イブが終わるまでに
なまず。
イブが終わるまでに
12月、忘年会シーズンの居酒屋は平日、土日関係なく団体の予約だらけで忙しい。繁華街の店舗だとなおさらだ。
「次の入れ替えは……61番、20時半。12名やな」
「また0分入れ替え。片付けする方のことも考えてほしいわ。湊と僕、どっちが洗う?」
「俺と九条さんでやるわ。あと15分かぁ。ボチボチ会計しとこか。九条さん、今のうちにグラスとか下げれるもん下げてきといてー」
「はーい」
僕より1歳年上の大学生、
61番テーブルでいい感じにできあがっている宴客の予約時間は20時半までで、その次の団体も同じ時間から同じ席だ。前のお客を定刻通りに帰し、即座にテーブルを片付けて取り皿や箸をセットした上で同時刻に次の予約客を同じ席に案内する。少しでもスムーズに入れ替えを行うためには事前の会計と、空きグラスや空き皿の回収が重要だ。
「じゃあ最後、みんなで一本締めお願いしまーす! いよーっ! (パンッ!)……ありがとうございましたーっ」
入れ替え時刻1分前、ようやく宴客が立ち上がる。古臭い締め台詞をソワソワしながら見届けた僕たちは、堰を切らしたように片付けへ動きだした。テーブルの片付けとセットは湊と九条さん、洗い物は僕の担当だ。手際のいい2人によって、あっという間に大量のグラスと皿が洗い場へと運び込まれる。
「……おい伊達」
一瞬気を抜いていた僕の腰あたりに、ドスッと軽いパンチがお見舞いされた。
「えっ?」
下卑た笑みを浮かべた
「今見とったやろ、九条さんのこと」
「いや見てないし……」
見ていた。
「嘘つけ。尻に見惚れとったやろ」
見惚れてた。
「まぁちょっと後でええ話があるから、楽しみにしときや。今日仕事上がったら4階に集合な」
「なに? ええ話って……」
「まぁまぁ後でな! ……いらっしゃいませー!」
20時半からの予約客が来たようだ。幸い数分遅れで店に到着したようで、思ったよりも楽な入れ替え作業になった。
なんで九条さんを好きなのかと聞かれても、正直答えるのが難しい。華やかな美人というわけでもなければ、化粧も控えめで、服装もいつもシンプルなものだった。飾らない魅力、とでも言えばいいのだろうか。彼女は忙しい時間帯でも声を荒げることなく、お客さんにも同僚たちにも分け隔てなく穏やかに、いつも同じ調子で接する。気づけば、シフトが同じ日を意識するようになっていた。
湊の言う「ええ話」が何のことか分からず、胸がざわついたまま仕事をこなした僕は、退勤してすぐに店舗の4階へ向かった。湊に集合場所として指定された4階は休憩室ではなく客席で、全席が個室のフロアだ。深夜の時間帯は稼働していないため、スタッフたちの休憩室として使われている。客室として稼働している時間帯は騒がしいことこの上ない4階フロアも、今は別の場所みたいに静かだった。
「クリスマスイブな、俺が九条さんを誘うから、お前と3人で
「で、俺は途中で帰るから、あとは九条さんと2人で過ごしいや」
先に休憩室に入っていた湊はそう言い切ると、火のついたタバコを灰皿に押し当てた。隣の個室では先輩たちが賭け麻雀に勤しんでいる。僕も一度誘われたが、賭け事は苦手なのでやんわりと断らせてもらった。
「え……それって、ええん?」
我ながら間の抜けた返しだったと思う。
湊はハードワックスでツンツンに立てた短髪を指でさらに立てながら、鼻で笑った。
「ええに決まってるやろ、俺は別にええねん、特に予定もないしな。実はもう声かけてんねん。後はお前次第や」
そう言われると、断る理由が見当たらなかった。そもそも僕は誰かを誘う側に回った経験なんてない。高卒フリーターの僕には中堅私立大学に通う九条さんが眩しすぎて、LINEすら交換できていない。やり方はともかく、こうでもしなければ僕が九条さんとデートをする日なんてやってこなかっただろう。湊が段取りをしてくれるなら、それに乗るしかない気がした。
「……わかった。じゃあ行くわ」
「おーし、決まりや。話早いな」
クリスマスイブ、三宮、九条さんという言葉が、現実感のないまま頭の中をグルグル回っている。
「あ、佐伯にも一応声かけとくわ。あいつもどうせ暇やろうから、来れたら来るやろ」
「……佐伯も?」
佐伯哲也。僕たちと同じ歳の同僚だ。ギャンブル好きで、給料をいつも競艇で溶かしている。なお、競艇をやっていいのは20歳からだ。今も隣の部屋で先輩と賭け麻雀をやっている。普段はこの3人でつるむことが多い。
「最初だけや。俺とお前と九条さんだけで集まって、俺だけ帰ったらわざとらしいやろ」
そう言って笑う湊を、僕は特に疑いもしなかった。
疑うという選択肢自体、当時の僕にはなかった。
誰かが用意してくれた選択肢に乗っかれば、自然に事が運ぶと思っていた。
その先に何が待っているのか、想像する余裕も僕にはまだなかった。
待ち合わせ場所に指定されたのは、三宮駅の改札を出てすぐの絶えず人が溜まる一角だった。イルミネーションは相変わらず派手で、写真を撮ろうとスマホを構えているカップルがたくさんいる。
僕は少し外れたところに立って、何度も時計を確認していた。少ない手持ちの服から少しでもマシに見える組み合わせを選んだが、お洒落に疎い僕にはそれが果たして本当にベストな組み合わせだったのかは分からない。約束の時間ちょうどになって、2人が並んで現れた。
「あ、伊達ー」
先に僕に気づいて声を上げたのは湊だった。九条さんもつられてこちらを見る。
それだけのはずなのに、2人の姿を見た途端、胸の奥が傷んだような気がした。歩く速度が揃っていて、少し距離も近い。鈍い僕にも、何か既に2人ができあがっているような、そんな雰囲気が伝わってきた。まるでパーティーに途中参加した時のように。
「お疲れさまでーす」
軽く会釈してにこやかに言う九条さんの声は、バイト先で聞くのと何ら変わりなかった。なのに、少しだけ遠くに感じる。心なしか化粧がいつもよりしっかりしているせいだろうか、それとも服装が大人っぽいせいだろうか、どことなくいつもと雰囲気が違う。その左腕には、ラッピングされた買い物袋が提げられている。
「ちょっと2人とも早めに合流しててな、三宮、回ってきたんや」
湊が悪びれもせずに言う。何時間、とは言わなかった。でも、その言い方で十分だった。
「そうなんや」
冷静に答えた。自分の中で驚くほど熱が冷めていくのが分かる。
聞きたいことはいくらでもあるが、とっくに勝負の決着がついた後のように思えて、聞く気にはならなかった。
「あ、そうそう」湊が思い出したようにスマホを取り出す。
「佐伯も呼んでんねん。もうすぐ来るからここで待ってよう」
その瞬間、僕の頭の中で試合終了を告げるホイッスルが鳴ったような気がした。
今夜はもう僕が期待していたようなクリスマスイブではなく、ただ日常の延長線の夜にいるのだと悟った瞬間、街のイルミネーションも、クリスマスの飾りつけも、耳に入ってくる何十年前もの使い古されたクリスマスソングも、急速に色を失っていった。
結局、先に帰ったのは九条さんだった。僕たち男3人はカラオケで聖夜を過ごすことになった。
「もうそんな怒んなって! しゃーないってもう、お互い振られたんや!」
「いや……別に怒ってないし」
「いやもうガチギレやん。分かりやすいわぁホンマ」
あけすけと笑いながら言う湊は、流行りのラップソングを歌う佐伯――めちゃくちゃへたくそ――にノリノリで合いの手を入れ始める。僕は本当に怒っていなかった。ただモヤモヤしていただけだ。
湊たちとは23時すぎに解散した。単なる12月24日と化したクリスマスイブが間もなく終わり、単なる12月25日を迎えようとしている。思ったより混んでいる駅のホームで電車を待ちながら、さっきのモヤモヤした感情まで少しずつ薄れていった。今夜のことを思い出しても、怒りより先に、どうでもよさが浮かぶ。
何かを選ぶ機会は、きっと何度でもあった。でも、湊に今回のことを持ち掛けられた日から今日まで、僕は何も選ばなかった。だから、クリスマスイブはただの12月24日になった。
電車に乗り込み、発車待ちのあいだ眠気交じりでぼんやり窓の外を眺めていると、ふと、向かいのホームに目が行った。人込みの中に、九条さんがいたような気がした。発車メロディーが鳴り、アナウンスが聞こえてくる。心臓の鼓動が急速に増し、眠気が飛んだ僕はわけもわからぬまま電車を降り、人込みをかき分けて走り出していた。
イブが終わるまでに なまず。 @Namazu-Chan
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