名前を呼ぶ日
あまいこしあん
名前を呼ぶ日
書類の一番上に、その名前はあった。
何年も使っていなかった文字列。
封印するように遠ざけ、記憶の底に沈めてきた名前。
彼女は、ペンを持つ手を止めた。
支援事業所の登録更新。
代表者名の欄は、空白のままだった。
「……まだ、迷ってる?」
向かいの机で、彼が言った。
責めるでもなく、促すでもなく。
彼女は小さく笑った。
「使っていいのか、分からなくて」
あの名前は、被害者の名前でもある。
ニュースで消費され、噂され、
“物語”にされてしまった名前。
同時に——
誰かに守られ、
生き延び、
立ち上がった人間の名前でもある。
彼は言った。
「取り戻すかどうかを決められるのは、君だけだよ」
彼女は、ゆっくりと息を吸った。
その日の午後、事業所に一人の相談者が来た。
名前を名乗らない女性。
俯きながら、かすれた声で言った。
「……名前を捨てたいんです」
彼女は、はっとした。
そして、答えた。
「捨ててもいい。でも、
いつか、戻ってきてもいいんですよ」
女性は、少し驚いた顔をした。
「戻ってくる、って……?」
彼女は、胸に手を当てた。
「名前は、あなたを縛るものじゃない。
生き延びた証にもなれる」
その言葉は、
誰よりも、自分自身に向けたものだった。
夜。
彼女は、再び書類に向かった。
代表者名の欄に、
迷いなくペンを走らせる。
“本当の名前”。
書き終えた瞬間、
胸の奥で、何かがほどけた。
彼は、それを黙って見ていた。
「……呼んでもいい?」
彼女は、頷いた。
彼が、その名前を口にする。
ゆっくり、丁寧に。
彼女は、初めてその名前で、
ここに立っていると感じた。
数日後。
事業所の案内文に、小さく追記された一文。
「ここでは、本名でも、仮の名前でも構いません」
その下に、代表者名として、
彼女の本当の名前があった。
隠すためではなく、
誇るためでもなく。
生きているから、使う。
それだけの理由で。
夜、鍵を閉めながら、彼女は月を見上げた。
もう、逃げるための名前じゃない。
闘うためだけの名前でもない。
守り、守られ、
誰かの“居場所”になる名前。
彼女は、静かに微笑んだ。
「……ただいま」
名前は、ようやく彼女のもとへ帰ってきた。
名前を呼ぶ日 あまいこしあん @amai_koshian
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