木漏れ日堂の解けない栞

石踊

第1話 木漏れ日堂の解けない栞

東京の片隅、銀杏並木の通りを一本入った場所に、その店はある。古本屋『木漏れ日堂』。店主のしおりさんは、二十代後半という若さながら、古い本の匂いと静寂を愛する不思議な女性だ。


大学二年生の僕は、ここでアルバイトを始めて三ヶ月になる。仕事は主に、買い取った本のクリーニングと棚卸しだ。


正巳まさみ君、そのミステリーの文庫本、少し丁寧に拭いてあげて。前の持ち主のが残っているみたいだから」


カウンターの奥で、栞さんが眼鏡を指で押し上げながら言った。彼女は本を一目見ただけで、その本がどんな風に扱われてきたかを見抜く、鋭い観察眼の持ち主だ。


僕が手に取ったのは、三十年以上前に出版された一冊の推理小説だった。表紙は少し日焼けしているが、大切にされていた形跡がある。パラパラとページをめくっていると、一枚の栞が床に落ちた。


それは市販のものではなく、厚手の画用紙を丁寧に切って作られた手作りの栞だった。裏返してみると、そこには細い万年筆の文字で、こう記されていた。


"青い扉の鍵は、紫陽花の下にある。3月15日、14時に待つ。嘘はつかないで"


「……これ、なんですかね?」


僕がその栞を差し出すと、栞さんの瞳が少しだけ鋭くなった。


「3月15日……奇遇ね、今日は3月10日。今から5日後のことだわ。でも、この文字の掠れ具合からして、書かれたのは最近じゃない」


栞さんは栞を光に透かし、紙の質感を確かめる。


「正巳君、その本を誰が売りに来たか覚えている?」

「はい、確か一週間ほど前だったと思います。品の良い、でもどこか寂しげな老婦人でした。『遺品整理の一環で』とおっしゃっていましたけど……」


僕たちは、その老婦人の名簿を辿った。《佐倉さん》というその女性の住所は、店から歩いて十分ほどの古い住宅街にある。


「ミステリーの基本は、『なぜこれを挟んだまま手放したか』よ」


と、栞さんは言う。


「もし、これが単なる忘れ物だとしたら? あるいは、誰かに宛てた――届かなかった手紙だとしたら?」


栞さんは店を僕に任せ、数時間ほど外出していった。彼女の言う調査が始まったのだ。




夕暮れ時、戻ってきた栞さんの手には、一枚の写真があった。


「分かったわ。佐倉さんの家の近くに、かつて青い扉を持つアパートがあったの。今はもう取り壊されて公園になっているけれど、その隅にだけ、当時の面影を残す古い物置小屋があるわ。そして、その横には枯れた紫陽花の株が……」


僕たちは閉店後、その場所へ向かった。月明かりに照らされた公園の隅。確かに、錆びついた青い扉の小さな小屋があった。


栞さんの指示で、僕は紫陽花の根元を軽く掘り返した。すると、泥にまみれた小さな缶が出てきた。中に入っていたのは、一本の古びた鍵と、もう一枚のメモ。


「ごめんなさい。約束の場所へは行けません。でも、あの日見た青空だけは本物でした」


栞さんは、静かに謎解きを始めた。


「あの本の持ち主だった佐倉さんは、かつてこの場所で誰かと待ち合わせをしていた。でも、相手は来なかった。あるいは、彼女自身が行けなかった。この栞は、彼女が読み返していた本の中に、ずっと閉じ込められていた後悔だったのね」


「じゃあ、この本を売りに来たのは、その思い出を整理するためだったんですか?」


「いいえ。彼女がこの本を手放したのは、『見つけてほしかった』からよ。彼女はもう目が見えにくくなっていると言っていたわ。自分が持っているよりも、誰かの目に触れることで、この物語を完結させたかったのよ」


翌日、僕たちは見つけた鍵とメモを、佐倉さんの元へ届けた。 彼女は震える手でそれを受け取り、「ありがとう」とだけ言って微笑んだ。その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。


店に戻り、僕は再び棚卸しを始める。 本の中には、物語の外側にさえ、誰かの人生が挟まっている。


「正巳君、次の本。そこには何が隠されているかしら?」


栞さんの悪戯っぽい微笑みに、僕は「次はただのレシートだといいですね」と苦笑いして答えた。

古本屋『木漏れ日堂』の夜は、ページをめくる音と共に、静かに更けていく。

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