冬薔薇の謀りごと

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冬薔薇の謀りごと


 柔らかな陽射しが薔薇園に降り注ぐ。冬の最中にあっても王都は故郷の辺境伯領より暖かく感じられる。わたくしが寒さに慣れているせいかしら。

 東屋のテーブルクロスが風に揺られるたびに、紅茶の爽やかな香りが白薔薇の甘い香りと混ざり合って心地よい。

 わたくしは東屋の隅に置かれた石造りのベンチで刺繍を進めながら、この景色を楽しんでいた。

 庭師が懸命に彩を加えてくれている庭園の中でも、我が伯爵領の冬薔薇がひときわ美しく咲き誇っている。


「シャルロッテ」

 不意にかけられた声は慣れ親しんだもの。でも、いつもより幾分か硬い。何かあったのだと心構えをして顔を上げる。わたくしの大切な婚約者、サイモン王太子が、かろうじて柱に支えられるように東屋の入り口に立っていた。

 彼の金色の髪は陽の光を吸い込んで輝き、碧眼は湖よりも澄んでいる。なのにサイモン様の表情には穏やかな午後に似つかわしくない緊張があった。

「殿下。どうぞお掛けくださいな」

 わたくしは刺繍枠を脇に置いて彼を促した。


 サイモン様はわたくしの隣に腰を下ろしたものの、視線は落ち着かなげに宙を彷徨っている。

「私は君に謝らなければならない」

「まあ。どうなさいましたの?」

 彼の緊張の原因はわたくしにあるらしかった。謝罪を受ける心当たりなど何もないけれど、サイモン様が仰るからにはそうなのでしょう。お父様がお聞きになったら「ぼんやりしているな」とまた呆れられてしまうわね。

「単刀直入に言おう。私は……君との婚約を、破棄したいと思っている」

 周囲に控える侍従たちが息を呑む気配がした。流行りのロマンス小説の一節が頭を過る。ここで取り乱すか、あるいは扇で顔を隠して卒倒するのが令嬢の役割になるのかしら。

 けれどわたくしはサイモン様のお心のほうが気がかりだった。誠実で優しい王太子殿下が、これほどの苦悩を抱えてようやく口に出せた言葉なのだ。彼の切実な願いを最後まで聞きたかった。


 サイモン様の手が、彼の膝の上で固く握りしめられる。

「ひとまず、承知いたしましたわ。殿下、差し支えなければ理由をお聞かせいただけますか?」

 そう促すと、殿下はさざ波のように青褪めた顔で深く息を吸い込んだ。

「ロッティ。君の聡明さも優しさも、私は誰よりも知っている」

「恐縮ですわ」

「だが、私は……」

 言葉が途切れる。沈黙が訪れ、風の囁きが庭園を揺らした。

「わたくし、殿下のどんなお話でもお聞きします」

 サイモン様は戸惑いながらも、まるで懺悔のようにゆっくりと語り始めた。


 三ヶ月前、お忍びで城下町に出た際、偶然立ち寄ったパン屋でサイモン様は一人の娘に出会ったという。亜麻色の髪を三つ編みにした、快活な笑顔の少女、ミーテ。

 天涯孤独の身ながら悲嘆にくれることもせず懸命に働き、周囲の人々の笑顔を自らの糧とする健気な娘。

「彼女は、ただ当たり前のように私を普通の客として扱った。『このパン食べてみなよ、元気出るから』って、焼きたてのパンを分けてくれたんだ」

 サイモン様の表情が柔らかく綻んだ。その顔を見てわたくしもなんだかときめいてしまった。これこそが本物の恋なのだわ。

「私は何度も通った。ミーテは私の身分を知らないまま、いつも明るく話しかけてくれる。私を『常連さん』と呼び、新作のパンを試食させてくれて……彼女、本当にパンが好きなんだよ」

「素敵ですわ。自分を満たす術を知っていて、それを他者に分け与えることを当然のように。なんて高貴な方なのかしら」

「まさにそうだ! 私は、彼女から王族としての真の務めを学んだよ。しかし……」

 しかし、だからこそ。王太子として、サイモン様は彼女への愛を誰にも打ち明けられなかった。それは国民への裏切りとなり、婚約者であるわたくしへの裏切りとなってしまうのだから。


 ただ『婚約を破棄したい』と言って通るほど、我が国の貴族社会は甘くない。特に陛下は、わたくしの実家である辺境伯家の武力を手放したくないでしょう。アイスバーグの武力なくしてこの国は立ち行かない。

「殿下。わたくしたちの婚約は、政略的なものでしたわね」

「そう言えるかもしれない。だとしても、これは君への裏切り、そして国への裏切りだ。なのに、彼女の蜜色の瞳を見るたびに、私は、私が本当に幸せにしたいのは、彼女なのだと……そう思ってしまう」

「まあ、そのような言い方をなさってはいけませんわ。思ってしまう、だなんて。人を心から愛することの、何が裏切りだというの?」

「しかしロッティ、君には何の非もないのに」

「サイモン様にだってございません!」

 あら、なぜ言い争いになっているのかしら。はしたない姿を晒して、侍従たちを狼狽えさせてしまった。


 思い余ってわたくしにお心の内を吐露したからには、きっとサイモン様は身分を捨てる覚悟さえ決めていらっしゃるに違いない。わたくしとの婚約を取りやめるということは、王位継承者としての義務を放棄するも同然だった。

 そうして彼がすべてを失った先に、ミーテ様との幸せは待っていない。そんな結末は許せなかった。

「わたくしは辺境伯の娘として、王室の安寧と国民の幸福を第一に考えております。そして殿下がお幸せであってこそ民も真に幸せになるのです。上の者が苦難に喘いでいて、どうして下々を救えましょう」

「ロッティ……」

「殿下の恋を、わたくしは心から祝福いたします。ですから協力させてくださいませ。わたくしたちの手で、『誰も傷つかない、完璧な婚約破棄』を」

 小さく震えていたサイモン様の手が静かな温度を取り戻した。彼の碧眼に希望の光が宿る。それは恋人に贈られる熱情ではなく、戦友に向けた強い信頼の明かりだった。


「すまない。私は君に相応しい完璧な夫になれなかった」

「その謝罪、謹んでお受けいたします。けれど殿下、わたくしたちは完璧なお友達になれますわ」

「ああ……シャルロッテ。君は私の、最高の友だ」

 一陣の風がアイスバーグの薔薇の香りを運んでくる。わたくしたちは固く握手を交わし、新しい未来への第一歩を踏み出したのだった。


 ***


 翌日、国王陛下の執務室に怒声が響き渡った。

「何を馬鹿げたことを申すか!」

「父上、どうか——」

「黙れ! お前には国の現状が見えておらぬのか。北方の小競り合いは日に日に激化している。お前たちの婚姻は、単なる恋愛の問題ではない。国の存亡がかかっておるのだぞ!」

 陛下の拳が机を叩く。その音にわたくしが思わず震えると、庇うようにサイモン様が肩を抱いてくれた。それを見て陛下の眉間にますますしわが寄ってしまう。

「そのように仲睦まじいくせに、なぜ婚約破棄なぞという話になるのだ!」

 そう仰られましても、戦場で友の肩を抱く姿に夫婦の愛を重ねるほうがどうかしていらっしゃるわ。


「陛下」

 サイモン様の存在に勇気づけられ、わたくしは顔を上げた。

「民を真に幸福にできるのは、統治者が心から幸せである時だと存じます。望まぬ婚姻で殿下を縛るなど間違っていますわ」

「シャルロッテ嬢。君は聡明な娘だと思っていたが、甘いな」

 陛下の視線が氷のように冷たく刺さる。

「理想で国を守れるか。サイモンには優しさがあるが、苛烈さが足りぬ。隣国は容赦なく攻めてくる。辺境伯の力が必要なのだ。そなたらの身勝手な婚約破棄で、幸福にすべき民そのものが灰燼に帰すかもしれぬのだぞ」

 陛下の言葉に、わたくしもサイモン様も、何も言い返せなかった。

 そうして陛下はサイモン様の恋を「軽率だが一時の気の迷い」と断じられ、わたくしには「辺境伯の娘として、国のために耐えよ」と命じられた。


 悔しさを噛みしめながら執務室を出ても、貴族たちの冷ややかな視線が待っている。

「王太子殿下はご乱心なされたのでしょうか」

「なんでも平民の娘に夢中であられるとか」

「シャルロッテ様もお気の毒に」

 ひそひそと交わされる囁きに闘志が燃え上がる。なんて分からず屋さんなの。お気の毒なのはわたくしではなく、初めての恋を無残に踏みにじられようとしているサイモン様だというのに。


 背筋を伸ばし、堂々と歩く。隣を歩く殿下は申し訳なさそうに身を小さくしている。もしわたくしが放り出したら、彼はご自分の想いを捨てて王太子の地位に尽くすのだろう。

「殿下、お顔を上げてくださいな。わたくしたちは何も悪いことをしておりません。堂々となさって」

「しかし君につらい思いをさせている。やはり私の恋など胸にしまっておくべきだったのかもしれない」

「これしきのこと、つらくも何ともありませんわ。ミーテ様のことをお考えになって。殿下が真に幸せにすべき方のことを」

 わたくしがそう言うと、殿下は少しだけ笑ってくれた。


 私室に戻ると、侍女のリリアが心配そうな顔をして待っていた。

「シャルロッテお嬢様、お疲れではありませんか?」

「むしろやる気が湧いてきました。お茶をいただけるかしら」

「もちろんです」

 リリアが淹れてくれたローズティーの香りが、きりきりと張りつめた神経を解きほぐしてくれる。ソファに身を沈めて深く息を吐いた。

「誰も傷つけないというのは難しいですわ。どうすればいいかしらね、リリア」

「お嬢様は、心から婚約破棄をお望みなのですか?」

「ええ。殿下には婚約者として完璧な幸福をいただきました。わたくしも、殿下に幸せになっていただきたいの」

「そうでございますか。それなら、道は必ず拓かれますわ」

 リリアの言葉に微笑が漏れる。そうね。まさしく、道は自分の手で拓くものだわ。


 その夜、サイモン様から密書が届けられた。

『ロッティ。明日、秘密の会議をしよう。ジェレミア卿に知恵を貸してもらおうと考えている』

 ジェレミア・フォン・グレイセン公爵。王妃陛下の甥御にしてサイモン様の幼馴染、数少ない面識の記憶を辿った限りはとても不愛想な方だった。

 ただ類稀なる統治能力をお持ちで、若くして怜悧な頭脳と冷徹な実務能力を示し、陛下からも信頼されているという。

 そんなお方と秘密の会議だなんて、とても心が躍る。サイモン様のお手紙を胸に抱いて、わたくしはなかなか寝つけなかった。


 そうして翌日、王宮の奥にある小さな応接室に三人が集まった。

「昨日のことは聞いている。正気か、サイモン」

 ジェレミア様は開口一番に尋ねた。挨拶もそこそこに本題に入られて、わたくしは名乗る暇もなかった。

「王室が決めた婚約を取りやめるなど、国の根幹を揺るがす行為だ」

「私は本気だ。王太子の地位も返上しようと考えている」

「何を馬鹿げたことを。お前の『本気』がどれほど甘い見通しに基づいているか、論文を提出してやろうか」

 断固として言い放たれたジェレミア様の言葉が昨日の陛下の怒声と重なって聞こえる。ジェレミア様は、サイモン様以上に陛下のご子息のよう。血は繋がっていなかったはずだけれど瓜二つに思えた。

 でも確か、そう。開国の祖まで遡ればグレイセンの血筋は初代国王の弟君が興した家だった。


「ジェレミア様が王太子になればよろしいのではなくて?」

 脳裏に浮かぶと同時に口をついて出た言葉に、目の前の二人が唖然としている。

「な……」

「わたくし、今、とんでもない名案を出した気がします」

「とんでもないのは確かだな。そんなことは口にすべきではない」

「堅物ですのねえ、ジェレミア様」

 ジェレミア様はわたくしを睨むように見つめて眉をひそめる。でも本当に、名案ではないかと思うの。


 サイモン様は王太子の身分に未練があるわけではない。彼が見つけた真実の愛に手を伸ばすには、唯一の王位継承者という身分がむしろ越え難い障壁として聳え立つ。

 彼自身が廃嫡を望んでも王室がそれを許さないのだ。ならば、安心して王位を任せられる相手がいればよい。

 わたくしの婚約者という身分ごと譲り渡して、ジェレミア様が王太子になればすべては解決するのではないかしら。


「あなたもあなただ、シャルロッテ嬢。サイモンの戯言を諌めるどころか同調するなど」

「わたくし、愛のない結婚よりも愛のある治世を望みます。心が死んだ王に民が守れるとお思い?」

「国に必要なのは心ではなくシステムと契約だ」

「そのシステムを動かし、契約を守らせるのは人間の感情です。わたくしたちが企てるのは『王室の危機管理』ですわ」

 わたくしは一歩も引かずにジェレミア様を見つめ返した。もっと火花を散らすほどに強い口調で諭されるかと思っていたのだけれど、揺るぎない黒曜石のような彼の瞳が不意に逸らされる。


 奇妙に力のないため息を吐いて、ジェレミア様が呟いた。

「シャルロッテ嬢。あなたはこれでいいのか?」

「ええ。わたくしは殿下の友として、その幸福をまず願います」

「……理解できない。君たちは婚約者だろう。なぜ相手の恋を応援できる」

「それは……」

 わたくしは言葉を探した。どう説明すればいいのだろう。

 人の幸せには様々な形がある。殿下とわたくしは互いを想い、尊重している。けれど心から愛し合っているかと問われれば、それは少し違う。

 わたくしはわたくしなりの幸せのために、サイモン様の恋を叶えたいのだった。


「ジェレミア。ロッティは決して、私に安直な同情を寄せているわけではない。彼女は誰よりも心優しい女性だが、だからこそ、私一人のために国益を損ね、民を傷つけるようなことはしないよ」

「そんなことは知っている」

 ひどく苛立ったように声を荒げて、ジェレミア様が腕を組む。

「国に害を与えないこと。国民の感情を傷つけないこと。そして、その平民の娘を危険に晒さないこと。これを守るなら知恵を貸す」

「もちろんだ」

「望むところですわ」

 サイモン様とわたくしが同時に力強く頷くと、ジェレミア様はもう一度、先ほどよりも小さくため息を吐き出した。

「では、作戦会議を始めようか」


 ***


 ジェレミア様の第一の提案は、驚くべきことに「ミーテ様を王宮に連れてくる」というものだった。

 平民の娘をいきなり王太子の相手として出せば、彼女が王室と諸侯から敵意の目を向けられる。まずはわたくしの庇護下に置いて、貴族の作法と城の空気に慣れてもらうのだ。

 それにわたくしの側仕えになれば、サイモン様と彼女が恋人としての時間を作ることも容易になる。

 その素晴らしい提案にわたくしの心は軽やかに弾んだ。


 一週間後。わたくしの私室に、亜麻色の髪を三つ編みにした素朴な少女が緊張した面持ちで立っていた。

「え、えっと……よろしくお願いします……?」

「ようこそ、ミーテ。歓迎いたしますわ」

「は、はい! シャルロッテ様!」

「わたくしのことはロッティとお呼びになって」

「えっ。は、はい。ロッティ様」

 ようやく暖炉に火がともったような、そこにいるだけで人を暖かくする不思議な気配。そういえば暖炉に火を入れていなかった。彼女は寒いと言い出せないでいるのではないかしら。

 慌ててリリアにお茶と暖房の用意を頼むと、リリアは「お嬢様が寒さにお強いので、この冬は凍死を覚悟しておりました」と笑った。

 わたくしは気づきもしなかったけれど、ミーテではなくリリアが堪えていたらしい。もう、寒いのなら早く言ってくれればよかったのに。


 ミーテは不安そうに周囲を見回している。無理もなかった。昨日まで城下のパン屋で働いていた娘が、突然王宮に招かれたのだもの。

「あたし、わたし、貴族のしきたりとか全然分からなくて……」

「大丈夫。少しずつ覚えていけばいいのです。わたくしがついていますわ」

 安心させるように、そっと彼女の手を取る。手仕事に荒れた、力強く温かな芯のあるてのひら。とてもやさしい感触にわたくしのほうが安堵させられる。

 彼女がいなくなってパン屋さんは困っていないだろうか。それにミーテ自身、いつでも会いたい時に彼らを訪ねられるよう、わたくしが取り計らって差し上げなくては。


「何も王太子妃になれというわけではありません。ミーテは、ただわたくしの友達になってくだされば嬉しいわ」

「と、友達、ですか」

 驚きに見開かれる彼女の瞳。サイモン様のお気持ちがとてもよく分かる気がした。この蜜色の瞳には笑顔が似合う。彼女が幸せに微笑んでいられるのなら、それは必ず素晴らしい国なのだと確信できる。

「あなたがどんなに素敵な方なのか、殿下から伺っております」

「サイモン……」

 彼の名をぽつりと口にして、ミーテは困惑したように俯いてしまった。


「わたし、あの人が王子様だなんて知らなくて……ただの常連さんだと思ってて……」

「殿下のことを知って、お嫌になった?」

「まさか!」

 わたくしがそう尋ねたら、ミーテは涙を滲ませて首を振る。

 よかった。当然のこと、彼女もサイモン様をお慕いしていると思い込んでいたけれど、今までミーテの気持ちを確かめていなかったと今さら気づく。わたくしったら、お父様が過保護になるのも仕方ないおまぬけぶりね。

「でも……わたし、どうしたらいいか……」

「どうか安心なさって。わたくしは殿下とあなたの味方です」

 この小さな恋を儚くしてなるものかと改めて決意する。しっかりするのよ、シャルロッテ・アイスバーグ。


 そうしてミーテは王宮での生活を始めた。最初こそ戸惑っていたけれど、彼女の持ち前の明るさと素直さはすぐにわたくしの侍女やメイドたちの心を掴んでいった。

「ミーテさん、ナプキンの折り方がちょっと違います」

「あ、ごめんなさい! えっと、こうかな?」

「そうそう、上手ですわ!」

「すぐに覚えてくださるから教えるのが楽しいわ」

「えへへ……よかったです」

「うちのお嬢様よりしっかりしてらっしゃるわよね」

「あなたたち、無礼ですよ」

「リリアさん! ごめんなさい」

 なんて微笑ましい会話なのかしら。午後の茶会の準備を手伝うミーテは不慣れながらも一生懸命で、その器用さがこれまでの一人の暮らしを長さを思わせ、いじらしくて愛おしい。


「それで近所の悪ガキ……じゃなくて、えっと、近くに住んでる少年がですね。いつもうちのパンを悪戯で持って行っちゃうんです」

「まあ。衛兵を呼びませんの? 悪いことは悪いと叱らなくてはなりませんわ」

「あっ、もちろん後からその子のお母さんが払ってくれるんで、問題ないんですけど!」

「それならよかったわ」

 サイモン様と出会った日のお話は、ミーテの口から聞くと細部が少し違っていた。

「あの日はサイモンがお金を払ってくれたんです。『事情は分からないが、あの子を責めないでやってくれ』って。でもその後で彼、お腹が思いっきり鳴っちゃって」

「殿下ったら……」

「てっきり全財産をはたいちゃったんだと思って、焼きたてのパンを分けてあげたんです」

 わたくしにはミーテが彼女自身の慈愛でパンをくれたかのように話してらしたのに、先にサイモン様が慈愛を示していたのね。きっと少年のことは「助けた」と思いもしないほど自然に為したものだから、意識にのぼらなかったのでしょう。サイモン様らしい。


「ねえ、ミーテ。もしもわたくしが殿下との婚約破棄を承知しなかったら、あなたはどうなさる?」

 わたくしの問いかけに、ミーテはきょとんとしていた。それは困惑というより、あまりにも当たり前のことを聞かされた驚きだった。

「もしもロッティ様が婚約を破棄なさらなかったら……わたし、サイモンを連れて逃げます! 王子様じゃなくなっても苦労はさせ……苦労させないとは言えないですけど、一緒に苦労します」

 貧乏には慣れてますからと力強く拳を握って、はたと我に返ったようにミーテは赤くなって俯いてしまった。

 少しも恥じらう必要などないのに。

「とても素敵だわ。あなたのほうこそ、まるで白馬の王子様のよう」

「そんな、きょ、恐縮……です」

 諦めるつもりはさらさらないけれど、わたくしとて未来がどうなるかは分からない。本当に追いつめられて愛か義務かを選ぶはめになるとしたら、サイモン様は義務を選んでしまう。あるいは味方がいなくなった時にも、ミーテが諦める人でなくてよかった。

 敵を倒せば済むものではないこの困難な戦いに、ミーテは頼もしい仲間だった。




 そしてこの頃のわたくしは知る由もなかったのだけれど、一方でサイモン様とジェレミア様も、それぞれの時間を過ごしていたようだった。


「ジェレミア、本当にありがとう」

 剣術の稽古場で汗を流しながら、サイモンはジェレミアに微笑みかける。ジェレミアは剣を構えたまま冷淡に答えた。

「礼には早い。まだ何も解決していないぞ」

 ジェレミアの剣が閃くとサイモンは慌ててそれを受け止めた。

「シャルロッテ嬢はお前のために自分を犠牲にしている。その重さを分かっているのか」

「ロッティは……」

「国のため家のためにお前と婚約し、今はお前の幸せのためにその婚約を破棄しようとしている。王太子妃となるべく受けた教育も捧げた時間も、すべてを擲って。彼女は笑顔でいるが、内心は複雑なはずだ。彼女の覚悟を無駄にするな」

「ずいぶん、饒舌だな。珍しい」

「うるさい! 茶化すな!」

「茶化してなどいないよ。ロッティの覚悟を無駄にするつもりも、もちろんない。彼女の友情に必ず報いてみせる。ただ、一つ異論がある」

「何?」

「シャルロッテは自己犠牲に浸るような悲劇の女ではない。彼女を見くびるな、ジェレミア」

 サイモンの瞳が輝き、ジェレミアの動揺を突いて剣を振りぬく。互いを信じるが故の鋭い剣戟の音は夕暮れまで続いていた。


 ***


「ロッティ様! 見てください、庭師さんにハーブの育て方を教わったんです!」

「まあ、とっても元気な葉ですこと。これで美味しいお茶を淹れましょうか」

「はい! わたし、クッキーを焼きますね」

 午前の執務を終えたサイモン様がジェレミア様を無理やり連れて東屋のお茶会に加わり、ミーテが焼いてくれたクッキーを幸せそうに頬張っている。

 冬の空気を感じながら一人で刺繍をするのも楽しいけれど、この賑やかさも寒さを忘れるほどに心地よかった。


「サイモン、袖に粉がついてるわ」

「あ、ごめん。とても美味しいよ、ミーテ」

「えへへ、甘さが足りなかったかもしれないけど……」

「今まで食べたどんな菓子よりも美味い」

 まるで二人のために早起きした春が薔薇園に駆けてきたかのよう。お互いを慈しむ優しい陽だまりに似た空気。


 ふと視線を感じて横を見ると、ジェレミア様がじっとわたくしを見ていた。

「どうかなさいまして?」

「いや……甘ったるさに耐えられず、つい」

 そうかしら。紅茶に合う、控えめな甘さの美味しいクッキーだと思うのだけれど。さすがはパン屋さんだわ。


「あなたは本当にこれでいいのか。……嫉妬などは、ないのか」

 以前にもまったく同じことを聞かれたような気がする。あの時にわたくしが理路整然とした答えをお返しできなかったから、ジェレミア様は納得していらっしゃらないのかもしれない。

「嫉妬はいたしません。殿下は大切なお友達であり、敬愛する主君です。男性としてお慕いしたことは、一度も」

「……そうか」

「ジェレミア様こそ、殿下が遠くへ行ってしまうようでお寂しいのでは?」

「まさか。あの手のかかる友人が自立してくれるなら万々歳だ」

 彼はふんと鼻を鳴らして視線を逸らしたけれど、その耳が少し赤いことに気づく。不愛想なのではなく、ただ不器用なのね。大切であればあるほど突き放した言い方をなさるの。意外な一面を見てしまったわ。



 そんな穏やかな日々は、アイスバーグ辺境伯領から届いた緊急の報によって打ち砕かれた。隣国の軍勢が国境を越え、辺境伯領に侵攻しているという。

 陛下はサイモン様を静かに見据えた。

「直ちにシャルロッテ嬢と共にアイスバーグへ向かえ。辺境伯を支援し、敵を退けよ」

「はい、陛下」

 そして陛下はわたくしに視線を向ける。その目は確かに「これで分かっただろう」と問いかけていた。王室と辺境伯との関係がいかに国にとっての重要事か。婚約破棄など、もう二度と口にしてくれるな、と。

 わたくしは黙って頭を下げるしかなかった。


 慌ただしく出立の準備が進められる中、ミーテを呼んだ。

「殿下とわたくしは辺境伯領へ参ります」

「え……戦争、ですか?」

 ミーテの顔が不安に染まる。慣れているわ。わたくしたちが生まれる前から続いてきた争いですもの。それを身に染みて知っているからこそ、大丈夫だとは言えなかった。

「泣かずに待っていてくださいね、ミーテ。帰ってきたらすぐにでも、殿下に微笑みを見せられるように」

「ロッティ様。わたし、待ってます。笑って待ってます。大丈夫!」

 ふわりと、強く抱きしめられる。もう。これでは……立場が逆だわ。


 わたくしはシャルロッテ・アイスバーグですもの。わたくしにも民を守るという誇りと義務がある。

 それに、きっとこれは我々が目指す婚約破棄への道でもある。国の危機を救えば、陛下も少しは耳を貸してくださるかもしれない。


 領地に着くと、戦況の膠着を目の当たりにした。隣国の軍は長年の侵攻で得た地の利を活かし、巧妙なゲリラ戦を展開している。地理と民の気質の熟知にかけてはお父様のほうが勝っているけれど、敵はわたくしたちと違って人命を考慮する必要がないのだった。

 サイモン様は地図を睨みながら唇を噛んだ。知性も能力もある。でも、戦況を打開するには苛烈な決断と冷徹な指揮が致命的に足りなかった。

「ここで敵の進軍路を塞ぐのはいかがでしょうか」

「いや、逆に囲まれかねない。それに、この村を孤立させてしまう」

「では東から回り込んで攻撃を仕掛けましょう」

「かなりの強行軍になる。兵に多くの死傷者が出るだろう……」

 民を、兵を、犠牲にすることを、躊躇してしまう。会議は夜遅くまで続いたけれど、決定的な策は見つからなかった。




 王宮では、ミーテとジェレミアが焦燥に駆られる暮らしを送っていた。

「ジェレミア様、お茶をお持ちしました」

「……どうも」

 ジェレミアは机に広げた地図から目を上げることもせず、ぶっきらぼうに答えた。ミーテは困惑しながらティーカップを置く。

「ジェレミア様」

「何だ」

「ジェレミア様は、ロッティ様のことが好きなんですか?」

 状況が分かっていないのかとも思えるミーテのあまりに直截的な質問に、ジェレミアは顔を引き攣らせた。

「な、何を言っている」

「だってすごく心配そうにしてるじゃないですか。さっきも地図とにらめっこしながら『シャルロッテ嬢が無事でいてくれれば』って独り言を仰ってました」

「独り言だと分かっているなら報告するな!」

 ジェレミアの顔が赤くなると、ミーテはひととき不安を忘れられる気がした。


「まったく平民らしい無神経な言葉だな」

 ジェレミアが不機嫌そうに吐き捨てたその言葉に、ミーテの笑顔が消える。

「……そうですね。ごめんなさい」

「いや……今のは、俺の失言だ。君の出自を貶めるつもりはなかった」

 ミーテが無神経だとは思っていない。守り導いてくれる親兄弟もなく、一人で生き抜いてきたミーテはむしろ他者の気持ちに敏感すぎるくらいだった。だからこそサイモンと惹かれ合ったのだと、ジェレミアには分かっている。

「シャルロッテ嬢は……聡明で、優しく、美しい。尊敬している。だから彼女に……幸せになってほしいと、思っている。それだけだ」

 そしてミーテもまた分かっていた。王太子妃のための庭園、シャルロッテお気に入りの東屋を囲むように咲く冬の花。寒冷に強い花をと指示したのはサイモンだが、「アイスバーグの薔薇」を選んだのはジェレミアだったと、庭師に聞いてミーテは知っていた。


 二人の視線は机の上に広げられた地図に戻され、その意識は辺境伯領のある場所にいつまでも留まっていた。




 数日後、戦況はさらに悪化した。

「殿下! 敵が右翼に迂回しております! 迎撃の指示を!」

「だめだ、まだ村人の避難が終わっていない。持ちこたえなければ」

「村に構っている余裕はありません! このままでは砦が落ちます!」

 サイモン様は非情になりきれなかった。目の前の命を救おうとして大局を見失う。彼の優しさは平時には美徳でも、戦場では致命的な毒だった。

 そしてわたくしもまた同様に。傷ついた兵士を見舞い、物資を配ることはできても、兵を死地へと送り出す命令が下せない。


 絶えない紛争を潜り抜けてきた辺境伯領の兵士たちに頼りきりになっていた。

 このままではいけない。辺境伯領への強固な依存がサイモン様をわたくしとの婚約に縛りつけているのに。

 自らを救う道を切り拓かなければ。


「殿下。ジェレミア様をお呼びしましょう。ジェレミア様はグレイセン領での戦闘指揮の経験をお持ちです。そして……これは、婚約破棄の好機ですわ」」

「どういう意味だ?」

「わたくし、ジェレミア様に結婚を申し込みます。わたくしが不貞を働けば、殿下もミーテも咎められることなく婚約の破棄が認められるでしょう」

「そんなことは許可できない!」

 サイモン様が机を叩いた。普段の穏やかさからは想像もできないほどの激昂だった。

「でも、殿下。まさかミーテを諦めると仰るのですか?」

「ロッティ。私は断じて君を悪役にはしない。ましてや悲劇のヒロインになど、貶めるものか」

 わたくしはサイモン様の碧い瞳を見つめた。そこには確固たる決意があった。


 ***


「報告いたします! グレイセン公閣下が精鋭部隊を率いてご到着なさいました!」

 陣営に伝令の声が響き、思わずサイモン様のお顔を見た。わたくしの提案は却下されたものと思っていたのだけれど。サイモン様も少し驚いているようだから、これはジェレミア様の独断なのかしら。


 天幕の入り口が乱暴に開かれ、旅装束のジェレミア様が入ってきた。その表情はいつにも増して厳しい。

「状況は把握している。立て直すぞ」

 いつも通りの単刀直入、そして彼の指揮はわたくしたちでは及びもつかないほど冷徹だった。情を排した配置転換、囮を使う非情な作戦。計算してみれば確かにそれは、最小の犠牲で最大の戦果を得る的確な判断だった。

「サイモン、お前は旗の下に立ち、敵味方に『王太子がここにいる』と見せるだけでいい」

「分かった。精々目立つとしよう」

「シャルロッテ嬢は負傷兵の看護ではなく物資の管理に回れ。あなたの知性を腐らせるな」

「……は、はいっ!」

 この方に知性だなんて言われるのは、なんだか面映ゆいわね。


 ジェレミア様の存在がわたくしたちの芯となり、戦況は劇的に変わった。ジェレミア様が読む敵の進軍路は非常に正確で、彼らが知り尽くしていると思い込んでいる場所に罠をかけて呑み込み、疲弊したところをグレイセン公爵領の精鋭兵が一気に叩く。

「閣下、敵軍が撤退します!」

「追撃だ。あと数年は喧嘩を吹っ掛ける気も失せるほど叩きのめせ。ただし深追いするな」

「は!」

 夕暮れ時には、陣営に勝利の歓声が上がっていた。


 鉄の匂いが漂う戦場をジェレミア様が悠々と歩いてくる。

「すごいですわ、ジェレミア様。まるで神話の英雄のよう」

「まさか。俺はただの計算高い官僚だ」

 彼はふと周囲に集まる兵士たちの顔を確認すると、何か思いつめたように大きく息を吸い込んだ。

「サイモン!」

 響き渡る大声はほとんど恫喝じみていた。何事かとその場の全員が注目する中で、彼はあろうことかサイモン様の胸ぐらを掴み上げた。

 呆気にとられる間もなくサイモン様がその手を振り払う。

「無礼だぞ、グレイセン公。戦闘は終わったのだ。王太子に敬意を払いたまえ」

 温厚篤実で知られる王太子らしからぬ傲慢な態度に、皆がざわめく。

 ああ、なんてこと。この醜聞を婚約破棄の、そして廃嫡の理由にするつもりなのだ。わたくしから悪役の座を奪っておいて、サイモン様ったら。ずるいわ。


 ジェレミア様はそれを窘めるどころか、勇気づけられたかのように声を荒げる。

「あなたは王太子に相応しくない。戦場で情に流され判断を迷う。指揮能力の欠如は明らかだ」

「それは……」

「そして、シャルロッテ嬢の夫としても相応しくない。あなたは他の女性を愛している。そんな男に彼女は任せられない」

「えっ」

 私の口から間の抜けた声が漏れる。

「彼女の知性を、優しさを、ただ脇に置いて腐らせている! 彼女には共に冷たい泥を被り、この冬の寒さから守れる男こそ相応しい!」

「ではジェレミア。お前は私からロッティを奪いたいということだな?」

「彼女をロッティと呼ぶな。これは正当な糾弾だ。筆頭公爵家当主として、私は王位継承権を主張する」


 そう、確かにこれは「正当な糾弾」だった。ただでさえ紛争の危険に晒され続けている我が国で、温厚な王太子に国境を守ることはできない。

 そしてジェレミア様は王族でこそないけれど、陛下の義理の甥であり、血筋を辿れば初代王家に連なるお方。歴史的に見ても継承権を主張するに足る地位にある。だって、わたくしも以前それを提案したのだもの。

 お二人とも、互いの思惑を分かったうえで茶番を演じているのだ。……とってもずるいわ。


 そしてジェレミア様はわたくしのもとに歩み寄り、恭しく膝をついた。

「シャルロッテ嬢。俺と結婚してほしい」

「ジェレミア様……」

「俺は、君を幸せにしたいと思っている」

 まるで吟遊詩人が歌う物語の一幕のように芝居がかって、けれど彼の手は小刻みに震えていた。

「……そういうことにしてくれ。一生、退屈させないと誓う」

 確かに、間違っても退屈することだけはないでしょう。それにわたくしにはお断りする理由など一つもなかった。

「その求婚、謹んでお受けいたします。わたくしたちは最高の共犯者になれますわ」


 ***


 勝利の知らせはすでに王都にも届けられていたようだ。わたくしたちが凱旋すると国王陛下が執務室で待っていた。

「よくやった、ジェレミア」

「光栄に存じます、伯父上」

「サイモン。お前は何をしていた。ジェレミアが来なければ危うかったと聞いている。辺境伯の後ろ盾もなくどうやって国を守るというのだ」

「はい、父上。私は国を守るのに向いておりません。ゆえに私は王太子の地位を返上し、グレイセン公にお譲りします」

 執務室が静まり返った。大変、陛下のお顔が引き攣っていらっしゃるわ。


「何を言うか、サイモン。それを支えるための、シャルロッテ嬢との婚約ではないか」

「伯父上。サイモンは軍を指揮できません。国を守る力がない。そして婚約者を愛していない」

「ジェレミア!」

 陛下が叫んだけれど、ジェレミア様は止まらなかった。

「私がシャルロッテ嬢を娶ります。そして、王位も私が継ぎます」

 それではまるで王位がおまけみたいだわ、ジェレミア様。


 陛下は呆然としていた。ここに貴族諸侯の皆様がいれば、きっと声を潜めてこう言ったことだろう。陛下もお気の毒に、と。

「父上。シャルロッテとの婚約破棄を認めてください」

「サイモン! 正気か!」

「正気です。私はミーテを愛している。彼女と結婚したい」

「王位継承者が平民と結婚するなど――」

「継承権は放棄します」

「陛下」

 サイモン様を後押しするべく、わたくしも続く。

「辺境伯の娘としてお願い申し上げます。殿下とミーテの結婚を認めてください。そして殿下の処遇はどうかご寛大に。そう、『辺境伯の娘として』、お願い申し上げますわ」

 ぐぬうと低い陛下の唸り声を聞いて、わたくしの横でサイモン様とジェレミア様が同時に小さく噴き出すのが聞こえた。


「裏切ったな、ジェレミア」

「私はいつも国益に最善を尽くしております。伯父上と同じように」

「譲るのは納得ずくのはずであろう」

「最善は常々移り変わるものです」

 陛下は深く、冬の曇り空よりもずっと重たい息を吐いた。

「……分かった」

「父上!」

「もう、いい。お前たちがそこまで言うなら……国が破滅しないなら、もうそれでいい」

 陛下は疲れ切った様子で天を仰いでしまわれた。

「サイモンの王位継承権放棄、シャルロッテ嬢との婚約破棄、ジェレミアの王太子就任、シャルロッテ嬢との婚約、そして何だ? サイモンとミーテの結婚か。すべて認める」

「陛下、素敵ですわ! お父様にもよくお伝えします」

「そうしていただきたいものだな、シャルロッテ嬢」

 サイモン様が深く頭を下げ、そしてわたくしとジェレミア様も続いた。


 執務室を出ると、廊下でミーテが待っていた。少しさがってリリアが控えてくれている。わたくしたちが留守の間も彼女がミーテを守ってくれていたのだろう。

「サイモン!」

 微笑に我慢しきれなかった涙を滲ませながらミーテが駆け寄ると、サイモン様は彼女を強く抱きしめた。

「ミーテ。やっと君と一緒になれる。待たせて、ごめん」

「いいの。あなたが無事で、それだけで……」

 なんだかふわふわした気分で二人の幸せそうな姿を見ていたら、ジェレミア様が躊躇いがちにわたくしの手に触れる。

「ロッ……シャ、シャルロッテ嬢。これから、その……よろしく」

「こちらこそ、ジェレミア様。わたくしのこと、家族は『シャル』と呼びますのよ」

「そ、そうか。もしよければ、俺も、そう……」

「呼んでくだされば嬉しいですわ」

「………………ああ。いずれは」

 あの劇的なプロポーズはなんだったのかしらと思うほどぎこちないけれど、顔を真っ赤にして照れているジェレミア様は、もしかしたら思ってもみなかったほどかわいらしいお方なのかもしれない。


 ***


 王都を賑わせた二組の結婚式から半年。すっかり夏の様相に変わった庭園の東屋で、わたくしとミーテはお茶を楽しんでいた。

「ロッティ様、また新しいパンのレシピを考えたんです! 暑さを吹き飛ばしますよ!」

「まあ、素敵ですわ。わたくし、王都の夏にはまだ慣れないものですから」

 ミーテは相変わらず明るく、パン作りへの情熱を失っていない。サイモン様が仰っていた通り、本当にパンが好きなのね。彼女は陛下を独力で説得して王宮にパン工房を作ってしまった。そしてそこで焼いたパンを城下の人々に配る活動をしている。

 貧しい人だけでなく、厨房係や衛兵、貴族、文官、騎士たち、陛下、様々な人の好みに繊細に合わせた美味しいパンを焼き、ミーテは瞬く間に「王宮にいるべき人」になったのだ。特に王妃様に気に入られたのが強かった。

 彼女が自由闊達に過ごしていることで国全体に生気が漲るようだった。


「サイモン様もお喜びでしょう」

「えへへ。サイモンは毎日、わたしのパンを褒めてくれるんです。ほんとはパン以外もいろいろ作れるんですけど……」

「それなら、パン以外はわたくしが喜んでいただきますわ」

「ロッティ様ってば!」

 ミーテが幸せそうに笑うので、わたくしも嬉しくなる。

 サイモン様は今、内政の補佐官としてジェレミア様のそばについて活躍している。王太子であった過去を鼻にかけることもなく真面目に職務をこなして、周囲からの評判も悪くない。

 何より彼の優しさと民への思いやりが、ジェレミア様の厳格な印象を和らげる重要な役割を果たしていた。


「お二人のところに、ミーテのパンをお届けしましょうか」

「え! 行っても大丈夫ですか? 相変わらず忙しそうですけど」

「大丈夫です。わたくしたちは妻ですもの」

 ジェレミア様は立派な王太子として、国を導いてくださっている。苛烈な公爵として知られる彼が王太子となったことで隣国も少し大人しくなっていた。

 わたくしは彼の妻として、そして相談役として、共に歩んでいる。


 ミーテと二人でバスケットを抱えて執務室に突入する。山積みになった書類の向こうでジェレミア様が唸っているのをサイモン様が楽しそうに見つめていた。

「ミーテ! シャルロッテも、どうしたんだ?」

「お届け物よ、サイモン」

「先日作りたいと言ってたオレンジのパンだね。完成したんだ、嬉しいな」

 すぐさま二人の世界に入ったミーテたちの横で、ジェレミア様はまだ呆然と書類を眺めている。あまり寝ていらっしゃらないのかしら。


「予算が合わない。南部の治水工事、まだ見積もりが甘いぞ」

「資材を東部から運河で回せば、二割は削減できますわ」

 肩越しに書類を覗き込んでわたくしが口を挟むと、荒んだ目つきのままジェレミア様が振り返る。思いのほか顔が近くて心臓が跳ねてしまった。

「シャル。あなたと結婚して唯一の誤算は、あなたが俺より仕事ができることだ」

「あら、褒め言葉かしら」

「もちろんだ。非常に助かっている」

 極限まで眠いと何を言っているか自覚がなくて素直になってしまわれるのね、ジェレミア様。

「ジェレミア、少し休憩しよう」

 見かねたサイモン様が書類を取り上げる。

 わたくしはミーテがくれたハーブを使ってお茶を淹れることにした。体を温めて気持ちを落ち着かせる効果がある。これでジェレミア様もよく眠れるといいのだけれど。


 四人で囲むテーブルは賑やかで、それでいて穏やかな暖かさがある。婚約破棄の謀略を立てた頃はこんな風になるとは思っていなかった。でも、あの時に思い描いていたよりもずっと素敵な場所を勝ち取ることができた。

 執務室の窓から一陣の風が庭園の香りを運んでくる。花の甘さと草の青さが入り混じった爽やかな夏の香りに満たされる。

 これがわたくしたちの謀りごと、『誰も傷つかない、完璧な婚約破棄』の顛末。そしてこれからも紡がれ続ける、幸せな国づくりの物語。

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冬薔薇の謀りごと ono @ono_

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