某社主催・怪談語りイベントにおける講演談話の記録
はまりー
第1話 2025年12月7日 『実話怪談・帰れない語り部たち』書き起こし
これは2025年12月7日(日)、福岡県那賀川町・福岡CUBEレクチャーシアターにて開催された『実話怪談・帰れない語り部たち』というトークイベント中に語られた、とある人物の怪談の書き起こしである。
会場は『二十代の学生・起業家主体で運営されるイベント・講演会会場』として創設されたもので、大ホールの216席はすべて若い観客で埋め尽くされた。
壇上に立った男性の詳しいプロフィールは不明だが、その職歴については直接、生々しく、語りの中で語られていく。
この書き起こしはイベントの主催である株式会社ホラー・インサイト・ラボ(HIL)の許可の元、ここに転載されている。
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(拍手。登壇する足音)
どうも、はじめまして。福岡市中央区から参りました、はまりーと申します。第二種電気工事士、危険物取扱者乙種4類、二級ボイラー技士、第三種冷凍機械責任者、建築物環境衛生管理技術者……の資格保持、ビル管理員をもう三十年やっております。
えー、大変緊張しております(笑い)。わたしは工業高校出身でして、電気科なんかに入っちゃったもんですから、朝は6時から回路や工作の実習、放課後は柔道部の部活に明け暮れておりました。華やかな学生生活とは縁遠かったもんですから。こうやって壇上から若い皆さんの姿を見ておりますと、なんとも……
(長い沈黙。会場のざわめき)
……や、失礼しました。職業病でして。つい天井を眺めてしまいました。ここはまだ水銀灯を使っておられるんですなぁ。もう製造も輸入も禁止されているはずですが、設計者さんのこだわりを感じます。ただここの天井が高すぎるのが厄介ですね。モノタロウや山善で売っているような3600のいちばん高い脚立を用意しても届かない。二段はしごでもムリでしょう。となると昇降機を使われているのかな。ここの管理員の方は苦労されてるでしょうねぇ。水銀灯は取り外しにちょっとしたコツがいるんですよ。近いうちLEDに総入れ替えってことになるんでしょうが、あのシーリングハッチの小ささじゃ、配線工事をするのも大ごとですなぁ。
独り言が長すぎますね(笑い)。申し訳ありません。こんな調子でわたしはただのブルーカラーのおじさんに過ぎません。そんなわたしに出演の依頼があったときには身分不相応なお話だと思いました。ただ、それでも依頼を受けたい、と思った強い動機がございました。
みなさん「友達が乗ったタクシーの運転手から聞いた怪談」は耳にされたことがあるでしょう。「姉の同級生の看護師から聞いた怪談」も耳にされたことがあるでしょう。じゃあ直接、タクシーの運転手や看護師から実話の怪談を聞いたことがある、という方は手を挙げてもらえますか……ひとりもいらっしゃらない。そうでしょうね。ブルンヴァン云うところの典型的なFOAF(Friend Of A Friend)ですね。なぜ恐怖体験をした本人が怪談を語らないんでしょうか。
わたしはね、彼らが「忙しいから」だと思いますよ。ことばを額面通りに受け取っちゃいけません。仕事量が多いって意味じゃない。職業人は取捨選択をしなきゃいけないってことです。どんな仕事でもです。幽霊や心霊現象に出会ったからって、それで怖くなって辞表を出すわけには行かない。貧困は幽霊より怖いですからね。見えていても見ないフリをしなきゃいけないこともある。気づいても忘れなきゃいけないことも。そうでなきゃ仕事をつづけられない……そんな事情だと思いますよ。彼らが口を閉ざす理由はね。
でも、もういいんじゃないか。そんな気もするんですよ。コンプライアンスをいったん脇に置いて、本当に味わった怖いことを誰かが話し始めれば、あとにつづく人もいるんじゃないかと思います。いろんな職業の人が自分の体験を語り始めて、それでこの世界の“怖さ”の解像度が上がることもあるんじゃないでしょうか。
そんな思いで、ひとりのビル管理員としてわたしはこの壇上に立っております。
どうか、わたしの体験を聞いてもらえますか。
(拍手)。
『8番出口』というゲームは、映画にもなりましたが、名前を知っているよ、という方、おられますか……おお、すごい、ほとんどの手が挙がりましたね。一時期はYouTubeで、あのゲームの実況を見ない日はない、って盛況ぶりでしたからね。
あのゲームに出てくる長い通路に、三つの扉が並んでいたのを覚えていらっしゃいますか。「清掃員控室」、「分電盤室」……あとひとつはなんだったかな。ああいう扉を現実でも見かける機会は頻繁にあると思います。それこそ通勤中の地下鉄の通路、皆さんが勤めていらっしゃるビルの壁、美術館や遊園地……どこにでもあるはずです。無ければ法律違反、と決められた施設もある。その扉を見たときに「この向こうには何があるんだろう?」と好奇心が沸いた方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。あえて質問はしませんが、きっと挙がる手の数はぐっと減るでしょう。そう、皆さんも忙しい。見なくていいものは見たくもないでしょう。
でも、わたしは『8番出口』の扉の向こう……ホラーゲームではなく、現実にある扉の向こうに何があるのか、そこにどんな人間がいるのか、ぜんぶ熟知してます。そこがわたしの仕事場所だからです。わたしたちは地下や天井や通路の裏側、目に見えない場所にいるんです。分電盤室、非常用自家発電機の置かれた電気室、ボイラー室、空調機室、天井の裏やダクトの中やビルの屋上。そこにある配線、配管、センサー、セキュリティ機器を保持するのがわれわれの仕事です。
ホワイトカラーとして働いてらっしゃる方は、わたしたちの存在に気がつかない方も多いでしょう。蛍光灯がチカチカして仕事に集中できない(LEDの登場でだいぶ減りました)。トイレの水が止まらなくなった。コンセントの上にコーヒーをこぼしてパソコンの電源が落ちてしまった……そんなときに皆さんはまず総務か庶務に連絡されるでしょう。そこからわたしたちに依頼がきて、わたしたちは仕事をして静かに去っていく。まるで童話に出てくる働き者の小人みたいじゃないですか? 童話みたいに可愛くないのは、わたしたちが姿は見えないのに、どこにでも入れる図々しい存在であるところです。
皆さんがホワイトカラーであるならば、セキュリティICチップの入った社員証を持っている、という方は多いでしょう。顔認証や指紋認証も増えたかな。網膜認証や声帯認証は普及してないでしょうね。あれはコストが高い。
当然ご存じだと思いますが、あなたが営業部所属であれば人事部の入り口のセキュリティはパスできない。部署ごとに通過できるドアは決められている。これはその人の社会的地位には関係ない。部長や社長であっても、自社ビルのすべてのドアを開けられるとは限らない。入退室管理システムにそう設定してある。
ビル管理員はすべてのセキュリティを通過できるほとんど唯一の存在です。警備員よりもその範囲は広い。社長の目の前で社長室で作業することもある。女子更衣室に入ることもありますし、女子トイレでウォシュレットの取り替えをすることもある。金庫室にも入ります。その部屋に小さな分電盤があるならば定期的にチェックに入る法的義務がある。漏電警報なんて上がった日にはそこがどこだろうと全速力で走って駆け込む。もちろんよからぬことをしようなんて思いませんよ。不思議とそういうたぐいの人間はこの業界には入ってきませんね。
鍵穴に回して開ける、あの物理的なカギもそうです。マスターキーという名前を聞いたことがある方は多いでしょう。団地の管理人さんが持っている、団地のどの部屋でも開けられるカギです。ホテルの清掃スタッフの方なんかは、フロアごとのマスターキーを持っておられます。
でもその上にグランドマスターキーがあり、グレートグランドマスターキーがある……ということをご存じの方は少ないんじゃないでしょうか。わかりやすく大学の建物で例えるなら、各研究室のドアを閉めるのが通常のキー。学科に属する研究室のカギをぜんぶ開けられるのがマスターキー。大学全体のどのカギでも開けるのがグランドマスターキー、そんな感じです。
ビル管理員はさらにその上のグレートグランドマスターキーを扱うことができます。これは本当に、そのビルのすべてのカギを解錠可能です。もちろん勝手に使えるわけがない。情報漏洩になるので詳しく説明はできませんが、尋常ではない厳しい管理下・監視下で、ビル奥のとある場所にただ一本だけ保管されています。合鍵は作れないんです。持ち出して紛失なんてしたら失職じゃ済みませんね。莫大な賠償金を背負うことになるでしょう。ビルのドアのカギすべてを入れ替える以外に対処法はありません。わたしもそのキーを使ったことは人生で2回しかありません。使うときは本当の異常事態です。そのうちの1回の話を後にすることになると思います。
「ぜんぜん怪談が始まらないじゃないか」と思った方、申し訳ありません。もう少し仕事の話がつづきます。とにかくビル管理員というのは「普通の人が入れないところに入り、普通の人が体験できないことを体験する」職業だと思っていただければさいわいです。「幽霊より怖いのは人間だ」なんてありきたりな体験も、山ほどありました。
もうずいぶんむかしの話ですが、勤めているビルの5階から仕事の依頼が入りました。誰もスイッチを入れていないのに、ブラインドが上がり下がりする……そんなクレームでした。電話を受けた時点で頭の中に不具合の原因が5つくらいパッと浮かびますが、まぁ9割は電磁波や高周波などの誘導ノイズです。1割が制御基板の不具合で、これはむかしながらのハンダゴテを使った作業をする必要がありますが、滅多にありません。ビルの外部の電線、電柱、無線機……まぁ特定はできませんが、どこからかノイズが流れ込んできて、コントローラーに誤信号を流しているということがほとんどです。
それだったら対処は簡単です。ブラインドのコントローラーを取り外して、配線にアルミテープを巻く。それだけ。アルミは電磁波を反射しますからね。超お手軽なシールドケーブルというわけです。微弱なノイズならそれでハジける。
ところがその日はそれで済まなかった。2階、7階、6階、といった具合に同じ内容のクレームがぞくぞくと届く。急に多忙になった瞬間、隣に立った同僚があっと声を挙げました。わたしも同時に気づいた。ビルってのは四角いですから、東西南北の面があるわけです。クレームがあったのはビルの西面の区画だけでした。わたしと同僚はあわてて外に出て、ビルの西側に走りました。
そこには二車線の道路が通っていて、特別駐車区域でもなんでもない道路の真ん中に大きなトラックが止まっている。10t以上はあったでしょうね。わたしは同僚に通報をまかせて、トラックに近づいてドアを強めに叩きました。わたしの目線の高さにあるドアが開いた。いかにも……と云ったら失礼かもしれませんし、すべてのトラック運転手さんがそうだと云うつもりもありませんが、顔に“ヤカラ”と書いてあるような目の鋭い男が、こっちを睨んでくる。運転席が「DJブースみたいだな」と思ったのを忘れもしません。あきらかに運転に不必要な無骨な機械がびっしり詰め込まれた空間の真ん中に男は座っていました。その男が不機嫌そうな声でなんや、おまえ、と訊いてくる。とにかく車から下りてください、とわたしがいうと露骨に舌打ちして、男は手にした無線機のスイッチを入れました。「ちょっと待っとけや。チンピラに因縁つけられとる」。その瞬間ですよ。すぐ先にあった交差点の信号機が、四面ともパッと青に変わったんです。
同僚の通報ですぐ警察が駆けつけてくれましたが、それまでは修羅場でしたよ。殴られはしませんでしたが、作業服の襟元掴み上げられて、顔の前で罵られて、顔が唾だらけになりました。
まぁ、これは相当古い昔話でしてね、いまではそこまで高出力の無線機を積んでるトラックなんていない……と信じたいもんですが。
それから時代が流れて、わたしが夜勤をしていた、とある夜のことでした。
ビルの規模にもよりますが、大概のビル管理員はひとりで夜勤を行います。夜になればビルの人口が減る。クレームも減るので現場の作業は減る。そんなときには朝までひとりでしのぐわけです。鼻歌まじりにスマホいじってていいわけでもないんです。点検や事務作業がありますんで。
あれは25時を回ったあたりでしょうか。一本の電話が鳴りました。
相手は顔見知りの、5階のデザイン事務所の課長さんでした。自分はもう帰るので事務所を閉めるけれど、ブラインドが一台、勝手に上がり下がりしているので朝までに直しておいてほしい。そんな仕事の依頼でした。
わたしが業務用エレベーターで5階に上がったときには、すでにフロアにはひとけがありませんでした。最近は節電で夜間の通路照明を切られているビルも多いです。ほぼ真っ暗で、非常灯の緑色の光だけが廊下をおぼろげに照らしていました。
懐中電灯をつけて、セキュリティを解除し、中に入って事務所の照明をつけます。もちろん中には誰もいません。
「誰もいない森の中で木が倒れたとき、その音は鳴ったと云えるのか」という哲学の問いがありますね。みなさんは「誰もいない自分の職場」を見ることはできません。そこには少なくともあなたという観測者が存在しますから。しかし清掃、警備、ビル管理といった職業に就くと、そんな光景を目にするのが日常になります。
システム机が二列、向かい合わせに並んで、その上には真っ暗なモニターが並んでいます。ひとむかし前はその会社のロゴが入ったスクリーンセーバーが舞っている光景をよく目にしましたが、いまはほとんどの方がスリープ状態にして帰宅されます。真っ黒な板が机の上に整然と並んでいるのを見るのは奇妙な感じがするものですよ。あまり縁起の良くない連想をしそうになります。
職業倫理上、あまり事務所の中をジロジロと観察するのは好ましくありません。ただそんなときには望まなくても、いろんなものが目に入ってきてしまう。
大きな裁断機。窓際にぽつんと置かれたステープラー。棚の上に置かれた社内大会の優勝トロフィー。ストローを差したまま机に放置されたマウントレーニアのカップ。ピンク色の小さな扇風機。可愛いキャラクターの小さなぬいぐるみ。
廃墟マニアの方が見ても楽しめる光景ではないでしょう。そこにはさっきまで人が忙しく働いていた空気が残っている。日々の営みの確かな実感がある。ただ、自分以外に人はいない。なんというか、部屋の中に倦怠が混ざりこんだような沈んだ空気が充満している。そこに。
ガーッ。ガーッ。
部屋の奥の方から、ブラインドが上下する駆動音が聞こえる。誰も操作する人間はいないのに。
たしかにゾッとしない光景ですが、わたしの頭のなかには別の懸念がありました。そう、ずっと昔、車道に止まっていたあのトラックの一件です。
上下動するブラインドが上がりきったタイミングで、わたしは窓に近寄り、外を眺めました。
真夜中ですが、ビジネスビルが建ち並ぶ街中ですからね。街灯もあるし、うちのビルからの照明の反射もある。道路の様子はなんとなく見てとれました。
トラックは停車していませんでした。通り過ぎる車の姿も一台もない。
二車線の道路のど真ん中に、男――だったと思います、確信はありませんが――が立っている。その男の様子がどうにもヘンなんです。道路の真ん中に立ったまま、くねくねとした妙な動きをしている。
男は黒いパーカーを着て、フードを深く被っていました。真っ白なマスクをつけていて顔はよく見えない。ズボンも黒、スニーカーも黒、上から下まで黒一色です。
そんな格好をした男が、夜中に道路の真ん中で奇妙に身体をくねらせている。右手を高く突き上げたまま、腰から身体を曲げて、右へ、左へ、ゆっくりと交互に傾く。手を振っている、というより身体全体を揺らしている感じでした。
そのうち気づきました。
男がゆーっくりと右に傾く。すると目の前のブラインドがゆっくりと上がっていく。
ゆーっくりと左に傾く。こんどはブラインドはゆっくりと下りていく。
偶然と呼ぶには出来すぎているくらい、男とブラインドの動きは完璧にシンクロしていました。わたしはしばらく呆然とその光景に見入っていました。
何度目かのシンクロのあと、わたしの目線のすぐ上で、ブラインドのボトムレールが止まりました。
見下ろすわたしの視線の先で、男はいつのまにか踊りを止めていました。両足を揃えて、道路の上に直立している。
そのとき、視界の右側から近づいてくるヘッドライトが見えました。声を上げる暇もなく、一台の自家用車がスピードを落とすことなく男を跳ね飛ばしました。
跳ね飛ばしたように思えたんです。
しかし目をつぶったときには、急ブレーキの音も悲鳴も聞こえませんでした。
ふたたび目を開けると、自家用車は何事もなく通り過ぎ、男はさっきまでとまったく同じ場所に立っていました。
男はゆっくりとフードを挙げました。そのときわたしは自分の間違いに気づきました。男は白いマスクなんてつけていなかった。顔全体が、そして頭髪の一本も生えていない頭部まるごとが、脱色したように真っ白だったんです。
男はゆっくりと目線を挙げていき、やがて5階の窓際にいるわたしがいるあたりを見つめました。そして、にたり、と微笑んだ。血の気のない唇の奥には歯が一本も見えませんでした。距離があったはずなのにはっきりわかりました。ヤツはわたしを見ている、と。
男は何かを叫んでいる……ようでした。5階までの距離がありますし窓は閉まっていましたから内容はわかりません。そしてさっきまで頭上に挙げていた右手を前に突き出し、わたしの顔を指さしました。
その瞬間、まるで魔法の杖を振ったように、止まっていたブラインドが下りはじめて、男の顔が見えなくなりました。下がっていくブラインドの向こうに最後に見えたのは、こちらに向かって全力で走ってくる黒いスニーカーの爪先でした。
わたしはボトムレールがいちばん下まで下りたことを確認すると、すぐにLANケーブルと電源コネクタを外し、指を突き出して「よし」とつぶやきました。
事務所を出て、近くの分電盤に向かいます。ブラインドのブレーカーを確認して、それを落とす。事務所に戻ると腰の工具入れからポケットテスターを出して、電圧がゼロなことを確認しました。次はニッパーを持ち、ブラインドの中から電源ボックスを引きずり出す。赤と黒の電源線を切り、それぞれに絶縁テープをしっかりと巻く。現場を復旧したあとは分電盤のブレーカーを戻し、止まったまま動かないブラインドに「故障中」の札を貼って、そのまま5階を後にしました。
監視室に下りて、最後の仕上げとして、年次更新計画のセルを組み替えました。5階のブラインド更新を最優先にして、念の為に稟議書も上に提出しました。それでわたしの「除霊」作業は完了です。
一ヶ月後には業者があたらしいブラインドを持ちこんで、更新作業は完了しました。タチカワの最新型ですわ。コードレスでノイズフィルタつき、シールド構造まで完備した優れものです。それ以来、5階からはブラインドの件で苦情が来たことはありませんし、あの男の姿も見ていません。他の従業員からも、そんな男を見たという報告は聞いていませんね。ざまぁみろですわ。
(会場から男性が声を上げる)は、なんですか?……話のオチ、ですか? いや、ですからもうオチてます。除霊は完了したってわたし、云いましたよね。ここから先の話はありませんよ。
……わたしが怪談をバカにしている? オカルト否定派?
とんでもない言い掛かりです。わたしは怪談もオカルトも大好きです。
いわゆるポルターガイスト現象についても否定はしません。岐阜県富加町の幽霊マンションで棚から食器が水平に飛び出したという話。おぎやはぎの小木さんが深夜に聞いた階段を上がってくるスリッパの音。沙花叉クロヱさんが体験した勝手に開く扉や、触れていない蛇口から流れてくる水……わたしはそれらの体験は掛け値無しの真実だと信じています。それは実際にあったことだったんでしょう。
ですがね、この世には変えられない法則というものがあり、変えられない式というものもある。(ホワイトボードにペンが走る音)
P=τ×ω
これです。
……あのー、すいませんそこの最前列の男性の方、急に顔を背けるのを止めていただけますか(笑い)。大丈夫です。小難しい話をするつもりはありません。
「フレミングの左手の法則」というのをみなさんも学校で習われたでしょう。磁界中にある導線に電流が流れると、電力は動力に変わります。モーターが回る仕組みです。
モーターを回転させる力の大きさをトルクといいます。トルクにモーターの角速度を掛けると出てくる積、それが出力です。この式は「回転運動における出力とトルクの関係式」と呼ばれていますが、この式を使えば5階のブラインドを動かすのに必要な力がわかります。業務用ブラインドの動力は家庭用の100Vではなく200V。ブラインドの幅は4000くらいでヘッドボックスからボトムレールまでぜんぶの重量がほぼ15kg。巻き取り軸の半径は2。暗算でざっと計算して……巻き取り軸を電力なしで動かす場合、必要なトルクは15から20ニュートンメートルくらいでしょうか。これはかなり大きい数字ですよ。問題は巻き取り軸が2ミリしかないところですね。摩擦も抵抗もある。たとえて云うなら筋肉ムキムキのアスリートに、爪楊枝ほどの大きさのドライバーを持たせて、米粒ほどの大きさのねじを回させるような感じです。さすがのアスリートの顔も真っ赤になるんじゃないでしょうか。
わたしの結論はひとつです。
幽霊なのか怪異なのか知りませんが、あいつは非力だったんですよ。物理法則には勝てないザコだった。ただ、それだけの話です。
……はい、そこの手を挙げている女性の方。
わたしが幽霊否定派なんじゃないのか、とお尋ねですか?
(長い沈黙)
(ため息)
そんなこと、あるわけないじゃないですか。
わたしが三十年で過ごした夜勤のあいだに、幽霊や、理屈では考えられない奇妙な現象に、どれくらい遭遇したと思ってるんですか。何回? 何十回? 数なんて数えられないですよ。山のようにあります。仮眠室の近くで鎧武者の幽霊を見た、といううわさが立ったことがありました。わたしも見ましたよ。夜中に警報で叩き起こされて仮眠室のドアを開けたら、目の前にそいつが立ってました。舌打ちしてただその横を通り過ぎましたよ。
わたしを仮眠から起こしたのは無停電装置(UPS)の作動警報だったんです。勤務地の周辺で瞬間停電が起きた。すぐに九電から通知が来ました。地下では無電力を感知した自家用発電機の駆動音がガンガンに鳴り響いてました。
上の階にいるお客様の中にはサーバーを運用されているところも少なくありません。復旧しないまま非常用電源が切れたら大惨事ですよ。すぐに全作業員に電話して叩き起こし、夜中に総出で復旧作業とチェックを終えましたよ。結局、24時間勤務が48時間勤務になって、ビルの外に出たときには意識が朦朧としていました。
ブラック企業?……そうは思いませんね。何もない平日には沈む夕陽を見ながら歩いて日暮れまでには家に帰れますから。この仕事をはじめて教えてくれた先輩は、電験一種を取得した非常に優秀な方でしたが、昭和の長崎大水害のときにはたまたま現地にいて、一ヶ月家に帰れなかったそうです。泥と汚水で汚れた床に寝て、乾パンと缶ジュースで飢えをしのいで作業をしたと。世の中にはそういう役回りもある、ということです。
毎日、どこかでピリピリしています。大きな地震があればたとえそれがチリやアルゼンチンでも社内LINEで通知が回ります。大雨が降れば防潮板の用意がいる。台風が来ればそこら中で養生ロープを張らなきゃいけない。そんな毎日を送っていると、どうしても幽霊の対処なんて優先順位は落ちていきます。
何かあったとしても家についたら焼酎を飲んで寝る。寝たら忘れてしまう。たぶん、それがいちばん賢い対処法なんです。タクシー運転手さんや、看護師さんも、きっとそうやって日々をしのいでいるんでしょう。全員がアルコールに頼っているとは思いませんがね(笑い)。
わたしが今夜、この壇上に立っているのは、鎧武者の幽霊の話をするためじゃありません。
わたしが職業人として過ごしてきた三十年で、どうしてもこころから拭いされない、深い後悔と共に胸に刻まれた、忘れられない事件がありました。
後悔しているのは、人がひとり亡くなっているからです。しかもわたしと親しい、あえて断言しますが、友人でした。
最初にお伝えしましたね。ビル管理員というのは「普通の人が入れないところに入り、普通の人が体験できないことを体験する」職業だ、と。
いまからお話するのは、この仕事に就かなければ、そもそも体験することもできなかった怪談です。
この話をすることで、わたしはかなり大きなリスクを背負います。霊障ではありません。社会人として罰則を受けるリスクです。それでもどうしてお話したい。そのためにわたしはいまここに立っている。
それでは、わたしの最後の話を聞いてください。
うちのビルにAさん、という清掃員の女性がおられました。
Aさん……ね。やっぱり止めます。仮名が必要とは云え、親しかった人をアルファベットで呼ぶのはどうにも抵抗がある。もう少し人間らしく、かつ仮名であることがわかるように、田中さん、と呼びましょう。
田中さんはその当時で75歳。年齢に驚いた方もおられるかもしれませんが、清掃業界では普通ですよ。その年にしては元気すぎるというか、とにかく気が強くて、気に入らないことがあるとビルオーナーやテナントの経営者にも食ってかかる。それでいて姉御肌、というか妙な人間味がありましてね、あるテナントの社長なんかは、彼女のことをやたらと気に入って、新卒の面接のときにはわざと男子トイレの掃除をしていてくれ、と頼み込んできたそうです。田中さんがトイレに入ってきたときに舌打ちしたせいで面接を落とされた就活生もいたことでしょう。
それでいて本当に細かいところに気の回るひとで、わたしが仕事で凡ミスをして落ち込んでいると、食堂の厨房に掛け合って、余ったおかずやらフルーツやらを夜勤のときに差し入れしてくれるんです。何も云わず、にこにこ笑いながらね。本当に救われた思いがしたものですよ。
清掃員の朝は早いです。ある日、太陽が昇る前に、田中さんはビルの正面入り口の前を通りすぎて、従業員通用口の方に向かって歩いていました。彼女の10メートルくらい先を、6~7歳くらいの女の子がとことこと歩いて行く。まだ日は昇っていないからぼんやりとしか見えない。いまどき珍しいな、と田中さんは思ったそうです。ビジネスビルが建ち並ぶ場所で子供の姿を見ること自体が珍しいわけですが、そのことじゃない。女の子は肩紐の太い、赤いジャンパースカートを履いて、白いブラウスを身につけていたそうです。いまどきあんな格好をする女の子なんて珍しいな、とそのとき思ったそうですよ。
そうこうしているうちに女の子の方が先に通用口についた。声を掛けようか、と田中さんが迷っているうちに、ちょうど徹夜明けの従業員がドアから外に出てきて、女の子はすれ違いにすうっとビルの中に入っていった。
ああ、そうか、と田中さんはそこで突然腑に落ちた。その日はビル合同の職場参観日だったんです。お父さんやお母さんの職場に子供が見学に訪れる、よくあるイベントですね。そんなこともあるだろうな、と思って田中さんはそのときはそれほど気にしなかったそうですよ。
わたしはその女の子の姿を見ていません。わたしが通用口に到着したのは田中さんの10分くらい後でした。セキュリティを解除して一歩ビルに入ると、受付にいる警備員と田中さんが顔をつきあわせて大声で罵り合っていました。田中さんは極度の興奮状態で顔が真っ赤になっている。間にアクリル板がなければふたりは確実に首を絞めあっていたでしょう。
わたしはあわてて田中さんに駆け寄り、なんとか落ち着かせて事情を聞き出しました。
通用口に入ってすぐ、田中さんはそこにいた警備員に「さっきの女の子は誰の娘さんね?」と尋ねたそうです。ところが警備員は首を傾げて、さっき社員が一人退社しただけで、それ以外には誰もここを通っていない、と答えた。田中さんとしては女の子の姿をはっきり見ているわけですから、そんなことはありえない。あんた夜勤明けで寝ぼけとっちゃろ、とつい強い口調で云ってしまった。それで言い合いになった、という話でした。
わたしの頭の中で、すぐにピンと来るものがありました。ああ、“あれ”か、と。わたしは田中さんの耳元にささやくように、気持ちはわかるけれどこの話は誰にも口外しないでくれ、と頼み込みました。そこに居た警備員にもです。この三人だけの秘密にしてくれ、と。
わたしの最大の後悔はこのときの対応です。わたしは“あのうわさ”がまた再燃して、ビルの従業員全体の士気が下がることを恐れたんです。しかし秘密にするべきではなかった。恥も外聞もなくオーナーに直談判して、すぐにお祓いでもするべきだった。そうすれば何かが変わったかも知れない。結果的に、田中さんを殺したのはわたしということになる。
その日の二週間後に、田中さんは亡くなりました。
四階の共同通路で掃除機を掛けているときに、通路の角で突然倒れたそうです。幸い、昼間だったのでその様子を近くで見ている人がいた。すぐに救急車が呼ばれましたが、病院についてしばらくして病状が急変して亡くなったそうです。病名は虚血性心疾患による心筋梗塞。ブラインドの一件とは違って対処のしようがない。病気の前ではビル管理員は無力です。
田中さんが亡くなった日、わたしは非番でしたが知らせを聞いて通夜に出向きました。会場は田中さんの自宅でした。75歳の清掃員の自宅と聞かれて小さな木造アパートを思い浮かべましたか? 人生最後の職業で人の一生は計れませんよ。
田中さんの自宅は西公園のそばにある立派な一軒家でした。祭壇のある部屋から広い庭が見通せた。喪主は田中さんの長女で、わたしが生前田中さんに大変お世話になったことを伝えると、田中さんの最後の様子を話してくれました。娘さんが病院についたときには、田中さんはほとんど意識がなかったそうです。ただベッドの上で譫言のように「死にとうなか。埋められとうなか」と最後まで繰り返していた、と……正直、聞きたくなかったです。今際の際に遺すことばとして、これほど生々しいものもそうないでしょう。
通夜の翌日、わたしは夜勤でした。ビルの人口が少なくなる夜中を待ってから弔い合戦を始めました。
まずは監視カメラの映像確認です。監視カメラの映像は一週間保存というところが多いようですが、うちの監視システムはクラウドで三ヶ月保存しています。当然のことですがビルのすべての出入り口にはカメラがついている。田中さんと警備員が言い合いをしている場面を呼び出すのは簡単でした。正確な日時までわかっていますから。そこから0.5倍速で時を遡っていく。男性がひとり、ドアを開けて外に出て行くのが見えました。それからしばらくして田中さんが入ってくる。
女の子の姿はカメラに移っていませんでした。
次はエレベーターの運行記録の確認です。こちらの保存期間は三週間。確認するのにぎりぎり間に合いました。監視カメラの映像と照らし合わせると、田中さんが入ってくる前、すべてのエレベーターは停止していました。やがて一台のエレベーターが7階から1階に降りてくる。例の、田中さんが入ってくる直前にビルから退出した男性が乗っていたんでしょう。それからすぐあと、ちょうど田中さんと警備員が言い争っている時間に一台のエレベーターが1階から4階に上がっています。
わたしはふたたび監視カメラの映像に戻りました。4階エレベーターホールの映像はありませんが、そこからつづく共同通路には監視カメラがついていました。無人の通路の映像です。床が一瞬明るく照らしだされたのはエレベーターのドアが開いて中の照明が廊下を照らしたからでしょう。やがてエレベーターのドアは閉まる。そこから共同通路へと歩き出した人間は……誰もいない。
思わず、深いため息が漏れました。後悔、悔しさ、恐ろしさ、そのとき自分が味わっていた感情がなんだったのか、いまでもよくわかりません。きっとすべてが混ざり合った感情だったんでしょう。
鎧武者の幽霊のくだりでおわかりでしょうが、夜勤者がいるビルでは幽霊のうわさ話はつき物です。同業の友人が勤めている他のビルでは「江戸時代、ここは罪人の首切り場だった」といううわさが流れているそうです。古地図を調べたら江戸時代にそこは海だったと笑っていました。
まぁ、そんな根も葉もない作り話もある。すぐに忘れ去られていくうわさもある。ただ、わたしのビルにまつわる“古株の”うわさは少し変わっていました。
四階の共同通路の角に、小さな女の子の幽霊が出るというんです。べつにそれ自体は奇妙でもない。むしろスタンダードな幽霊譚でしょう。問題はそのうわさが四十年以上、消えたと思ったらまた浮かび上がってくる、不思議な生命力を持っていたことです。
最初に四階で女の子を見かけたのはこのビルの立ち上げメンバーです。わたしはそのときにはまだビル管理員ではありませんでした。当時のセンター長はもう亡くなっていますが、別に小さな女の子の幽霊なら悪さもせんやろう、ということで放置していたそうです。しばらくしてうわさが消えたと思ったら、数年おき、あるいは十年おきくらいで女の子の姿はたびたび目撃されている。そして田中さんみたいにうわさを知らなかった人が火種になってまたわっと話が広がる。わたしはそのうわさを入社当時から知っていました。うわさが立つたびにしばらく従業員が浮き足立つ。だからわたしはそのうわさを広めないように極力努力してきました。
しかし、今回はそれが裏目に出て、人がひとり死んでいる。
わたしは懐中電灯を片手に、監視室を出て、無人のエレベーターホールへと向かいました。
四階で下りるとホールはすでに真っ暗です。懐中電灯の灯りを頼りに通路を進む。田中さんが倒れたという通路の角までやってきました。そこには田中さんの痕跡は何も残っていません。それでもわたしは黙ってその場に両手を合わせ、黙祷しました。
通路の角を照明で照らします。光の当たったところ、角を曲がったすぐ先にドアがありました。ツルッとした表面にはなんの表示もありません。当たり前です。そのドアにネームプレートをつけるような頭の悪い建築士やデザイナーは日本にひとりもいません。
あるビルではその部屋のドアには「資料室」と書かれているそうです。あるいは「倉庫」と書かれたビルもあるかもしれない。その他のビルでは、その部屋のドアには何の表示もされていないはずです。わたしの勤めているビルのように。その部屋は存在を知られてはいけない部屋ですから。
わたしは後悔していました。4階の角で幽霊が出る。そのうわさを耳にしたときに、どうしてこの部屋の存在と幽霊を頭の中で結びつけなかったのだろう、と。
わたしの目の前にあるのは、竣工図書保管室のドアでした。
みなさんにお願いがあります。かなり不条理なお願いに聞こえるかもしれません。
わたしがいま口にした部屋の名前を、決してメモしたり覚えて帰ったりしないでください。ただの怪談の小ネタ……そう思って笑い飛ばしてもらいたいのです。
明日出勤してビル管理員に「竣工図書保管室はどこにあるんですか?」などとは絶対に尋ねないでください。絶対にです。相手は首をひねって苦笑するだけで答えは返ってこないでしょう。それであなたの人事考課が下がる、ということはありません。上司だってその部屋のことは知らないに決まっていますから。その代わり、もっと大きな存在から、余計な注目を集めることになりかねません。
(会場から若い男の声が上がる)……おお、素晴らしい合いの手が上がりましたね。大きな存在ってなんだ、ディープ・ステートか、とね。実話怪談の会場ならではですね。あるいはイルミナティでしょうか。フリーメーソンでしょうか。
違います。大手デベロッパー、ゼネコンやJV、あなたが特別な研究機関や政府施設で働いているなら最悪の場合、警察庁警備局、あるいは外事警察です。
このお話の最初の方で、グレートグランドマスターキーのお話をしましたね。どんなドアでも開けられる魔法の鍵です。その鍵を使ったことは生涯で2回だけだ、ともお話しました。
1回目、はじめてその鍵を使ったのは、平成17年、福岡県西方沖地震が起きた年でした。
あの地震で、わたしの勤め先も被害を受けまして、改修工事の計画を立てる必要がありました。ビル管理員の監視室にはそのビルに関する図面が収納されています。配線図、上下水配管図、ダクト図、ジョイントボックスの位置が描かれた照明図、などが代表的でしょうか。
ですがあの地震ではビル全体が被害を受けた。もっと根本的なブループリントが必要でした。
手をこまねいていると、ある日、例の長崎大水害を生き延びた先輩が、すっと近づいて来ましてね、おいお前、行くぞ、と耳元で小声で囁くんです。強面な方でしたがその時は本当に厳しい、怖い顔をしておられた。片手には承認済みの稟議書が握られていましたが、驚いたのは書面に打たれたハンコの数です。直属の上司である係長から、センター長、東京にいる管理会社の社長、果てはビルのオーナーに至るまで、凄まじい数のハンコが並んでいました。
稟議書と一緒に先輩が持っていたのがグレートグランドマスターキーでした。竣工図書保管室の扉はその鍵でないと開かないのです。
もう20年も前の話です。用事を済ませてその部屋を出たあと、先輩が云ったことばを今でも忘れません。この部屋のことは忘れろ。なるべく意識の外に置け。そしてもし再びこの部屋に入ることがあるなら、中にあるものは床に落ちた髪の毛一本であろうと絶対に持ち出すな、と。
いま、わたしの手にはグレートグランドマスターキーが握られています。人生で2回目です。稟議書なんて提出していません。セキュリティを黙らせてむりやり持ち出しました。その時点で、わたしは重大な職務規約違反を犯したことになります。ためらいはありませんでした。
20年も開いたことのない扉です。念の為に鍵穴用のグラファイトスプレーも持ってきていましたが、カギはすんなりと回りました。扉は少し重かった。窓も点検口のない密室です。中が陰圧になっていたんでしょう。すこし力を入れると軋みながらドアは手前に開きました。
部屋の中は真っ暗です。記憶を頼りに照明のスイッチを入れると、グローが点滅する音のあとに頭上で蛍光灯の白色の光が輝きました。懐かしさともなんとも云えない、妙な気分になりましたよ。LEDで駆逐されたと思っていた蛍光灯が、ビルのなかでその部屋にだけ残っていたんです。
部屋の中は完全に無臭で、埃も舞っていませんでした。密室を20年放置するとあんな具合になるんですね。蛍光灯のまわりには虫の死骸すらありませんでした。まるで月の表面みたいに、完全に生命の痕跡が無い場所でした。
狭い部屋です。腰からメジャーを出して計ってみると、大きさは1800掛けるの1800。完全な正方形です。さっきも云ったように窓も点検口もなく、壁にはコンセントすらついていません。奥の方に小さな机と椅子がひとつずつ。机の天板には何も乗っていない。片方の壁には棚があって、そこには片手で持てないくらい大きくて重い図面集がぎっしりと詰め込まれていました。
竣工図書の保管室。その名の通り、そこにはこのビルの設計図、工事計画書、骨組みや壁素材に関する資料、水道照明空調設備の詳細図などの青図面が保管されていました。
わたしは図面表を取り出し、片っ端からめくってみました。自分が何を探しているのか、実のところはわたしにもわかっていませんでした。ただ、女の子の幽霊とこの部屋には密接な関係がある、そんな予感がしたのです。
ある冊子をめくってみると、そこにはビルの建設に必要な材料費、工賃、機械のレンタル代などの細かい支払い金額がびっしりと書き込まれていました。見積もり書と、実際の支払額との対比表までついている。わたしは慌てて目を逸らし、ページを閉じました。
この部屋がここまで厳重に秘匿されている理由がこれです。この部屋にある資料をかき集めれば、このビルの掛け値なしの正確な原価が割り出せる。もちろん購入時の土地の代金も。流出したあかつきには担当デベロッパーの腹の底まで曝けだすことになる。それだけじゃない。設計図面には各ゼネコンが“秘伝のタレ”として門外不出にされている特殊な工法や施工術についても書かれている。どれもこれも、超弩級の機密文書です。
三、四十分くらいはその部屋に居たでしょうか。わたしは必死になって図面集や資料の束をめくっていました。空気の対流がないせいか息苦しく、額には汗が浮かんでいました。きっと目は血走っていたと思います。
いくらページをめくっても、この部屋と女の子の幽霊とのあいだには、一切どんな関係性も見いだせない。
冷静になってみれば……元からそんなものあるはずはないんです。かたや現実そのものと云っていい、日本を代表する巨大企業の事業の詳細。かたや存在すらあやふやな幽霊。そのあいだに関係性を見つけようとする方がそもそもおかしい。
意気消沈して、疲れ切って、わたしは部屋の奥にある机の前に座り込み、天板の上に顔を伏せました。
すぐに違和感に気づきました。机が少し、手前に傾いている。机の奥の方が少しだけ高い。
わたしは椅子から立ち上がり、机の下を覗きこみました。机は奥の壁にぴったりとくっついて置かれていましたが、右奥の机の脚の下になにかが噛み込んでいる。わたしは片手で机を少し浮かし、もう片方の手を伸ばしてなんとかそれを引きずり出しました。
なんということはない、A4サイズのスクラップブックでした。右側が金属のリングで止められていて、表紙には何も書かれていない。開こうとすると貼りついたプラスチックのシートが剥がれる、ペリペリという音がしました。
最初のページに貼られていたのは経済新聞の記事の切り抜きでした。「平成○年、かねてより再開発計画が進められていた福岡市○○で○○地所が○○ヘクタールの土地を購入した。大小7つの既存建築物を取り壊し、大規模ビルを建設予定」。そんな内容で、云ってしまえばこのビルのはじまりの記録です。
次のページには業界紙の特集記事が貼られていて、足場に囲まれて建築中のわたしの職場の写真とともに、創業者のインタビューが記載されていました。
その次のページにはこのビルが完成した、という地方紙の小さな囲み記事。まるで建築業界版の母子手帳のようでした。このビルを我が子のように愛おしんだ誰かが、密かに記録を残しておいたのでしょう。
わたしは次のページをめくりました。
貼られていたのは、予想もしていなかったものでした。
一枚の写真です。
フィルムからプリントされた銀塩写真なんて、目にするのは何年ぶりでしょうか。あきらかに平成初期に撮られたもののようでした。
どんよりとした冬の雲の下に、草一本生えていない更地が広がっています。画面の中央には白木で作られた祭壇があり、狩衣と烏帽子に身を包んだ神職が、祝詞の書かれた巻紙を広げています。わたしのような職業の人間にとってはなじみ深い光景でした。おそらくはこのビルが建設される前に行われた、地鎮祭の写真です。
四方を囲む注連縄のむこうでは、スーツ姿の男たちが建ち並び、厳粛な……というよりどこか悲壮な表情で、神職の様子を見つめている。
居並ぶスーツの男たちが黒一色に染めた人並みに、ぽつんと血を垂らしたように一カ所、鮮やかな赤色が輝いていました。
赤いジャンパースカートを履いて、白いブラウスを身につけた6~7歳くらいの女の子が、にこにこと笑っていました。
女の子は年配の男と手を繋いでいました。男は少女から目を背けるように横を向いています。その横顔に見覚えがありました。仮眠室に保管されている古いアルバムに彼の写真が載っていました。このビルの立ち上げメンバーである、初代ビル管理センター長です。女の子の幽霊のうわさがはじめて広がったとき、お祓いの必要はない、と命じた人物です。
彼はすでに亡くなっていました。伝聞で聞いた死因は奇妙なものでした。夜勤明けに借りだした社用車に乗って、倉庫や物流施設が建ち並ぶ須崎埠頭に向かい、車ごと海に飛び込んだ、と。家のローンは繰り上げ返済で完済していた。借金はない。一粒種の息子さんは東京で就職が決まったばかりでした。どうしてそんなことを、と当時は誰もが首をひねっていたそうです。
わたしは次のページをめくろうとしました。ですが手が震えてなかなか掴めないんです。呼吸は荒く、心臓はいまにも張り裂けそうでした。
次のページにも一枚の写真が貼られていました。それを見た瞬間、わたしの心臓は大きく跳ね上がり、いまにも発作を起こすかと思いました。
更地に、大きな穴が掘られています。写真はその穴を真上から見下ろすように撮られている。穴の直径は2メートルくらい。深さは3メートルくらいでしょうか。
穴の底にはあの女の子が立っていました。おかっぱ頭で、前歯が一本欠けた可愛らしい笑顔を見せてこちらを見上げています。穴の周りをぐるっと取り囲むように、男物の革靴とズボンの裾が並んでいました。
写真には右上から左下に入って現像時についたノイズのようなものが走っていました。
よく見ると、それはノイズではありませんでした。写真の上に、数本の黒い髪の毛が挟まっていました。むりやり引き抜いたのでしょう。毛根のある方の毛は赤く染まっていました。
わたしは深く息を吐き出し、かつて大先輩がわたしに残したことばを思い出していました。
この部屋からは髪の毛一本たりとも持ち出すな、と。
あるいは田中さんが臨終の際に口にしたということばです。
「死にとうなか。埋められとうなか」
瀕死の病人のうわごとを深掘りしてもしょうがないのかもしれない。それでも思ってしまう。どうして「燃やされたくない」ではなく「埋められたくない」だったのでしょうか。日本では99パーセントの遺体が荼毘に付されるというのに。
考えたところで答えは出ません。おそらくは、永遠に。
わたしは写真に向かって両手を合わせ、静かに祈りました。そのときにはもう覚悟を決めておりました。スクラップブックから、二枚の写真と髪の毛を慎重に剥がします。そばにあった白紙の紙を掴み、写真と髪の毛をそれでつつんで、作業服の内ポケットに隠しました。そのあとは何食わぬ顔で仕事をこなし、夜勤明けにわたしはそれを家に持ち帰りました。
これでわたしの服務規程違反はふたつになりました。後悔はかけらもしておりません。それどころか密かに、秘めやかに、誇りを感じているのです。
わたしは仏具店で神棚を買ってきて、写真と髪の毛をそこに収めました。供物と水の入れ替えを欠かさず、朝晩にはつっかえながらもお経と祝詞を唱えます。そんな行為には何の意味もありませんでした。
もうずっと、わたしはまともに眠れていません。
夜になると、寝室の外をパタパタと走るスリッパの足音がするのです。
廊下に防音シートを敷いても、カーペットを重ね置きしても一緒でした。家にあるスリッパを一足残さず捨てても、それでも音は聞こえる。
ときおり、視界の隅を赤い物がよぎります。あわててそちらを見ても誰もいない。ただ遠くの方で、小さな女の子の無邪気な笑い声が聞こえてくるだけです。
それに夜になると、洗面所の蛇口から勝手に水が流れてくるのです。
洗面台の止水栓を止めても、玄関前の量水器ボックスの中にあるメーターバルブを止めても、それでも流れてくる。
業を煮やしたわたしはボッシュのスタッドファインダーとマキタの充電式レシプロソーを購入しました。スタッドファインダーで洗面所の上水管の位置を特定して、レシプロソーで壁を刳りぬき、給水パイプを見つけて切断しました。
おかげでわたしは家では風呂にも入れませんし、トイレも流せません。それでも洗面所の蛇口からは水が流れてくる。切断したパイプの断面はからからに乾いています。それなのに……いったいあの水はどこから流れてくるんでしょうか。
たわむれに、フェノールフタレイン試薬を買ってきて、洗面所の水の水質検査をしてみたことがあります。pHは7.5。配管にも人体にも影響がない、飲料にも適した立派な浄水です。あまりの馬鹿らしさに腹を抱えて笑って、あげくに足をすべらせて壁に頭をぶつけてしまいました。
後頭部に違和感があったので、わたしはそこに触れてみました。
ごっそりと、片手に余るくらいの髪の毛が抜けていました。
お手上げです。最初からわたしが敵う相手ではなかった。白旗を振るしかありません。
先月、健康診断を受けてきました。後日封筒で結果が送られてきましたが、あるいはあの紙ほど恐ろしいものはないかもしれませんね。どんな怪談よりも。
わたしはここまでのようです。
お祓いは呼びませんよ。それでまた、あの子がビルに戻ったら惨事だ。
わたしは職務規程違反を犯し、友人を見殺しにし……それでも、ビルを守る使命を果たせたことを誇りに思っています。
わたしはビル管理員です。
わたしの話はこれで終わりです。ここに来て、話せて良かった。壇上からこうやって若い人たちの顔を見ていると、すがすがしい気分になりました。あなたたちが胸の奥に抱えているのが、未来への希望なのか、絶望なのか、わたしのような年寄りにはわからない。それでもきっと、あなたはきっと、過去の自分が予想もしなかったものに出会うでしょう。
精一杯、驚いて、楽しんでください。あとは頼みましたよ。
これにてお開きとします。ご清聴、ありがとうございました。
(沈黙)
2025年12月7日 那賀川町・福岡CUBEレクチャーシアター
(了)
※本作は創作怪談です。
作中に登場する人物・団体・イベント・講演内容はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
某社主催・怪談語りイベントにおける講演談話の記録 はまりー @hamari0213
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