後悔

 埼玉県、所沢市の郊外にポツンと佇む、古びたアパートの一角で男は足を止める。オレンジの蛍光灯が男を照らし、その色を失った目元が映る。

 厚手のコートを一枚羽織り、その下にはスーツ。身長は高いが細身で、頬骨が浮いている。髪は短く切り揃えた黒髪。黒縁眼鏡は曇っている。

 朴訥な印象を与える、不気味な男。


 男はかじかんだ手で懐から鍵を出し、それをドアノブに刺して一捻り。

 ガチャリと音が鳴り、男は鍵を抜いてドアノブを回し、引く。するとドアが開き、男は部屋へと入った。


 1LDKの部屋。壁は薄く、床は冷たい。

 リビングにはテーブルやクローゼットなどの必要最低限の家具しか備わっていない。

 男は靴を脱ぎ、顔に疲労も浮かべず淡々と廊下を歩く。

 リビングに着くと、持っていた鞄を適当な場所に放り、キッチンへと進む。現在の時刻は22時、自炊をするなんて発想は無い。食欲も沸かない。

 しかし、彼の生活は体力勝負。何かを詰め込まなければ、やっていけないのだ。この男は、それで一度ぶっ倒れている。

 男は戸棚からごつ盛りと栄養サプリを手に取った。


 これがこの男、佐藤龍馬の日常である。


 ◆◆◆◆◆◆


 人の波。

 肌寒い。

 脳に響く音楽。

 スマホを耳に翳し、膝から崩れ落ちる俺。


 それだけで、何が起こったのか分かった。

 ここはどこなのか、彼女はどうなったのか。

 俺は、何を思っているのか。

 そして、これが過去の出来事、つまりは夢であることも。

 夢なんて、久々に見た。


 そうか、もう、十年以上も前になるのか。

 芯から体温を失っていく体、込み上げてくる吐き気、何もできない無力感。朦朧とする意識。

 これはきっと夢だ。

 この音楽のせいで錯乱しているのだ。

 そうやって現実逃避をすることでしか、自分を守る方法を思いつけなかった。

 何もできない自分に、これほど嫌悪を覚えたのは、初めてだった。




 目が覚めた。

 それが分かった瞬間、俺は瞼を開け、体を起こす。

「はぁ」

 早朝からいきなり不快にさせられた。

 それを晴らす様に、大仰にため息をつく。


 時刻を確認するために、ベッド脇に置かれたスマホを手に取り、電源を入れる。


 4:47

 12月23日


「あ」

 その数字を見て、俺は呆けた声を漏らす。

 12月23日。クリスマスの夜として名高い、クリスマス・イヴの前日だ。

 別に、異変が起きたわけでは無い。だが、あんな夢を見てしまったせいか、過剰に反応してしまった。


 クリスマス。多くの人間にとって特別な意味を持つ日だろう。イエス・キリストの降誕祭、身内でのパーティ、性の夜。日本人にとってはただの平日だ。これらの、特別なイベントも何も無いクリスマスを過ごすことも多いだろう。だとしても、全ての人間が、何故か特別だと感じてしまう日。


「行って、やるか」

 気がつけば、一人呟いていた。


 ◆◆◆◆◆◆


 12月24日、クリスマス・イヴ。

 多くの人間にとって特別な日。

 それは、俺も例外では無かった。最も、何か心待ちにしていたイベントがあるわけでは無い。なんなら、俺が勝手に特別だと思っているだけかもしれない。でも、俺はそこに足を運んだ。


 休日の昼間、当然そこは混み合っていた。

 等間隔で設置されたパイプ椅子、消毒液の匂い、杖をついて歩く老人、忙しなく動く看護師。

 足音と咳が耳に入り続ける。

 そんな中、俺は看護師に連れられ、療養病棟へと向かう。


 十二連勤明けの休日。いつ電話が鳴ってしまうか分からない、早めに済ませなければ。そんな思考がこの場で浮かんでしまうことが、俺がこの社会に染まってしまった証拠だ。


 彼女に会うのは二年ぶりか。何も変わってはいないと思う、それでも少し不安だ。




 どうでも良いことをあれこれと考えている内に、その部屋の前に着いた。

 俺は扉をスライドさせて、開ける。


 カーテンで遮られた、四角に位置するベッド。

 テレビの音以外は何も無い。俺は右奥のベッドへと向かう。

 十二年。あっという間、いや、意外と長い時間だった。赤子が中学生になるまでの年月、それを今日まで、俺一人で過ごして来た。彼女と出会うまでだってそうだったはずだ。でも、彼女と出会ってから何かが変わった。

 彼女、美空愛衣は、俺にとって特別な人だ。今も昔も、俺の中の愛衣という存在だけは変わることが無い。


 カーテンを控え目に開けて、その中に入った。

「……愛衣」

 そこには、二年前と変わらぬ姿の愛衣がいた。

 俺は安心と同時に、期待を裏切られたような、ショックを覚える。


 金髪は抜け落ち、顔も老け、痩せこけたとはいえ、十二年前の彼女と同一人物だと分かる。


 一見、何の障害も抱えていない、顔の整った女性に見える。問題は、目に見えぬところで起こっているのだ。


 遷延性意識障害せんえんせいいしきしょうがい、所謂植物状態。

 それが彼女の抱える問題だ。

 この十二年、一度も目を覚ましたことは無い。


 生きているのに、死んでいる。

 正確には死亡しているわけでは無いが、眠りから覚めないなんて、死も同然だ。

 だが、まだ目覚める可能性がある。

 そんなことは有り得ない、理屈ではそう理解しているが、まだ希望を捨てきれていない自分がいる。


 友人に何度も指摘された悪癖だ。悪い意味で、俺は諦めが悪い。

 でも、俺は自分のそんなところが好きだ。


 ◆◆◆◆◆◆


 彼女と会話はできない。彼女の前で独り言を呟く、なんてことをする気も無い。俺は彼女の顔を暫く見つめ、思い出に耽った後、カーテン内から出る。今後、更にスケジュールは厳しいものとなるかもしれない、転職も考えたが、再就職できる保証も無い。ここに来ることも難しくなるかもしれないが、俺にはここを忘れられる自分というものを想像できなかった。……違う、来れなかったとしても、ここに彼女がいれば俺は大丈夫だと、確信があるのだ。


 だから、潔く歩を進める。そうしていると、次の瞬間、この病室に一人の来客が入ってきた。

「佐藤、君?」

 中年ほどの男だった。坊主頭に丸眼鏡、小太り。

 黒のジャンパーを着込んでいる。


「──お久しぶりです、美空さん」

 美空勝雄、愛衣の父だ。

 今年で五十六、だったと思う。にしては若い印象を与える顔だ。

 その彼は、俺の目を見つめ、驚いた様な、でも安堵した様な表情を浮かべている。

「来て、くれたのか」

「──迷惑でしたか?」

「いや、とんでもない。娘もきっと喜んでいるよ」

「……ありがとうございます」

 俺と彼は親密な間柄というわけでも無い。会話はそこで止まり、俺は再び動く。

 そうして、彼を通り過ぎようとした時、俺の耳に声が掛けられた。

「この後、もし予定が無ければ、最寄りのカフェに来てくれないか? 君に、話しておきたいことがある」

「──分かりました」

 予定が無いとはいえ、休日ぐらい体を休めたい。

 だが、彼の声色は普通じゃ無かった。

 恐らく、愛衣に関わることだ。直感して、俺は答える。

 彼が息を漏らす音を聞き、俺は病院を後にした。


 ◆◆◆◆◆◆


 急なことで思考を端折っていたため、彼の言う、最寄りのカフェの具体的な情報を何一つ聞いていなかったことに気がついた。

 一先ず、本当にあの病院から最短のカフェに入店したところで、美空さんからLINEが。どうやら、ここで合っていたようだ。


 二十分後、美空さんが入店して来た。数秒辺りを見回したところで、こちらに気がついた様子で俺へ近付き、俺の真向かいで腰を下ろす。

 薄く浮かべた笑みが、フレンドリーな印象を与える。彼女があんなことになってから、美空さんとは何度か会うことになったが、朗らかな人という第一印象が変わることは無かった。

「待たせて済まなかった。改めて、久々だな、佐藤君」

「ええ、お久しぶりです」

 彼を前にすると、自然と姿勢が正される。

 未だに、恋人の父親、というレッテルが消えていないのだろう。 

「もう、十二年か。驚いたよ、まさか君が来てくれるなんて」

「はい。前年は仕事の都合で当日は。その後も都合が合わず。その、すみませんでした」

 責められているわけで無いのは雰囲気で分かった。でも、引っ掛かりがあったからなのか、気がつけば言い訳じみたことを口走っていた。

「いや、君が謝ることは無い。むしろ、私から感謝をしたいぐらいだ」

 感謝される筋合いは無い、ただの自己満足だ。

 そう言おうとしたが、今この場では雰囲気を悪くしかねない。俺は口を噤む。


 数秒、沈黙が続く。

 俺は何か、この気まずさを紛らわすために話題を探すが、美空さんに話せるようなことは無い。

 美空さんもまた、その様子だった。

 俺はここで一つ、提案をしてみる。


「本題に、入りませんか?」

「……」

 時間の無駄だ。単刀直入に切り出す。

 美空さんは意外に早く切り替え、俺へ真剣な眼差しを向ける。俺もまた、生唾を飲み込み姿勢を正す。


「──延命治療を、中止しようと思うんだ」

「え?」

 雑談目的で無いことは理解していたが、突拍子の無い言葉に、俺は何も返せない。

「……いや、済まない。何か気の利いた話でもと思ったのだが、君には、早く伝えたかった」

「……」

 唖然とすることしかできない。美空さんの言葉を、噛み砕いていくと共に、より。

 延命治療の中止。それは間違い無く、医療を受けなければ生きることもできない、愛衣に対しての処置の話だ。

「何故……」

 理由なんて分かりきっている。なのに、思わず聞いてしまった。余計に美空さんの傷口を開いてしまうだけだ。

「もう、疲れたんだ。医療費も馬鹿にならない。何より、希望に踊らされていることが、耐えられないんだ。この十二年、娘が目を覚ますことだけを願っていた。その日のために、環境も整えた、貯金も始めた。

 ……気がつけば、この年だ」

「……」

 俺には、何も言えなかった。

 俺と愛衣は、たった3ヶ月付け合っていたというだけの関係だ。俺の、一方的な執着。

 所詮、美空家の人間とは他人。

 彼らの方が、愛衣を大切に思っていることは、紛れも無い事実。見舞いも、気がつけば月に一度だったのが、三ヶ月、六ヶ月、九ヶ月、一年。

 そんな俺に、とやかく言うことはできない。

「私は、もう帰るよ。その時が来たら、出席してくれると嬉しい」

 お代を置いて、美空さんは去って行った。

 その背中に、俺は何も言うことができない。

 そもそも、俺が、俺みたいな人間が、美空家に関わること自体が、おこがましい様な気がして。

 でも、愛衣には生きていて欲しくて。


 俺が、彼女を守れなかったから。全部、俺が、悪いのだ。


 ◆◆◆◆◆◆


 俺は、幼い頃から、世間一般で言う厳しい家庭で育てられた。

 でも、そこに不満は無い。俺に、やりたいことなんて無かったからだ。安定した生活にも、結婚にも、興味なんて無い。俺は、誰かに認められたかっただけだ。操作キャラクターが成績を上げれば上げるほど好感度の上がるNPC、これほど単純なことは無い。


 親の希望通りの大学に入って、そこでも俺は優等生を演じる。それは変わらない。ただ、成人年齢を、そして二十歳を超えれば、それだけ人生の自由度は上がる。俺は一つ、目標を見つけたのだ。

 それは、恋。俗っぽい言い方をすれば、童貞を卒業する。

 そこからは、積極的に人とコミュニケーションを取り、とにかく出会いの機会を増やした。

 当然、勉強の方を疎かにしていたつもりは無く、そういう年頃なのだと、親を納得させた。


 だが、成果は実らず。


 そうして、三年。俺が途法に暮れている時に出会ったのが、美空愛衣だった。俺より一つ下の、ギャルと言われる属種。

 切っ掛けは確か、本当に些細なこと。脱走した愛衣の飼犬の捜索に手を貸した、とかであった気がする。

 別に彼女を特別意識していた覚えは無い。むしろ、ギャルというものは汎ゆる行動のフットワークが軽いイメージがあり、正直苦手だった。

 だけど、気がつけば、だ。しかも、告白をしたのは俺だ。日常の積み重ねで恋は実る、という言葉を信じるようになったのは、あの日が初めてだった。そして何故か、彼女は俺の告白を了承してくれた。 


 それからは、全てが初めての経験だった。初めて自主的に行動して手に入れた関係。それに本気で愛され、こちらも本気で愛す。それがどうしょうもなく幸福だった。


 だけど、それは俺が思っていた以上に脆いものだった。交通事故、外傷が酷いわけでは無かった。だけど、その日以降、彼女が目を覚ますことは無かった。


 抑鬱と、軽度のPTSD。医師にはそう診断され、已む無く大学には休学届を提出した。

 その後、一時は回復した。だけど、大学には行けなかった。そこに行けば、思い出してしまいそうで、彼女の空白を自覚してしまいそうで。

 一留決定後、俺は退学をした。学歴は高卒、親に出してもらった学費は俺の借金となった。

 一年間、俺は実家から出ることができなかったが、あの親の視線を耐えられず、何よりこれ以上親に迷惑をかけるわけにいかない。手当たり次第に面接を受け、内定を貰った一社に飛び込んで、今はこの有り様だ。



「……」


 彼女の顔を見たからか、こんなことに思考を費やしてしまった。

 いい加減、もう睡眠を取ろう。そうしなければ、体にガタが来てしまう。


 ◆◆◆◆◆◆


 俺の、せいだ。

 幾らでもやりようはあったはずだ。

 デートの日にちを、待ち合わせの時間をズラせば、現地集合にしていなければ。

 俺がもっと、努力していれば。


 全て、俺の責任だ。

 そして今回も、俺は何も言えなかった。

 無理矢理にでも、美空さんに噛み付くこともできたはずなのに。

 俺は、頑張れなかった。

 頑張れなかった。

 頑張れない俺に、価値は無い。


 ──戻る気は無いか?


 ──え?





 白い。

 それしか頭に浮かんでこなかった。

 天井も、壁も、床も、全てが真っ白。空間自体が白色。そこに、終わりという概念は無いように思える。


 今自分の立っている場所すらも分からない。

 ただ一つ、目の前に門が佇んでいるだけだ。

 深紅と黄金の配色。豪華絢爛な、門。

 俺の身長など優に超えている。


 ──戻る気は無いか?


 俺の直感が言う。

 それを潜れば、後悔も、過ちも、全てを消すことができる。


 ──そうか、なら……


 本当に良いのか?


 奥底の声に気がつく。

 そうだ。確かに、俺の人生は後悔の連続だ。でも、手を抜いていたわけじゃない。俺なりに足掻いた結果。

 それを、手放したくは無い。


 ──彼女を、救いたくは無いのか?


 ──っ


 やれるものなら、救ってやりたい。

 目の前の餌に釣られてしまう猿のように、その門に吸い寄せられる。

 代償があるのかもしれない。世の中、そんな上手い話は無い。

 だからと言って、このチャンスを見逃すわけにはいかない。このチャンスを見逃せば、俺は実質、本当に愛衣を殺したことになる。そんな事実を、生み出したくは無かった。



 ──分かった


 俺は門に両手を付き、次の瞬間、腕に力を込めて両戸を押した。


 簡単に、その門は開いた。


 隙間から、光が溢れる。


 太陽を直視したような眩しさに、俺は思わず目を閉じる。


 そして、そして……

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深紅の脚光 哺乳瓶さん @apjpmpmpmp

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