コード・ブレイカー −遺伝子が開いた扉−

ソコニ

1話完結

第一章:血の記憶

 研究室の蛍光灯が、桐生蒼太の白衣を青白く照らしていた。

 午前三時。東京・湾岸地区の民間バイオラボは、この時間になると誰もいない。セキュリティカメラは三十分前に無効化した。監視ログは改竄済みだ。

 蒼太は震える手で、銀色の注射器を持ち上げた。

 中身は透明な液体。だが、その中には人類がまだ理解していない遺伝子コード——「Unknown-Helix-7」が溶け込んでいる。闇市場で五千万円で買った、違法な代物だ。

「結衣……待ってろ」

 妹の名前を呟く。

 蒼太の脳裏に、十年前の記憶が蘇る。

 両親が交通事故で死んだ日。当時二十二歳の蒼太と、八歳の結衣。葬儀の後、二人きりになったアパートで、結衣は泣きながら蒼太の袖を掴んだ。

『お兄ちゃん、私も死んじゃうの?』

『馬鹿言うな。俺が絶対に守る』

 あの日の約束。

 それから十年間、蒼太は妹を育てるために研究者として働き続けた。奨学金を借りて大学院に進み、製薬企業の研究職に就いた。結衣は明るく育ち、今年、念願の美大に合格した。

 そして、その二ヶ月後——末期の膵臓がんが発覚した。

 余命三ヶ月。

 正規の医療では手遅れだった。未承認治療も、実験的抗がん剤も、すべて効果がなかった。

 蒼太は知っている。生命工学の最先端では、遺伝子編集技術が急速に進化していることを。だが、それらはすべて臨床試験の段階で、一般人には届かない。

 残された道は、これしかない。

 自分の身体で遺伝子改変技術を試し、その結果を妹に応用する——。

 注射器の針が、自分の左腕の静脈に刺さる。冷たい液体が血管に流れ込む感覚。蒼太の心臓が、激しく打ち始める。

 後悔はない。

 たとえこの先、何が起きようとも——。


第二章:崩壊する境界

 最初の異変は、七十二時間後に訪れた。

 通勤電車の中だった。

 蒼太が吊り革につかまった瞬間、視界が爆発した。

 金属の分子構造が、網膜に直接焼き付けられる。鉄、クロム、ニッケル——合金の組成比率が、まるで楽譜のように脳内に流れ込んでくる。いや、聴こえる。金属が振動する音が、骨を伝って頭蓋に響く。

「うっ……!」

 蒼太は吊り革から手を離し、よろめいた。周囲の乗客が訝しげに見る。耳鳴りがする。違う、これは耳鳴りじゃない——周囲の人間の心拍音だ。

 隣に立っていた中年女性の肩に、偶然触れてしまった。

 瞬間、蒼太の脳は焼かれた。

 女性の全生体データが、津波となって意識に流れ込んできた。

 心拍数、血圧、血糖値、ホルモンバランス。内臓の状態。血管の詰まり具合。骨密度。そして——左乳房の奥深く、直径一・二センチメートルの悪性腫瘍。ステージ1の乳がん。本人はまだ気づいていない。あと三ヶ月したら、定期検診で発見される。早期なら、治る。

 だが、それだけではなかった。

 女性の「感情」までもが、蒼太の中に侵入してくる。

 息子の就職を心配する不安。更年期障害による苛立ち。夫への諦念。母親としての誇り。そして、漠然とした死への恐怖——。

「あ、ああ……やめて、くれ……」

 蒼太は女性から飛び退き、車両の隅に追い詰められた。女性は怪訝そうな顔をしたまま、次の駅で降りていった。

 異常だ。これは、想定と違う。

 遺伝子改変は成功した。だが、期待していた「免疫強化」とは全く違う能力が発現している。

 蒼太は両手で頭を抱えた。指先から、微かな熱を感じる。皮膚の下で、何かが蠢いている。

 DNAが、書き換わり続けている——。


第三章:他者という地獄

 能力は日を追うごとに強くなった。

 街を歩くだけで、すれ違う人々の生命情報が容赦なく流れ込んでくる。

 糖尿病で足先の神経が壊死し始めている老人。不整脈を抱え、いつ心停止してもおかしくないサラリーマン。妊娠初期で、胎児に染色体異常があることに気づいていないOL。肝硬変末期で、余命一ヶ月のホームレス。

 そして、それぞれの「痛み」が、蒼太の身体で再現される。

 老人の足先の痺れが、自分の足を這う。サラリーマンの心臓の痛みが、胸を締め付ける。OLの吐き気が、喉を突き上げる。

 他人の苦しみが、まるで自分のもののように感じられる。

 蒼太は人混みを避け、引きこもるようになった。

 研究室にも行けない。同僚に触れれば、彼らの秘密まで知ってしまう。不倫している者、借金を抱えている者、密かに転職活動をしている者——人間の裏側が、剥き出しになる。

 一週間後、蒼太は自宅のアパートで、カーテンを閉め切って床に座り込んでいた。

 鏡を見る。頬はこけ、目の下には隈ができている。体重は五キロ落ちた。

 スマートフォンが鳴る。妹の主治医からだ。

「桐生さん、結衣さんの容態が急変しました。すぐに来てください」

 蒼太は立ち上がった。膝が笑っている。だが、行かなければ——たとえこの身体が、もう二度と元に戻らなくとも。

 病院へ向かうタクシーの中、蒼太は運転手の首筋を見つめた。

 動脈硬化。高血圧。血管の内壁にプラークが蓄積している。あと二年以内に、脳梗塞を起こす。確率は七十三パーセント。

 蒼太は目を閉じた。だが、まぶたの裏に、運転手の血管の映像が浮かぶ。

「頼む、消えてくれ……」

 能力は、消えない。

 これは祝福ではない。呪いだ。


第四章:病室の真実

 病室で、蒼太は妹の手を握った。

 結衣は眠っている。顔色は青白く、頬はこけている。酸素マスクが、弱々しい呼吸を助けている。モニターの心拍数は不規則だ。

 触れた瞬間、蒼太の脳内に妹の生体データが流れ込んだ。

 腫瘍は肝臓と肺に転移している。膵臓の機能はほぼ停止。腎臓も限界に近い。残された時間は——二週間。

「結衣……」

 蒼太は妹の手を強く握った。冷たい。あまりにも冷たい。

 その時、結衣が目を開けた。

「お兄……ちゃん……」

 掠れた声。唇は乾いている。

「結衣、大丈夫だ。すぐに良くなる」

 嘘だ。だが、そう言うしかない。

 結衣は微かに首を横に振った。

「嘘……つかないで」

 蒼太の胸が締め付けられる。

「私……もうわかってる。お医者さんの顔……見れば」結衣は咳き込んだ。「でも……いいの。お兄ちゃんが……いてくれたから……幸せ、だった……」

「やめろ」蒼太は声を荒げた。「諦めるな。俺が必ず、お前を救う」

「お兄ちゃん……」結衣は涙を流した。「もう、いいよ。お兄ちゃんまで……苦しまないで……」

 蒼太は妹の手を握ったまま、立ち尽くした。

 能力のせいで、妹の「諦め」が手に取るようにわかる。死を受け入れようとしている心の動き。兄への感謝。そして——兄が自分のために無理をしていることへの、罪悪感。

「結衣、お前は何もわかってない」蒼太は低い声で言った。「俺がお前を守るって、約束したんだ。あの日——」

 両親の葬儀の日。泣きじゃくる幼い妹を抱きしめながら、蒼太は誓った。

『俺がお前の親父にも、母親にもなる。だから、安心しろ』

 結衣は泣いた。

 蒼太も泣いた。

 そして今——。

 その時だった。

 背後で、ドアが開く音がした。

「感動的な場面を、邪魔して申し訳ない」

 振り返ると、黒いスーツの男が立っていた。四十代半ば。鋭い目つき。だが、その目には——深い疲労が宿っていた。

「誰だ、あなたは」

「私は葛城隆史と申します。バイオメディカル・ソリューションズ社の、研究開発部門責任者です」

 蒼太は眉を顰めた。聞いたことがある。大手製薬企業の子会社だ。

 葛城は病室に入り、ドアを静かに閉めた。


第五章:悪魔の取引

 葛城は窓際に立ち、外の夜景を眺めた。

「単刀直入に申し上げます。桐生さん、あなたが投与した『Unknown-Helix-7』——その能力に、我々は大変興味があります」

 蒼太の背筋に冷たいものが走った。

「なぜ、それを……」

「闇市場の取引は、我々が監視しています」葛城は振り返った。「そして、あなたの身体的変化も。街中の監視カメラ、病院の記録、タクシーの車載カメラ——すべて解析しました」

 蒼太は拳を握った。

「何が目的だ」

「協力してほしいんです」葛城は静かに言った。「あなたの遺伝子コードを、我々に提供していただきたい。対価として——」

 葛城はタブレット端末を取り出し、蒼太に見せた。

 画面には、最先端の免疫療法、陽子線治療、そして実験段階のナノマシン治療のデータが表示されている。

「妹さんの治療費を、全額負担します。三億円相当です。さらに、我々の実験施設で、最高水準の医療を提供します」

 蒼太は息を呑んだ。

 三億円——研究者の生涯年収でも届かない金額だ。

「その遺伝子コードで、何をするつもりだ」

 葛城は少しの間、沈黙した。そして、ゆっくりと口を開いた。

「軍事利用です」

 蒼太の全身が硬直した。

「生体情報を読み取る兵士。敵の弱点を瞬時に把握し、効率的に無力化する——完璧な戦闘員を作ります」

「断る」

 蒼太は即座に答えた。

 葛城は肩をすくめた。

「予想通りの答えですね」

「あんたは、人を殺す道具を作ろうとしている」

「いいえ」葛城は静かに否定した。「人を『救う』道具です」

 蒼太は葛城を睨んだ。

 葛城は続けた。

「桐生さん、あなたは戦争を知らない。私は知っています」葛城はスーツの内ポケットから、古い写真を取り出した。「これは、私の娘です」

 写真には、笑顔の少女が写っていた。十歳くらいだろうか。

「十二年前、中東の紛争地帯で、医療支援活動をしていた妻と娘が、テロに巻き込まれました。即死でした」

 蒼太は言葉を失った。

「私はそれから、ずっと考えてきた。どうすれば、無駄な死を減らせるのかと」葛城は写真をしまった。「テロリストを瞬時に識別できる兵士がいれば、民間人の犠牲は減ります。敵兵を殺さずに無力化できる技術があれば、戦死者も減ります」

「それは詭弁だ」蒼太は言った。「あんたは、復讐がしたいだけだ」

「そうかもしれません」葛城は認めた。「でも、桐生さん——あなたも同じじゃないですか」

 蒼太は黙った。

「あなたは妹さんを救うために、違法な遺伝子改変を自分に施した。それは、医療倫理に反しています。人体実験です。でも、あなたは躊躇しなかった。なぜか? 愛する者を救いたかったからです」

 葛城は一歩、蒼太に近づいた。

「私も同じです。愛する者を奪った世界に、復讐したい。だから、この技術を使う。あなたと私は——同じ穴の狢なんですよ」

 蒼太は拳を震わせた。

「違う。俺は、誰も傷つけていない」

「まだ、ね」葛城は微笑んだ。「でも、これからはどうでしょう?」

 葛城はタブレットを操作し、別の画面を表示した。

 そこには、蒼太の研究室の監視カメラ映像が映っていた。

「あなたの身体から、遺伝子断片が放出されています。空気感染します。あなたが触れた物、呼吸した空気——すべてに、あなたのDNAが拡散している」

 蒼太の顔が青ざめた。

「嘘だ……」

「本当です。我々の解析では、あなたは既に——歩く生物兵器になっています。あなたが街を歩くだけで、周囲の人間の遺伝子が書き換わり始める」

 葛城は画面を消した。

「だから、協力してください。我々の施設なら、あなたを隔離できます。そして、妹さんも救える。これは——取引です」

 蒼太は膝から力が抜けそうになった。

 本当なのか? 俺は、周囲の人間を汚染しているのか?

 その時、背後のベッドで、結衣が呻いた。

「お兄……ちゃん……」

 蒼太は振り返った。

 結衣は苦しそうに呼吸している。

 葛城は言った。

「決断してください。妹さんの命は——あと二週間です」


第六章:選択の重さ

 蒼太は一週間、悩み続けた。

 葛城の提案を受け入れるべきか。

 だが、それは多くの人間を危険に晒すことを意味する。軍事利用された遺伝子技術は、戦場で使われる。人が死ぬ。

 一方で、断れば結衣は死ぬ。

 蒼太は研究室に籠もり、自分の遺伝子を解析し続けた。

 葛城の言う通りだった。

 Unknown-Helix-7は、宿主の意思とは無関係に、周囲の生物の遺伝子に干渉し始めている。蒼太が触れた培養器の中の細胞は、異常な速度で増殖していた。

 このままでは——。

 ある夜、蒼太は決断した。

 葛城に連絡を取る。

「……わかった。協力する」

 電話の向こうで、葛城は安堵の息を吐いた。

「賢明な判断です。明日、我々の施設に来てください。妹さんの搬送も手配します」

 電話を切った後、蒼太は研究室の冷蔵庫を開けた。

 中には、最後の手段として用意していた薬剤がある。

「遺伝子中和剤」——自分の改変された遺伝子を、完全に無効化する劇薬だ。副作用として、全身の細胞が一時的に機能停止する。心停止のリスクが高い。

 だが、蒼太には別の計画があった。

 葛城を欺く。施設に行き、妹の治療を始めさせる。その隙に、自分の遺伝子を中和し、Unknown-Helix-7を完全に消滅させる。

 そうすれば、葛城は遺伝子コードを手に入れられない。

 だが——妹は?

 蒼太は震える手で、注射器を取り出した。

 妹を救うために始めた実験が、こんな結末を迎えるとは——。

 その時、研究室のドアが開いた。

「お兄ちゃん」

 振り返ると、結衣が立っていた。

 車椅子に乗り、点滴スタンドを押しながら。顔色は悪いが、目には強い意志が宿っていた。

「結衣! なぜここに……」

「お兄ちゃんが、変なことしようとしてるって、わかったから」

 結衣は車椅子を蒼太に近づけた。

「お兄ちゃん、私ね——もう、いいの」

「何を言って——」

「お兄ちゃんが、自分を犠牲にしてまで、私を救おうとしてるの、知ってる」結衣は涙を流した。「でも、そんなの嫌だよ。お兄ちゃんまで、壊れちゃうなんて——」

 蒼太は妹の前に膝をついた。

「結衣、俺は——」

「お兄ちゃんは、ずっと私を守ってくれた。お父さんとお母さんが死んでから、ずっと」結衣は蒼太の手を握った。「だから、今度は私が、お兄ちゃんを守る番」

 蒼太の目から、涙が溢れた。

「馬鹿言うな。俺が、お前を——」

「お兄ちゃん」結衣は強い目で蒼太を見た。「私、お兄ちゃんに生きてほしい。たとえ私が死んでも——お兄ちゃんには、幸せになってほしい」

 蒼太は妹を抱きしめた。

 震える身体。冷たい肌。弱々しい心臓の鼓動。

「俺は、お前なしで生きていけない」

「生きられるよ」結衣は蒼太の背中に手を回した。「お兄ちゃんは、強いから」


第七章:暴走の序曲

 翌日、蒼太は葛城の施設には行かなかった。

 代わりに、研究室で最後の実験を始めた。

 遺伝子中和剤を投与する前に、自分の血液から抽出したUnknown-Helix-7の遺伝子断片を、特殊な培養液で増幅させる。

 そして、その断片を——妹の身体に適合する形に、改変する。

 がん細胞だけを認識し、破壊する。正常細胞には一切影響を与えない。

 理論上は可能だ。だが、成功率は限りなく低い。

 蒼太は三日三晩、眠らずに作業を続けた。

 培養器の中で、遺伝子断片が増殖していく。青白い光を放ちながら。

 四日目の夜、ついに完成した。

 蒼太は注射器に、改変された遺伝子断片を充填した。

 これを結衣に投与すれば——あるいは。

 だが、その時だった。

 蒼太の身体が、突然、灼熱に包まれた。

「ぐあっ……!」

 床に倒れ込む。全身の細胞が悲鳴を上げている。

 DNAが、勝手に書き換わっていく。

 Unknown-Helix-7が、暴走を始めたのだ。

 蒼太の皮膚から、青白い光が漏れ出した。研究室の培養器の中で、細胞が異常増殖を始める。ガラスが割れる音。液体が床に溢れる。

 空気中に、遺伝子断片が大量に放出されている。

 蒼太は這うようにして、冷蔵庫に向かった。

 遺伝子中和剤——これを打てば、暴走は止まる。

 だが、そうすれば——妹を救う道も、永遠に閉ざされる。

 蒼太の手が、注射器に伸びる。

 その時、脳内にビジョンが流れ込んできた。


第八章:生命の記憶

 蒼太は、時間の流れの中にいた。

 いや、時間そのものになっていた。

 三十八億年前——原始の海で、最初の生命が誕生する。単純な有機分子が、自己複製を始める。

 それは偶然だった。だが、その偶然が、すべての始まりだった。

 生命は増殖し、変異し、進化した。

 単細胞生物が多細胞生物になり、海から陸に上がり、空を飛び、知性を持った。

 すべては、遺伝子の「選択」だった。

 環境に適応できない個体は死に、適応できた個体が子孫を残す。

 それは残酷なシステムだ。だが、それが生命の本質だった。

 蒼太は理解した。

 自分がUnknown-Helix-7を選んだのではない。

 生命が、次の段階に進むために、自分を選んだのだ。

 実験台として——。

 だが、その時、ビジョンの中に別の光景が現れた。

 人間の歴史。

 火を使い、道具を作り、言葉を話し、文明を築いた。

 人間は、遺伝子だけでは決まらない存在になった。

 文化を創り、芸術を生み、他者を愛した。

 生存本能を超えて、他者のために命を捨てる者もいた。

 それは、遺伝子の論理では説明できない。

 人間には——「意志」があった。

 蒼太は、ビジョンの中で叫んだ。

「俺は、遺伝子の奴隷じゃない!」

 瞬間、ビジョンが砕けた。

 蒼太は現実に引き戻された。


第九章:人間の選択

 蒼太は床に倒れたまま、遺伝子中和剤の注射器を握っていた。

 身体は灼熱に焼かれている。Unknown-Helix-7が、完全に暴走している。

 だが、蒼太は決断した。

 注射器を、自分の首筋に押し当てる。

「俺は——人間だ」

 針が皮膚を貫く。

 薬液が血管に流れ込む。

 瞬間、蒼太の全身が痙攣した。細胞が悲鳴を上げる。DNAが元の状態に戻ろうと、激しく抵抗する。

 だが、Unknown-Helix-7は、最後の抵抗を試みた。

 研究室全体が、生体反応場と化した。

 培養器が次々と破裂し、遺伝子改変された細胞が空中に舞う。蒼太の身体から放出される遺伝子断片が、嵐のように研究室を満たす。

 壁が、床が、天井が——すべてが生命の光に包まれた。

 その光の中で、蒼太は妹の改変された遺伝子断片を握りしめた。

 これを、結衣に——。

 だが、その時、蒼太の意識は途切れた。


第十章:奇跡か、必然か

 蒼太は、白い天井を見つめていた。

 病院のベッドだ。

 全身に倦怠感がある。だが、あの灼熱は消えていた。

 医師が駆け寄ってくる。

「桐生さん、意識が戻りましたか。研究室で倒れていたところを、清掃員が発見したそうで……三日間、昏睡状態でした」

「結衣は」

 蒼太は掠れた声で尋ねた。

 医師は、困惑した表情を浮かべた。

「それが……信じられないことに」

 蒼太は医師に案内され、妹の病室に向かった。

 廊下を歩く。足が震える。能力は、完全に失われていた。他人の生命情報は、もう見えない。

 病室のドアを開ける。

 結衣が、ベッドで起き上がっていた。

「お兄ちゃん!」

 妹は満面の笑みを浮かべた。頬に、血色が戻っている。

 蒼太は言葉を失った。

 医師が説明する。

「三日前の夜、突然、結衣さんの腫瘍マーカーの数値が急低下したんです。再検査したところ、腫瘍が……縮小している。いえ、ほぼ消失しています」

 蒼太は、結衣のベッドに近づいた。

「原因は不明です。自然退縮にしては、あまりにも急激で……」

 蒼太は、あの夜の研究室での出来事を思い出した。

 暴走した遺伝子断片が、空気中に大量に放出された。

 そして、蒼太が最後に握りしめていた——妹用に改変した遺伝子断片。

 それが、空気を通じて、病院まで届いたのか?

 いや、それは非科学的だ。距離がありすぎる。

 だが——。

 蒼太は結衣の手を握った。

 温かい。生命の温もりがある。

「お兄ちゃん、ありがとう」結衣は涙を流した。「私、治ったよ」

 蒼太は、妹を抱きしめた。

 だが、心の中で、蒼太は理解していた。

 これは、奇跡ではない。

 自分が、最後の最後に——人間として選択した結果だ。

 遺伝子に支配されるのではなく、遺伝子を「使う」ことを選んだ。

 その意志が、Unknown-Helix-7に影響を与えたのだ。

 生命は、意志に応えることがある——。


第十一章:訪問者

 一週間後、蒼太は結衣の病室を訪れていた。

 結衣は順調に回復し、来週には退院できるという。

 二人で他愛のない話をしていると、ドアがノックされた。

「失礼します」

 入ってきたのは、葛城だった。

 蒼太は立ち上がった。警戒する。

 だが、葛城は疲れた笑みを浮かべていた。

「安心してください。取引の話は、もうしません」

 葛城は窓際に立った。

「あなたの研究室を調査しました。Unknown-Helix-7の痕跡は——完全に消失していました」

 蒼太は黙っていた。

「遺伝子中和剤の効果ですね。見事でした」葛城は振り返った。「我々は、あなたの遺伝子コードを手に入れることはできなかった」

「それが目的で来たのか」

「いいえ」葛城は首を横に振った。「謝罪です」

 蒼太は目を見開いた。

「私は、あなたを利用しようとした。娘を失った悲しみを、復讐に変えて——間違った道を進もうとしていた」

 葛城はポケットから、あの写真を取り出した。

「でも、あなたを見て、気づいたんです。娘は——私がこんな道を進むことを、望んでいないと」

 葛城は写真を胸に当てた。

「妹さんが回復して、良かった。それが——本当の奇跡だと思います」

 葛城は頭を下げ、病室を出ていった。

 蒼太は、その背中を見送った。

 結衣が言った。

「お兄ちゃん、あの人も——苦しんでたんだね」

「ああ」蒼太は頷いた。「人間は、みんな苦しんでる。でも——」

 蒼太は妹を見た。

「だからこそ、生きる価値があるんだと思う」


エピローグ:遺伝子の向こう側

 三ヶ月後。

 結衣は完全に回復し、美大に復学した。医学界では「奇跡の自然退縮」として、症例報告がなされた。

 蒼太は研究職を辞め、小さな診療所で働き始めた。遺伝子工学ではなく、一人一人の患者と向き合う医療を選んだ。

 ある夜、蒼太はかつての研究室を訪れた。

 閉鎖されたラボは、もう誰も使っていない。取り壊しが決まっている。

 蒼太は培養室に入った。

 すべての培養器は空だった。Unknown-Helix-7の痕跡は、完全に消えていた。

 だが、床に——一つだけ、青白く光る液体の染みがあった。

 蒼太はそれを見つめた。

 かつて、自分を支配しようとした遺伝子の残骸。

「お前は、何だったんだ」

 蒼太は呟いた。

「呪いか? 祝福か?」

 答えはない。

 だが、蒼太は理解していた。

 Unknown-Helix-7は、ただの遺伝子コードではなかった。

 それは、人間に問いかけていたのだ。

「お前は、本当に人間か?」

 生命の本能に支配される存在か。

 それとも、意志を持って選択できる存在か。

 蒼太は、その問いに——自分の選択で答えた。

 だからこそ、妹は救われたのだ。

 蒼太は研究室を後にした。

 背後で、床の染みが——微かに、光った気がした。

 まるで、次の問いを待っているように——。


 【完】

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