酔いしれた日々を超えて
風馬
第1話
序章
白球が、スローモーションのように宙を舞っていた。
甲子園の青い空を切り裂き、アルプススタンドの絶叫を吸い込んで、レフトポール際に突き刺さる。
逆転サヨナラ満塁ホームラン。
マウンド上で崩れ落ちる相手エースの姿を背に、小山天翔(こやま かける)はガッツポーズも忘れ、
呆然とダイヤモンドを一周した。
高校時代、サードを守りながら、クローザーとしてもマウンドに上がる二刀流。
この一打で、天翔の名は全国に轟いた。
その年の秋、ドラフト2位で千葉ローテマリンズのユニフォームに袖を通した。
打撃センスを高く評価されての、野手としてのプロ入りだった。誰もが天翔の未来を疑わなかった。
本人でさえも。
プロ1年目、その評価が正しかったことを証明するのに、時間はかからなかった。
開幕当初こそ代打での出場が主だったが、類稀なバットコントロールと勝負強さで結果を残し、
オールスター後には「6番・サード」の定位置を掴み取った。
新人王こそ逃したが、その活躍はファンの心を掴むのに十分すぎた。
オフには、高校時代から付き合っていた同級生の麻美と結婚。
絵に描いたような順風満帆な野球人生が、幕を開けた。
「天翔なら、球界を代表するバッターになれる」
誰もがそう言った。天翔自身、心の底からそう信じていた。この輝かしい日々が、永遠に続くと。
第一章:転落のスパイラル
二年目のジンクス、という陳腐な言葉で片付けられたくはなかった。
だが、それは容赦なく天翔に襲いかかった。
開幕から中軸の6番を任されたプレッシャーか、研究され尽くした弱点か。
あれほど簡単に見えていたはずのボールが、まるで別次元の生き物のように手元で変化する。
梅雨が近づき、空がぐずつき始めた頃、天翔のバットは完全に湿ってしまった。
快音を響かせるはずの芯は、ことごとく鈍い音を立ててボールを詰まらせる。
内野ゴロの山、見逃し三振、好機での凡退。スタンドからの声援は、次第にため息とヤジに変わっていった。
「給料泥棒!」
「二軍へ帰れ!」
その声が、ヘルメット越しに脳髄を直接揺さぶる。
試合が終わり、重い足取りで帰宅する。
玄関で「おかえり」と迎えてくれる麻美の笑顔が、罪悪感で歪んで見えた。
「今日も、ダメだった……」
その鬱憤を晴らすように、冷蔵庫から取り出した缶ビールのプルタブを引いた。
喉を焼く冷たい炭酸と苦味が、一瞬だけ脳の痺れを忘れさせてくれる。
一杯が二杯に、二杯が三杯に。麻美が心配そうな顔で見ていたが、
天翔は「明日打つための景気づけだ」と強がって見せた。
しかし、アルコールが抜けた朝に残るのは、頭痛と自己嫌悪だけだった。
打順は6番から8番へ下がり、やがてスタメンボードから名前が消えた。
代打で出場しても、焦りがバットをさらに湿らせる。
ベンチで声を枯らす自分の姿が、惨めで仕方がなかった。
三年目、春季キャンプでアピールできず、開幕は二軍スタートという屈辱を味わった。
若手の突き上げ、厳しい現実。二軍の試合は、観客もまばらで、ヤジすらも聞こえない。
その静寂が、余計に天翔を孤独にさせた。結果は出ない。
焦れば焦るほど、フォームは崩れていく。
夜、寮の自室で一人、隠すように飲む酒の量だけが増えていった。
いつからだろう。野球のために酒を飲むのではなく、酒を飲むために野球をしているような感覚になったのは。
再起を誓ったシーズンは、気づけば9年目になっていた。
毎年「今年こそは」とキャンプに打ち込むが、開幕は二軍。
たまに一軍に呼ばれても、結果を残せずにすぐ逆戻り。
かつての輝きは完全に色褪せ、ファンからは「終わった選手」と囁かれていた。
その年のオフ、球団事務所に呼ばれた天翔は、非情な宣告を受ける。
「来季の契約だが……横浜ベビースターズへ、金銭トレードが決まった」
金銭トレード。それは、事実上の戦力外通告に等しい。
プライドは、粉々に砕け散った。
マリンズのユニフォームを脱ぎ、荷物をまとめる天翔の背中に、麻美は何も言わなかった。
ただ、その瞳が潤んでいたことだけは、分かっていた。
第二章:底からの再生
環境が変われば、何かが変わるかもしれない。
そんな淡い期待は、横浜の街の喧騒にかき消された。
新しいチーム、新しいユニフォーム。だが、バットを握る自分は、何も変わっていなかった。
不振の原因は、技術ではない。心が、壊れてしまっている。
そう直感した天翔は、わらにもすがる思いで、市内のメンタルクリニックの扉を叩いた。
穏やかな表情の初老の医師は、天翔の話をじっくりと聞いた。野球の苦悩、眠れない夜、
そして、日に日に増えていく酒の量。全てを吐き出すと、医師は静かに、しかしはっきりと告げた。
「小山さん、あなたはアルコール依存症です。入院による専門的な治療をお勧めします」
アルコール依存症。どこか他人事のように響いていた言葉が、重い鉛となって天翔の心に沈んだ。
俺が? あの甲子園を沸かせた俺が、ただのアル中? 認めたくない現実だった。
「少し、考えさせてください」
そう言ってクリニックを後にし、自宅に戻る。
麻美に医師の言葉を伝えると、彼女は黙って天翔の手を握った。
「ねえ、天翔。もう一度、野球をしているあなたの笑顔が見たい。
そのためなら、私はなんだってする。だから、お願い。入院して、ちゃんと治そう。
これからの、私たちのために」
麻美の瞳から、大粒の涙がこぼれた。9年間、何も言わずに苦しむ夫を支え続けてきた妻の、魂からの叫びだった。その涙が、天翔の最後の意地を溶かした。
「……わかった。入院する」
閉鎖病棟での日々は、地獄だった。酒を断たれた身体が、悲鳴を上げる。
激しい頭痛、吐き気、止まらない震え。夜ごと悪夢にうなされ、叫び声を上げて飛び起きた。
断酒プログラムでは、自分がいかに酒に支配されていたかを、嫌というほど突きつけられた。
同じように苦しむ入院患者たちとのグループミーティング。
社長、教師、主婦。誰もが、酒によって人生を壊されていた。
天翔は、初めて自分が特別な存在ではないことを知った。グラウンドを離れれば、ただの弱い人間なのだと。
退院が近づくにつれ、不安が鎌首をもたげた。
この病院を出て、一人で酒の誘惑に勝てるのだろうか。また、あの苦しい日々に逆戻りしてしまうのではないか。そんな恐怖が、心を蝕んでいた。
第三章:新たな「酔い」
治療プログラム以外の時間は、ひたすらに無為だった。
テレビも面白くない。本を読む気にもなれない。
そんな時、同室の若い男がやっていたスマートフォンゲームが目に入った。
「暇なら、やってみます?」
軽い気持ちで始めた、ファンタジー系のRPG。
最初は、単なる暇つぶしだった。キャラクターを育て、モンスターを倒す。
単純な作業の繰り返し。だが、気づけば天翔はその世界に没頭していた。
来る日も来る日も、同じダンジョンに潜り、ひたすらレベルを上げた。
なかなか倒せなかったボスモンスターの攻撃パターンを読み、何度も挑戦を繰り返す。
そして、ついに撃破した瞬間、思わず「よっしゃ!」と声が漏れた。
病室のベッドの上で、小さなガッツポーズが出た。心臓が高鳴り、脳内に熱い何かが駆け巡る。
それは、ホームランを打った時の、あの高揚感によく似ていた。
オンラインで仲間を募り、協力して難攻不落のクエストに挑んだ。
ボイスチャットで声を掛け合い、作戦を練り、それぞれの役割を全うする。
強大な敵を打ち破った時の達成感は、サヨナラ勝ちの喜びにも匹敵するほどだった。
「すごい集中力ですね」
看護師に言われて、はっと我に返った。時計を見ると、ゲームを始めてから5時間以上が経過していた。
その間、一度も酒のことを考えていなかった。
飲みたいという欲求も、断酒への不安も、頭から完全に消え去っていた。
これだ、と天翔は悟った。酒を「断つ」と意識するから、苦しいのだ。
酒のことなど考える暇もないほど、何かに夢中になる。熱中する。
野球で味わっていたはずの「酔い」を、別の何かで見つければいいのだ。俺にとって、それはこのゲームだった。酒を忘れることが、本当の断酒への一番の近道なのだと、確信した瞬間だった。
退院の日、天翔は晴れやかな顔をしていた。
麻美が迎えに来てくれた車に乗り込み、横浜の街へと戻る。不安が消えたわけではない。
だが、今の自分には、酒に代わる武器があった。
第四章:グラウンドへの帰還
十年目の三月。天翔は、ベビースターズの監督室にいた。
監督とピッチングコーチを前に、深く頭を下げる。
「ご報告が遅れ、申し訳ありません。シーズンオフの間、アルコール依存症の治療のため、入院していました」
一瞬の沈黙。だが、監督の表情は変わらなかった。
「そうか。……よく、正直に話してくれた。で、身体はもう大丈夫なんだな?」
「はい。野球に集中できる状態です」
「よし、分かった。グラウンドで、結果で見せてみろ」
その言葉が、何よりも嬉しかった。
その年のキャンプ、天翔は別人のようだった。酒に蝕まれていた身体はキレを取り戻し、思考はクリアだった。
一球一球、ボールの縫い目が見えるほどの集中力。
フリーバッティングでは、面白いように打球が外野のフェンスを越えていく。
かつての感覚が、確かに蘇っていた。
開幕一軍。その切符を、自らのバットで掴み取った。
シーズンが始まると、天翔は代打の切り札として起用された。
一打席にかける集中力は、ゲームで培ったものが生きていた。相手投手の配球を読み、狙い球を絞る。
その駆け引きが、たまらなく楽しかった。ヒットを一本、また一本と積み重ねていく。
その度、ベンチの仲間が、スタンドのファンが、自分のことのように喜んでくれる。
交流戦が終わる頃には、天翔はクリーンアップの5番を打つようになっていた。
かつての自分ならプレッシャーに押しつぶされていたであろう打順も、
今は心地よい緊張感として受け止めることができた。
不思議なことに、天翔の成績が上がるにつれて、万年Bクラスだったチームも勢いに乗っていった。
若手とベテランが噛み合い、奇跡のような逆転劇を何度も演じる。
そして九月、ついにペナントレースを制覇した。マウンドに駆け寄り、監督を胴上げする。
その輪の中心に、天翔はいた。クライマックスシリーズも、その勢いのままに勝ち抜いた。
そして、日本シリーズ。運命のいたずらか、相手は天翔を放出した古巣、千葉ローテマリンズだった。
終章:酔いしれた日々を超えて
日本シリーズの天翔は、まさに神がかっていた。
古巣相手に、打って、打って、打ちまくった。
かつて自分にヤジを飛ばしたマリンズファンが、今は静まり返って天翔の打席を見つめている。
それは、最高の快感だった。
チームは4連勝で、あっさりと日本一の座に駆け上がった。歓喜に沸くグラウンド。
だが、天翔はビールかけには参加しなかった。一度目はペナント優勝の時。
そして、二度目はこの日本一の時。ロッカールームで、一人静かに帰り支度をしていた。
MVPの受賞インタビューも、どこか夢見心地だった。
そこへ、祝勝会に向かうはずの監督が、ふらりとやってきた。
「天翔、祝杯を上げよう!」
監督は、そう言って水のペットボトルを差し出した。天翔は苦笑いを浮かべる。
「いや、酒飲めないんで、パスします」
その答えを待っていたかのように、監督はニヤリと笑った。
「馬鹿野郎。今回の祝勝会に酒はない。全員、お前にならってオレンジジュースで乾杯だ」
「え……?」
「MVPのお前がいない祝勝会なんて、ノンアルコールビールみたいなもんだろ? 味気なくて仕方ねえ」
監督はそう言うと、天翔の肩を力強く叩いた。
「いいか、天翔。今年のベビースターズはな、みんな、お前に酔っていたんだ。
お前のその執念に、ひたむきなプレーに、俺も、選手も、ファンも、みんな酔いしれていたんだよ」
監督の目が、少し潤んでいるように見えた。
「今晩も、そしてこれからもだ。もっともっと、俺たちを熱く酔わせてくれ。頼むぞ、天翔」
込み上げてくる熱いものを、天翔は必死でこらえた。
酒に酔いしれ、全てを失いかけた日々。だが、今は違う。
グラウンドに響き渡るファンの大歓声。仲間たちの笑顔。監督の言葉。
それが、何よりも身体に染み渡る、最高の祝杯だった。
天翔は、監督に力強く頷き返すと、仲間たちが待つ祝勝会場へと、足を踏み出した。
酔いしれた日々を超えて 風馬 @pervect0731
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