唇が震えた。
「……はい」
「あ、これ。母さんから」
弁当を渡すと、すぐに内線を取った。
「妻から昼メシの差し入れがはいったから、
すまんが、また手伝ってくれ」
「みんなで食べるの?」
「あぁ。残すと母さんが悲しむだろ?
母さんな、料理している時が
一番楽しそうな顔するんだよ」
胸の奥が、ズキッとした。
「俺は――母さんのあの笑顔に惚れたんだよ」
「父さん……俺……」
狐白の目から、抑えてきた感情が溢れ、
左手の薬指を静かに濡らした。
「頑張ったな」
父は、子供の頃のように頭に手を置くと、
それ以上何も言わなかった。
天界での生活は、
静かに流れていった。
穢れが残るあいだ、
天照大神 神殿への参入は許されず、
謁見も叶わない。
桃源郷の桃は甘く香り、
川はせせらぎ、
鳥が歌う。
――そして、
五十日間はあっという間に過ぎた。
「狐白ちゃん、明日帰ってしまうのね」
「蕨に、
酒と女は程々にしとけって、
言っといてくれ」
「分かった」
食卓を囲み、
出発前のささやかな時間が流れる。
「明日は天照様のところへ行くんだろ?」
「うん。その後、天水分様に呼ばれてるから、
寄ってから下界に帰るよ」
―天照大神 神殿―
御成の鈴とともに、
天照大神が御簾の奥に降りた。
「狐白。
そなた、どんな試練も負うと申しておったが――
偽りはないな?」
狐白は言葉を発せず、
頭を下げたまま、さらに身を沈めた。
「ならば、天水分の神殿へ行け」
思わず、
頭を上げそうになる。
謁見を終えると、
狐白は神殿を出て、
風のように天水分神殿へ向かった。
――胸にわずかな希望を抱き、
狐白は水の神殿へ走った。
門番の武人たちと挨拶を交わし、
案内された間で着座を待つ。
「天水分神様、御成でございます」
側用人の言葉に、
笏を持つ手が、震える。
「狐白ちゃん。顔を上げて」
「……しかし、御簾が上がっております」
「いいから」
「で、では……
せめて、お顔をお隠し下さいませんか」
「分かったわよ」
扇が広がり、
目元から下が隠された。
恐る恐る顔を上げた、その先に――
侍女として控える、桜子の姿があった。
桜子の視線が揺れ、
狐白の胸が詰まる。
「桜子ちゃんには――
私の身の回りのお世話をお願いすることにしたの」
桜子は、
与えられた役割に静かにうなずいた。
「うちは武人だらけの男所帯だから、
女手が欲しかったのよ」
狐白の胸が、震える。
「明日、正式に天照様へご報告申し上げるわ。
一日だけ猶予があるけれど、どうする?」
狐白は、恐れ多くも答えた。
「下界にて、笛を奏でとうございます」
天水分神が微笑み、促すと、
桜子は、万感の思いで歩き出した。
―――――
下界。
一面の雪景色の中、
どこからともなく、稲荷山に笛の音が響く。
その音に応えるように、
桜が雪をまといながら、静かに咲いていく。
狐白は笛を吹き終えると、
名残を断つように息を整え、
両の手を広げて空を見上げた。
「桜子、降りておいで」
呼びかけに応え、
桜子が舞い降りる。
狐白はその身体を胸いっぱいに抱き止め、
二人は雪の中へと、ゆっくり沈んだ。
そして――
静かに、唇を重ねた。
失った時間も、
越えてきた運命も、
すべてを抱きしめるように――
雪原に咲く桜の木の下で、
ふたりは、ようやく同じ時を生きはじめた。
雪原に咲く桜の木の下で 空咲 零 (そらがき れい) @Soragaki_Rei
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