第3話 串焼き店主は手練れ
裏路地の湿った石畳に、俺は背中を預けて荒い息を吐いていた。
頭上には、建物の隙間から切り取られた細い月。
王都の喧騒は遠く、ここには腐敗した生ゴミの臭いと、野良猫の気配しかない。
「……静かだな」
俺は呟いた。追手のことではない。俺の頭の中のことだ。
ザイードの話では、王族の魔力を取り込めば、数千の英霊たちの声で発狂するはずだった。だが、今の俺の中にあるのは、たった一人の暢気な王子の声だけだ。
『静かなのが不満かい? もしご希望なら、歴代王の小言でも再現してあげるけど』
「お断りだ。……他の奴らはどうした」
『置いてきたよ。部屋の姿見の中にね』
ソルガは事もなげに言った。
『僕が死ぬ瞬間、魂のリンクを切り離して鏡に封印したんだ。小言の多い守護騎士も、説教好きな賢者も、みんなあの中に置いてけぼりさ。』
「…お前、今までそんな地獄を頭に飼ってたのか?」
俺は呆れを通り越して、純粋な疑問を口にした。
「数百人の小言が二十四時間って、よく発狂しなかったな」
『あぁ、地獄だったよ 。……まあ、生まれてからそれが当たり前のことだったけどね』
ソルガの声に、ふと自嘲の色が混じる。
『だから、今は最高の気分だよ。僕の頭の中にいるのが、君一人だけなんて。こんな静寂は初めてだ』
俺は身体を起こし、城の方角を見た。
本来なら、王子の死によって大騒ぎになり、国軍が総動員されていてもおかしくない時間だ。だが、街は余韻を残したまま、平穏に眠っている。
『軍は動かないよ。少なくとも、明日の朝までは』
「なぜ言い切れる」
『予知していたからね。君が今夜、僕を殺しに来ることを』
ソルガの声には、奇妙なほど動揺がなかった。
『だから仕込んでおいたんだ。僕が死んだ後も、半日は王子はベッドで安らかに眠っていると思わせる幻影魔法を。……つまり、今僕らを追っているのは、事情を知る暗殺組織の連中だけだ』
俺は舌打ちした。
全部、この王子の掌の上だったというわけか。
だが、そのおかげで首の皮一枚繋がっているのも事実だ。国と組織、両方から追われれば確実に詰んでいた。
「……まずは格好を変える」
『おや、そのボロボロの黒装束、気に入ってたんじゃないのかい?』
「目立ちすぎて動きにくいだけだ」
俺たちは路地裏の民家の軒先に干してあった洗濯物を拝借した。
サイズの合いそうな平民のシャツと、少し厚手のズボン。ついでにフード付きの外套。
「悪いが、貰っていくぞ」
俺は躊躇なく服を剥ぎ取り、懐に仕舞う。罪悪感など欠片もない。生き残るために必要な物資を現地調達する、ただそれだけのことだ。
『王族である僕が泥棒の片棒を担ぐとは……』
「黙れ」
『……まあ、これも視察の一環と考えよう。民はこういう服を着ているのか。素材は粗悪だが、動きやすいね』
着替えた俺は、ガラス窓に映る自分を見た。
どこにでもいる街の青年の姿がそこにはあった。
腹が鳴った。
『……お腹、空いたね』
「ああ。栄養を体に入れい。……それに、路銀も稼ぎたい」
俺たちは人目を避け、貧困街の澱んだ空気が漂う区画へと向かった。
この辺りは治安が最悪だ。だが、今の俺たちにはそれが好都合だった。
「親父、串焼きを二本。一番安いやつだ」
「あいよ」
寂れた屋台の無愛想な店主から受け取った串焼きは、何肉かも分からない脂ぎった代物だった。
俺はそれをひと思いに齧る。
『まずッ!? 』
「……うるせえな。」
『ふぅ、驚いた。火から下ろした直後の肉塊を齧るなんて、なんと野蛮な……』
ソルガの感想が、感覚共有を通じて流れ込んでくる。
マナーもへったくれもない手づかみの食事に戸惑っているようだ。
『……うわぁ、なんだこの味。脂が酸化してギトギトだし、肉も筋張っててゴムみたいだ。スパイスの配合も雑すぎる』
ソルガは心底不味そうに呻いた。
俺にとってはいつもの味だが、最高級の食材しか口にしてこなかった王子の舌には、庶民の餌など耐え難いらしい。
『よくこんなものを平気で食べられるね』
「栄養になれば何でもいいんだよ」
俺は文句を垂れる王子を無視して、黙々と肉を胃に流し込む。
味などどうでもいい。今はカロリーが必要だ。
「おい、ガキ」
不意に、背後から下卑た声がかかった。
俺は串焼きを飲み込み、内心で舌なめずりをする。
振り返ると、薄汚い革鎧を着たチンピラが二人、ニヤニヤしながら立っている。
この界隈じゃよくある光景だ。弱そうな子供を見つけては、路地裏に引きずり込んで身ぐるみ剥ぐハイエナ共。
「ツケが溜まってんだよ。金持ってんだろ? よこせよ」
「……失せろ。今、機嫌が悪い」
挑発に乗ったチンピラが、顔を真っ赤にして踏み込んできた。
「あぁ? 生意気な口を……ッ!」
男が手を伸ばしてきた瞬間、その手首を掴んで捻り上げた。
「ギャッ!?」
悲鳴を上げる間もなく、もう一人の膝を蹴り砕き、顔面に肘を入れる。
魔法など使うまでもない。二人が泥水に沈むのに、十秒もかからなかった。
「……勘定だ」
俺は気絶したチンピラの懐から財布を抜き取り、中身を確認する。銀貨が数枚。シケているが、当面の食い扶持にはなる。
そこから銀貨を一枚、店主のカウンターに弾いた。
残りは自分のポケットに入れる。
『盗むのか?』
「迷惑料だ。それに、最初からこれが目的でここに来た」
『……なるほど。食事ついでに、治安の悪いこの辺りでカモを探したわけか』
「向こうから来てくれて手間が省けたよ」
俺は平然と言い放つ。
悪党から奪うことに痛みなど感じない。彼らは俺の路銀になるためにここへ来た、便利なリソースでしかない。
俺はフードを被り直し、その場を立ち去ろうとした。
――パチ、パチ、パチ。
乾いた拍手の音が、路地裏に響いた。
「見事な手際だ。少しはマシになったじゃないか、レン」
空気が凍りついた。
屋台の明かりが届かない闇の奥から、一人の男が姿を現す。
黒いロングコートに、目深に被った帽子。その隙間から覗くのは、獲物をいたぶるのが趣味の爬虫類のような目。
「……ガリウス」
俺は呻くようにその名を呼んだ。
組織の幹部。処刑人の異名を持つ、ザイードの側近の一人だ。
「おやおや、呼び捨てかい? 可愛い後輩を教育してやったのに」
ガリウスは足元に転がるチンピラをゴミのように蹴り飛ばした。
「こいつらはただの餌だ。お前のようなネズミは、こういう小汚い場所に集まる習性があるからな」
「……俺を探してたのか」
「ああ、ボスからの指令だ」
ガリウスが懐から一枚の羊皮紙を取り出し、ヒラヒラと見せびらかす。
「決して殺すな。五体満足で捕獲せよ。懸賞金―金貨五千枚。……まったく、お前ごときに五千枚とはな。俺のプライドが傷つくぜ」
殺すなか。
俺は身構える。
ザイードの狙いは明らかだ。俺の命なんてどうでもいい。ただ、俺の中にある「王子の力」を無傷で回収したいだけだ。
「……捕獲、ね。俺を生かしておきたいなら、手荒な真似はできないんじゃないか?」
「勘違いするなよ」
ガリウスの姿がブレた。
次の瞬間、強烈な殺気が喉元に迫る。
「ッ!?」
『右だ!』
ソルガの警告と同時に、俺は反射的に上体を逸らした。
鼻先を、鋭利なワイヤーが切り裂く。頬に熱い痛みが走る。
「五体満足ってのはな、四肢をもぎ取って胴体だけにして運んでも、魔法でくっつくならセーフって意味だ!」
ガリウスの指先から繰り出される無数のワイヤーが、生き物のように俺を包囲する。速い。以前の俺なら反応すらできずにバラバラにされていただろう。
「くッ……!」
「おらおら、空間跳躍はどうした!?」
下手にワープし奴の懐に飛び込めば身体にまとっているワイヤーに反応すらできず切り刻まれるだろう。かと言って俺のワープの癖を知り尽くしているガリウスから逃げられるかというと、ついさっきのワープの連続行使により動くのもやっとの体では逃げられないだろう。
俺は懐の『魔力無効化』のナイフを抜き放ち、迫りくるワイヤーを切り払おうとした。これさえあれば、魔法で強化された鋼線も断ち切れる。
「――おっと、それは組織(ウチ)からの支給品だろ? 返してもらうぜ」
ガリウスの指先が、ピアニストのようにしなやかに動く。
次の瞬間、生き物のように蠢いた一本のワイヤーが、俺の手首に巻き付き、万力のような力で締め上げた。
「ガッ……!?」
「回収完了」
カラン、と乾いた音が石畳に響く。
俺の手から離れたナイフが宙を舞い、ガリウスの手元へと収まった。
「な……ッ!」
「危ナイフ。お前が持ってていいもんじゃない」
ガリウスは奪ったナイフを弄びながら、嗜虐的な笑みを浮かべる。
唯一の武器を、奪われた。
魔力が安定しない今、あのナイフなしで幹部と渡り合うのは不可能だ。
「さて、これで丸腰だ。……ダルマになってもらうぞ、レン」
ワイヤーが一斉に鎌首をもたげる。
逃げ場はない。
「ガハッ…」
不意に、胸の奥から強烈な鈍痛が突き上げた。動きが一瞬止まる。
『レン!?』
「クソ……ッ」
指先が痙攣し、視界が明滅する。
拒絶反応だ。無理やりこじ開けられた回路が悲鳴を上げている。
「お? 限界か? だらしねぇなぁ!」
ガリウスが嗜虐的な笑みを浮かべ、ワイヤーを一気に絞り上げる。
逃げ場はない。
『跳べ! 座標はどこでもいい!』
「チッ……!」
俺は視界の隅に見えたマンホールの蓋へ意識を向けた。
ガリウスのワイヤーが俺の首を刎ねる寸前――世界が反転する。
ドスンッ。
俺の身体は、汚水と汚泥にまみれた地下水道へと落下していた。
「ハァ……ハァ……ッ」
『……間一髪だったね』
頭上から、ガリウスの舌打ちが聞こえる。
だが、追っては来ない。あの潔癖な連中が、この汚い下水道に入るのを躊躇ったのだろう。
「……クソが」
俺は泥まみれになりながら立ち上がる。
幹部クラスが出てきた。それも、俺を生け捕りにするために手加減なしで。
今の身体の状態では、次は殺されるか、捕まってダルマにされるかだ。
『生きてこそだよ、相棒。君の身体が馴染むまで、時間を稼ぐんだ』
「分かってる。……だが、どこへ行く? 地上はもう網が張られているぞ」
俺は暗い水路の奥を見つめた。
ザイードの網にかからない場所。奴らが忌み嫌い、決して近づこうとしない場所。
「……心当たりがある」
『ほう?』
「貧困街の最深部。さらにその奥だ。あそこなら、組織の手も簡単には届かない」
俺は足を引きずりながら歩き出した。
ザイードの追跡を振り切り、魔力を我が物とするまでの潜伏期間。
狩られる側から狩る側へ回るための、長い逃亡劇の始まりだった。
影渡りの器 ~暗殺者、殺した最強王子を憑依させる~ 昼間野日向 @Hahinaruta
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