VRホストクラブ「EGGGEST(エッグイスト)」へようこそ

はらほろひろし

第1話

VRホストクラブ「EGGGEST(エッグイスト)」へようこそ

​~中の人が卵すぎて、AIの指示が読めません~


第1話:完璧な模範解答、あるいは虚無


1.高難易度ミッション:ユリ

 視界の端で、赤いインジケーターが点滅している。

 VRホストクラブ『EGGGEST(エッグイスト)』のVIPルーム。

 目の前のソファには、常連客のユリ(アバター名)が座っていた。彼女は少し退屈そうにグラスを揺らしている。

 システムが、彼女の微細な表情筋と声のトーンを解析し、俺の網膜に作戦概要(ミッション・ブリーフ)を投影した。


> 【Mission: Emotional Resonance(情緒的共鳴)】

> User Desire: 「客」ではなく「女」として扱われたい。スリルと安心感の両立。

> Strategy: 視線と吐息、接触による段階的なドーパミン生成。

> Reward: ヴィンテージ・シャンパン(推定売上 30万円)。

> Probability: 88.2%(到達可能)


 30万。俺のバイト代の何ヶ月分だ。

 俺――アバター名『レオン』は、息を整えた。

 AIが提示するルートは絶対だ。これに従えば、俺のようなコミュ障の貧乏人でも、絶世のホストになれるはずなんだ。


 《Phase 1: Contact》

 Action: 彼女の手の甲に、自分の手を重ねる。

 Speed: Slow (3秒かける)


 よし、これならいける。基礎動作だ。

 俺はコントローラーを握る指に神経を集中させる。

 画面の中のレオンの美しい手が、ユリの白い手にゆっくりと重なる。1、2、3……。


「……あら」


 ユリが顔を上げ、少し頬を染めた。

 よし、好感触。

 すかさずAIが次のフェーズを展開する。ここから難易度が跳ね上がる。


 《Phase 2: Gaze & Breath》

 Action: 見つめ合いながら、吐息を漏らす。

 Parameter: 吐息量 30% UP(情熱的に)。

 Duration: 15秒間キープ。


(さ、30%!?)

 俺は焦った。小鼻がかゆい気がするが堪える。

 30%ってどれくらいだ? 深呼吸より浅く、ため息より深く?

 ええい、ままよ。俺はマイクに向かって「ふぅぅ……」と少し強めに息を吹きかけた。


「……レオン?」


 ユリが潤んだ瞳でこちらを見ている。効いてる。

 だが、ここからの15秒が地獄だった。

 AIのカウントダウンが進む。[Time: 12... 11... 10...]

(な、長い……!)

 無言で見つめ合う1秒は、現実の1分に相当する。

 間を持たせるために、俺は必死に「30%の吐息」を漏らし続ける。ふぅー。はぁー。すぅー。

(これ、ただの過呼吸じゃないか? 大丈夫か?)

 [Time: 2... 1... 0!]

 ラストの指示が表示された。


 《Phase 3: Touch》

 Action: 手を彼女の肩へスライドさせ、引き寄せる。

 Strength: Soft (羽毛のように)。

 Timing: NOW!


(よし、今だ!)

 俺は張り詰めていた緊張を一気に解放し、動作に移った。

 だが、15秒の焦らしと酸欠気味の頭が、手元の狂いを生んだ。

 「羽毛のように」動かすはずの指に、ガチガチの力が籠もってしまったのだ。


 ガシィッ!!


 VR空間に、不似合いな効果音が響いた。

 レオンの美しい手が、ユリの肩を鷲掴(わしづか)みにした。まるで獲物を捕らえる鷹のように。


「いっ……!?」

 ユリが悲鳴を上げた。

「あ、いや、違うんだユリ!」


 俺は慌てて手を離そうとしたが、焦って変なボタンを押してしまい、今度は小刻みに肩を揺さぶる動作になってしまった。

 荒い鼻息(30%増量)をフンスフンスと吹きかけながら、真顔で凝視し続け、突然肩を鷲掴みにして揺さぶる美男子。

 それはもはやホラーだった。


「……きっっも」

 ユリの目が、完全に冷めていた。恐怖すら浮かんでいる。

「あんた、動きが……人間じゃないわ。壊れたロボットみたい」


 <LOGOUT>


 彼女のアバターが光の粒子となって消えた。

 後に残されたのは、肩を掴むポーズのまま固まった俺と、AIからの冷徹な評価ログだけ。


> 【Mission Failed】



2.空白のインターバル

「……はぁ」

 俺はヘッドセットをずらし、天井を仰いだ。

 築40年、風呂なし四畳半のアパート。壁は薄く、隣の大学生がVtuber配信を見て騒いでいる声が聞こえる。

 これが俺、ケンタ(30歳)の現実だ。

 俺が働いているこの『EGGGEST(エッグイスト)』は、少し特殊な店だ。

 表向きは「最新AIホストクラブ」だが、実態はハイブリッド型。

 会話の内容や戦略はスーパーコンピュータ上のAIが考え出し、その出力(演技)を俺たち人間オペレーターが担当する。

 なぜ完全AIにしないのか?

 オーナーいわく、「AIの音声合成には『魂』が乗らない」かららしい。

 逆に、なぜプロのホストを使わないのか?

 「プロは自我が強すぎてAIの邪魔をするし、人件費が高い」からだ。

 そこで白羽の矢が立ったのが、俺のような「暇で、安くて、声だけは良い」一般人だ。

 俺は飛びついた。

 ずっと、俺がモテないのは「顔」のせいだと思っていたからだ。

 中身には自信があった(根拠はないが)。だから、この『レオン』という最強のアバターさえあれば、俺は天下を取れると思っていた。

「……でも、これだ」

 焦ると出る、余裕の無いひねた性格。左手で自分の鼻をさわる癖。研修では上品な所作を教え込まれたが、なかなか身につかない。

 最強の顔と、最強のAIアシストがあっても、俺自身の「人間性能」が低すぎてバグる。

 結局、顔を変えても俺は俺のままなのか?


3.歩く重課金アバター:ミナミ


 気を取り直して再ログインすると、新しい客が入室してきた。

 ドアが開いた瞬間、処理落ちしそうになった。


「……うわ」


 入ってきたのは、女性アバター『ミナミ』。

 一見するとシンプルなスーツ姿だ。だが、その解像度が桁違いだった。

 髪のキューティクル、ジャケットの繊維の質感、時計の盤面の輝き。すべてが「金持ち」の記号で構成されている。

 この業界で、ここまでリアルに近いアバターを使うのは、自分に自信がある証拠だ。


> 【Scanning...】

> Watch: Virtual Patek (実勢価格 380万円相当)

> Total Asset Value: High Class (太客警戒)


(380万……!)

 俺の喉が鳴る。今月の家賃と光熱費が、彼女の機嫌一つにかかっている。


 ミナミはドサリとソファに沈み込んだ。

 そのアバターの表情は、精巧であるがゆえに、リアルの彼女の疲れを忠実に反映していた。眉間のシワ、目の下のクマ。

「……いらっしゃいませ、お姫様」

「……リサーチよ」

 彼女は不機嫌そうに言った。

「最新のAI接客を見に来ただけ。……あと、ちょっと疲れてるから、適当に相手して」


4.「オラオラ営業」への疑念


 チャンスだ。疲れているなら、癒やせばいい。

 AIが即座に戦術を構築する。


> 【Mission: Affirmation(全肯定)】

> Script: 「素敵な時計だね。君のような成功者に時を刻まれるなんて、その時計は世界一幸せだ」


 よし、いける。

 俺は意識を集中する。目の前の美女を見る。その腕に光る、380万円相当の時計を見る。

 そして、その上の、死ぬほど疲れた顔を見る。


「す……素敵な、時計だね」


 俺は台詞を読み上げ始めた。だが、言葉が続かない。

 無意識に、左手で鼻を触る。違和感のサインだ。


(成功者? これが?)

 380万の時計をしているのに、なぜこんなに不幸そうな顔をしている?

 俺の貧乏人根性が、猛烈な勢いで計算を始める。

 380万あれば、俺なら一生遊んで暮らす。なのに、こいつは高い金を払ってVRに来てまで、眉間にシワを寄せている。


 AIの文字が点滅する。『読め。早く読め』


(幸せなわけあるかよ。持ち主がこんなに辛そうなのに)


 俺は口を開いた。

 AIの用意した甘い蜜ではなく、俺の腹の底に溜まった、煮えたぎるような「本音」が漏れ出した。


「……似合ってねえよ」

「え?」

「いや、時計はすげえよ。一級品だ。でもさ、お前自身の顔色が最悪じゃん。そんな高い時計して、分刻みで追い詰められてんの? バカじゃない?」


 俺は畳み掛けた。

「タイムマネジメントできてない証拠だよ、それ。俺ならもっと効率よく休むね」


 言ってしまった。

 VIPルームに沈黙が落ちた。終わった。また失敗だ。


 しかし、ミナミの反応は冷ややかだった。

「……へえ」

 彼女は鼻で笑った。

「なるほどね。そういう設定?」

「は?」

「いるわよね、最近。『オラオラ営業』っていうの? 客を否定して、主導権を握って依存させるタイプのAI。……悪くないアルゴリズムだけど、私には通用しないわよ」


 バレていない。いや、むしろ「高度なAIの演技」だと誤解されている。

 これじゃダメだ。俺という人間を認識させないと、指名は取れない。


5.地雷原:魔法少女の聖域


 どうする? 何か、彼女に刺さる言葉はないか?

 俺は焦って、彼女のプロフィール(推定年齢:28歳前後)と、さっき自分が口にした「タイムマネジメント」という単語を脳内で検索した。


 時間。タイムマネジメント。20代後半女子。

 ……あのアニメだ。

 俺も大好きな、あのアニメの世代ど真ん中のはずだ。


「……通用しない、か。厳しいね」

 俺はニヤリと笑い(アバターは完璧に)、芝居がかった口調で言った。

「でも、時間は待ってくれないぜ? ほら、あのアニメでも言ってただろ」


 俺はビシッと指を突きつけた。


「『時は金なり、時は命なり! 過ぎ去りし時間は戻らない! テンプス・フギット(光陰矢の如し)!』……ってな」


 決まった。

 時空魔法少女ルルカちゃんの必殺詠唱。

 同世代なら絶対に反応するはずだ。「懐かしい!」と笑顔になるはずだ。


 だが。

 ミナミの顔から、表情が消えた。

 さっきまでの「不機嫌」ではない。「絶対零度の軽蔑」がそこに宿っていた。


「……はあ?」

 低い声。

「何その、媚びた感じ」

「え?」

「私、『ルルカちゃん』ガチ勢だったんだけど。それ、私たちの聖域なんだけど」


 ミナミは苛立ったように足を組み直した。

「あのね、その台詞は友達と放課後に唱えるから尊いの。薄っぺらい男が、女釣るために使っていい言葉じゃないの。……やっぱAIね。データバンクから『この世代にはこれがウケる』って抽出したんでしょ? 浅すぎて反吐が出るわ」


6.限界オタクの反乱


 カチンときた。

 薄っぺらい? 釣るため?

 俺の純度100%のルルカ愛を、AIのデータ処理と一緒にするな。


 俺はAIのウィンドウを完全に消去した。

 そして、マイクに向かって早口でまくし立てた。


「訂正しろ」

「は?」

「俺だって好きで言ってんだよ! 釣りとかじゃねえよ! 俺はルルカちゃんに関してはガチだ!」


 俺は指を折りながら叫んだ。

「公式フィギュアは初期ロットから全部持ってる! 天井には等身大ポスター貼って毎晩『おやすみ』言ってる! ブルーレイBOXの店舗別特典ドラマCDもコンプした!」


「は、はあ……?」

 ミナミが引いている。だが、俺は止まらない。

 今の俺はホストではない。侮辱されたオタクだ。


「だいたいな、お前みたいなライト層と一緒にすんな! 俺なんか、ルルカちゃんの抱き枕カバー、保存用と観賞用と実用用で3枚持ってるんだぞ!」


「……じ、実用?」


「ああそうだ! 今日の雨で、実用用のカバーが生乾きなんだよ! さっき必死に取り込んで、シワにならないように広げてきたところだ! わかるかこの苦労が! 湿気はルルカちゃんの敵なんだよ!」


 俺は肩で息をした。

 ゼェゼェという荒い呼吸だけが、VIPルームに響く。


 やってしまった。

 ホストが客に、抱き枕(実用)の話をした。しかも逆ギレで。

 今度こそ終わりだ。通報案件だ。


 しかし、沈黙を破ったのは、ミナミの爆笑だった。


「……ぷっ、あはははは!」

「な、なんだよ!」

「あはは! 実用用って何よ! しかも生乾きを気にしてるの!?」


 ミナミはお腹を抱えて笑い転げている。

 涙を拭いながら、彼女は言った。


「……AIじゃないわね、あんた」

「当たり前だ!」

「だって、どんな高度なAIでも、抱き枕の生乾きにキレたりしないもの」


 彼女は満足そうに息を吐いた。

「いいわ。気に入った。……私、ルルカちゃんの話ができる男の人なんて初めて見たわ」

「……俺だって、あんな詠唱でキレる女、初めて見たよ」


 こうして、俺と彼女の、噛み合わない攻防戦の幕が開いた。

 この時の俺はまだ知らない。

 この「オタク趣味」と「貧乏性」が、後に彼女の人生を救い、そして俺の居場所を特定する最大の鍵になることを。



—-


第2話:50万円の酒と、フワフワのタオル


1.幸福の計算式

 それからミナミは、週に一度のペースで『EGGGEST(エッグイスト)』に顔を出すようになった。

 彼女はいつも少し疲れていて、少し不機嫌で、そして俺のボロが出るのを楽しみにしているようだった。

 ある雨の夜のことだ。

 VR空間の窓には、デジタル生成された美しい夜景と、情緒的な雨粒が演出されている。

「ねえ、レオン」

 ミナミがメニューリストを指で弾きながら言った。

「今日、ボーナスが入ったの。たまにはパーッと使いたい気分なんだけど」

 俺の視界にあるAIインターフェースが、激しく明滅した。

 ドル箱マークが踊り狂い、赤いフォントでターゲットが表示される。


> 【Mission: Annihilation(殲滅戦)】

> Target: 最高級ヴィンテージ・ブランデー『ロイヤル・エッグ』

> Price: ¥500,000 (Tax in ¥550,000)

> Probability: 98% (顧客の金銭的余裕を確認)


「ご、ごじゅうまん……」

 俺はマイクを切り忘れていることも気づかず、うめき声を漏らした。

 50万。俺のアパートの家賃……いや、計算したくない。俺の全財産の50倍だ。

 それを? 一晩で? 液体に?

 AIが催促してくる。早く口説け、と。


> Script: 「この琥珀色の輝きは、君のためにある。今夜は朝まで、二人でこの香りに溺れよう」


 俺は震える手で(アバターの手は優雅だが)、その50万円のボトルの画像を拡大しようとした。

 だが、できない。指が動かないのだ。

 俺は無意識に、左手で鼻を触る。これは俺がパニックになっている合図だ。

(ダメだ。俺のゴーストが囁いている。これは犯罪だ。50万の液体なんて、詐欺だ)

「……ミナミさん」

「なあに? 入れてくれるんでしょ?」

 彼女は試すような目で俺を見ている。

 俺は大きく息を吸い込み、メニューをパタンと閉じた。

「……やめとこ」

「は?」

「悪いことは言わない。やめとけ。50万だぞ? 50万あったら何ができるか知ってるか?」

 俺は身を乗り出した。VRゴーグルの向こうで、俺の目が血走る。

「乾燥機付きドラム式洗濯機が買えるんだぞ」

 ミナミがぽかんと口を開けた。

「……はい?」

「今の季節、雨ばっかりで洗濯物乾かないだろ? 部屋干し臭いし、タオルはゴワゴワだし。でもな、ドラム式があれば世界が変わるんだ。スイッチ一つで、フワッフワのタオルが出てくるんだぞ!?」

 俺は熱弁した。

 50万円の酒の味は知らない。でも、コインランドリー代をケチって部屋干ししたタオルの、あの雑巾のような臭さは知っている。

 あの湿った惨めさを、この目の前の女性に味わってほしくない。

「想像してみろ。仕事で疲れて帰ってきて、風呂上がりに顔を埋めるタオルが、太陽の匂いがするんだ。……その幸福度と、この酒の一瞬の酔い、どっちが人生の質(QOL)を上げると思う?」

 店内(個室)に沈黙が流れた。

 AIは 【Error: 論理矛盾】 という警告を出し続けている。ホストが売上を拒否して家電を勧めるなど、プログラムにはないからだ。

 やがて、ミナミが肩を震わせた。

「……ふっ、くくっ」

「笑い事じゃないぞ。生活防衛の話だ」

「あははは! ホストクラブに来て、洗濯機のプレゼンされるとは思わなかったわ!」

 彼女はひとしきり笑った後、優しい顔で俺を見た。

「……そうね。元カレは私のボーナスの額なんて興味なかったし、『好きに使えば?』って感じだったけど」

 彼女はグラスの水(無料)を一口飲んだ。

「あなたは、私の『生活』を心配してくれるのね」

 結局、その日の売上は指名料とチャージ料だけだった。

 店長には死ぬほど怒られたが、ミナミが帰る際のアバターの足取りは、来た時よりも軽かった。


2.時空の歪み(物理)

 また別の夜。

 ミナミとの会話が途切れ、ふとした沈黙が訪れた時だ。

 AIが「チャンス」と判断し、攻撃的な作戦を立案した。


> 【Mission: Physical Contact】

> Guidance: 顧客の心拍数が安定しすぎている。刺激を与えよ。

> Action: 奥義「壁ドン(KABEDON)」

> Step: 立ち上がり、彼女をソファの端へ追い込み、右手を壁につく。


(壁ドン……。古いな。でも、このAIのデータによれば有効らしい)

 俺は意を決した。覚悟を決める。

「ミナミさん」

「ん?」

 俺はVR空間で立ち上がる。身長185cm、足の長さは現実の俺の1.5倍。

 このガワなら、どんなキザな動きもサマになるはずだ。

 俺はゆっくりと彼女に近づく。ミナミが少し驚いたように見上げる。

 よし、今だ。

 俺は右手を大きく振りかぶり、彼女の耳元の壁に向かって――


 ドカッ! バサササッ!


 現実世界で、鈍い衝撃音と布擦れの音が響いた。

「いったぁ!?」


 俺の右手は、壁ではなく、鴨居に突っ張り棒で吊るしてあった「半乾きのジーンズ(特売品)」と「大量の靴下」の群れに突っ込んだのだ。

 勢い余って突っ張り棒が外れる。

 濡れた洗濯物の山が、雪崩のように俺の頭上に降り注ぐ。


「うわっ、冷たっ! ちょ、前が見えねえ!」


 さて、この時。

 VR空間のレオン(アバター)はどうなっていたか。

 AIは、俺の右手の座標(トラッキング)を見失い、計算不能に陥った。

 その結果――


 レオンは、壁ドンをする直前の体勢で、ミナミの目の前で溺れるように両手を激しくバタつかせ、首をありえない方向にねじりながら、高速で屈伸運動を始めた。


「……レオンくん!?」

 ミナミが悲鳴を上げた。

「ちょ、何その動き! エクソシスト!? 悪魔払いが必要!?」


 俺は洗濯物に埋もれながら、必死でマイクに向かって叫んだ。

「ち、違う! 今ちょっと、時空の歪みに巻き込まれて……!」

「時空ってレベルじゃないわよ! 軟体動物みたいになってる!」


「くそっ、ジーンズが……絡まって……!」

 俺がもがけばもがくほど、アバターは奇っ怪なダンスを踊り続ける。

 クールな表情のまま、手足だけがタコのように暴れるイケメン。


「あはははは! 無理! もうお腹痛い!」

 ミナミはソファに倒れ込んで爆笑している。

「新しい求愛ダンス? 最高! 動画撮っていい!?」


 俺はようやく洗濯物から脱出し、ゴーグルを直した。

「……笑い事じゃねえよ。明日履いてくパンツが床に落ちたんだぞ」

「知らないわよそんなの(笑)」


 ドキドキさせるはずが、呼吸困難になるほど笑わせてしまった。

 だが、涙を流して笑うミナミを見て、俺は「まあ、これでもいいか」と少しだけ思った。

 俺のアパートには、ドラム式洗濯機も、壁ドンできる広さもない。

 でも、彼女を笑わせるための「ネタ」だけは、そこら中に転がっているらしい。


—-


第3話:嘘と現実の境界線


1.シンデレラの強制送還

 その夜、ミナミがログインしてきた瞬間、俺は「あ、ヤバい」と思った。

 アバター越しでも伝わってくる、重苦しい空気。

 いつもは完璧にセットされている彼女の髪(アバターのカスタム設定)が、今日はデフォルトのまま乱れている。

「……いらっしゃい」

「……強いの、ちょうだい」

 彼女はソファに沈み込むと、うつむいたまま言った。

「元カレ、結婚するんだって」

 俺は息を呑んだ。

 ミナミが未練タラタラだった、あの完璧なエリート元カレか。

「招待状なんてよこさないでよ……。私、やっぱりダメだったのかな。正しく生きようとして、仕事も頑張って、感情も殺して……でも、選ばれなかった」

 彼女の声が震えている。

 AIのインターフェースが、激しく警告音を鳴らした。


> 【Opportunity: 依存の形成】

> State: ターゲットの自己肯定感が崩壊中。

> Strategy: 元カレを否定し、アバター(虚構)の優位性を刷り込め。

> Script: 「見る目がない男だね。僕なら君を離さない。君の全てを受け入れるよ」


 画面に表示されたスクリプトが、やけに輝いて見えた。

 これを読めばいい。

 「僕なら君を離さない」。甘い声でそう囁けば、彼女は確実に俺(レオン)に依存する。売上も上がる。彼女も一時的には救われる。Win-Winだ。

 俺はマイクに手をかけた。

「……ミナミさん」

 画面の中のレオンが、優しく微笑む。

(……でも、それって「救い」か?)

 俺の脳裏に、現実の自分の姿が浮かんだ。

 築40年のボロアパート。万年床。明日食べる卵の値段を気にしている30歳無職。

 それが俺だ。

 画面の中の「レオン」は、ただのガワだ。中身は空っぽで、彼女を支える力なんて何一つない。

 無意識に、左手で鼻を触る。

「僕なら……」

 言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。

 嘘だ。

 俺には彼女を幸せにできない。リアルで会うことすらできない。

 そんな俺が、彼女の人生の決断(結婚という現実)に負けた元カレに対して、「僕の方が上だ」なんてマウントを取るのか?

 そんな卑怯な嘘で、彼女の傷を塞ぐフリをするのか?

(……ふざけんな。そんなの、詐欺師以下だ)

 俺の中で、何かがプツンと切れた。

 俺はAIのウィンドウを視界の端に追いやった。

「……バーカ」

「え?」

 ミナミが顔を上げた。

 俺は、わざと冷たく、突き放すような声を出した。

「目を覚ませよ。いつまで夢見てんだ」

「レオン、くん……?」

「元カレが結婚? それが現実だろ。負けたんだよ、お前は」

 俺は言葉のナイフを重ねた。自分自身を傷つけるつもりで。

「こんなVRのガラクタに逃げ込んで、高い金払って、電子データのアバターに慰められて……それで幸せになれるとでも思ってんの? 虚しくなんない?」

「ちょっ、何……ひどい……」

「俺はお前が思ってるような『王子様』じゃない。中身はただのバイトだ。元カレの足元にも及ばない」

 俺は画面越しに、彼女を睨みつけた。

「だから、もう来るな」

「……!」

「ここで浪費する金と時間があるなら、美容院にでも行って、現実世界でいい男探せよ。……お前なら、絶対見つかるから」

 最後のひと言だけ、声が震えてしまったかもしれない。

 ミナミは、信じられないものを見る目で俺を見ていた。

 その瞳に、涙が溜まっていくのが見えた。

「……っ!」

 彼女は何かを言いかけたが、声にならなかった。

 そして、逃げるように操作パネルを叩いた。

 <LOGOUT>

 彼女の姿が粒子となって消えた。

 あとに残ったのは、静まり返ったVIPルームと、AIからの【Mission Failed】の文字だけ。

「……ああ、クソ」

 俺はゴーグルを毟(むし)り取った。

 最悪だ。客を傷つけた。泣かせた。追い出した。

 でも、これでいい。これであの人は、もうこんな底辺の掃き溜めには来ないはずだ。

 俺は震える指で、スマホを取り出した。

 店長宛に、短いメールを打つ。

『一身上の都合で辞めます。探さないでください』

 送信ボタンを押し、そのまま着信拒否設定にした。


第4話:空白のEGGGEST(エッグイスト)

 ケンタが姿を消してから、数日が過ぎた。

 VRホストクラブ『EGGGEST(エッグイスト)』のスタッフルーム(といっても、オンライン上のチャットルームだが)は、ある意味で平和を取り戻していた。

「いやあ、せいせいしましたよオーナー!」

 店長のアバターが、明るい声で報告した。

「あのケンタって奴、最後まで売上最下位でしたからね。それに最後、客に暴言を吐いて追い出したらしいじゃないですか。トラブルの種が消えて何よりです。これで来月から、完全自動AI化へ移行できます!」


 しかし、オーナーのアバター(なぜかサングラスをかけたティラノサウルス)は、葉巻をふかしながら首を振った。

「……お前は何もわかってないな。『EGGGEST(エッグイスト)』の哲学を」

「はあ?」

「俺たちは『最上級にえぐい』体験を売る店だぞ? 綺麗なだけのAIに、誰が金を払うんだ?」

 オーナーは空中にウィンドウを展開し、これまでの「失敗したオペレーターたち」のデータを並べた。

「見ろ。声優志望の男(失敗例A)。自分に酔ってポエムを読み、客を置き去りにした。これは『ナルシスト』だ」

「ゲーマーの男(失敗例B)。効率を求めて会話をスキップした。これは『ロボット』だ」


 オーナーは、ケンタの最後のログを指差した。

「だがケンタは違った。あいつは客の財布を本気で心配し、洗濯物と格闘し、最後は……自分の評価を下げてでも、客の未来のために『帰れ』と言った」

 ティラノサウルスが、哀愁を帯びた声で唸る。

「あいつは『人間』だったんだよ。AIだらけのこの無機質な世界で、あいつの不器用なノイズこそが、最高の贅沢(ラグジュアリー)だった」

「はあ……まあ、研究データとしては面白かったですが」

「逃した魚は大きいぞ。……ま、今さら言っても遅いがな」

 店からケンタへの連絡手段は途絶えていた。

 ケンタという特異点は、デジタルの海に消えた――はずだった。


第5話:執念の解析(OSINT)

 一方その頃。

 都内某所の高級マンションの一室。

 部屋の主は、抜け殻のようになっている……わけではなかった。


「……絶対に見つけ出す」


 ミナミは、鬼のような形相でマルチモニターに向かっていた。

 画面には、波形編集ソフト、地図アプリ、そして膨大な環境音のデータベースが表示されている。

 あの日、彼女は泣いた。

 図星を突かれた悔しさと、元カレへの未練と、何より――

 『現実世界で幸せになれ』

 そう言って自ら悪役になったケンタの、不器用すぎる誠実さに心が震えて、泣いたのだ。

「あんなこと言われて、ハイそうですかってサヨナラできるわけないじゃない」

 彼女はキーボードを叩く。

「現実を見ろって言うなら、現実のあんたを引きずり出して、御礼を言ってやるわ」

 手元にあるのは、ケンタとの通話の録音データのみ。

 店側は個人情報を教えてくれない。ならば、自力で特定するまでだ。

 彼女の本職はAIコンサルタント。データ解析は十八番(オハコ)だ。


Step 1: 時間と音の絞り込み

「ホストクラブの営業時間は19時から24時。手がかりは、この時間にマイクが拾ったノイズだけ」

 彼女は、ケンタが最後に叫んだ「別れのシーン」の音声を再生する。

『……だから、もう来るな!』

 その怒鳴り声のバックで、微かに流れているメロディがあった。

「これ……『蛍の光』ね。いや、三拍子だから『別れのワルツ』か」

 時刻は23時55分。

「24時閉店の店で、5分前からこの曲を流すチェーン店は……『スーパーやおさん』と『Cマート』だけ」


Step 2: 交差点のシグネチャー

 次に、以前の会話ログから、窓を開けていた時に拾った環境音を抽出する。

『ピヨ、ピヨ』『カッコー、カッコー』

「音響信号機の音。これが22時以降も鳴っている場所は、視覚障害者支援のために指定された主要交差点のみ」

 地図上で、「24時閉店のスーパー」と「音響信号機のある交差点」が重なるエリアを絞り込む。

 都内で3箇所が該当した。


Step 3: 決定打となる「卵」

「最後はこれよ」

 彼女は、ケンタが何度もこぼしていた愚痴を思い出す。

『近所のスーパー、木曜だけ卵が98円なんだよ。その行列がうるさくてさ……』

 彼女は3つのスーパーの「特売チラシ」アーカイブを検索した。

 A店:木曜は「肉の日」。

 B店:木曜は「冷凍食品半額」。

 C店:木曜は……「卵L玉 1パック98円(お一人様一点限り)」。

「……ビンゴ」

 ミナミはニヤリと笑った。

 場所は特定した。今日はちょうど木曜日。

「待ってなさい、私のNo.1」


—-


第6話:最上級のオムライス


1.木曜日の敗残兵

 木曜日の夕暮れ。

 俺は、ヨレヨレのジャージ姿で近所のスーパー『Cマート』にいた。

 カゴの中身は、もやし、豆腐、そして半額シールの貼られた惣菜パン。

「……はあ」

 深いため息が出る。

 ホストを辞めてから、心にぽっかり穴が空いたままだ。

 あの夜、俺はかっこつけて「現実で幸せになれ」なんて言った。

 でも、本音を言えば、もう少しだけ彼女と話していたかった。彼女の愚痴を聞いて、洗濯機の話をして、あのアバター越しに笑う顔を見ていたかった。

 ミナミは今頃、現実でいい男を見つけただろうか。

 そうであってほしい。そう願う反面、二度と会えない現実に胸が痛む。

「……お、卵残ってるじゃん」

 特売コーナーのワゴンに、ラスト1パックの卵があった。98円。

 今の俺には、この卵の黄色い輝きだけが希望だ。

 今日は奮発して、オムライスでも作ろうか。ケチャップ文字で『サヨナラ』とでも書いて。

 俺は手を伸ばした。

 すると、横からスッと、白くて細い手が伸びてきた。

 タッチの差で、俺の手が卵を掴んだ。

「あ、すいません。譲りますよ」

 俺は反射的に手を引っ込めた。

「いえ、いいのよ」

 聞き覚えのある声。

 背筋が凍った。心臓が跳ね上がる。まさか。いや、そんなはずはない。ここはネットの海じゃない、ただのスーパーだぞ?

 恐る恐る顔を上げる。

 そこには、場違いなほど完璧なメイクとファッションに身を包んだ、ミナミが立っていた。

「……卵、お好きなんですか?」


2.答え合わせ

「……は?」

 俺はカゴを取り落としそうになった。腰が抜けるかと思った。

「な、なんで!? ここ!? え、お化け!? それとも幻覚!?」

 俺はパニックになり、無意識に左手で鼻を触る。

 その仕草を見た瞬間、ミナミの目が確信に変わった。

「やっぱり。……焦る時の癖、アバターの時と一緒ね」

「えっ」

 ミナミはスマホの画面を俺の鼻先に突きつけた。そこには、俺のアパート周辺の地図と、解析データが表示されていた。

「閉店間際のワルツ、信号機の音程。それにあんたの異常なまでの『卵愛』と特売日から逆算したわ」

「……」

 俺は言葉を失った。

「AIコンサル、なめないでよね」

 俺は後ずさりした。

「な、何しに来たんだよ! クレームなら店に言ってくれ! 俺はもう辞めたんだ!」

「クレーム?」

 ミナミは呆れたように笑い、一歩踏み出した。

「あんたが言ったんじゃない。『現実を見ろ』って」

「え……」

「だから、現実のあんたを見に来たのよ。バーチャルの王子様じゃなくて、このジャージ姿のあんたをね」

 彼女は、俺が譲ろうとした卵パックを手に取り、俺のカゴに入れた。

「譲ったんだから、オムライスでも作りなさいよ」

「……は?」

「味見してあげるから」


3.エッグい結末

 彼女はバッグから、魔法少女ルルカちゃんのキーホルダーを取り出して揺らした。

「それと、確かめたいんだよねルルカ愛を」

 俺は、目の前の女性を見つめた。

 アバターのような修正はない。目尻には少し笑いジワがあって、仕事帰りの疲れも見えて、でも、最高に綺麗な笑顔だった。

 俺なんかが、隣にいていいんだろうか。

 でも、彼女は俺のカゴ(98円の卵入り)をしっかり握っている。

 俺は観念して、大きく息を吐き出した。

 肩の力が抜けていく。

「……ほんと、えぐい女だな」

「ふふっ、最高の褒め言葉ね」

 俺たちは並んでレジへ向かった。

 自動ドアを出ると、夕焼けが街を染めていた。

 それは、VRで作られたどんな夜景よりも、眩しくて温かかった。

 俺たちの物語は、ここから始まる。

 AIもマニュアルもない、予測不能でノイズだらけの、最上級にえぐい日常が。

(了)


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