極彩の黒 ――御山混ざり
みたらし
御山混ざり
中学三年の冬、俺は魔術師を自称する女性と出会った。
そして、大学二年目の冬。
そんな彼女が、死んだ。
十一月に入って間もない時分。
都会はまだそれほどの寒さでなくとも、山間に建てられた墨工房は既に真冬と思える気温になっていた。
来る時に着ていた上着は玄関に掛け、今の俺は半袖Tシャツ姿。膠を溶かすために火を焚いているとは言え、それ以外にろくな暖房など準備されていない墨工房はしんしんと冷えこんでいる。
だが、そんなことも気にならないほどに俺の心は躍っていた。
じいちゃんが亡くなって、俺が墨師を継いで四度目の冬。
ようやくこの時期が来た、と。
墨の制作期間は早くて十月から長くて翌年四月まで。今年は例年に比べて寒くなるのが遅く、ここ数日でようやく墨作りに適した気温まで落ちてくれた。
時間はまだ日も出ない午前三時。
外は暗く、吐く息は白い。
「っと」
炊事場で湯煎した膠液を鍋ごと抱え、隣の制作室に運びこむ。
壁一面が煤で黒くなった制作室。部屋の中央には、分厚く広い作業板と俺の頭くらいの高さの手すりが一体となった器具が設置されている。
鍋を作業板の横に置いた俺は、手の水気を服で拭い、部屋の端へと視線を移す。いくつも置かれた同じ大きさの紙袋。そのうち一つの口を開けた。
黒い粉。
一年かけて準備してきた上質な煤の中に手を突っ込むと、細かな粒子がさらさらと心地よく肌に触れた。その感触にずっと触れていたい気持ちが湧いてくるも、それを抑えて手を引き抜く。手袋をしたかのように煤の粒子が細かく付着した手が、煤の出来を語ってくれているような気がした。
開けた紙袋一つを作業板まで持っていき、中身の煤を山になるように盛っていく。
紙袋の中身を全て作業台に移したところで、煤で汚れた座布団を床に敷き、その上に膝をついた。
墨を作るのに必要なのは時間と手間だけ。特別な才能は必要ない。
使うのは煤と膠と香料の三つ。それだけで、俺の墨はできている。材料だけ見れば、普通の墨と大差はない。違いが出るのは、いつだって作り終わったその後だ。
「ふー……」
長く息を吐き、両手を横に広げて柏手一つ。
空気の破裂音が部屋に響き、瞬間、今まであった昂りは身を潜め、周囲の小さな 雑音さえも消え去ってしまったように感じる。
じいちゃんは言っていた。ここで作る墨は神様への供え物。それゆえ、作る工程さ えも神事であるのだと。全身全霊をかけて作った墨には、それ自体にいつしか特別 な力が宿るのだと。
最初からじいちゃんの言うことを真に受けていたわけではない。柏手の動作も最 初こそ真似していただけだったが、今ではこれがなければ気が締まらなくなってしまった。
煤の山の中央に窪みを作り、膠液を徐々に煤に加え、水を吹きかけながら混ぜ合わせていく。煤の軽い感触は次第に重くまとまりのあるものへと変わり、そこからは立ち上がって手すりを掴み、それを支えに作業板に足を踏み下ろした。
踏んで練るほどに体が熱を帯びていくが、粘り強くじっくりと。何年もかけて体に覚えさせた感触になるまで根気よく。そうしていくうちに、ぼそぼそとした黒い塊だった物に艶が出てくる。足裏に感じる弾力も固く脆いものから餅のような独特のものへと変化した。
墨玉と呼ばれるそれを制作室の奥にあるもみ板まで持っていき、龍脳を主とした香料を塗して揉みこんでいく。粗練りほどの重労働ではないものの、香料が均一にならなければいけないため気は抜けない。何度も手もみを繰り返し、墨玉の表面は滑らかになり、やがて金属のような独特の光沢を放つようになる。
「……よし」
目分量で千切った墨玉をもみ板の上で棒状に伸ばし、空いた手で準備した木型に詰めて蓋をしてから万力で強く押さえる。
これを繰り返し、今日の作業が終わったのは昼過ぎだった。
木型から取り出した墨の形を整え、木箱の中に木灰と一緒に入れて乾燥させる。
今回できた墨の数はじいちゃんの半分以下だが、質を保って俺にできるのはこれが限界だった。今作った分が使えるようになるまで数年あるが、きっと質にしてもじいちゃんの作品には至っていないのだろう。
年季の差を埋めるにはもっと精進が必要だ。
「あー……腹減った」
炊事場で湯を沸かし、準備していたカップ麺に湯を注ぐ。待っている間に残った湯を水でぬるめ、できるだけ顔と腕の煤汚れを落としておく。これをせずに帰ってから風呂を使うと、家族からの激しい苦情が飛んでくることになるため、面倒でもしておかないといけない。
洗濯も同様でここで使った服は家で洗濯させてもらえないため、後で簡単に洗う必要がある。
「いただきます」
三分のところを五分待ち、出来上がったカップ麺を食べ始めながらケータイを手に取り何か連絡がないか確認する。
墨の制作中に連絡が来ても対応している暇はなく、何かあっても返事はだいたいこの時間にすることになる。そのため、不在着信に気づいたのはこのタイミングだった。
ケータイに表示された名前を見て、箸を持つ手が止まる。
着信名は《夜子さん 非常時》。
「…………」
教えられてはいたものの、こっちの番号に俺からかけたことはなく、夜子さんからもかかってきたことはなかった。今月分の墨の受け取りに関してのことだろうか。それにしたって普段使っている方で連絡してくるのが普通だろう。
すぐに電話をかけなおすと、数回の発信音の後に応答があった。
「はい、久世です」
出たのは夜子さんの声じゃなく、もっと幼い少女のものだと感じた。予想していなかった相手が出たことに一瞬戸惑うも、すぐに用件を伝える。
「さっき電話もらった巽冬至なんですけど、夜子さんいますか?」
俺の質問への返答はすぐに帰ってこず、沈黙の後に相手は静かに言葉を発した。
「姉――夜子は亡くなりました」
「……は?」
気の抜けた、それでも慣れた足取りで山道を進んでいく。幾度となく通った場所までの道のりは、考え事をしていても体が覚えている。墨作り後に冷えた体へ再び汗が滲んできた辺りで御山の奥深くへ到着した。
御山には神がいる。じいちゃんはよくそう言っていた。俺自身、いつ頃からか変なモノが見えるようになっていたこともあって、その話はすぐに信じられた。
御山の御神体である枯れ果てた巨木の幹。その前には、手入れされることでどうにか形を保っているような、朽ちかけた小さな祠が鎮座している。
そこに、そいつはいた。
黒い靄。それは流動的であるもののある程度の形を保っている。どこか親近感を覚えるのは、それがまるで煤を寄せ集めたように見えるからだろう。そんな吹けば飛散してしまいそうな朧げな姿でありながら、ぎょろりとした眼球だけがはっきりとしていた。じっと前を見据えていたそれに、俺は声をかける。
「神様、持ってきたよ」
反応はない。実際のところ、これが何者なのかは俺もわかっていない。ただ、墨を供えているから墨の神様なのではないかと思ってそう呼んでいるだけだ。夜子さんに相談した時は『そのままにしといて』と言われたので、それ以上に追究しようともしなかった。
今になって思えば、もっと詳しく聞いておけばよかったと後悔してしまう。神様のことだけじゃない。もっと他の色々なこと。そんな思いが、自然と口から漏れてしまった。
「神様、俺の憧れた人、また死んじゃったってさ」
じいちゃんの時もショックは受けたが、自然の摂理なのだからとすぐに納得できた。穏やかに亡くなったのだから、年齢的にも大往生だったのだろう。
だけど、今回は違う。
若い夜子さんの訃報を受け止め切れていないと自分でもわかる。
「…………」
俺の呟きにも、神様の反応はない。そもそも目だけで耳が見当たらないのだから、聞こえてさえいないのかもしれない。いつもと同じなのに、それがどこか寂しく感じられた。
神様の前に木箱から出した墨を並べていく。じいちゃんの物には遠く及ばない、未熟な俺の作品。
『今後はあんたが作ったのを供えなさい』
ある時、夜子さんにそんなことを言われた。墨としてではなく、供え物の呪物としての出来なら俺とじいちゃんの物に大きく差はないらしい。じいちゃんが生きていたら、俺の行動を後押ししてくれたのだろうか。それとも拳骨が飛んできたのだろうか。
「今日のも俺が作った物だから、口に合うかはわからないけど」
そう言って目を閉じ、神様に向けて両手を合わせる。毎回来る度に前回供えた墨はなくなっているのだから口に合わないことはないのだろう。いや、そもそも口がないから食べてはいないのかもしれない。
そんなことを思いながら目を開けると、神様に面と向かっていたため視線が合う。
そして、思い出した。
俺が神様に親近感を覚えたのは、姿が煤のように見えたからだけじゃない。この目が、夜子さんに似ているように感じたからだった。
魔術師を自称した女性――久世夜子。俺よりも二つ年上なだけだから、出会った当初のあの人もまだ少女といって差し支えなかっただろう。
夜子さんとの出会いはじいちゃんの墨を目当てに彼女が押しかけてきたことが始まりだった。何でも、じいちゃんの作る墨は魔術を扱うための上質な呪物になるらしい。彼女の勢いは凄まじく、劇的ではあったが当時の俺はあくまでも端役。じいちゃんに言われて、連日交渉に来た夜子さんを閉め出すことばかりしていた覚えがある。
強気で豪快。周囲を巻き込む嵐のような人で滅茶苦茶なところも多々あった。墨作りに集中したかった俺にとって迷惑なことではあったが、彼女の在り方に魅力を感じなかったと言えば嘘になる。
結局、じいちゃんが折れた。
元々、うちの墨は市場に回すのではなく裏手の御山に供えることを目的に作られた物だ。じいちゃんも正確には覚えていなかったが、何代も前から御山の霊を鎮めるためにしてきたことで、最も出来のいい墨を毎月三本ずつ、御山の麓と祠に供えていた。そうすることで、御山の悪い気を祓ってきたのである。
そこに捻じ込まれた夜子さんのした提案。それは、御山の問題を解決する代わりに麓に供えるはずだった墨を提供するといものだった。
概要はそうだが、実際のところじいちゃんと夜子さんの間でどんな話がされたのか、詳しいことは俺も知らない。ただ、最後にはじいちゃんがその提案を呑み、夜子さんが定期的に御山を見に来ることになった。
それからのじいちゃんと夜子さんの関係――御山の問題解決と墨の受け渡しは、じいちゃんが死んだ後も墨作りとともに俺が引き継いで今に至る。
「……ここか?」
世間話の中で夜子さんが事務所を借りているとは聞いていた。
そこを拠点に万屋のようなことをしていたらしい。これまでに渡した墨の保管も同じ場所でしているとのことだった。
夜子さんの生前に呼ばれたことはなく、俺自身も夜子さんを煩わせたくなかったこともあって言い出すことはなかったが、あの人の仕事場に興味がなかったと言えば嘘になる。
結局、こうして本人がいなくなってから訪れることとなったわけだが、いざ建物を前にしてみると想像以上にもの寂しいものだと感じた。
昨日、電話口に教えられた住所。
実家の最寄り駅から三駅という、歩くとすれば少しばかり距離があるものの、そう遠くもない場所に夜子さんの事務所はあった。
白壁の一階建ての建物。玄関前には郵便受けと呼び鈴の一体となった物が置いてある。そんな、何ら特別なところの見て取れない事務所は静かに佇んでいた。
看板も何も置いていない、意識しなければ気にもとまらないだろう。
一度、手帳に視線を落として住所を確認する。
「…………」
間違いなくこの場所だった。
「お邪魔します」
誰にでもなくそう呟き、敷地に入って呼び鈴を押してみる。
そして、ふと思った。
夜子さんは死んだ。
そんなのたちの悪い冗談で、案外目の前の扉を開けて出てくるかもしれない。
しかし、そんな儚い希望は、ひとりでに開いた扉にかき消された。
「どうぞ、お入りください」
夜子さんとは違う――おそらく電話口で聞いた声。
それに誘われるまま事務所に足を踏み入れると、置かれた調度品からそこが応接室だとわかった。そして、見慣れない部屋の奥には同じく見慣れない人がいた。
椅子に座っていてもわかる。夜子さんよりもだいぶ背の低い、下手すれば中学生にも満たない和装の少女。どことなく夜子さんに似ている彼女は、俺を確認すると椅子から立ち上がり一礼した。
「お初にお目にかかります、巽さん」
「夜子の妹、久世朝陽と申します」
夜子さんの妹――久世朝陽と名乗った少女は、夜子さんの死についてのあらましを聞かせてくれた。
身内としても突然だったこと。
内々で小さな葬儀を行ったこと。
妹である彼女が夜子さんの事務所を継いだこと。
それらの話を聞いて、ようやく俺は夜子さんがもういないことを呑みこめた。すんなりとはいかない。言葉に表せない。悲しみは当然あるが、それをどう表現していいのかはわからないままだった
「何て言ったらいいのかわからないけど……お悔やみを」
伏していた視線を上げると、久世さんと目が合う。
夜子さんの妹。
あの人は腰まで髪を伸ばしていたが、こちらはせいぜい肩口まで。違うところは探せばあるだろうが、姉妹だけあって似ている。似てはいるが、あの人に比べるとだいぶ大人しい印象だ。
しかし、この事務所を継いだということはこの子もそうなのだろう。
「その、君も、魔術師なのか?」
一回りとは言わないまでも、俺よりもだいぶ年下の少女。俺と初めて会った時の夜子さんよりも幼い姿を見ると、わかってはいてもついそんな言葉が口を出てしまう。
しかし、俺の言葉が相手の気分を害したというのはすぐにわかった。
眉根に皺が寄り、柳眉が歪む。
大きなつり目も鋭さを増し、いっそ子供染みたともとれる不満気な表情のまま口を開いた相手に先んじて、俺は無理矢理に言葉を捻じ込んだ。
「いや! 悪い意味じゃなくて、単純に疑問だったから」
出鼻を挫かれた久世さんは驚いた様子で言葉を呑みこむことしかできず、「いえ」と言った後に一呼吸空けて言葉を続けた。
「夜子と私は歳も離れていますので、そう思われても仕方ないことかと思います」
そう言ってすぐに、久世さんは「ですが」とはっきりと口にした。
「私も魔術師です」
その口調は毅然としていて、先ほどの幼げな不満は微塵も感じとれない。
自分も含め、そこらの大人よりもよほど堂々とした佇まいだった。
「巽さん」
「は、はい」
自然とこちらの返事も改まる。
「電話では簡単な話しかしていませんでしたが、夜子がそちらでどのような仕事をしていたのか聞かせていただいても?」
促されるまま、夜子さんが初めて来た時のことや現在までのことをできるだけ詳しく説明した。
そうは言っても、そもそも魔術師でない俺には夜子さんがどんな仕事をしていたのかよくわかっていない。俺が把握していたのは、定期的に山に流れる魔力を調整してくれていたらしいこと。それも今月で終わりそうだと言っていたことくらいだった。
考えてみると、俺は夜子さんのことをほとんど知らない。
夜子さんとの付き合いは五年だったが、会うにしても月に一回程度。墨を渡す代わりに山を見てもらう時くらい。その際に話くらいはしたし、あの人の強烈なキャラクターに魅せられたことは俺自身でもわかっている。
だけど、それだけだった。
俺は久世夜子という人について呆れるほど何も知らなかった。
「成る程……巽さんは、夜子の仕事を見たことはありますか?」
「……ない」
同行したのも道案内した最初だけ。それさえも案内の途中でお役御免となったし、以降は全て夜子さん一人で行い、俺は何もしなかった。
もし、一緒に行かせてもらえるように頼んでいたら連れて行ってもらえたのだろうか。
そんな俺の今さらな考えが読めたのか、「巽さん」と呼んだ久世さんは静かに俺を見据えて一つ提案した。
「夜子の仕事に興味はありませんか?」
そんな魅力的な言葉に、俺はまんまと食いついてしまった。
時間は正午の少し前くらい。
夜子さん――今は久世さんの事務所からはずいぶんと離れ、俺は墨工房に来ていた。二日前に作った墨は昨日よりも湿度の低い木灰に移している。これを一ヶ月毎日繰り返し、段々と木灰の湿度を下げていく。墨が割れてしまうのを防ぐには、急激にではなく徐々に乾燥させることが肝心だ。
今年の墨作りはまだ一度目。木灰を入れ替える墨は少なく、この作業に時間もかからない。
一通りの作業を終えてケータイを確認してみると約束にはまだ早かったが、待たせてもいけないと思い肩掛け鞄を持って外に出た。
しかし、いつ頃に到着したのか既に久世さんが待っていた。
「いかがですか?」
「ああ、いや……今終わったところ」
事務所での和装とは違い、長袖の上着と長ズボンに着替えてきている。持ち物と言えば腰に回されたポーチくらいで、これから登山へと向かうにしてはかなり軽装だった。
「これから山登るけど」
「問題ありません」
夜子さんの時もそうだったし、本人がそう言うのなら大丈夫なのだろう。
「わかった。案内するよ」
準備していた鞄を肩に斜め掛けし、俺と久世さんは出発した。
じいちゃんの遺した御山。
俺がじいちゃんからもらった遺産の中には、墨工房と制作した墨だけでなく周囲一帯の土地も含まれていた。
じいちゃんの墨作りは親族内でよく思われておらず、御山に関しても不吉な言い伝えがあるとかないとかで誰も近づこうとしない。そのおかげで俺が遺産を受け継ぐことに誰も異論を唱えず、じいちゃんと親しかった俺が遺言通り相続した。
そんなわけでこの土地の所有者は俺になっているが、御山のことは夜子さんに任せきりで、俺自身は祠までの道以外はあまり通っていない。最初こそ道案内できるか不安だったが、以前に目印として打ち込んだ木の杭が脳から錆を落としてくれている。案外どうにかなりそうだ。
「大丈夫か?」
さほど急勾配でもない山であれ、上り坂は体力を削られる。たとえ軽装であっても、山道に慣れていなければ小柄な久世さんはしんどいだろう。
そう思って声をかけるも、久世さんは涼しい顔で「お気になさらず」と返した。
「体の中で魔力を循環させていますので」
息も切らせず、痩せ我慢している風でもない。
夜子さんは魔術師であれば程度の差こそあれ魔力で身体機能を向上させることができると言っていた。その時は話半分に聞いていたが本当にできるのか。
「魔術って便利なんだな」
「そんなに単純なものではありませんが……魔術について学んだことは?」
「全く」
魔術師に会ったのも夜子さんと久世さんの二人だけ。夜子さんに会ってから気になって独学で多少調べはしたが、インターネットや一般図書ではたいしたことなどわかるはずもない。
「そうでしたか」
素人染みた俺の言葉に応じてくれた久世さんだったが、この話を広げることはなく「それにしても」と新たな話題を持ち出した。
「来た時から思っていましたけど、この山は変ですね。霊脈の流れをまるで感じません」
霊脈。
本来、土地にはそう呼ばれる魔力の流れが存在しているらしい。詳しいことはわからないが、それがここには感じられないと久世さんは言った。
「それってないとまずい?」
「いえ、大気にも魔力はあるので、すぐにどうにかなるわけではありません」
それでも、この規模の山で霊脈がないというのはおかしいらしい。
「いつぐらいからこうなっているのかわかればいいのですが」
「それなら、たぶん夜子さんが来てからだと思う」
魔術については素人な俺だったが、素養はあったのだろう。
昔から変なモノを見たり、そうでなくても気配を感じることがあった。特にこの御山ではそれが顕著で、黒いもやのようなものが見えていたし、もっとはっきりした 怪異に遭遇することもあった。それが、夜子さんが来て以降はめっきり減った。
そんなことがあったから、魔術師という普通に生活していれば胡散臭いと感じる存在も信じられたのだろう。
しかし、言われて実感した。以前感じていた騒がしさがまるでない。まるで御山そのものが深く眠っているような、そんな印象だ。
「成る程」
そう言うと、それから久世さんは口を噤んだ。歩を止めるわけではなかったが、何事か考えている様子で静かに俺の後をついて来る。
「もう少しで着くはず」
言ってからそう時間も経たず、覚えのある場所に到着した。
「……たぶん、ここだ。この辺りだったはず」
夜子さんが最初に何か――魔術を施した場所。
最後に来てからずいぶん時間が経っている。さすがに細かな場所までは覚えていなかったが、そのことを久世さんに伝えると「問題ありません」と腰のポーチを開けた。
「きっと痕跡があるはずです」
そう話しながらポーチの中身を漁り、すぐに紙紐で纏められた紙束を取りだした。
五センチ四方程度の白い紙。紙束からさらに一枚抜き取られたものには、どうやら奇妙な模様が書かれているようだった。文字とも絵ともつかない記号のようなもの。
久世さんが言うには、これは神代文字と呼ばれる遥か昔から存在している文字の一つらしい。
魔術師でもこれを使用する者は少ないが、彼女の使う魔術にはこの奇妙な文字が最も馴染むのだと説明された。
「夜子さんとはやり方が違うんだな」
何といえばいいのか。こっちの方が魔術っぽい。あの人、何でも殴って解決しそうだったからな。そう言うと、久世さんは苦笑した。
「あの人はちょっと、いえ、かなり特殊でしたから」
そういうものらしい。
魔術師が言うのだからそうなのだろう。夜子さん、魔術師の世界でも特殊だったのか。
久世さんが手にした紙を宙に投げると、それはどこか不自然な動きで、風もないのにだいぶ離れた場所に落ちた。
「あそこですね」
早足で向かう久世さんついて行くと、彼女は既に手袋をつけていて紙の落ちた地面の土を払いだした。
すぐに何かが形を現す。
久世さんはそれを地面から引き抜き、土を振り落として俺に渡してきた。
杭と言うには小さく、釘と言うには太い。
「楔?」
真っ黒な楔。
ツンとくる腐臭と、地面からの湿気を含んでもわかるその触り心地。
「これ、墨か」
「ええ。夜子が作ったのでしょう」
おそらくはじいちゃんの作った墨。本来の用途ではないが、魔術ではこういう使い方もあるのかと驚いた。
そして、それと同時に湧き上がる疑問を口にする。
「これ、抜いてよかった?」
楔だったら、下手に抜けば何らかの悪影響があるのではないか。そう思った質問だったが、久世さんが言うには問題ないとのことだった。肝心の魔術は既に土地に浸透しているので、打ち込んだ段階で楔の役目は終えているらしい。
「多少の魔力は残っているので、護身用にでも持っていたらいいですよ」と言いながら、久世さんは先ほどの紙束からさらに一枚抜き出した。見えたのは、さっきのとは違う文字。
「おそらく、流れが歪んでいた霊脈を正常にするために堰き止めたのでしょう」
下水道の工事みたいなものか。説明を聞きながら、自分なりの理解をしておく。
「我が姉ながら強引なやり方ですが、ここまで完全に止められたのは見事としか言いようがありません」
久世さんは紙を楔の刺されていた場所に置いた。
「今からそれを解きます」
その言葉の直後、紙が燃え上がる。
小さな紙片はすぐに燃え尽きるものの、その炎はまるで地中深くに潜り込むように奇妙な動きを見せた。
「…………」
「…………」
「何も起きないけど」
「夜子は手段が野蛮でも、手を抜いたりはしないと思います。おそらく、封印を無効にするには、楔を打たれたところ全てを解かないといけないのかもしれませんね」
久世さんはそう言うが、俺が夜子さんを案内したのはここまで。この場所以外にあの人がどこで何をしていたのかまでは知らない。
「一応、他の道も案内しようか?」
長丁場になりそうだと思いながらもそう提案してみるも、「いえ、その必要はありません」と断られた。
「夜子の使った魔術はわかりましたし、完全に霊脈が止まっているなら魔術の痕跡は見つけやすいです」
ポーチのから新たに出された小瓶。蓋を外したそれを斜め下に向け、ざらざらと中身を小さな手の平に移す。
それは小さな折り紙のようだった。
形はばらばら。共通しているのはどれも生き物の形をしているところだ。
「ススミ サカシ モヤセ」
久世さんの口から紡がれた、凛とした、それでいて体の芯を揺さぶられるような声。それに応えるかのように折り紙は彼女の手から零れ落ち、それぞれが独自に動いて周囲へと広がりながら散っていった。
「後はあの子たちが魔術の痕跡を見つけて燃やしてくれますよ」
言いながら、久世さんは近くの岩に腰を下ろす。
「変化があるまでまだ少しかかるでしょうから、巽さんもどうぞ」
「あ、ああ。ありがとう」
気遣いに礼を言いつつ、俺も近くの岩に腰掛ける。
「…………」
「…………」
待ち時間。その間に久世さんが何か言ってくることもなく、ただ待つという状況をこれだけ長く感じるのも久しぶりだった。
「えっと――」
十分経っただろうか。だんまりもさすがに飽きたので何か話そうかと口を開くと、「そろそろです」と久世さんに遮られた。
そして変化が訪れる。
どくん、と。
「――っ!?」
地面が揺れた気がした。
地震のような揺れ方ではない、まるで心臓の鼓動のようなものが一度。
違和感に気づいたのは数分経ってからだった。
これまで静かすぎるとさえ感じていた御山が生き物も見えないのに騒がしく感じる。それに、夜子さんが来て以降見ることのなかった黒いもや――久世さんが《瘴気》と呼ぶモノが周囲に現れはじめた。
久世さん曰く、煮物の灰汁みたいなものらしい。
「浄作作用がありますので、すぐに消えていくはずです」と久世さんは言った。
しかし、それは次第に濃く、重く、周囲を満たしていく。
それはもはや朧げとは言えず、はっきりと質量を感じるほどに。
隣に目をやると、久世さんの表情が先ほどまでと違い曇ってきている。
「……おかしいです。瘴気の濃さもそうですが、浄化されていく気配が――」
久世さんが話していたが、俺はそれよりも気になるものに釘づけになってしまった。
すぐ近くの木陰に見える、黒くぼやけた子熊程度のナニか。
気配も何もなく、気が付いたのはただ視界に入ったというだけ。
ただ、ソレは初めて見るモノじゃない。
「あ……」
溢れでる瘴気がその一か所へと急激に収束していく。
瞬間、全身に警鐘が鳴り響いた。
未知の予感ではなく、既知の確信。
ずっと昔に体験した恐怖が蘇る。その感覚が、この場の誰よりも早く俺を動かした。
咄嗟に久世さんの襟を掴み、後ろへ引く。たったそれだけの動作の後、俺の体は後方へ吹き飛んだ。
吹き飛んだとしか形容できない。
浮遊感の後、背中から地面に落ちる。小柄とは言え人ひとり分の重さも加わり、肺の空気が絞り出される。
未経験の体験に感覚が戸惑うも、不思議と背中以外に痛みがないと気づいた。
攻撃を受けたのは俺じゃない。
俺の上で身動きしない久世さんを地面に下ろし、状態を確認する。
「おい……おい、久世さん!?」
気を失ってはいるが、呼吸はしている。意図せずに俺が緩衝材になったから頭も打ってはいないはず。
細かい確認を行う暇がないことは、怪異が動きだしたことからわかっている。
何かできることはないか。
周囲に目を走らせても散らばっているのは、久世さんの使っていた札ばかりで使い方がわからない。それでもないよりはマシだと手を伸ばしかけたが、思いなおして上着のポケットに手を入れた。
掴んだのは、久世さんに渡された墨の楔。
『護身用にでも持っていたらいいですよ』
久世さんはそう言っていた。まだ魔力が残っている、じいちゃんの遺してくれた一級品の墨。
「っ――!?」
怪異は既に目の前。それでいて、まるで俺なんて眼中にないとばかりに緩慢な動作で残りの距離を詰めてくる。
どうしたってやるしかない。
強く握り込んだ手の内側で、墨の欠片が皮膚に突き刺さる。そうして、俺は渾身の力で固めた拳を、怪異のおそらく顔と思われる部分へ叩きつけた。
「ぐっ、つぅ……」
骨に響く岩のような感触。しかし、それも束の間で、次の瞬間に殴った部分は質量のある霞を殴るような不思議な手応えとともに霧散した。
ただ、それだけだった。
怪異は瞬間的に動きを止めたが、倒れる気配も消える気配もない。それどころか散ったはずの頭まで新たにでき始めているようですらある。効いていないことだけは嫌というほど分かった。そもそもダメージなんて概念があるのかすら不明な相手。足を止められただけ上等だ。
そう判断して、すぐに久世さんを抱え上げた。
この山の構造は大方把握している。俺はとにかく危険から遠ざかろうと目の前の怪異に踵を返して走りだした。
こんな速度ですぐに追いつかれはしないか、そんな不安が頭をよぎるも余計な動きをする暇はない。俺はただ全力で走り抜けた。
結果として、怪異は俺たちを追ってこなかった。
いや、一度も後ろを振り向かなかったから実際には追ってきていたのかもしれないが、少なくとも追いつかれることはなかった。
極度の緊張と息せき切って走り抜けたせいで、呼吸をしても酸素が回らずに視界が明滅する。麻痺した聴覚は自分の激しい心音しか感知せず、多量の発汗と口呼吸のせいで口腔は渇いているくせに吐き気まで込み上げてくる始末だった。
そんな状態では動くこともままならず、崖の下にできた窪みを見つけたところでそこに身を隠す。そこで久世さんを下ろした後、俺自身も糸が切れるかのようにその隣へへたり込んだ。
「……ありがとうございます」
久世さんが口を開いたのは、俺の呼吸がようやく落ち着いてきた頃。体を起こしはしたものの顔を伏せたままの声は、正常な機能を取り戻した耳でも聞き流してしまいそうなほど小さかった。
「大丈夫なのか? その、体とか」
「おかげさまで、大丈夫です」
そこまで細かく見てはいなかったが、動きを見ているかぎり大きな怪我はしていないようだった。
それならと質問する。
「さっきの、何だったんだ?」
あの姿に見覚えはある。ただ、さっきのあいつは俺の記憶にあるものよりも一回り以上も巨大になっていた。
「…………」
「……なあ」
「《おに》です」
怪異にも分類があると久世さんはぽつぽつと説明してくれた。
魔力の塊が瘴気を取り込み、濁り澱み尽くした果てに生まれる超常の怪異。それが《おに》という存在らしい。
「夜子姉さん」
これまでのどこか硬い口調だった久世さんの声が震えた。
腕に顔を埋め、顔は見えなくても音ですすり泣いていることがわかる。
「夜子姉さんなら、きっと、こんなことにはなりませんでした」
大人びて見えた少女の予想外な姿に、情けない話、俺は何もできずにただ沈黙するしかなかった。何か言おうとしても言葉にできないし、行動にも表せない。
そんな状態が続き、ひとしきり泣いた後に「情けないところを見せました」と言って久世さんは袖で涙を拭った。
小さな溜め息。その後、久世さんはまず「ごめんなさい」と謝罪を口にした。
「いや、俺も何もできなかったから」
そんな俺の返事を「そういうわけじゃありません」と静かに否定し、久世さんは「嘘をついていたわけではないですけど」と前置きをして、自分が夜子さんの仕事を正式に受け継いだわけではないと語った。
「夜子姉さんは、私に何も託してくれませんでした」
本来であれば引き継ぐはずの人が投げ出したのを勝手に拾ったのだと。
「……どうぞ」
久世さんはポーチから出した手帳を開き、俺に渡す。受け取った際に開かれていたページにはいくつもの名前が書き連ねてあり、名前の横には連絡先とおそらく関係する事柄が書かれていた。探してみると俺の名前と連絡先もじいちゃんのを訂正したところに見つけたが、どうもそこ以外には軒並み×がつけられているようだ。
「これは」
察しはついたが言葉に出せなかった俺に、久世さんは「見ての通りです」と自嘲を込めて溜息をついた。
「夜子姉さんは色々と無理言って交渉してたみたいですし、私なんかは資本力も実績もない若輩ですから。これを機に縁切りしようってことなんでしょうね」
「当然と言えば当然でしょう」と言った後、久世さんは不満を吐き出すように言葉を続ける。
「勝手に引き継いだはいいものの、いざ事務所に行ってみると資料も呪物もまともなのなんて残ってないし、散らかってるし、手帳に書いてあった呪物の業者も軒並み離れていっちゃうしで、もう死に体でした」
一通りの愚痴を終え、溜め込んでいた感情を出した久世さんの目は潤んでいたが、もう泣くことはなかった。
「何て言うか……その割にはちゃんとやってたんだな」
魔術のことは正直よくわからないが、少なくとも朝方に行った時の事務所は片付いていた。あれだけ×がついていた手帳も、諦めず連絡をとり続けていたことの証だ。
「だって――」
一瞬言い澱み、それでも久世さんは続ける。
「――だって、憧れでしたから」
たとえ正式に託されたものじゃないとしても、その仕事をこなせれば憧れた存在に近づけるかもしれない。
状況こそ違うものの、それはどこか俺自身と重なるところのある話だった。
「だから巽さんの存在は渡りに船でした」
力試しができて、尚且つ呪物も確保できるかもしれない。
それが今の久世さんにとってどれほど魅力的で逃しがたいことだったのか、理解できて余りある。
「まさに一石二鳥。首の皮どころか首半分くらい繋がって万々歳……って予定でした」
「まあ、それがこの様なわけですけど」と自嘲気味に言いながらも、一度泣いて吹っ切れたからだろうか、段々と口調が砕けてきている気がする。
きっとこれが本来の久世朝陽という少女なのだろう。
「巻き込んでしまってすいません。それと、」
「夜子姉さんの死を悼んでくれてありがとうございました」と久世さんは言った。
「事務所までわざわざ足を運んでくれたのも、きっと心からそう言ってくださったのも巽さんくらいでしたので」
そう言いながら久世さんはポーチから紙束を取り出し、例のごとく一枚抜き取って 俺たちの隠れる窪みの入口へそれを投げた。
「スカタチ ヲ カク」
彼女の言葉とともに札は空中で止まり、同時に俺を形容しがたい奇妙な感覚が包みこむ。
「結界を張りましたから、しばらくは《おに》に気づかれることもありません」
ここから出ないように釘を刺しながら、久世さんは現状を教えてくれた。
「この山の状態はまともとは言えません。すぐに周囲の土地に被害がいくことはないでしょうけど、放っておいても近いうちに私以外の魔術師が来て《おに》を祓ってくれると思います」
「そう、か……」
それなら安心、なのだろうか。
俺にできることはない。それはわかっていても、どこか納得しきれない感情。しかし、すぐにそれを抱えているのは俺だけじゃないことはすぐに察した。
「けど、少し考えさせてください」
どうやら久世さんも、まだ諦めたくはないらしい。
「……………」
久世さんが考えに耽って十分経ったくらいだろうか。体感時間はもっと長いように思ったが、俺はどうにも二人いる状態で十分以上の沈黙には耐えられないらしい。
「……何か、できることはないかな」
時間をかけてようやく出た言葉は、そんなものだった。
何か力になれればと思ってのことだったが、口に出してからなんとも無責任なことを言えたものだと後悔した。
案の定、久世さんの反応は「素人が何言ってるんですか」と冷たい。
「そりゃ、まあ」
当然の反応に言葉が詰まると、久世さんは「と言いたいところですが」と続けた。
「そんな人の良い巽さんに訊きたいことがあります。あなたはあの《おに》に会ったことあるんですよね?」
「ああ、同じのかはわからないけど」
言いながらも、妙な確信があった。
俺は昔アレに会って、そして――。
「俺、昔あいつに襲われたんだと思う」
中学に上がる前くらいだっただろうか。
木々の間に見えた子熊ほどのぼやけた異形。
ソレと視線が合ったと感じた瞬間、恐れから目を逸らしてしまった。
覚えているのはそこまで。次の瞬間に俺の目の前は暗転した。
冷たくて暗くて、落ちながら何もかもが溶けていくかのような感覚。今思えば、あれは臨死体験というものだったのかもしれない。確かなことはわからない。その後は気が付くとそこは木々に囲まれた御山の中。辺りは暗く、《おに》の姿も見えなければ体に異常もないようだった。
こんな出来事を身内に言ったところで信じてもらえないだろうし、下手すれば御山どころか墨工房への出入りも禁止されかねない。だから、このことを話したのは過去に夜子さんと、今話した久世さんだけ。
「それからも御山に入ることはあったんだけど、思い返してみればその頃から感覚が変わったような気がする」
御山が身近になったような、そんな感覚。以前は今より曖昧だった怪異がはっきりと視えるようになりだしたのも、今にして思えばこの頃からだったのかもしれない。
「前例がないわけではありません」
俺の話をひとしきり聞いた久世さんはそう言った。
「巨大な霊脈というのは、良かれ悪かれ周囲に影響を与えるものですから」
魔力の濃い場所では、いわゆる奇跡と呼ばれることも起きやすいとされる。
そう、久世さんは言った。
「《おに》に襲われる前と後で視え方が変わったらしいですけど、その後も《おに》に会ってるってことですか?」
話しながら俺も気づいたことを久世さんは言及してきた。
「そうだな。そんなにしょっちゅうじゃないけど、ある」
そして、さっきも。
その時の《おに》の反応も踏まえた上で「多分だけど」と前置きして、俺は自分の予想を言った。
「あいつ、俺のこと見えてないんだと思う」
あの《おに》には俺が見えていない。
襲われて以降何度も目にしているはずなのに、あれから危害を加えられるどころか気づかれてすらいないように感じていた。
それを聞いた久世さんはしばし考え込み、口を開いた。
「本来、視ることは視られていることになります。だけど、魔力が混ざるということもあるし、それなら説明は……」
ぶつぶつと呟きながらも、俺の状態が魔術的には異常であるということは何となくわかった。しかし、結論が出る感じでもなく「先に差し迫った問題を考えましょう」と久世さんは話を移す方向にしたようだ。
「停止していた霊脈が動きはじめたとしても、すぐに新たな《おに》は現れません。私も直前まで気づけませんでしたし、あの《おに》は元々いたものが休眠状態になっていたんでしょう」
俺自身もあの《おに》には会ったことがあると感じた。久世さんの話はそのことを補足していたが「でしたら尚更気になります」と続けた。
「夜子姉さんがあの《おに》を放置していたとは考えられません」
何年にも渡って御山の霊脈を整備してくれていたのは夜子さんだ。
《おに》がいたのなら、そんなのは真っ先に祓っているはずだと久世さんは言った。
「封印を解いたことで溢れた瘴気が餌になってしまいましたけど、成長する前の《おに》であれば夜子姉さんなら簡単に対処できたはずです」
でも、あの人はそうしなかった。
「夜子姉さんはその場凌ぎで報酬をもらうようなことはしませんし、あの規模に成長した《おに》と戦うメリットもわかりません」
久世さんの考えでは、夜子さんがあの《おに》を放置していたのは意図的であるとのことだった。
「単純に気づいてなかったとかは?」
細かいことに拘らなそうだったあの人のことだからありえるかと思って言ってみたが、「ありえません」と切って捨てられた。
俺が《おに》と会ったことを話しているのなら、夜子さんが気づかなかったとは考えられないらしい。その口調からは、久世さんの夜子さんへの絶対的な信頼を感じさせられる。
「それに、たとえその話がなくても夜子姉さんが見逃すわけありません」
それならどうしてという俺の問いに、久世さんは「おそらくですが」と答えてくれた。
「夜子姉さんとしては、今の状況まで想定の範囲内だったと思います」
「まあ、私が来たのは予想外だったでしょうけど」と付け加えながら、自分の考えをとつとつと呟いていく。
「使い魔を使役する魔術師なら強い《おに》は手に入れて困るものじゃないです。あえて成長してから手に入れようとするのもわかりますが、夜子姉さんは式神使いじゃないですし……それなら祓う以外に考えられないですけど、わざわざ瘴気を吸わせて強くする必要なんて――」
途中で話が止まった。
どうしたのかと久世さんを見ると彼女は地面の一点を見つめていた。
そこには何もなく、それでも何かに気づいたのだとその様子から察することができた。
「たぶん、わかりました」
何がわかったのか俺にはわからない。
ただ、「巽さん」と言いながらほんのりと頬を紅潮させた久世さんが興奮していることは伝わってきた。
「この辺りに川はありますか?」
「ん……ああ、そんなに大きなものじゃないけど」
「成る程」と言いながらまるで大発見をした子どものように目を輝かせる彼女は「何かできることないかって言いましたよね?」と確認した後にはっきりと言った。
「餌になってもらえますか?」
そんな、酷いことを言ってきた。
崖の窪みから出て気づいたのは、周囲にあれだけ溢れていた瘴気が見えなくなっているということだった。
霊脈が流れ始めたことによって心なしか周囲に活気が出ているようで、それだけ見れば悪いものじゃない。
「……ああは言ったけど」
御山に流れる川。
穏やかに流れる川面を背にしていながらも、心中は全く穏やかではない。
「本当に大丈夫だよな」
この場に久世さんはいない。
何かあっても自分だけで対処しなければいけないという緊張が鼓動を早くする。
――餌。
あのおっかない《おに》をおびき寄せるために俺が引き受けたのは、そんな役割だった。
久世さんにはできない、俺にしかできないこと。そう思っていたが、何しろ魔術とは縁のない身。今さらながら不安になってきた。
ただ、もうそんなことを言っても遅い。
木々の間から姿を現した巨体。
濃い瘴気を纏った異形の《おに》。
「……おい」
さっきよりもでかいじゃねえか。
御山の瘴気がなくなっていたことでさらに成長している可能性もあると久世さんは言っていたが、この短時間でさっきより二回り以上は巨大になっている。今はまだ距離があるものの、近づけば俺も見上げてしまうほど。
それだけ多くの瘴気がその体に集まったからなのだろうか、《おに》が近づくほど俺の全身に言いようのない悪寒が纏わりついてくる。対面するまではあったはずのこの場に留まる意志さえ徐々に削ぎ落されていく。体中を這いずり回る不快感から今すぐにでも逃げ出したい。
それなのに、俺の口角は自然と上がっていった。
「……は」
同時に、奇妙な高揚感に気づく。
これが夜子さんの見ていた世界。
憧れの人が身を置いていた世界というのが本当はどういうものなのか、それを知ることができた。
「やっぱり、あの人は凄いよ」
今の俺よりも若い頃から、たった一人でこんなものを相手にしてきた。
そして、それは久世さんも同様。
初めて会った時の夜子さんよりも幼い少女。そんな彼女に協力すると約束したのだから、ここで逃げ出すなんて格好つかない真似なんてできない。
「…………」
恐怖を飲み込んだことで冷静さが戻り、それによって相手を観察する余裕が生まれた。
昔から見ることは得意だった。
幸いなことに夜目も利く。
《おに》の動きはそう――どこか猫科の四足獣の動きを思わせる。でかい猫。そう捉えれば理解もしやすい。動きが揺れているように見えるのは、まだ獲物に狙いを定めきれていないから。こちらが急に動けば予想外の行動をとるかもしれない。
「ふぅ」と息を吐き、力みをなくす。
御山由来の《おに》にとって、俺の存在はそこらに生える木々と何ら変わらない。わざわざ
俺自身を狙うようなことはしないはず。
それなら、力みすぎて失敗する方が危険だ。
徐々に腕を動かし、地面と平行になるように持ち上げていく。《おに》の目と思われる部分にもよく見えるように、ゆっくりと。
そして、俺の動きが止まったのと同時に《おに》も動きを止めた。
視線が持ち上げた腕に集中する。
そこでようやく、予想は確信となった。
——ああ。
やっぱり、見えてない。
ここに立っているのに、認識されていない。
目の前にいながら、《おに》にとって俺は木や岩のような風景で、ここに在るだけのもの。その事実が腑に落ちた瞬間、飲み込んでいた恐怖が、すっと消化された。
代わりに胸の奥で、何かが静かに、確かに噛み合う。
俺は常に《おに》の視界の外にいたのだ。そのことを受け入れた瞬間、世界が一段、深く沈んだように感じた。
これが、夜子さんが見ていた景色。
久世さんが踏み込もうとしている場所。
そして、俺が既に踏み込んでいた世界。
そう感じた刹那、俺は後ろに腕を振り、握り込んでいた拳を広げた。
同時に握り込んでいたモノが空中に放たれる。
墨を芯に、久世さんの札を重ねて作った人形。
周囲の魔力を吸収し、《おに》をおびき寄せられるだけの存在と成った身代わりのヒトガタ。
見えてはいないが、それは弧を描いて川に落ちていっていることだろう。
「――っ」
瞬間、《おに》が跳んだ。
その動きを辛うじて視界に捉えることはできたものの、瞬きよりも速く巨体が迫る。反射的に回避しようと体が動き、そして――。
「っ!」
そして、《おに》は俺のわきをすり抜けて行った。
避けようとした態勢をさらに捻り、咄嗟にその行方を確認する。
あの勢いなら川を跳び越えてもおかしくない。
そんな俺の不安は、しかしすぐに霧散した。
川の真ん中に立つ《おに》。
そして、薄暗い周囲よりもずっと深く、暗い水面。
それが俺の視界に入った刹那、川から何かが飛びだした。
黒い腕。
川から伸びた無数の黒く、長く、細い腕が《おに》を捕らえた。
《おに》が金切り声のような咆哮を上げ、身を捩る。その動作だけで不気味な腕は簡単に千切れ飛んでいく。
〈ミツ ワ ナカレ スヘテ ヲ カク〉
どこからか響く久世さんの声。川の上流から流れてくるそれに呼応するように波打つ水面からは千切れた倍の腕が新たに伸び、《おに》の抵抗を意に介さずその巨体を徐々に水底へと引きずり込んでいく。
本来であれば、この川の水位は精々が俺の膝上くらい。少なくとも、あの巨体が沈むには流れも深さも足りていないはず。それなのに、まるで底なしの沼に沈んでいくように《おに》は最期には声も出せずに俺の前から姿を消した。
「…………」
極限まで昂った神経のせいで、静寂と言うには水の流れや木々の葉の擦れる音が煩い。
穏やかに流れる水面を見ていても《おに》が浮き上がってくる様子はなく、そうなって初めて俺は呼吸を忘れていたことに気づいた。
「っはぁ!」
不足していた酸素が体中に回り、次第に感覚が正常になっていく。終わったという安堵から力が抜けるように勢いよく座り込むと、強かに尻を打ちつけた。
「は、はは」
痛みですら、今は生きていることの裏づけになってくれているのだから嫌じゃない。
ひとしきり笑って感情も落ち着いた後、大きく溜め息を吐きながら仰向けになった。
「…………」
じゃり、と上流から川辺の砂利を踏む音がする。
仰向けのまま頭を上に向けると、逆転した視界の中で久世さんが歩いてきていた。そして、そのまま頭上まで来た久世さんは静かに俺を見下ろした。
「お疲れ様でした」
「そっちも」
別れる前の緊張した面持ちとは打って変わった穏やかな微笑みを見て、問題は解決したのだと改めて認識できた。
「起きるのに手はいりますか?」
「いや、いいよ。もう十分もらったから」
倦怠感を抱えながらも自力で立ち上がる。
「あれは、うちの墨だったのか?」
《おに》を川に引き摺りこんだ黒い腕。あの時は考えるほどの余裕なんてなかったが、ほんのりと墨に使っている香料――龍脳の香りがしていた。
「ええ。もうほとんど使ってしまいましたが、あれだけ質のいいものは初めてでした」
あの墨自体はじいちゃんの作った物だったが、それでもそう言われると自分のことのように誇らしい。
「それに、ここの川も霊脈の流れと重なっていてとてもいい場所でした」
川の流れというのは、穢れを洗い清める。
有名なところでは鳥取県の《流し雛》があるだろうか。
久世さん曰く考えとしてはそれに近く、川を使って《おに》を流す。ただの川では今回の《おに》を流しきれなかったかもしれないが、そこはこの御山。巨大な霊脈が通っているここであれば成功する可能性が高かったとのこと。
久世さんの示したこの案を実現するための問題は、見栄を張って少なく持ってきていた呪物に関してだった。足りないと苦悩していた彼女だったが、後々渡そうと思って持ってきていた墨を出したことでその問題も解決した。
『持ってるならさっさと渡してくださいよ』と言われたが、それが最後の一押しになったのは間違いない。
「もう《おに》の心配はいりませんから、このまま山を下りるのは簡単ですけど」
話の続きがあるように言葉を区切り、含みを持たせた後に久世さんは言った。
「巽さん、よければもう少しつきあってみませんか?」
「……ああ」
ここまで来れば最後まで。
遠慮していて夜子さんの時のように後悔したくない。
「では行きましょう」
どこにとは言わないまま、久世さんは上流に向けて歩きはじめる。
俺もそれに付いていくと、少しして久世さんが口を開いた。
「《おに》の話の続きです」
《おに》を祓う前にしてもらった話は覚えている。しかし、久世さんは「それだけではありません」と語った。
《おに》は魔力の塊が瘴気を取り込んで発生する。なら別のものを取り込んだらどうなるのか。それが《かみ》だと久世さんは言った。
「《かみ》って、神様のことか?」という俺の問いに「巽さんの思っているものとは少しイメージが違うかと」という答えが返ってきた。
本来、霊脈には《かみ》が宿る。これいわゆる霊脈にとってのろ過装置という機構であり、神話で語られるような意思を持つ存在は極めて稀だということだった。
「ですが、ここには何らかの理由で《かみ》がいませんでした」
《かみ》がいなければ、霊脈が浄化されない。
結果として瘴気がその土地に滞留し、《おに》の温床となる。
「瘴気が常に見えるようになったのは、《おに》に襲われてから――ないしその前くらいからじゃなかったですか?」
「……確かに」
そう言われてみれば、思い当たることがある。
「その頃に《かみ》がいなくなった?」
「そう考えるのが妥当かと」
歩いていくうちに、どこへ向かっているのか何となくわかってきた。
「――着きましたよ」
辿り着いたその場所は御山の奥深く。
そこには枯れ果てた巨木の幹が静かに佇んでいた。
「巽さんはこの場所を知っているのでは?」
「……ああ、知ってるよ」
巨木の幹という御神体。その前に鎮座する小さな祠。俺が何度も墨を運んできた、俺が《おに》に襲われ、ナニかに救われた場所だった。
「昔はもっと静かだったような気がしたんだけどな」
かつてのこの場所に感じたのは、冷たく静まりかえっているような雰囲気だけだった。
「それはここの霊脈の流れが狭まっていたからです。巽さんの家が魔力の込められた呪物で応急処置していましたけど、あくまでも応急です。そんな状態では《かみ》がいてもまともに機能しませんから、夜子姉さんはまず霊脈を堰き止めてダムを作りました。それを私が一気に開放することで狭まった霊脈を押し広げることができたんです」
今の御山は全体に満遍なく霊脈が通い、まさしく息を吹き返した。
それはこの場所も例外ではなく、以前の冷たさは消えてどこか温かさを感じる。
「ただ、いくら霊脈の流れが正常になったところで《かみ》がいない状態では瘴気の浄化もままなりません。だから、霊脈をできるだけ正常な状態にするために溜めこんだ瘴気を《おに》に吸わせてまとめて祓う」
《もの》としての瘴気に意思は宿らず、その量は膨大であれば力のある魔術師であっても祓うのは容易じゃない。
しかし、意思を持つ《おに》が瘴気を取り込めば話は別だった。魔術師の力量にもよるが、意思のある相手であれば今回のように誘導することもできる。
夜子さんのしていたことには《おに》を見逃したことも含めて全て意味があった。
「最初から夜子姉さんの目的はただ一つだったんです」
この御山の《かみ》を再び機能させること。
そう、久世さんは言った。
「……もしかして、昔――俺が《おに》に襲われた時に助けてくれたのは、ここの《かみ》ってことなのか?」
「それはわかりません。さっきも言ったように
「けど」と久世さんは言った。
動機は年月が経つにつれて忘れられていきながらも、何代にも渡って自分を支えようと呪物を納めていた墨師の一族。死に体だった《かみ》が最後に気まぐれで瀕死になった一族の少年を助けた。
「そう考えた方がロマンがあっていいと思いませんか?」
「……そうだな」
実際のところどうなのかはわからないが、何にでも明確な答えがあるわけじゃない。それなら、そう考えた方が個人的な落としどころとしてはいいのだろう。
そう思ったことで、なぜここに来たのかという疑問が湧いた。
「ここには何で――」
「あ、ちょっと待ってください」
久世さんに手で制され、黙り込む。
彼女の視線は御神体に向けられている。それから時間も経たず、変化が起きる。
枯れた幹から浮かんできたのは、仄明るく光るぼんやりとした球体のようなもの。輪郭がぼやけているため、それの正確な形を把握できない。ただ、何となしにわかる。祠の前にいた煤の神様。同じ気配がこれからしている。
「《かみの子》です」
言いながら、久世さんが小さな壺のようなものを上着のポケットから取り出す。暗がりで見えにくかったが、それが幾枚もの和紙を重ねて作られたものだとわかった。
俺の見ている前で、久世さんはとても優しく、柔らかな仕草で温かく光る《かみの子》を手の平で包み込み、紙壺の中に入れた。
目的のものはそれかと思いながら、気になることを訊いてみる。
「大丈夫なのか? それがないとまた同じ状況になるんだろ?」
「これは《かみ》の上澄み――不純物ですから問題ありません。これが出てきているなら、ここの豊かな霊脈であればじきに新しい《かみ》も生まれます」
「それにこれは正当な報酬です」と久世さんは言った。
「この山のために大変な思いしたんですから、相応のものを貰ったところでバチなんて当たりませんよ」
紙壺をポーチにしっかりしまったことを確認した久世さんは俺に向き、あっさりと言った。
「さ、それじゃあ帰りましょうか」
ここでやることは全て終わった。
そんな晴れやかな顔の久世さんに促され、俺たちは御山を下りていった。
帰路の途中、共通の話題――夜子さんのことをお互い話すことはあったが、それだけ。
特に何をするでもなく、それぞれの分かれ道に差し掛かったところであっさりと別れ、俺にとっては幼少の頃から続いていた御山での一件は静かに幕を閉じた。
「でかい体して貧弱でしたね」
御山での一件後、突然の高熱に見舞われてから二日が経ち、平熱を取り戻した俺は久世さんの事務所を訪れていた。
ここに来る前に連絡していたが、改めて二日間の状態を伝えると久世さんはけらけらと意地悪く笑った。三日前、初めてここに来た時には見られなかった表情。変に大人びていない年相応の笑顔だった。
「あんなことがあったんだから、普通呪われたと思うだろ」
ただ《おに》の濃い瘴気に当てられただけ。高熱にうなされながら必死に連絡した時に久世さんから言われたのは『ほっとけば治りますよ』という一言だけだった。
「それでビビり散らして電話してきたと。巽さんも可愛いところありますね」
「うるせえ」
「まあ、回復早い方ですよ。人によっては一週間くらい当てられることもあるくらいですから」
「墨の灰も変えないといけないし、そんないつまでも熱出してられねえの」
この期間でよかったことと言えば、気温があまり下がらなかったことくらい。おかげで新しい墨を作れなくても罪悪感が湧くことはなかった。
「あ、そうそう、それです。約束の物は持ってきてくれましたか?」
「いや、そりゃ持ってきてるけどさ……そういうのは俺から言うまで待つとかさ」
言いながらも、期待の眼差し向けられてしまうとそれ以上言う気もおきなかった。
かつては俺のじいちゃんと夜子さんがした約束。そのどちらもいなくなった今、久世さんと俺の間で新しい約束をした。
持ってきた肩掛け鞄を開け、そこから約束の物を取り出す。
「三本」
桐箱に入れられた墨を三本。
それを机に置いても久世さんはただ微笑んでいるだけ。顔がいいだけに憎たらしいと思いながらも、再度鞄に手を入れる。
「……に二本足して五本だ。大事に使ってくれ」
押しに押されて月に五本。
大人しそうに見えて口の方は姉の夜子さんよりもずっと達者だと痛感させられたが、嫌な気はしない。俺が持っているよりも、ちゃんと使ってくれるならそれでいい。
「ええ、もちろんです」
ほくほくな表情。
すぐに五本の桐箱を手元に引き寄せるあたり、ちゃっかりしている。
「夜子姉さんは呪物の扱いが雑でしたけど、その点私は呪物の扱いに関してはそれなりの腕前を自負していますので。この墨もより有効に使わせてもらいます」
姉妹だからだろうか。会話に時折対抗心が見え隠れしている。
憧れだけでなくちゃんとそういった部分もあるのだと、何というか俺が思うのは変な話かもしれないが安心した。
かつて夜子さんがいた事務所。
『成人したら助手にしてあげてもいいわよ』
そう言ったあの人がいた頃には訪れることのなかったこの場所に、今、俺は来ている。
そんな妙な感慨に耽っていると、「それでは改めまして」と言いながら久世さんは改まって姿勢を正した。
「つきましては、これまでよりもより一層のお付き合いをお願いしますね」
夜子さんとのことには確かに後悔している。もしかしたらこの思いは一生抱えるのかもしれない。ただ、今この時のことはきっと後悔しないだろう。それだけは、確信を持って言える。
「こちらこそ、よろしく頼む」
そう答えた瞬間、ふと、俺は自分の掌に視線を落とす。
楔を握った時についた傷。《おに》を殴った感触。
知らない頃には、もう戻れない。
《おに》に襲われた、小学生の頃。
あの夜から、俺は御山に混ざってしまったのだから。
極彩の黒 ――御山混ざり みたらし @tamakuro0214
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