ハルノ、ウバの時計塔III(キリコと初めての成功体験)
舞台にはいくつかの種類がある、とハルノは考えているのであった。
大きくて華やかな、とかく大衆を楽しませるための舞台だ。それは「最高の舞台」か、「美しい舞台」か。そういった呼び名が相応しいと思うのだ。
一方で、小さくこじんまりとした、ある種の自己満足的な舞台というものもある。それは「役者による役者のための舞台」か、「ひたすら感情をぶつけるだけの舞台」ともいえる。
今回の公演は後者のものであった。そもそも月夢の子羊のような小規模な劇団にとって、前者の舞台はやりたくてもできないのだ。とかく、予算がかかるのだ。
しかしこの「小さな舞台」は、時として「大きな舞台」に持ちえない魅力を宿しうるのだ。今回の公演が、まさにそのようなものであった。
自己満足的な芸術体系にこそ、青春というものは宿る。しかもこの光は年齢に関わりなく与えられるのだ。
そのような劇を終えた後の会場には、夜の砂丘で星屑を見つけたような、隠れ家的な幸福感が与えられるのであった。秘密の演目を終えた達成感のための一体感。そのような充足した心を、一様に共有することができるのであった。
「大きな舞台」ではそうもいかない。確かに感動はあるが、それは独立したある種の孤独である。映画を観て感動する、というものに等しい感覚だ。しかし「小さな舞台」では、その孤独を超えるのだ。ある種の恋情にも似た、情熱的な高揚感を味わうことができるからだ。
「やったね、キリコさん!」
「ええ」
舞台を終えた役者一同は来場者をエントランスで見送った後、会場の撤収作業を行うのであった。公演の準備を手伝ってくれた地域の人達も、ちらほらと撤収作業を手伝っている様子がうかがえた。
そんな中で偶然キリコと一緒に大道具の運搬を行っていたハルノは、にっこりと満面の笑みを浮かべるのであった。
ハルノにとってこのような小規模な公演の成功体験なんて、取るに足らないものなのではないかとキリコは思っていたのだが。どうやらハルノは規模に関わりなく、純粋に公演の成功を喜んでいるようであった。
そんなハルノに対し、キリコは少しだけ口角を緩めるのであった。
「この公演を通して、あなたの新たな一面を見られた気がするわ」
「え?」
ここ数日間、ハルノと一緒に活動することの多かったキリコなのだが、彼女がこのような優しい表情を見せることは稀であった。その笑顔はハルノの、以前まで抱いていたキリコに対するイメージと反するものであった。表情が硬く、真面目な人だと思っていたのだ。
だけどキリコは、本質的には優しい心を持つ人だったのだと。ハルノはこの日々を通して考えを改めているのであった。
「あなたは月夢の子羊の活動に生きがいを見出しているのだと、私はそう思っている」
「実際その通りだと思うよ。だって、みんなと一緒に夢を作るのはやりがいもあるし! それに、私自身、すごく楽しんでいるんだよ」
「そのようね。でも、あなたの作り出しているものはそれだけじゃない」
ハルノ自身が楽しむためだけに芝居をしているわけではないのだろうと、キリコはそんなことまで見抜いているのであった。
キリコは遠くを眺めるような、目を細めた表情でハルノの瞳を覗いていた。それはハルノの心に直接触れるような、そういった情熱的な印象をハルノに与えた。
「あなたの演技には自分自身だけでなく、他人をも動かしてしまうだけの影響力がある」
いつしかハルノはキリコの演技に対し、「会場の空気を身にまとうような演技」と評したことがあったか。そのお陰で登場人物の心情に寄り添いやすいとも言った。
しかしキリコからすると、むしろハルノは「会場の空気」を変えるだけに留まらないのだと断言した。ハルノの演技は、「会場にいる全ての人」をも変えてしまう力があるのだと。キリコはそんな風に考えているらしかった。
「あなたの情熱と行動力が、私の日常を変えてくれたのよ」
キリコは、ハルノに対する熱い尊敬の念を告白した。
公演によって男の孤独を「変えようとした」ハルノ。公演を企画することで地域の人達の距離感を「変えた」ハルノ。そして、キリコの孤独を「変えた」のもまた、ハルノだったのだ。
この公演を通じて、キリコは〇×町の人達との交流を深める機会を得られたのだとか。キリコと似たような境遇の人達、あるいはキリコの演技を通じてキリコと一緒に演劇を行いたいと希望する人達。そういった人達が、キリコにとっての新たな”友人”になったのだと。キリコは語った。
このことは、ハルノも知らない事実であった。まさかキリコがそこまで深い人間関係を構築していたとは。
確かにキリコが自分から積極的に行動している姿を、何度も目撃したことがあった。重大なことでもない限り、彼女が活発に活動することは稀であった。ましてや自分自身のため、他者との交流を目的としてここまで活動的になっている姿は、殊更に珍しい印象であった。
「あなたが周りの人達を巻き込んでくれたから。私もそれに乗っかって、たくさんの人たちと交流することができた」
「でもそれは、キリコさんが自分の意志で行動したからだよね?」
「そうね。それでもきっかけはあなただった。私はそう思うの」
しかしキリコの褒め言葉に対し、ハルノは苦笑するのであった。
「この前も言ったけど、私、ちょっとだけ自己中心的なんだよね。夢見がちっていうか……相手のこと、あんまり考えられていない節があるんだよね」
それはTさんの自宅から帰る途中のこと。Tさんの花嫁修業の話を通じて、ハルノの行動原理が「相手を思いやる」ことのできていないものだったと、ハルノはキリコに吐露していた。孤独な男に、舞台を見せれば幸福になってくれると、そんな自分本位な楽観性を持っていたのだと、ハルノは自白していた。
「あなたはあなたの生を何度でも全うしなければならない」
「え?」
そんなハルノの自罰的な感情を、キリコは短い一言で捉えるのであった。鋭い切り口で、ハルノの根源的な意志を肯定するのであった。
「あなたも、私も。そしてあなたが救おうとした男の人も。みんな、自分の人生を決められるだけの自由を手にしていると思うの」
「そうなのかな。孤独や不幸は、嫌でも自分のもとにやって来るものだと思うけど」
「それさえも自らの意志で望んだものだと仮定すれば?」
しかし、ハルノはキリコの仮定を理解することができなかった。理解できないというよりも、想像すること自体、困難であったのだ。
ハルノは小首を傾げていまいちピンと来ていないといった素振りをした。するとキリコは、困ったように笑うのであった。
「確かに今の話は極端だったわね。こう考えてみましょう」
そう言って、キリコは人差し指をピンと立てた。
「役者として生きる人生と、役者以外として生きる人生。あなたにとってより幸福なのは、どっち?」
「役者の人生」
ハルノの答えは即答であった。キリコはすかさず話を続ける。
「それじゃあハルノが選ばなかった、「役者以外としての人生」は不幸なのかしら」
「それは……生き方次第じゃないかな」
「そうね。それじゃあ、どうすれば幸福な人生になると思う?」
「そんなの……わからないよ」
「私は……例え「役者以外の人生」を選んだとしても、また似たような二者択一を迫られるのだと思う」
役者という特殊な経験を通じてこの世界を理解していたハルノにとって、キリコの質問は謎かけのようなものであった。意味不明な言葉遊びに、ハルノは子供らしく眉をひそめる。
普段のハルノならば、笑って誤魔化すくらいの余裕もあったのだろう。だけど、以前よりも深い信頼関係を築いたキリコを前に、ハルノは自身の気持ちをあやふやにすることはできなかった。
そんなハルノの殊勝な態度に、キリコは苦笑するのであった。
「ごめんなさい。うまく説明できないかもしれない」
「ううん。話、続けて? キリコさんの考えを聞きたいから」
ハルノの熱い眼差しを受けてしまい、キリコはいっそう困ったような顔になった。キリコは、ハルノ相手にもわかりやすい言葉を必死に模索している、そんな様子であった。
「あなたはあなた自身が望むからこそ役者という人生を選んだ。私もそう。私が望んでいるからこそ、こうして毎日仕事と演劇を両立させているの」
そのせいで時折体調を崩してしまうのだけれど、とキリコは力なく笑うのであった。
「それじゃああの「男」の人はどうかしら」
ハルノはどきりとした。何か、心臓を貫くような苦しい感覚であった。
「独りでいることを自分で選んだ。私はそう推測している」
「それは……」
「だから、彼の孤独をあなたが抱え込む必要はないの」
「孤独も自らの意志で望んだもの」だから。ハルノの頭の中には、そんな言葉が浮かび上がるのであった。しかしハルノはその思考を否定したいと思った。すぐにかぶりを振って、頭の中から追いやろうとする。
するとハルノの心中を見透かしたようにキリコは続けた。
「あなたは「孤独」を「不幸」なことだと思っているみたいだけど、そうとは限らないのよ。単に不幸なだけなら、自ら進んで選択はしないはずだから」
「でも望んでいなくても孤独になっちゃうことってあるよね?」
ハルノはふと、学校での自分を想像していた。だけどキリコの言う通り、ハルノは自分から望んで孤独になっていた。ハルノは自身の信念が揺らぐような、根底から価値観を否定されたような感覚を得た。
「そうね。それはとてもつらいことだと思う」
そう語るキリコの表情が重く、冷たいものに変わる。そこでようやくハルノは気が付くのであった。
キリコこそ、自分で望んでもいないのに孤独な境遇に陥っていたのだと。彼女の祖父の病気こそ、そのことを象徴する出来事であったのだと。
そんなことに気が付くのであった。
それでもその孤独を打ち破る意志があったからこそ、彼女は今回の公演で新たな友人を獲得することができたのだ。
──ならば、男はどうだ? 彼を救うためにハルノができることは?
ハルノはまたしても無力感を覚えた。役者時代の苦悩、公演を企画した当初の自分、Tさんの話を聞いている時。ハルノの身に何度も降りかかったこの無力感を、ハルノはようやく理解するのであった。
ハルノは、自分の力で「世界」を変えることができると信じていたのだ。努力をすれば、あるいは何か特別な魔法を使うことで、悪い夢を望む形に変えてしまえると思っていたのだ。
だけど現実は、必ずしも彼女の思う通りのものではなかった。両親がいなくなったこともそうだ。キリコの祖父が危篤状態に陥ったことも。全ては、人の力では動かしようもない事実なのだ。
それをハルノは、あたかも魔法を使うかのように変えてしまえると考えていたのだ。そんなのは、ただの傲慢にすぎなかった。
「……」
「ハルノ……?」
気が付いたらハルノは泣いていた。なぜ自分が泣いているのか、そのわけもわからずに。
するとキリコは驚いたように目を見開いて、それからハルノのことを強く抱きしめるのであった。
「ごめんなさい。あなたの悩みを上手く解決できなくて」
「いいの……平気だから」
言葉ではそんな風に取り繕いながら、ハルノはいっそう激しく泣いた。
自らの無力さが悔しかったからか。あるいは他者の不幸に心を痛めたためか。ハルノの頭の中では、自分が泣いている理由を模索し続けていた。
そして最もらしい理由に思い当たるのであった。
フィクションでは現実を変えることなどできないのだ。自身の掲げていた夢は、音もなく崩れてしまった。自分の「演劇」では、変えられない「現実」もあるのだと。そのことを悟ったのであった。
「キリコさん……私わかったよ」
「うん」
「私は何も変えることのできない、そんな「フィクション」の弱さが大嫌いだったんだ。……それを、ずっと見ないフリをしてきた」
「……そうだったのね」
「でも……そもそも変える必要のないこともあるんだって。今はね、そう思うの」
例えば夫婦関係。あるいは他人との距離感だとか。そういった変える必要のないこともあるのだと、たくさんの人達との対話を通じてハルノは学んだのであった。
大切なことは何を選ぶのか。それを自分の心で、その選択を心の底から肯定できるかどうかだ。選択肢なら、無限にあるのだから。
しきりに泣いてばかりのハルノを、キリコは優しくあやすのであった。
結局、男が会場に来ていたかどうかはわからない。来場者名簿はあったが、ハルノは怖くて確認することができなかったのだ。会場を去り、帰路につく。今晩も、月の裏舞台では夢の公演がある。
〇×町の公演を終えた後も、ハルノとキリコは月の裏舞台で人々の夢を演じなければならないのだ。
今夜の題目は「懐かしい過去」。ハルノは幼い少年役で、キリコはその母親役なのであった。
ゴーン、ゴーン。ウバの時計塔からたんぽぽの種が舞い散る。風に運ばれた種子は地に根を下ろし、やがて綺麗な花を咲かせるのであった……。
ハルノ、ワカレとデアイ とかげのはこ @LizaBOX28
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