プロローグ2 天使病
「マリアンヌ」
コートを羽織って出かけようとしたところへ、ちょうど帰宅してきたパパが声をかけた。
「おめかししてどこに行くんだい?」
「お買いものよ。お昼の分と、お夕食の分も買わなくっちゃ」
「そうだろうと思ってね、今日はパパが食材を買ってきたんだよ。今度からお買いものはパパがしてくることにしよう」
パパは両手に抱えた紙袋をダイニングのテーブルに置いた。
「どうしてそんなことをするの? 今までどおりでいいじゃない」
「そういう訳にはいかないさ。学校の先生たちが言わなかったかい? 子供たちはしばらくのあいだ外出を控えなさいって」
わたしはわざとその話を避けていた。もし外出を禁止されてしまったら、サラのところへ行けなくなってしまうからだ。
「どこでそんな話を聞いたの?」
「聞かなくったってわかるさ。パパの病院が学校の閉鎖を決めたんだから」
ああ、神様……。マリアンヌは心の中で独りごちた。なんて皮肉な運命だろう。よりによってパパたちが外出禁止を言い出しただなんて……。
「いいかい、マリアンヌ。お前がどう思っているかはわからないけれど、天使病はお前たちにとって非常に危険な病気なんだ。聞くところによると、お前の友達もついに街を出たそうじゃないか」
わたしは心中穏やかではいられなかったが、どぎまぎを顔に出さないようになんとか平静を装った。
「サラだったかな? 緑色の瞳をした、大人しい娘だったな……」
やめてよ! わたしは危うくそう叫びそうになった。まるでサラがもう死んでしまったかのような言い方をしないでよ!
「だからマリアンヌ、これからはなるべく外に出てはならないよ。お医者さんの言うことは聞くものだ」
「ええ、わかったわ……」
わたしは大量に買い溜めされた食材を見つめながらつぶやいた。
翌日、わたしたちの街に久しぶりに雨が降った。
パパは陽が上る前に一度帰宅したようだったけれど、服を着替えてすぐにまた病院に戻って行った。わたしはパパが黙って出かけて行くのを待ってから、急いでパジャマを脱ぎ捨てて、お気に入りのワンピースに着替えた。
部屋の窓から、パパが下に待たせてあった馬車に乗りこむのを見届けると、わたしはダイニングに取って返して、テーブルの上に用意されていたサンドウィッチをバスケットに詰めこんだ。
わたしが食べるんじゃない。サラとおじ様への差し入れのつもりだった。
あの日交わした約束を果たすことができるのはわたしだけだ。ソフィーもエリザも、いつも家に誰かしら家族がいるものだから、なかなか思うように外出することができなくなっていた。
かく言うわたしでさえ、昼間から大手を振って街を出歩けるような状況ではなかった。なにしろ街全体に戒厳令が敷かれていて、裕福な家などは自分たちの子供に天使病を伝染してはならないからと言って仕事を休み、家に引きこもっているぐらいなのだ。
わたしは赤いコートを羽織ってフードを目深にかぶり、顔の下半分が隠れるように、ママの形見のストールをぐるぐると巻きつけた。
玄関脇の鏡に自分の姿を映し出す。できるだけ年上に見られるようにしなくてはならない。子供がひとりで出歩いていると知れれば、お巡りさんに補導されてしまう恐れすらあった。
顔さえ隠しておけば大丈夫。きっとサラのところへ行けるはずよ……!
わたしはそう自分に言い聞かせて、思い切って外に飛び出した。
雨が降っているのは幸いだったのかも知れない。傘さえさしていれば、顔を見られなくて済むからだ。
通りにはまったく人気がなく、ときおり遠くの十字路を辻馬車が走って行くのが見受けられるだけだった。わたしは左腕に下げたバスケットが雨に濡れないようにしっかりと抱き寄せて、そそくさと中央公園へと向かって歩いて行った。
道すがら、わたしはあまり出会いたくない場面に遭遇した。
路肩に公衆衛生局の幌馬車が停まっており、アパルトマンの玄関から制服姿の男性たちがぞろぞろとあふれ出してきたのだ。ネイビーの制服に黒い皮革製のマスクをつけた衛生局の職員が、がりがりに痩せ衰えた五、六才ほどの少年を連行するところだった。
少年を乗せた担架にすがりつく父親と思しき男性を、ふたりの職員が羽交い絞めにして無理やり引き離そうと試みている。
「離してくれ! 俺の息子を返せ!」
衛生局の職員は、とくになにを言い返すでもなく、黙々と担架を収容し、馬車の荷台に乗りこんでいった。目の前で幌の垂れ幕が下ろされると、男性は力なくくずおれて、やり場のない怒りをぶちまけた。
「誰だ! 誰が通報なんかしやがったんだ!」
彼はそのまま泣き崩れ、降りつのる雨を一身に受けていた。
アパルトマンの一室から、赤ん坊を抱いた若い女性がその様子を見降ろしていることにわたしは気がついた。彼女の腕の中で、なにも事情を知らない赤ん坊だけが、にこやかな笑顔を振りまいていた。
これがこの街の日常なのだ。天使病患者の家族が子供たちを隠そうとする一方で、周辺の住民は、感染の拡大を恐れて衛生局に通報する。それも、密告者のほとんどが、彼らと同じ子連れの家庭だというのだから、より一層悲劇的だとわたしは思った。
たった今息子を取り上げられたばかりの父親は、立ちすくむマリアンヌの存在に気がつくと、おもむろに立ち上がってアパルトマンの中へと消えた。
わたしは自分の無力さに打ちひしがれたまま街路を歩きつづけた。もしもこれからサラに会うのでなかったら、今にも泣き出してしまいそうだった。
教会の前でわたしは小さく十字を切り、サラが無事でいることを神様にお願いした。あのような光景を見た後だったから、わたしの心中は穏やかではいられなかったのだ。
以前ここを訪れたときと同様、扉には鍵は掛かっていなかった。天井のあちこちから雨が漏れているようで、床が水浸しになっている。雨に濡れたマリア像が、今では涙で頬を濡らしているように見えた。
奥の部屋に入ったとき、わたしは嫌な予感に襲われた。キャビネットの形をした隠し扉が、わずかに開いているのだ。
わたしは合言葉を言うのも忘れて隠し扉を開け放ち、暗い階段を駆け下りた。本当なら地下室から明かりが漏れているはずなのに……。
おじ様はランプを消したまま出かけてしまったのかしら……病床のサラを一人部屋に残して……? それとも……それとも、サラは……。
「サラ!」
わたしは地下室のドアを開けて部屋に飛びこんだ。冷たく錆びついたような空気が室内に暗い影を落としている。
「サラ……そこにいるの?」
わたしは勘を頼りにテーブルを探しあて、そこにバスケットを置いた。こんなことになるなら燐寸を持ってくるんだった……。
「サラ?」
暗闇の中で、かすかな衣擦れのような音がした。眠っているのだろうか? 体調が優れないの? それとも、今のはおじ様の気配だったのかも……。
「おじ様? そこにいるの?」
返答はなく、しばらくのあいだ張り詰めた沈黙がつづいた。そしてとうとう、わたしは堪え切れなくなって、大きな声を張り上げた。
「サラ! お願い、こたえて!」
すると、まるでその呼びかけにこたえるかのように、部屋の片隅で何者かが空咳をしはじめた。ベッドの方だ。やはりサラがいるのだろうか? でも、それにしては声はやけに下の方から聞こえるような気がする。
「サラね? どこにいるの?」
「マリアンヌ……」
今度こそ確信が持てた。彼女に違いない。物心がついてからというもの、毎日のように聞いてきた馴染み深い声に、わたしはほっと胸を撫で下ろした。
わたしはようやく自信をつけて、声のする方へと歩き出した。数歩歩いただけでベッドの角に膝をぶつけて、危うく悪態をつくところだった。
しかし、どんなに手探りしても、ベッドの上にサラの姿はなかった。
「マリアンヌ……」
ふたたび声が聞こえたとき、わたしはサラが置かれている状況に気がついた。
「サラ! 燐寸はどこ?」
返答はなく、サラははげしく咳きこんだ。
わたしはベッドの上に乗って、ランプが置かれているキャビネットを探し出すと、その一番上の抽斗を開けてみた。相変わらずなにも見えない。ランプがあるのなら燐寸もどこかにあるはずよ! わたしは焦りと不安とで震える指先で四角な箱を摘み上げると、暗闇の中でためつすがめつしながら、なんとか燐寸を取り出すことに成功した。
一本目は力の加減を間違えて折ってしまったが、息を整えて臨んだ二本目の燐寸で、なんとか火を灯すことができた。
わたしははやる気持ちを抑えつけて、ランプに灯を点けると、部屋の内部を明るく照らし出した。
「サラ!」
彼女はベッドの下に倒れていた。サラは白い寝間着しか身につけておらず、厚手の毛布がかろうじて膝元に掛かっているだけだった。
「わたし、毛布を拾おうとして……」
「大丈夫よ、サラ。わたしがやるから……」
わたしは彼女の体を抱え上げて、ベッド上に横たえた。サラの体はわたしの力でも簡単に持ち上げられるほど軽かった。
毛布を拾い上げようとして、わたしは、あの忌まわしい天使の羽が床板に張りついているのを見つけた。羽毛は純白ではなく、まっ赤な血に染め上げられていた。
サラが吐き出したんだ……。いったいどれほど長いあいだここに倒れていたのだろう?
「おじ様はどうしたの?」
サラは空咳を繰りかえしながら、小さな声でつぶやいた。
「昨日から戻ってこないの……」
マリアンヌの脳裡に最悪の事態が思い浮かんだ。
天使病患者の家族は、子供が罹患したことを確認した場合、ただちに公衆衛生当局に知らせなければならない。また、もしも感染者をかくまっていると思しき人物を見つけたときには、衛生局はただちに被疑者を逮捕し、感染者の居場所を暴かなければならない。
サラの家族が街を離れたことは、パパでさえも知っていたくらいだから、もしかするとおじ様は、食料の調達に向かった先で顔見知りにでも姿を見られてしまったのではないだろうか。そして、サラの居場所を……。
「サラ! 今すぐここを離れましょう!」
「マリアンヌ……?」
「アビーの家がいいわ。あそこは一軒家だし、誰も住んでいないはずだから」
「でも、パパが……」
「いいから、行くの!」
わたしは彼女の体を毛布でくるみ、上体を抱え起こした。そのまま片腕を膝の下に滑りこませて持ち上げようとしたものの、いくら体重が軽くなったとは言っても、わたしひとりだけでは到底長い距離を歩きつづけることはできそうにない。
「お願い……」
サラは今にも消え入りそうな声で囁いた。
わたしは彼女を背負うことはできないかと試みたけれど、サラの枯れ枝のような腕にはまったく力が入らず、わたしにしがみつくことすらできなかった。
「お願い……」
「サラ、わたし誰かを呼んでくるから、いったんここを出るわね? ソフィーかエリザを連れて戻ってくるわ」
「マリアンヌ……」
立ち上がりかけたわたしの手を、サラはそっと握りしめた。それは握るというよりもただ触れているだけといった感じだったが、それが彼女に残された最後の力だったのに違いない。少なくとも、わたしはそう受けとめた。
「行かないで……」
「なにを言っているの? ここから出なくちゃだめよ」
「わたし……」
このまま死んでしまうかも知れない……。わたしは、今この瞬間にも、命の灯火が消えかけているのだということに気がついていた。
「わかったわ、サラ。わたしはここにいる。おじ様が戻ってくるのを一緒に待つことにするわ」
サラは微笑みを浮かべて、ゆっくりと瞼を閉じた。呼吸はゾッとするほど穏やかで、薄く開いた口の端から羽毛が顔をのぞかせていた。わたしは指先で羽毛を摘み上げると、ポケットから取り出したハンカチに挟んでサイドテーブルの上に置いた。
羽毛には、血液はおろか唾液のひとつもついていなかった。
「サラ……」
わたしが彼女の髪をそっと撫でていると、上の階からかすかな物音がした。
おじ様……?
つづいて、隠し扉を開けるくぐもった音がしたかと思うと、何事か怒鳴りつけるような男の人の声が聞こえてきた。
いけない、おじ様の声じゃないわ! わたしは部屋の中を見わたしたけれど、どこにも逃げ場など見あたらなかった。
複数の足音がぞろぞろと階段を下りてくる。わたしは胸の前で手を組んだまま、身動きひとつ取れなかった。
わたしたち、お終いなの? サラをどこにも連れて行かないで! 皆、どうして彼女たちを放っておいてくれないの?
わたしの脳裡に、数々の絶望的な想いが去来した。
足音が扉の前に達したとき、わたしは思わずサラの顔に視線を向けた。青白い肌に流れる一筋の涙がランプの灯りに煌めいているのが見てとれる。
「サラ……!」
地下室の扉から、マスク姿の衛生局員が押し入ってきた。
「患者を確認しました!」
先頭の男が後ろに向かって叫んだ。
「見ろ、ふたりいるぞ!」
衛生局員につづいて、手首を縛られた状態のおじ様が引き立てられてきた。おじ様はわたしの顔を見て、驚きを隠せない様子だった。
「マリアンヌ!」
「ふたりとも拘束しろ!」
「待ってくれ! 彼女は関係ない!」
黒ずくめの男たちが、おじ様の体を押しのけて部屋の中に入ってくる。わたしは彼らとサラのあいだに割って入った。
「マリアンヌ!」
おじ様の悲痛な叫びが、冷え切った部屋の中に虚しくこだまする。
「待ってください! この中にお医者様はおられますか?」
わたしの言葉に、一瞬、場が静まりかえった。
「わたしたち、逃げたりなんかしません!」
男たちの背後から、診察鞄のようなものを持った人物が進み出てきて、くぐもった声でこう言った。
「わたしは聖ヘレナ病院のマテラッティだ。そこをどきなさい。わたしが彼女を診てあげよう」
わたしはおじ様の顔を見た。おじ様が強張った表情のままうなずくのを見て、マテラッティ医師に道を譲った。
「彼女の後はきみを診察させてもらうよ?」
医師はすれ違い様にそうつぶやくと、ベッドの上に鞄を置いて、聴診器を取り出した。そして、衛生局員の方を振り向くと、
「きみたちはいったん外に出て行ってくれたまえ。お父上を残してだ」
「しかし……!」
「彼女の言葉を聞いたろう? もうこの娘たちはわたしの患者だ。ここはさしずめ診察室といったところかな?」
男たちは渋々といった様子で部屋を後にした。
おじ様はゆっくりとわたしの側に歩み寄ると、優しく頭を抱きしめてくれた。
「マリアンヌ……。どうしてここに?」
「わたしたち、約束したの……。ずっとずっと友達でいようって」
「マリアンヌ……」
おじ様はわたしを強く抱きしめた。
そのかたわらで、マテラッティ医師はサラの診察をつづけていた。彼女の口元に耳を近づけ、呼吸をたしかめた後、寝間着の釦を外して、胸に聴診器をあてがう。
「先生……」
おじ様が涙に潤んだ声でたずねると、医師はゆっくりと立ち上がって、首を横に振った。
「娘さんは亡くなられました」
「そんな……サラ!」
おじ様はその場に膝をついて、サラの肩を両手で掴むと、誰にはばかることもなく泣き崩れた。
嘘よ……。だって、さっきまであなた、わたしと話していたじゃない……。わたしは、彼女と出会ってから今日までのことを思いかえしていた。楽しいことがあったときも、悲しいことがあったときも、彼女は常にわたしたちと共にいた。もしかすると、おじ様やおば様よりもずっと長い時間を共有していたかも知れない。自分と同じ年、同じ街に生まれ、同じ教室に通っていた幼馴染が、今、死んだ……。それはまるで、身を引き裂かれるような辛い辛い体験だった。
彼女はもう、この世にはいない。街を出て行った友達とは、またいつか再会する日が来るかも知れない。けれど、サラは……サラ・ディキンソンは、今日、わたしたちの目の前で永遠の眠りについたのだった……。
悲しみに暮れるわたしたちをよそに、ランプの揺れる薄明りの中で、ただひとり、サラだけがうっすらと微笑んでいた。
エンジェル えんまる @enmaruSP
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