未ダ知ラズ

安崎依代

「未知ってさ、『いまだ知らず』って書くじゃん?」


 ぬるい風が吹き込む窓に向かって、彼女は呟いた。


「つまりさ、『いつかは知ることができる』っていう、希望的観測をちょっと含んでたりするのかな?」


 消えてしまいそうだな、と、ふと思った。


 だから私は、そんな彼女の背中をすっぽり抱き包むように後ろから手を回した上で、彼女の独白に答える。


「……君は、何が知りたいの?」


 キュッと、彼女のお腹の上に回した手を緩く握ると、ピクリと彼女の薄い腹が震えたような気がした。散々私に可愛がられていた体はいまだに熱を失っていないのか、私の吐息が首筋に触れる些細な刺激でさえ、彼女が小さく体を跳ねさせているのがよく分かる。


 それでも彼女は必死に平気なフリをして、窓の外ばかり眺めていた。


 いつだって、この子はそう。寂しくなると必ず私のところに来るくせに、いつだって私を見ようとはしない。


 そんなところまでもが可愛くて、……でも同じだけ苦しくて、切ない。


「私とのこの関係に、はっきりとした名前を付けたいの?」


 ──ねぇ、私を見て。


 キュッと力を込めて引き寄せれば、私の胸の膨らみは彼女の背中によって潰される。それでも彼女の首筋に唇を寄せて肌を吸えば、彼女を悲しませる男どもがするのと同じようにチュッと濡れた音がした。


 その音と刺激に体を震わせる彼女が、男どもに体を預ける時はいつも、心も体も震わせていないことを、私は知っている。


 この子がこんなに無防備に心も体も震わせるのは、私の腕の中でだけ。


 それでも私達の関係性にこの子が明確な名前をつけてくれないのは、私もこの子も『オンナノコ』だからだ。


 ──ねぇ、そんな外側よりも、私の内側を見てよ。


 その思いを込めて、今日も私は丹念に彼女の首筋に唇を這わせる。


 その行動はまるで、母猫が子猫の首を甘噛して愛情を示す行為に似ていた。


「ねぇ、……ねぇ、教えてよ」


 どれだけ強請ゆすったところで、彼女がだんまりを貫くことは分かっている。


 それこそ、私の問いに答えてしまったら、この関係が終わってしまうと思っているかのように。


 未知。未だ知らず。


 私はずっと、この子が本心で何を思っているのかを知らない。


 知らないまま、ズルズルと、こんな関係を続けている。


 ──君が私の腕の中にいてくれるなら、未知のままでもいい。


 だけど君が私の腕の中から出ていかなくなるならば、『未ダ知ラズ』を『既ニ知ル』に変えてもいい。


 今日も彼女は、きっと私の問いには答えない。答えないままできっと、どれだけきつく抱きしめたって、すぐにスルリとこの腕の中から消えていくんだ。それが彼女の望みであると知っているから、私は今日も未知を未知のまま放置する。


 またフワリと、温い風が吹き込んできた。


 悪戯いたずらに揺らされる私達の髪からは同じシャンプーの匂いがするのに、どうしても同一にはなれない未知の香りに嫉妬した私は、八つ当たりように彼女の肩をきつく吸い上げた。



【了】

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未ダ知ラズ 安崎依代 @Iyo_Anzaki

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