既知の世界、未知の理解

小狸

掌編

 インターネット、特にSNSが普及して、人々は情報と情報と、そして情報に飲まれる毎日を送っている。例えば、アプリを起動すれば必ず出てくる「トレンド」。そこには、見たい情報だけではなく、見たくない情報も必ずと言って良いほど出てくる。


 電車の人身事故、なんかまさにそうだろう。


 素直に、「ああ、今日は○○線で人身事故があったんだ」と思って留めておけば良いものを、人々はそのワードを詳しく見てしまう。するとそこには、想像の通り、一番上にはその電車会社の公式アカウントによる運転見合わせという情報と、それ以外の情報が、一気になだれ込んでくる。それは、人々のお気持ち表明である。「また○○線人身かよ」「今年何度目?」「最悪、駅構内入れないんだけど」「死ぬなら一人で迷惑かけずに死ねよ」等々――もう見れたものではない。自分の機嫌を損ねないようにするために、そういう情報、というか、言葉からは極力目を離した方が、予後は良い――ことは分かっているにもかかわらず、どうしてか人々はそれらを見てしまう。


 SNS中毒、なんて言葉も一時期流行していたけれど、僕はこれを、情報の過剰摂取が習慣化してしまったものではないか、と思っている。


 まあ、要するに言いたいことは、SNS中毒と同じなのだが。


 何かを「知っている」ということが、アドバンテージに繋がる世界である。今の時代、片手に収まる端末で検索すれば一発なのである。便利な世の中になったものだと痛感する。


 ならば逆に「知らない」ということはどうなのだろうか。


 何かを、「知らない」という状態。


 いや、「知らない」のだから、それが「何か」ということも分からないのだけれど。


 前述した通り、今の世の中は情報で溢れ返って渾沌の様相を呈している。


 そんな中で、人々は、知る必要もない情報を知って「しまっている」こともあるのではないか、と思うのだ。


 何でもかんでも「若者の○○離れ」とか言って対立を煽っていたテレビ番組をはじめとするメディアは、最近随分大人しくなったものだと思っている。それも何より、若者が「テレビ」から離れてしまったからだと推測する。


 より高度で、より速く、より軽く、情報を収集できるツールが、今の世の中探せばいくらでも出てくることだろう(より正確に、という言葉は意図的に省いている)。


 その過程で、あっさりと「知らない」ことは、「知っている」ことへと変遷する。


 それは、先程も述べた通りだ。検索エンジンでほにゃららと検索すれば、それに関する、より正確性の高い記事が表示される。


 僕はここに着目したい。


「知らない」ことが「知っている」ことになる、その変化の瞬間の喜びが、希薄になっていると思わないだろうか。


 誰でも抱いたことのある感情ではないだろうか。


 初めて国語辞典を授業で使った際、目当ての言葉を見つけ、語義を確認できた時の、あの心地良さ、歯車がぴったり嵌った時のような、そんな気持ちを。


 「未知」が「既知」になったその瞬間というのは、もっと嬉しいものであるべきだと、僕は思うのだ。


 何でもかんでも情報という情報を調べ尽くして、情報強者を気取って弱者をいたぶって、人の上に立った気になって、それが何になるというのだろう。


 決して「未知」であることは、恥ずかしいことではない。今は「未知」でも、これから「既知」になる可能性を秘めているということなのだから。「既知」の対義語は「無知」ではない、「未知」なのだ。


 勿論もちろん、これは全てに当てはまるわけではない。


 例えば、「社会人が社会生活を送ってゆく上で知っておくべき社会通念上の暗黙の了解」みたいなものについては、知っておいて損はないことである。


 こういう風に注釈を入れておかないと、これこれこういう場合はどうなのか、と後出しでコメントが付くので言っておいた、気にしないでほしい。


 人々が、未知が既知になる心地良さを忘れて久しい今日この頃ではあるけれど。


 今一度自分を見つめ直し、そして、思い出してほしい。


 「知る」ということの喜びを。




(「既知の世界、未知の理解」――了)

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