偽ヒルコの娘は常世と幽世の狭間で輪舞を踊る

加藤岡拇指

第1話 ポニー・テイルの放物線(パラボラ)――或いは公安第八課の暗黒算術

|読むのを躊躇する人に




もしも転生調子の異世界物語や、逆境上等や冒険、無職やクズが、

もしも役立たずスキルや、最弱や、弱小領地や婚約破棄や隠しスキルや、

さてはまた昔の風のままに再び語られたあらゆる古いロマンスが、

私をかつて喜ばせたように、より賢い今日の少年少女たちを喜ばせることが出来るなら、


――それならよろしい、すぐ始め給え! もしそうでなく、


 もし勉強好きな青年たちが、昔の嗜好を忘れてしまい、


 ラヴクラフトや、ゼラズニィや、ハインラインや、


火山に指輪を捨てに行く話を、もはや欲しないなら、


 それもまたよろしい! それなら私と私の警官どもは、


それらの人や彼等の創造物の横たわる墳墓の中に仲間入りせんことを!


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ああ、なんたる不可解、なんたる迷宮ラビリンスの如き都心の一角! 東京都新宿区大久保一丁目七番地。この番地を刻印されたる大地の断層は、果たして現実の幾何学に属するものか、あるいは小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがかつて幻視した、あの「怪談」の霧に閉ざされた異界の入り口ではあるまいか。

諸君、まずはこの奇怪なる空間の変容を刮目して見るがいい。新宿の喧騒を背に、朝鮮半島の薫香と東南アジアの熱気が渾然一体となり、あたかも「文化の坩堝るつぼ」――左様、それは古の鋳掛屋が炉の底で金属を熔解せしめるが如き、灼熱の金属容器――の中で攪拌されたる混沌の街。その深淵に、突如として出現するギリシャ建築風の列柱を冠したる「小泉八雲記念公園」。この非対称、この不条理! アテネの栄光と新大久保の雑踏が、次元のひび割れから漏れ出したかのように交錯しているのである。

そこに立ち尽くす一人の男。彼の手元、スマホの画面に点滅する紅蓮のドットは、無機質な論理ロジックを以て「ここが汝の配属先なり」と宣告している。事務方のかえでという、あたかも山村美紗の描くサスペンス劇の舞台裏から抜け出してきたような、峻厳にして不可思議な「お局」という名の女官から下された、あまりに唐突、あまりに神懸かり的なる異動命令。凡夫の理解を絶するその理由は、あるいは「太陽が黄色かったから」という、カミュ的ですらある宇宙の気まぐれに帰すべきものか。

だが、この白昼夢のごとき静謐を破ったのは、一筋の「紫煙」への欲望であった。

古き良き専売公社の時代、黄金の葉が贅沢に詰められた「チェリー」や「峰」、あるいは野性味溢れる「両切りゴールデンバット」といった、今や煙の彼方に消え去った名銘柄たちの亡霊を追い求めるかのように、男は無意識のうちに量産型の紙巻煙草を取り出す。現代のJT日本たばこ産業が利益追求の果てに淘汰し得なかった、最後の一片のロマンチシズム。ニコチンとタールの芳香を纏い、ダシール・ハメットやロイド・ホプキンズ、はたまた魔界の探偵コンスタンティンの如き「ハードボイルド」の体裁を整えんとした、その瞬間――!

「ここは禁煙です」

言霊ことだまが空間を凍てつかせた。

振り返る男の視界に飛び込んできたのは、ポニーテールという名の「髪の拘束」を施された、峻烈なる一人の乙女である。その吊り上がった眼差しは、あたかもK-POPの至宝・NEWJEANSの如き現代的な瑞々しさを湛えつつも、背後に引きずる巨大なる楽器の筐体――コントラバスという名の、木製の怪物ベヒーモスを収めたる黒き棺――が、彼女の存在を一層浮世離れしたものへと昇華させている。

おお、見よ! ギリシャの円柱、八雲の亡霊、アジアの雑踏、そしてコントラバスを曳く美少女。

この奇怪なる符牒の集積は、一体いかなる怪奇事件の前兆プロローグなのか? あるいはこの公園こそが、男の人生という名の書物に書き込まれた、解読不能な暗号の一行なのではあるまいか?

「……ここで……ここでほんとに合ってるのかなあ?」

男の呟きは、新大久保の空に漂う見えない霧に吸い込まれ、ただ不可解な余韻を残すのみである。


ああ、なんたる運命の皮肉、なんたる存在の不条理! 東京都新宿区大久保、かつて異邦の幻視者・小泉八雲が幽冥の境を彷徨ったその聖域において、わが名は一人の少女の唇から、あたかも古の呪文の如く漏れ出したのである。

鈴鹿和三郎すずかわさぶろう

その音節が空気を震わせた瞬間、私の脊髄を走ったのは戦慄か、あるいは歓喜であったか。見よ、私を見上げる少女のかんばせを! 彼女が小首を傾げるその刹那、きゅきゅっと結い上げられたポニーテールの先端が、物理学の法則を嘲笑うかのような優雅な放物線を描き、雪白のうなじをなぞる。それはあたかも、メビウスの帯を這う霊的な触手の如き軌跡。三十路を過ぎた凡庸なる役人に過ぎぬ私に、斯界しかいの深淵を覗かせるような、この寄る辺なきデジャ・ヴュは何事か。

「……如何にも、俺が鈴鹿だ。だが、何故君は、わが姓名という秘められた記号を、その幼き紅唇こうしんに載せ得たのか? 君はいったい、いかなる異次元の使者だというのだ?」

私の問いは、ギリシャ建築の円柱が並び立つこの奇妙なる公園の静寂に、虚しく吸い込まれていく。女子高校生――制服という名の「集団の記号」を纏いながらも、その瞳には数世紀を経た古文書の如き知性が宿っている。彼女は、深い溜息のように、しかし確信に満ちた動作で、その細き腰を屈めた。

「はじめまして。……淡島あわしまです」

ぺこりん、という擬音さえ、彼女の背後に控える巨大な木製の怪物――コントラバスという名の重低音のひつぎ――が発する無言の振動と相まって、不気味な儀式性を帯びる。その礼の動作に追随するポニーテールの躍動は、もはや「スパイダー」と称された手塚治虫的諧謔かいぎゃくの域を脱し、シュルレアリスムの絵画に描かれた「生ける影」の如き妖異さを呈しているではないか。

「おむかえでゴ……いえ、お迎えに参上しました」

彼女の舌がもつれたその刹那、私の脳裏を過ったのは、暗黒の情念が渦巻く「お迎え」という言葉の、多義的な恐怖である。さらに彼女は、戦慄すべき一言を付け加えた。

「同じ所属になります」

所属! ああ、この一言が私の理性を粉砕する! 警視庁公安部第八課。実在の警察組織という名の「公理系」において、一課から四課まで、あるいは外事課や機動捜査隊という名の「既知の惑星」は存在する。だが、五、六を飛び越えて出現した第七、そして我が配属先たる「第八課」とは! それはあたかも数学者が未発見の複素数空間を論じるが如き、組織図の裂け目に隠匿された暗黒物質(ダークマター)の集積体ではないか。

同僚に問えば、彼らは一様に「聞いたことはあるが、実態は不明だ」と、不協和音の合唱コーラスのように繰り返す。それは「窓際」や「資料室」という、組織の周縁に追いやられた者たちが棲まう、埃まみれの墓標を意味するのか? かつて髪を振り乱して資料に埋もれ、後に署長へと登り詰めた「あのお方」や、M78星雲の勇者の如き名を冠した警部のように、私もまた、超常の迷宮へと誘われる運命にあったのか。

だとするならば。

目の前に立つ、このNEWJEANSの如き瑞々しさと、冥府の番人の如き沈着さを併せ持った女子高校生こそが、わがバディ、わが相方だというのか! 

「同僚だよ、よろしくネ」

その言葉が、彼女の唇から軽やかに放たれた瞬間、私は悟った。私の人生という名の「完全犯罪」は、今この時を以て瓦解し、私は不可解なる怪異の、そして人類の知性を超越した「アレやコレやソレ」という名の、底なしのアビスへと引きずり込まれていくのだと。

ポニーテールを揺らす彼女の影が、公園のタイルに長く、長く伸びていく。それはもはや少女の影ではなく、これから私を待ち受ける、巨大なる「不条理の迷宮」の入り口そのものであった――。

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偽ヒルコの娘は常世と幽世の狭間で輪舞を踊る 加藤岡拇指 @hanghaji

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