紅月の刻印
黒曜トキ
第1話 Unknown Light in the Hell
紅月が、今日も空に昇っていた。
雲ひとつない空。だが青くはなかった。
代わりに空一面を、禍々しい紅の光が満たしていた。
それは朝でも夜でもない、永遠の宵──時を止めた地獄の空。
地獄。それは、罪を犯した者たちが最後に辿り着く場所。
だがそこに神の審判など存在しない。
あるのはただ、堕ちた者たちの欲と、果てなき苦痛の連鎖。
時間は溶け、秩序は崩れ、残ったのは欲だけ。
かつて人だった者も、ここに来れば獣となる。
飢えた目をし、肌を爛れさせ、欲のままに喰らい合う──
それが“地獄の民”と呼ばれる、堕落した者たちの成れの果て。
血と鉄の匂いが染みついた大地。
砕けた建造物の影。
叫びと嗤いが、遠くで混ざり合っている。
そんな地獄の中央に、彼はただ立っていた。
まるで操り手を失った人形のように。
呼吸はある。心臓も動いている。
だがその瞳に“思考”はなかった。
白い髪は光を失った雪のようで、
瞳は澄んだ青――この世界には不釣り合いな色。
彼には恐怖も、疑問も、希望もない。
紅月を見上げているようで、実際には何も見ていない。
世界を認識していないかのような虚ろな瞳。
魂が、そこに“在らない”かのようだった。
――運命の輪を動かしたのは、地獄の民だった。
肌はひび割れ、眼窩には泥のような光が揺れていた。
剥き出しの骨は赤黒く染まり、足音は蹄のようにカンカンと乾いている。
腐臭をまとった影が、崩れた瓦礫の間から滲み出てくる。
笑っていた。
口だけで、音だけで。感情も意味もない、“それらしいもの”として。
喉の奥から唸り声をあげ、少年を見て笑っていた。
「なぁんだ……まだ綺麗な肉が落ちてたじゃねぇか」
「ヒヒ、壊す前に、味見だけさせろよ……」
「皮剥いで、骨だけにしてやろうぜェ」
欲に濁った目が、少年を捉える。
それでも少年は反応しない。
逃げない、怯えない。
抵抗する理由すら、持っていないから。
伸びた腕が、彼の首に届く――
その瞬間。
空気が、ひどく冷えた。
紅月の光が、一瞬だけ歪む。
影が、地面から“浮き上がった”。
静かな足音。
地獄には似つかわしくない、
凛とした、少女の声が響く。
「――愚か者共よ。」
黒い髪。深紅の瞳。
この世界そのものを切り取ったような姿の少女が、少年と地獄の民の間に立っていた。
民たちは一瞬、言葉を失う。
「……なんだ、お前」
「ガキが二人?」
少女は答えない。
ただ、少年の前に立つ。
彼女の影が揺れた。
次の瞬間、影は“形”を持ち、
鎖のように地獄の民を貫いた。
叫びは短く、
命は軽く、
跡形もなく消えた。
静寂。
紅月の光だけが、二人を照らす。
少女は、ゆっくりと振り返る。
白い髪の少年を見る。
――青い瞳と、深紅の瞳が、初めて交わる。
だが、少年の瞳には、何も映っていなかった。
彼女を見ていない。
見えていない。
少女は、そのことに気づいた。
一歩、近づく。
覗き込むように、顔を寄せる。
「……空っぽなのね」
ため息とともに、ぽつりと呟く。
少年は、反応しない。
問い返さない。
名前を名乗らない。
彼女はしばらく、その青を見つめていた。
紅月の赤とも、地獄の闇とも違う色。
やがて、微かに微笑む。
少女はそっと、指先を彼の頬へと滑らせ──
唇に触れた。
まるで何かを“送り込む”ように。
まるで、そこに“火を灯す”ように。
少年の瞳が、かすかに震えた。
その奥に、何かが宿る。
彼は、初めて瞬きをした。
少女を見る。
目を見開く。
そして──
「私はナスタ。貴方は誰?」
紅月の下、二人が見つめ合う。
この出会いが、世界のすべてを歪めることになるとも知らずに。
紅月の刻印 黒曜トキ @izumi__haru
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