いちょうの葉が萌える頃

小抜一恩

 お久しぶりです。何度も胸中で練習していたその言葉すら、上手く発せられなかった。簡単な言葉も飲み込んでしまうくらい、数ヶ月振りに会う彼女は、艶やかさを増していた。彼女に恋人がいると知ってから初めて会うせいか、僕はいつも以上に落ち着きを失っていた。大きな丸い目を三日月のように細めて、彼女はにっこりと微笑んだ。ゆらり揺れる金のピアスも、細い肩を包むふんわりとした白いセーターも、やわらかげな腰をきゅっと包んだ黒いスカートの広がった裾も、似たようなものを身につけた人が大勢往来する駅の雑踏の中で、なぜか一際輝いていた。

「ごめんなさい。待ちました?」彼女が先に口を開いた。見た目よりも少し掠れた、しかしそれでもなお透明感のある声。

「いえ、そんなことは……。」

「思っていたより試験が長引いてしまって。」そう言いながら伏し目がちになると、まつ毛の長さが際立つことに気づかされる。

「どうでした? うまくいきましたか?」

「そうだと良いんですけど、ねえ。」歌うように節をつけて言う様がまた可愛らしい。「そんなことより、今日はどこに行きますか?」ぱっと目をあげた彼女と、目が合う。咄嗟に声が出ない。「わたし、上野は久々だからあんまりよく分からなくって。お任せしても良いですか?」

「それは、もちろん。」

そうして、二人で歩き始める。

 彼女と一緒にいると、不思議とくるくる話題が変わっていくのが面白い。いつも別れた後には何を話していたのか覚えていないのに、楽しかったという確実な手触りだけは記憶の中に残っているのだった。

「今日はよく晴れて嬉しいですね、上野のいちょうが綺麗に映える。」

「そうですねえ……キャンパスのぎんなんはどうでした?」

くつくつと彼女が笑う。

「それはもう酷い有様。今日も潰れたのを避けて歩くのが大変でした。」

「それはどうもご愁傷様です。僕はなかなかキャンパスに行く機会がないから、あんまり実感を伴わないのだけど、やっぱり大変なのでしょうねえ。」なんとも張り合いのない返ししかできないのがもどかしい。学部選びを間違えたかもしれない、と思うほどである。もっと出席が厳しいところに進学しておくべきだったろうか。

 などと話しているうちに、目当てのレストランに辿り着く。平日とはいえ、有閑マダムたちで賑わっているが、意外とすぐに席に通してもらえた。それは良いのだが、改めて彼女と対面すると、目のやりどころにも困るし、またもや待ち合わせ時のような緊張に襲われてしまう。ぽつりぽつりと他愛のない話をしていたが、ついつい、気になっていたことが頭を擡げる。少食な彼女のオムライスも空になる頃、とうとう僕は、切り出してしまう。

「そういえば、今はお付き合いされている方がいるんでしたっけ。」

「実は、そうなんです。」スプーンを置くその右手の薬指に、金色がきらりと光る。

「どんな方なのか、伺っても良いですか?」

「同じ大学の人です。」にこやかに、晴れやかに言う。続けて「とは言っても降年して休学しているんですけどね。」そして愛おしげな笑いを漏らす。「背が高い、大きい人です。それなのに甘えたがりで。ちょうど大型犬のような雰囲気なの。」

ああ。なぜ切り出してしまったのだろう。してもしきれぬ後悔で内心は荒れに荒れながら、それでもなお嬉しそうな彼女に、同調するような相槌を打ってしまう。

「それは良いなあ。いつ頃からお付き合いされてるんですか?」

「今年の春先からなんです。前の年度の終わりくらいに出会ったの。ほとんど初対面で交際を始めて……」

「というと、僕らが一緒に東京タワーに登ったときには、もう?」

幸福そうなその微笑みに、つい要らぬことを口走ってしまう。まるで自分の方が先に貴方のことを知っていたのだと、好きだったのにと、詰ってしまうかのように。実際、詰ってしまいたかったのだ。理性でどうにか抑えて、それでもなお、迸った一言だった。

「ええ。」なんでもなさそうな、先ほどと何ら変わりない、笑顔。

 怒りとも嫉妬ともつかぬ気持ちは、しゅるしゅると萎んだ。

「良いですねえ。お二人が末長くお幸せであるよう、陰ながら願っておきます。」

「ふふ、ありがとうございます。といっても、きっともう長くない関係なんですけれどね。」

「え?」

「相性は良いんですけどね。」にこやかなその瞳を一層細めて彼女は続ける。「求めている人生の形が違うから、近々どこかで限界が来るのかなって。」

あいしょう。その言葉が持ついかがわしい響き。脳がショートする。げんかい。それは、つまり。

「じゃあ、僕にもまだ、チャンスはありますかねえ。」冗談めかして言ったつもりだったが、きっとそうは聞こえなかったに違いない。誤魔化しのつもりで貼り付けた笑みが引き攣っているのには、自分でも気がついていた。

 彼女は真顔になって少し俯き、数秒か数十秒か考えてから、改めて前を向いて(つまりこちらに面と向かって)にっこりした。「今のひとと別れる頃に、また誘ってくださいな。」上目遣いに媚びるような表情が、また何とも言えず魅力的で良く似合うのだった。

 食後の珈琲は、もうすっかり冷め切っていた。



 お久しぶりです。季節外れの桜吹きの中で、霞のように微笑んだ彼女の言葉。その両の手の薬指は裸だった。僕は無我夢中で、縋り付くしかなかった。

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いちょうの葉が萌える頃 小抜一恩 @Nupyoon

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