第3話 父-1

退屈だ。

とてつもなく、暇だ。

ほんの数時間前、ホテルでの出来事が嘘みたいに。

……しばらくなんて軽く言ってみたかったが、残念な事に。ここに来てからはかなりの時間が経過していた。縞模様の何でもない天井を見上げる首が痛み始める程にはぼーっとしている。

穴の数を数え、見失い、また1から――そんなことを無限に繰り返していた。

……ここは地獄か何かだろうか。もうちょいマシな人生送ってみたかったな…… 。


卑屈にも、意地悪でもされているのかと考えて問いただし、受付でもう暫くと言われあしらわれたものの、もう暫くなんてどうも耐えられそうも無い。

そも、景色という物に色味が無さすぎるのがいけない。病院というモノには――今の僕にとってみれば――風情も情緒も存在していなさすぎる。

そりゃ、消毒液系の薬品の匂いが漂い名も知らぬ音楽が流れていたり、風を感じるものもままあるが……これっぽっち、意味を感じない。


過去、幾つもタライ回しにされた病院の中で唯一避けてきたこの東京病院は――最も忌むべき存在は――かつて、僕の父が勤務していた場所でもある。生後間もなく手術を受けた場所でもある。

まぁ、かつて――なんて言葉を使ったが、実際、今もいるかもしれないし、いないかもしれない。生後間もなくに受けた手術の記憶なんてある訳も無いし。

そんな場所なんだから、無機質と感じて当然と言えば当然か。因縁もクソも有り様ない。

そう。無機質だ。生命力や感情を得ない。

思い込めば――来てみれば、今日まで恐れていたのが馬鹿らしくなるくらい、何でもない場所だった。

16年越しの復讐となった。


転けようのない滑らかな床も、その半分で色も材質も違う壁も、木製の手すりすらも。

その実、それらはゴム床材だったり面巾木だったりで患者を傷付けないようになっていたり、ささくれないような再生木材だったり――様々な工夫がされているが、そんな事、大部分の人が気にしたことすら無いだろう。というか、そうであるべきだとも思う。

また、それと同じ様に、人によってはそれら風情や情緒に安心感を覚える人もいる事実……。

だから僕は、そんなものなら無くしてしまえばいいと、そんな事を思ってしまう。

意味が無いと、感じてしまう。

プラセボ的で偽薬的な表記だけしていれば、それこそ多大な人間が安心出来る場所になるんじゃないかとも思う。小綺麗だとなお良い。

知らない安全より、知る安全と言う名の偽善だ。嘘八百だ。

人間なんてそんなもんだ。

当の自分がそういった目に合わないのなら、気にもならない。だから、安全な環境であると謳われていればどこだって、安心出来る空間になってしまう。

慣れもある。大変、恐ろしい部分だ。

無機質に進化した人間にとって。


「――にしても、ここ」

ぽけーっと意味無く思考を巡らせていると、怠そうでその実、苛立ちを剥き出しにした声がそのままの声量で聞こえてくる。

「広い癖に患者多すぎよね」

「……広いから多いんだよ」デカい声で文句言うなよ淫乱雌豚が。こっちまでイライラしちゃうだろ。

言い捨て、チラッと横目に見やると、見るまでもなく、阿修羅も腰を抜かす程の表情を浮かべるリリスと目が合う。

「ならもっと回転率良くてもいいじゃない――只の面会受け付け如きに何十分待たされる訳?」

「まぁ……」

言いたい事も分かる。

36年前のあの拙作以降、医療関係の需要が増加し、その恩恵を1番受けたのがこの病院だ。

都内が――というより、国そのものが――荒廃して腐って行く中で、ここだけはその姿形を変えず、なんなら他の病院から人員を引き抜きしているため、未だに成長を続けている事実。

そんな場所なのだから、たかだか面会受け付けにこんだけ時間がかかるのは違和感を覚える。

受付カウンターなんて人が溢れんばかりに居るくせに誰1人として忙しそうにしていない。座ったまんまパソコンと向き合い、自動的に流れてくる番号札を事務的に読み上げているだけだ。

奴らもまた、無機質に生きている。――まぁ、これに至っては僕も人の事は言えない。

コイツもだ。

「――小綺麗な内装のくせして、私が使う部分に限って不便なのよね……」

チッと舌打ちを飛ばし、耳打ちするように。

「狭い席だからか知らないけれど、さっきっから隣のオッサンの手がお尻に触れているのよ――」

「あぁ……?」

背もたれに乗りかかって頭を傾げ、リリスの奥を見やる。

確かに。スケベそうな爺が不自然に身を寄せていたが――

「気にしすぎだよ……。それに、リリスさんのお尻が大きすぎるのも原因なんじゃない?」

と、適当ぶっこく。

事実。僕の座席にだってリリスさんのお尻が漏れ出している訳だし、そこから伝わる体温が非常に気持ち悪い。押し付けられたストレスを少しでもお裾分けしなければ、理不尽だ。

それに――

「着替えればいいじゃん」

「……はぁ? それが痴漢されていることとなんの関係があるのよ。それに――」

僕の至って真剣な指摘を受けて何が不服だったのか。彼女の肘が右腕を抉るように力を入れてくる。

そして逆の手で、ももの上に乗せていた僕プレゼント――未晒の紙袋を持ち上げてバタバタさせる。

一々行動の煩い、僕の嫌いなところだ。

「ナース服なんて、着れる訳が無いでしょう!?」

「いいじゃん。それ着たら案外スルッとヌルッと病室に行けるかもよ?」

「っ――」

それもそうね。と、リリスは顎に手を当てて考え始める。怒ったり考えたり、情緒不安定だな。

てか、チャイナ服の方がよっぽど恥ずかしいと思うんだけど……。やっぱり慣れってのは怖い。


「でも、私だけ入ったって仕方がないじゃない」

「僕は体格的にも小さいし、事実、未成年だ――リリスさんのデカいお尻に隠れてトコトコ着いて行ったところで、怪しまれやしないよ」問題はそのエロい体だ。と、思ってもいない戯言を続けると、正面のゆでダコは背を伸ばす程の勢いで言葉を呑みこんでいた。どうやら非常識で淫らな人間にも恥という概念はあるらしい。喚き散らかすのは憚られたみたいだ。……そんな丁寧なものではないかもしれないが。

話を戻すが、正直、現代日本において未成年も高齢者もクソも無いから本当に行けるかどうかは分からない。まぁでも多分。きっと、大丈夫だと思う。

てか、あんだけ適当に働いてそうなのに、そこだけ指摘されたら流石の僕でもキレてしまうかもしれない。一線を軽々と越え、受付の中へ殴り込む可能性もある。僕だって情緒不安定でか弱い人間なのだ。優しくして欲しい。その胸に抱いて欲しい。膝枕とかして欲しい。

ただ、一線は超えないで欲しい。


「分かったわよ。仕方ないわね――」

リリスが大きくため息を吐きながら立ち上がる。

「着替え終わったら連絡するから、そこにあるトイレの傍まで来て頂戴」

「はいはい」

適当に返事を返し、再度天井を見上げる。

そんな視界の端から現れた紙袋が雑に顔の上を走って去っていった。


痛む鼻筋を撫でながらそんな怒り肩を見送っていると、不快な脂臭がグッと香ってくる。

先程まで嗅いでいた匂いとのギャップに、下から込み上げてくるものがあった。近頃よく相手にする臭いは、本当に慣れない。これからも。

「――あの姉ちゃん。あんさんの知り合いかい?」

甲高く、キリキリとした不快な声は、無視する僕へと注がれ続ける。

「あらえぇケツしとんでぇ――えぇなぁ……。死ぬ前に、あんなべっぴんさんと1発ヤリたいもんや……最っ高に気持ちえぇんやろうなぁ……。なんなら腹上死でもえぇわ!」

手で空を揉む仕草を見せながら、ガハハ! と、バカ丸出しの大声で笑われると、さしもの釈迦牟尼如来である僕も我慢がならない。

……凄く、気持ちが悪い。吐き気なんて生温いものでは済まない――防衛本能的に言うならば寧ろ、失明まであったかもしれない。

……と、そんな下賎なエロ目で見られているとなると、大してリリスの事を気に入っている訳でもないが同情せざるを得ない。

庇う――と言うよりは、敵への攻撃。

「オッサンはさぁ――直近で死ぬ予定でもあんの?」

「んぁ? 死ぬ、予定だぁ?」

「あぁ、うん。腹上死とか言ってたからさぁ、今すぐにでも死にたいのかなぁ、と思ってさ」

と。そんな、挑発と呼ぶには雑すぎる――攻撃とするには雑魚すぎる何かを受け、オッサンは身を引いて薄目になる。

流石に、子供の虚仮威し程度にしか思われなかっただろうか。

とはいえ、人1人分の距離を再度取れたから、僕にとってはそれだけでアドだ。

様子を見送った後、わざとらしく鼻を摘んで大仰にスモッグを振り払っていると、その奥でオッサンが不敵な笑みを浮かべて息を吸う姿が見え、息を止める。


「――よぉ見たら、お嬢ちゃん……。あんたもえろォべっぴんさんやなぁ――」

合わせ、僕の視界も自然と狭まる。音が遠ざかる。

「アンタになら、刺されても――や、むしろ――刺殺してしまいたいわ……。犯した上でなぁ」


いつの間にか傍にあった粘着質な吐息が耳元で注がれていた。下劣かつ醜猥な生温い息は、僕の思考を湿らせて腐朽させて行く。

僕の意思に関係なく、その声は耳元で揺蕩い反響し続ける。それ以外の感覚が遠ざかり、傍に残ったのは、ただのそれだけ。

不快な脅迫――強制的な誓言だ。


「未だに忘れられん――大昔に使い捨てた、あの感触をなぁ……。あぁ、最高や」


下品で醜悪。醜怪どころかその道に堕ちたおとろしの様な形相が距離を取っていく。

一方の僕は、文字通り、開いた口が塞がらなかった。ピントの合わない感覚のせいで、呼吸も忘れ、オッサンの次に取る動きを見ている事しか出来ない。

蕩け切った顔で……。昔を懐かしむ様な眼はぐるりと上を向き、小刻みに震えていた。体も同様にそうしている、頭のネジの飛んだ、オッサンをだ。


――犯した上で刺殺す。

それは、僕に向けられた、脅迫紛いの奇襲。それまでは何でもない変態だと――これまでと同じ様なクズだと、そう思っていた。僕の復讐に関係の無い場所に居るであろう、時代に巻き込まれた1人の被害者であろうと、思っていた。

だが、そのどれもに当てはまらない。そんな人間なのかもしれない。

血の気が引くように、体温が急激に下がっていくのが分かった。輪郭のボヤけた視界を取り戻す為に、詰まり掛けの呼吸を取り戻した。


――忘れられない、大昔に使い捨てたあの感触。

一体、何時の、何処の事だろうか。知らないのに、知っているような――どこか、他人事ではないような、そんな言葉に聞き取れてしまった。

掛け違えられたボタンの様に――偶然が偶然で無いかのように……。ここで出会ったことが、今後、僕にとって、大きなストレスになる気がしてならない。

オッサンが言った過去の出来事は、いつか、僕の復讐街道に大きな地割れを起こす可能性がある。


ここで殺さなきゃ、こんな何でもない日が僕にとって大きな遺恨を残すかもしれない。

――武器は無い。

でのきっと、目の前に居る歳食ったオッサン1人、殺すことは造作無い。力の弱い僕でさえ。それはいつも通り、同じこと。

――確証も無い。

疑いは有る。

でも、それが間違いだったとして……なんてことは無い。

残るのは骸と結果、それだけだ。

それは穴の空いてしまった僕の心に大した影響を及ぼさない。意味は無い。


――ただ僕は、藤本元洋の父に合わなければならない。

答えを求めている。

今事を起こせば、自らの選択肢を妨げる、仮囲いを作り出してしまう。迂回路があるかも分からない。閉鎖された道である可能性は大いにある。


一瞬のその葛藤が、僕の身体を引き止めた。


――ポーン。

「心療内科、1342番の方。受付までお越しください」

「――お、ようやっと呼ばれよった」


大きな独り言を残して、オッサンはその場を離れていく。僕に向けられた言葉かどうかは分からない。が、僕を向いて話すことは、それ以上無いみたいだ。

見送りながら、僕もそれ以上、深追いしようとは思わなかった。

理由は……やはり、自分でもよく分からない。

やらなくてもよかった。

やってもよかった。

それでも僕は、前者を取った。

この選択が、利益を産む事はないと思う。行動を起こさなかった以上。でも、その結果は残された。

言い訳は言いっこなしだ。


そんな中、僕の左太ももにくすぐったい振動が走る。

通知の内容も確認せず、僕は立ち上がり、トイレを目指して歩いた。


「……何かあったの?」

トイレの傍まで辿り着いた頃に、そんな声が掛けられた。

顔を上げるとそこには、ナース服を纏ったリリスが、髪を弄りながら見下ろしてきていた。

「――似合ってるじゃん。チャイナ服より、よっぽど好きだよ」

誤魔化すようにそう適当ぶっこいたが、それでも、コイツの脳内からさっきの疑問は吹き飛んだようで――

「ホント、褒めるのが下手ね」

と、手を下ろしながら半目に、僕を罵倒してきた。

褒めたとこで何も出ないから褒めていないだけで、本音で言えば本当に何も思わないし思えない。

というか、思っちゃいけない。

だから僕は、嫌々ながらもリリスといる訳なんだし。その点で言えば、相性は最高だ。

まぁ、コイツがどう思っているかなんて知りよう無いんだけど。僕はそう思っている。

未だに敬語とタメ口が混じるくらい曖昧な関係だけれど、それでも、一緒に行動している。

嫌な部分は好きな部分より何十倍も多いけれど、別に、隣に居て居心地が悪い訳でもない。

変な感じだ。理解されないかもしれない。というか、自分でも分かっていないんだし、当たり前だ。

愛じゃない。

もっと複雑な何かを、僕は感じ取っている。

変な何かを。


「――まぁいいわ。早く行きましょ」

言うなり、返事を待たずにリリスが僕の手を掴んで持ち上げようとしてくる。

持っていかれそうになったそれを、グイッと引っ張って持ちこたえる。

驚きのあまり、そんな行動を許してしまう所だった。……危ない危ない。

突飛な行動。僕のリリスの嫌いな部分の1つを完全に失念していた。

「……手を握る必要は、無くないですか?」

「そうはいかないわよ。看護師と迷子の子供――演じなきゃ、バレちゃうわ」

「いや。予定通り、僕がリリスさんのお尻に――」

「さ、行くわよ。これからが本番なんだから」

有無を言わさぬマシンガンの様なレスに口と思考が追い付かず。

ついぞ腕を引かれたまま、無理ある設定を抱えてA-500へと並んで歩き出した。




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奪い愛 芥之相 @Akutano_So

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