エピローグ 紫陽花の向こう側

 雨上がりの公園は、まだ少しだけ、湿った匂いをまとっていた。


 遊具の鉄棒には小さな水滴が並び、ベンチの木の板はところどころ濃い色をしている。舗道の脇には、低いフェンスに沿って紫陽花が植えられていた。


 青。

 紫。

 白。


 その中に、ぽつんと混ざる、ひと房のピンク。


 丸く集まった小さな花びらたちが、肩を寄せ合っているみたいに見える。


「……あ」


 気がつくと、その前に立っていた。


 いつからここにいるのか、自分でもよく分からない。手を伸ばせば届きそうな距離で、ピンクの紫陽花をただ見つめている。


 どこかで、同じ色を見た気がした。


 雨の夜の、車の窓の外。

 後部座席で笑っていた、小さな手。


 胸の奥が、じんと熱くなる。


 そのとき——背中越しに、柔らかい足音が聞こえた。


「お兄ちゃん」


 振り返る前に、そう呼ばれた。


 振り向くと、そこには三人の姿があった。


 少し疲れたような、それでも穏やかな目をした父と母。そして、そのあいだで、両手をつないでもらいながら小さく跳ねている女の子。


 鈴。


 事故の夜と変わらない笑顔で、こちらを見上げていた。


「サキお姉ちゃん、綺麗だったね」


 鈴が、少し弾む声で言う。


 胸の奥が、またきゅっと締め付けられた。さっきまで見ていた光景が、頭の中によみがえる。


 白いドレスに、うす桃色のブーケ。笑いながら泣いていた幼馴染と、その隣で照れくさそうに笑う男。拍手の中で、ゆっくりと重なったキス。


「……ああ」


 ようやく、それだけが口から出た。


「すごく、綺麗だった」


 鈴は満足そうにうなずくと、父と母の手をいったん離し、小さく走り寄ってくる。


 そして、当たり前のように、ぼくの右手を握った。


 小さくて、あたたかい手。

 あの夜、抱きしめたまま離せなかった重さが、ふっと軽くなる。


「行こ?」


 鈴が、見上げながら言う。


 その顔は、怒っても責めてもいなくて。ただ、いつもと同じ調子だった。


 喉の奥が詰まる。


 父と母が、少し離れた場所で静かに見ていた。責めるでもなく、許すでもなく…ただ、待っていてくれた目で。


 ずっと守れなかった。

 ずっと取り返そうとして、何度も間違えた。それでも、もう、守らなくてもいい世界になったのだと、ようやく分かる。


 紗季は、自分の足で前を向いている。

 山岸の隣で、笑っていた。

 冬城も、ちゃんと隣にいてくれた。


「……うん」


 鈴の手を握り返す。


「ごめんね」


 それは、鈴に向けての言葉であり、

 父と母に向けての言葉であり、

 どこか遠くの、もう一人の自分に向けての言葉でもあった。


 鈴がにっと笑う。


「じゃあ、行こ」


 その一言とともに、鈴が歩き出す。

 右手を引かれ、僕も一歩、前へ出た。


 父と母が並んで立っている。母がそっと手を差し出し、父が安心したようにうなずいた。


 四人分の足音が、ゆっくりと紫陽花の前を離れていく。


 ふと、振り返る。


 雨上がりの光の中で、ピンクの紫陽花が、静かに揺れていた。小さな花びらたちが寄り添って、一つの丸い形を作っている。


 家族みたいでしょ、と笑っていた鈴の声が、どこかで重なった気がした。


 その景色を、最後までちゃんと目に焼きつけて——


 僕は、鈴の手を握りしめたまま、もう二度と振り返らずに歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫陽花が色づくまで @nos_nos

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ