1-7 「堕天の夜」

アザゼルは仮面の奥から、ヒビの入った培養槽を無言で見下ろしている。

割れ目から青い光がこぼれ、周囲の水面を淡く照らしていた。

倒れた塔兵たちはまだ息がある。

体は動かせずとも、その目だけは恐怖を映していた。


ナユタの小さな指が、水の中でゆらりと動いた。

仮面に映る青い光がゆらめき、アザゼルの無表情をさらに深く沈ませる。


「お前も“上”から来たんだな」


その言葉が、封じた記憶の扉を叩いた。

あの夜、“上”から墜ちた瞬間がよみがえる。


──白い羽根──それは純粋の象徴のはずだった。

頭上の白い光が、その白さをはっきりと浮かび上がらせていた。


「アザゼル」

ゼウスの声が天上に響く。

感情のない、命令だけの声。


「対象を排除せよ」

「人間の命は誤差だ」

「命令を実行せよ」


腕の奥が焼けるように熱くなり、ゼウスコードが脈打った。

体が命令に逆らえないように縛られていく。


「断る」


その一言で、静まり返った空気が揺れた。

レインがそこにいた。

何も言わない。ただその瞳が、俺を見ていた。


「命令に従え」

ゼウスの声がさらに強く響く。


俺は左腕を握った。

そこに刻まれたゼウスコードは、支配の鎖だった。


「……これで終わりだ」


俺は、ためらいなく左腕を引き千切った。

骨が砕け、肉が裂ける音が天上の静寂に響く。

鮮血が宙に散り、白い羽根に赤い線を描いた。

ゼウスコードとの接続が途切れ、頭の奥で響いていた声が消える。


風の音だけが残った。


翼を一度だけ広げ、塔の縁に立つ。

足元には深い闇が広がっていた。

レインの唇が震えた。

言葉にならなかった想いを、俺は理解していた。


俺は身を投げた。

羽根と血が夜空に散った。


──堕天。

それは罰ではなかった。

神の鎖を断ち切り、俺自身の意志で選んだ夜だった。


過去の光景が、霧のように消えた。

アザゼルは無言のままロックを外し、ナユタを抱き上げた。

その体温が、氷のような排水路の空気に異様なほど生々しく感じられる。


上空に浮かんでいた青白い粒子の球が、ゆっくりとほどけるように揺らめいた。

星屑のような光が一筋ずつ、ナユタの瞳へと吸い込まれていく。

それは、帰るべき場所へ戻る光だった。


背後で、塔兵の一人がかすれた声を漏らす。

まだ息がある、それだけのことだ。


「命があるうちに、這って帰れ」


声に感情はない。ただ事実を告げるだけ。


外套が揺れた。

アザゼルはナユタを腕に抱えたまま、闇の排水路を後にする。

残されたのは塔兵たちの荒い息と、機械の警告灯が反射する青い光だけだった。

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