エピローグ

エルグレン領の夜は、優しく、そしてどこまでも深い。


かつて「呪われた墓地」と呼ばれ、夜な夜な魔物の咆哮が響いていたこの場所には今、心地よい夜風の音と、ダンジョンから溢れ出す柔らかな光の粒子が舞っている。


リリア・フォン・エルグレンは、領主館の最上階にあるテラスで、一人静かに月を眺めていた。手元には、隣国の王から贈られた最高級の果実酒。その甘酸っぱい香りが、鼻先をかすめる。


「……終わったのね、リリア。すべてが」


背後から、実体化したダンジョンコア――淡く光る少女の幻影を纏った「コアさん」が声をかけた。


「ええ。終わりました。そして、始まったんです」


リリアは振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。その表情は、かつての凍りついたような無表情とは異なり、内側から溢れ出す自信と充足感に満ちている。


1. 敗北者の残響

「ねえ、リリア。あの二人のこと、本当は許しているの?」


コアさんが指差した先。月の光に照らされたダンジョンの広場では、深夜だというのに、必死に雑草を抜いている二人の影があった。アルベルトとセシリアだ。


「許す、ですか? そんな贅沢な感情、彼らにはもったいないですよ」


リリアは冷めた紅茶を一口啜り、その温もりが喉を下りる感覚を味わった。


「彼らには今、『自分の価値を自分で作り出さなければ生きていけない』という、私が追放された時と同じルールの中にいてもらっているだけです。……もっとも、彼らには私の『状態異常』を管理する才能はありませんから、泥にまみれて働き続けるのが、今の彼らにとっての最適解(・・・・)なんです」


「……相変わらず、冷酷で完璧な計算ね。でも、あのお坊ちゃん、さっきスライムに顔を舐められて泣いていたわよ?」


「それは、スライムの粘液に含まれる『微弱な多幸感』のせいです。悲しいのに笑ってしまう……。彼がかつて私に強いた『感情の抑制』を、物理的に体験してもらっているんですよ」


リリアの声には、復讐心を超えた、ある種の「観察者」としての冷静さが宿っていた。


2. 誰も殺さない世界

「リリア様! お休み中、失礼いたします!」


テラスの扉を叩き、息を切らして現れたのはハインリヒだった。彼は今や、王都の監査官という肩書きを捨て、リリアの「右腕」としての人生を謳歌している。


「どうしました? ハインリヒ様。こんな時間に」


「先ほど、隣国のヴォルグ王より親書が届きました! 我が領が開発した『幻覚魔法による外科麻酔技術』を、正式に国家プロジェクトとして採用したいと。……それから、同封されていた金貨の目録ですが、予定の倍額です!」


ハインリヒの声が、興奮で上ずっている。


「……倍、ですか。ふふ、あの王様も意外と商売人ですね。恩を売っておけば、私のダンジョンを攻撃されないと踏んだのでしょう」


リリアは受け取った親書に指を触れた。上質な紙の質感と、香水の残り香。 かつて彼女の魔法は「戦えない魔法」だった。だが今、その魔法は「戦争を回避するための通貨」へと昇華している。


「ハインリヒ様、その予算の半分は、領内の孤児院と学校へ。そして残りの半分は……コアさん、第5層の『リラクゼーション・スパ』の拡張に使いましょう。最近、冒険者の皆さんが、睡眠魔法の質にこだわり始めているそうですから」


「承知いたしました! ――ああ、リリア様。貴女は本当に、世界を『仕組み』で救ってしまわれるのですね」


ハインリヒは深く頭を下げ、足早に去っていった。その背中を見送りながら、リリアはふっと息を吐く。


3. 未来を綴る羽ペン

リリアはデスクに向かい、一冊の手帳を開いた。 それは、彼女が「無能」と呼ばれた日から書き続けている管理日誌だ。


『攻撃魔法を使える者は、敵を殺し、土地を焼く。 けれど、状態異常を操る者は、敵を眠らせ、その土地ごと活かすことができる。』


彼女は羽ペンを走らせる。カリカリという音が、静かな夜に心地よく響く。


「……ねえ、リリア。一つだけ聞いてもいい?」 コアさんが、リリアの肩越しに覗き込んだ。 「貴女、もしあの日、アルベルトが婚約破棄をしないで、貴女を愛していたら……今頃どうなっていたと思う?」


リリアの手が、一瞬だけ止まった。 彼女は夜空に浮かぶ銀色の月を見上げ、ゆっくりと首を振った。


「わかりません。でも、もしそうなっていたら……私は自分の価値に気づかず、誰かに守られるだけの、影のような存在で終わっていたでしょう。……だから、彼には感謝しているんです。私に『自分の手で世界を管理する』きっかけをくれたんですから」


リリアは立ち上がり、バルコニーの淵に手をかけた。 眼下に広がる領地の灯火。それは、彼女の知性と、執念と、そして「誰も殺したくない」という切なる願いが作り上げた、宝石のような光の海だ。


「……リリア、もう寝る時間よ。明日は王都から、新しい魔導師たちの研修グループが来るわ」


「ええ、わかっています。彼らには、たっぷりと『混乱』と『睡眠』の洗礼を受けてもらいましょう。……もちろん、研修費はたっぷり頂きますけど」


リリアは、最後に一度だけ、自分がかつて捨てられた王都の方向を見据えた。 そこにはもう、彼女を縛るものは何一つない。


彼女は、自分を「無能」と呼んだ世界を、たった一人の少女として、たった一つの、誰も顧みなかった魔法で、完全に支配し、そして救ってみせたのだ。


「……おやすみなさい、コアさん。明日は今日よりも、もっと『うはうは』な一日にしましょう」


リリアは優雅にカーテンを閉めた。 その指先からは、薄紫色の、幸福を呼ぶ魔法の粉がさらさらと溢れ出し、夜の闇に消えていった。


(完)


【全編を通してのあとがき】 「役立たず」とされた能力が、見方と環境を変えることで「最強の資源」へと変わる。リリアの物語は、単なる復讐劇ではなく、数字と論理、そして少しの皮肉を交えた「新時代の建国譚」でした。


彼女の支配するダンジョンは、これからも誰一人殺さず、ただ平和に、そして着実に利益を上げ続けていくことでしょう。


ここまでのお付き合い、誠にありがとうございました!


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『役立たずと婚約破棄された男爵令嬢、状態異常てんこ盛りダンジョン経営でうはうはです♡』 @mai5000jp

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