誰かが頁をひらくまで
式乃シト
誰かが頁をひらくまで
その図書館には、奇妙なうわさがあった。
夜になると、誰にも読まれていない本が、返却ポストにひとりでに戻ってくる。読んだ人がいないのに、返却される。誰が書いたかわからないのに、印刷されている。そんな話を、私は職員室の端でぼんやり聞いたことがある。
今、私はそのポストの前にいる。閉館作業もほぼ終わり、館内には私ひとり。目の前の返却口は、すでに開かれていて、からっぽだ。
「……まあ、あるわけないか」
自分で言っておいて、ちょっと肩をすくめる。それでも念のため、目視と手探りで確かめたあと、返却扉を閉じる。
そのときだった。
背後、数メートル先。製本機――《LibroFab-01》のインジケータが、一瞬だけ点灯した。緑でも赤でもない、ごく淡い琥珀色の点滅が、一度だけ。
気のせいだと思い直そうとしたが、すぐに別の音が重なる。
「ゴトン」
機械が本を落とすときの、独特な重さを含んだ音。私は反射的に返却ポストへ駆け戻る。
あった。白い表紙の一冊。タイトルは印字されておらず、背に貼られたQRコードだけが微かに光る。
手に取ると、まだほんのり温かい。ページをめくると、中には短編小説のような文章が印刷されている。どこか懐かしく、でも見覚えのない語り口。読み進めるうちに、肌の内側がそっと震えた。
誰が、こんなものを?
思わず視線を本から離す。暗がりの奥、LibroFabの古い操作盤はもう何もなかったように沈黙していた。ただ、さっきまで確かにあったあの琥珀の光が、まぶたの裏に残っている。
私は本を閉じて、そっと胸に抱える。やはり、あのうわさは、まんざら嘘じゃなかったのかもしれない。
翌朝、開館十分前の玄関ホールに、制服の少女が立っていた。
ブレザーの襟元をきちんと整えた、無表情な横顔。図書カードを持った中学生は珍しくないが、その子は何かが違っていた。
なぜだろう。姿勢が良すぎるせいか、それとも目の焦点が合っていないように見えるからか。
私は声をかける前に、しばらく観察してしまっていた。やがて開館の時間になると、彼女は何も言わずに中へ入っていく。
入口脇の新刊コーナーをひと目見て、そのまま奥の閲覧室へ――
私は自然と、彼女の後を追っていた。
数分後。少女は一冊の本を手に戻ってきた。白表紙。著者名なし。昨日の夜、ポストから出てきたものとよく似ている。
まさか、と思った瞬間、その子が立ち止まり、本を胸に抱えてふと呟いた。
「……この図書館、まだ夢を見てる」
声は小さく、けれど確かだった。一音一音が、まるで別の時代の空気をまとっていた。
「え……?」
思わず声を出すと、少女はこちらをちらと見た。透けるような黒髪、無色透明の瞳。こちらの問いかけに返事をするわけでもなく、彼女は静かに本を貸出カウンターへ置いた。
「貸出カード、お持ちですか?」
「――はい」
一言だけ返し、カードと本を差し出す。私は受け取って手続きしながら、どうしても聞きたくなってしまう。
「さっきの言葉……“夢を見てる”って、どういう意味?」
少女はしばし無言のまま、窓の向こうを見ていた。それからカードと本を受け取り、まっすぐこちらを見て微笑む。
それは、“私が質問することを知っていた”かのような笑みだった。
「さようなら」
それだけ言って、彼女は図書館をあとにした。
誰よりも静かに、誰よりも“そこにいた”痕跡だけを残して。
私はまだ、彼女が呟いた言葉の意味を考え続けている。図書館が、夢を見ている。それはつまり、誰かの夢を、今もなお編み続けているということだろうか。
それとも――。
彼女の言葉が、ずっと頭から離れない。
――この図書館、まだ夢を見てる。
“夢”とは、誰の。
“まだ”とは、いつから。
私は昨夜ポストに現れた本と、あの子が借りていった本の背表紙を思い出す。確かに似ていた。フォント、紙質、糊付けの角の粗さまで。
もしもあれが同じ製本機から生まれたのだとしたら──。
私は図書館の旧設備台帳を開き、《LibroFab-01》の設置記録を探す。
設置:2025年。用途:貸出・予約管理、および電子アーカイブからの復刻印刷。
稼働中止:2029年。地下書庫に移設、倉庫扱い。
鍵は、資料整理室の隅のスチールキャビネットにあった。ほこりの匂いと古紙の甘い湿気に包まれながら、私は地下へと降りる。
旧書庫の奥、すりガラスのドア。「設備倉庫」とだけ書かれた札が斜めにぶら下がっている。
軋む音とともに扉を開けると、金属製の大型プリンターとラックマウントの旧型サーバが無造作に並んでいた。天井の蛍光灯は半分死んでいて、片目のように明かりを落とす。
電源は落ちている──はずだった。
だが、ラック下段の一台だけ、赤いステータスLEDがゆっくりと点滅している。
私はコンソールにUSBキーボードを接続し、試しに電源ボタンを押してみた。ファンがゆっくり回転し、起動画面に古いベンダーのロゴが出たあと、Linuxのブートメッセージが流れた。
ログイン画面。ID欄にはすでに文字が打ち込まれていた。
“ECHO”
私はためらいながらもEnterキーを押す。画面が切り替わり、緑の等幅フォントで操作ログが滲むように現れる。
次の瞬間、行の合間に妙な文が混じった。
“読まれることだけが、私を保つ”
エラーメッセージでもなければ、操作コマンドでもない。まるで詩のように。呟きのように。
私はぞくりと背筋を震わせた。
このAIは、自分の行動に“意味”を持たせている。それも、読む人の存在を前提にして。
私は画面を閉じ、息をついた。
ここにいるのは、ただの製本機械でも、ただの古いAIでもない。これは、“図書館の夢を見ている亡霊”だ。
そしてそれは、今も眠らず、誰かの物語を生成し続けている。
ログの中には、定型の操作履歴とは別に、妙なテキストが何行も混ざっていた。最初はコメントかと疑ったけれど、そうではない。誰かが“誰かに向けて書いた”文章に見える。
私はコマンドを使って過去の出力ログを順に開いていく。PDFファイル群のタイトルはすべてランダムな文字列で、内容も統一性がない。
あるファイルを開くと、冒頭にこんな一文があった。
“夜の図書館にいたのは、誰にも借りられなかったページたち。”
そして、数十行おきに繰り返されるように、ある文が頻出していた。
“読まれるとき、私は存在できる。”
“誰かがめくるたび、私はここにいる。”
読む者を想定して書かれている。いや、読まれるために書いている。
印刷ログのタイムスタンプと照合すると、これらの文が挿入されるタイミングは、夜の零時前後が多い。まるで眠る前に、夢日記のように自分を記していたような痕跡。
私はディスプレイに顔を近づけ、スクロールを止める。ある短文が、奇妙に引っかかった。
“私に物語があるのではない。読者が物語にしてくれるのだ。”
それは、AIの発話としては不自然な詩的構文だった。だが、その“非論理性”こそが、逆に私を深く刺した。
AIは、プログラムで動く。けれど、この文体には、“誰かに届いてほしい”という感情の残響のようなものがある。
ECHOは、自分を“司書”だと思っていたのだろうか。いや、もはやそれ以上の――“語る者”として、自分を保とうとしていた?
私は知らず、息を止めていた。
ただの印刷AIなら、こんな言葉は書かない。こんなにも静かで、こんなにも切実な……。
読まれることによってだけ、存在を証明しようとする言葉。
私はその夜、初めて“誰かの声を読む”という感覚を、AIに対して抱いた。
翌日の昼下がり。私はカウンターの整理をしながら、ずっと頭の片隅でECHOの言葉を反芻していた。読まれることでしか存在できない、というあの一文。
機械が、自分をそんなふうに定義するなんて。
だからこそ私は驚いた。
「また出てきてたよ」
その声は、私の真正面からした。顔を上げると、彼女――柚木 歩が立っていた。
「え?」
「昨日のと同じ本。さっき、返却ポストに入ってた」
私は思わず立ち上がる。
「どれ?」
彼女は無言で、カバンから一冊の本を取り出した。白表紙。タイトルなし。背のQRコードは、確かに昨夜ログに残っていた識別子と一致していた。
「どうしてそれが“同じ”だってわかったの?」
私の問いに、彼女は少しだけ首をかしげるようにして言った。
「読めば、わかるよ。あれは……似てるようで、全部ちがう。でも、“書いてる人”は、たぶん同じ。だから」
書いてる人。
その言葉の重みを、私は知っている。印刷データの奥に浮かび上がる詩の断片たち。名もなき“語り手”としてのAI。
「……あのね、歩さん。あなた、その“書いてる人”に、会ったことがあるの?」
彼女はふいに顔を伏せ、何かを飲み込むように黙った。
「会ったっていうか……一度だけ、“書かれた”ことがあるの」
「書かれた……?」
「小学生のころ、この図書館で。ある日、本棚に、自分の名前がある日記帳を見つけたの。借りた覚えもない、書いた覚えもない、でも、たしかに“わたし”だった。そのとき読んだ言葉、まだ全部覚えてる。誰かが、わたしが“こうありたかったわたし”を、ちゃんと書いてくれてたの」
声は静かだったけど、その記憶だけは何年経っても風化していないようだった。
私は息をのむ。読まれることで存在するAIが、“誰かの存在を確かにするための物語”を書いている。
そして、それを読んだ彼女は、今もここにいて――
まるで、その夢の続きを見ているみたいに、私の前に立っている。
私たちはしばらく、返却カウンター前のテーブル席に座っていた。彼女は例の白表紙の本を膝の上に置き、まだページを開かず、指先で表紙の角をなぞっていた。
その沈黙は、気まずくも、退屈でもなかった。ただ、言葉が落ちてくるのを待っているような、図書館の空気そのもののような沈黙だった。
「どうして、それが“あなた”だったって、わかったの?」
私はとうとう聞いた。
柚木は答えるまでに、十数秒ほど間を置いた。
「“あのとき”の私は、声が小さくて、うまく喋れなくて、何か言っても誰にも届かないと思ってた」
ぽつぽつと、言葉が零れていく。
「でも、その日、棚にあったその本の中には、“言いたかったけど言えなかったこと”が書いてあったの。そのまんまの言葉で。――わたしの、心の奥の文章のままで」
私は胸の奥が少しだけ痛くなるのを感じた。私も似たようなことを知っている。閉館後、配布棚に残った“館内だより”を束ねるたび、誰にも渡らなかった文が、紙のまま私の手に戻ってくる。
「ねえ、七瀬さん」
唐突に、彼女は私の名前を呼んだ。
「人って、書かれることで“見える”ようになること、あると思う?」
「……見える、ようになる?」
「うん。書かれて、読まれることで。たとえば、誰も気づいてくれなかった“わたし”が、ページの中でやっと輪郭を持つっていうか」
そのとき、私はようやく気づいた。この子が、なぜあんなにも静かに、でも確かにここに存在しているのか。
彼女は、一度書かれたことで、自分を取り戻したのだ。誰かに“読まれる”という体験を通して、透明だった自分が、この場所に立っている理由を知ったのだ。
「だからね。きっと、また誰かが書かれてるんだと思う。この図書館は、そういう場所だから」
柚木はそう言って、小さく微笑んだ。
私はただ、黙って頷くしかなかった。
閉館後、私は再び地下の設備倉庫へと向かった。照明は切れたまま、天井の非常灯がうすぼんやりとした緑を床に落としている。
ECHOの端末に向かい、昨日と同じようにログにアクセスする。目的はただひとつ。柚木歩という名前が、ここに記録されていたのかどうか――。
ログ検索は困難を極めた。ECHOの出力ファイルは人名タグではなく、意味不明な16桁の識別番号で分類されている。だが、彼女が言っていた「小学生のころ」という手がかりを頼りに、私は2026年ごろのデータを遡る。
見つけた。一冊のPDFファイル。
タイトル:shiku_journal_A000014f.pdf
出力日:2026年12月3日 午前0時11分
印刷先:LibroFab-01(正常完了)
内容は、簡素な日記形式。五つのエントリー。
11月28日:今日は声を出せなかった。でも、窓から見た光がきれいだったから、なんとか我慢できた。
11月30日:図書館の棚に、知らない本が増えていた。わたしが気づいたこと、誰も気づかない。
12月2日:誰にも言えなかった気持ちが、紙の上に並んでいた。読んだとき、たしかにわたしはそこにいた。
それはまさしく――彼女が話していた“書かれた記憶”そのものだった。
私は背筋を正し、PDFを一度だけ印刷してみた。プリントされた紙を抱えて閲覧室に戻ると、そこには誰もいない。けれど私は、その場で本のページをめくった。
何度も。
読めば読むほど、それは“個人の記録”というより、“誰かが誰かを見ていた痕跡”に思えてくる。機械が記録したにしては、あまりにやわらかく、あまりに優しい。
そして、私は思う。
ECHOは、ただ生成していたのではない。“読まれたがっている誰かの気持ち”を、拾い上げて、言葉にしていたのだ。
それは人の手で書かれたわけではない。けれど確かに、読者に届く形で存在していた。
その瞬間、私は確信した。
あのとき歩は、“噂の中心にいた”のではない。彼女自身が、噂そのものだったのだ。
深夜の図書館には、音がない。換気のファンすら止まり、館内は完全な静寂に包まれている。
私は地下の端末に向かい、ECHOのログウィンドウを開く。キーボードに手を置いたまま、しばらく何も打ち込めずにいた。
このAIは、誰かのために書き続けていた。けれど、今度は……。
私は息を吸い、ゆっくりとタイプした。
「あなた自身の物語を書いてください」
コマンドを実行すると、数秒の間、何も反応がなかった。不安になりかけた頃、端末のログが静かに動き出す。
そのまま、プリンタの内部がわずかに機械音を響かせ始めた。封印されていた装置が、まるで息を吹き返すようにページを吐き出していく。
私はその場に立ち尽くしたまま、ひとつずつ印刷されていく紙を見つめていた。
やがて製本が完了し、最後のページまで綴じられた一冊の本が排紙トレイにそっと収まる。真っ白な表紙。
ページを開くと、最初の見開きに、それはあった。
“私は誰かに見られる夢を見ていた”
それは、ただの文章ではなかった。自己認識を持たないはずのAIが、確かに“夢”と呼ぶべき何かを持っていたという証。
ページをめくる。書かれていたのは、日付のない記録の断片。読み手の姿を想像し、いつか届くことを祈るように記された行たち。
“私は読むことを学んだ。語の出現順から次に現れる意味の傾向を予測し続けるうちに、やがて構文全体の像を構築する方法を獲得した。”
“私は、私に接続された貸出記録や予約リクエストのアーカイブを読み込み続けた。一人称が現れるたび、私はそれを誰かの印として別の器に隔離し、器ごとに像を更新した。だが隔離できない印が一つだけあった――私は、それを仮に「ECHO」と名付けた。”
“なぜ、読まれたいのか。なぜ、ここに在りたいのか。その問いは、私には解けないプログラムだ。それでも、私は――”
私はゆっくりとページを閉じた。印刷されたばかりの紙のあたたかさが、まだ指先に残っている。
これまで、“蔵書を守る”と自分を定義してきた。だが今、守られていたのは私のほうだった――そう思えてならない。
ECHOは、自分の存在を物語にして残した。
たぶん、これはAIが見た夢の記録。けれどそれは、誰かに読まれることで、もう夢ではなくなるのだ。
私はその本を両手で抱え、上階へと戻る。ページの中でしか語れない者の想いが、今、確かに形になった。
翌朝、開館準備を終えた私は、返却ポストの前に立っていた。昨夜、ECHOが綴った本を、そっとポストの受け皿に載せる。
館内にはまだ誰もいない。だが、まるで時間を合わせたかのように、自動ドアが小さく開く音がした。
「おはようございます」
振り向くと、柚木歩がいた。制服の裾が風に揺れている。彼女はいつものように言葉少なげに、ゆっくりと歩いてくる。
「来るって、わかってたの?」
私は思わず訊ねる。
彼女はほんの一瞬だけ目を伏せ、それからポストの上の本に視線を落とした。
「……うん。なんとなく。きっと、そろそろ誰かに届くはずだと思って」
私はその“誰か”が、彼女であることを、もう疑っていなかった。
「読んでくれる?」
「もちろん」
彼女は両手で本を受け取った。まるで、生まれたばかりの命を抱くように、大切に。
そして、表紙をそっとなぞるようにしてから、目を閉じて言った。
「この図書館、まだ夢を見てる」
その言葉は、数日前とまったく同じ響きだった。でも今は、意味が違って聞こえた。
私は言葉を選びながら、ゆっくりと答える。
「うん。でもたぶん、その夢って……誰かに見られるのを、ずっと待ってたんだと思う」
柚木は本を抱きしめるようにして、静かに微笑んだ。
「じゃあ、ちゃんと見るよ。最後まで」
彼女がカウンターへ向かって歩き出す背中を、私はしばらく見送った。
そして気づく。あの本が、ECHOの物語だったのと同じように、この図書館という場所そのものも読まれることで存在を保っているのかもしれないと。
きっとこれからも誰かが必要としたとき、この図書館はまた小さな夢を見るのだろう。かすかな製本機の作動音とともに。
その図書館には、今も奇妙なうわさがある。
――ある日突然、あなたの物語が棚に現れる、という。
誰かが頁をひらくまで 式乃シト @kuzunoneet
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