変わらないもの

轟ゆめ

静かな夏

 「こちらは市役所です。光化学スモッグについてお知らせします。ただいま光化学スモッグ注意報が発令されました。外出や屋外での運動、お急ぎでない方の自動車の運転は、なるべく控えてください。繰り返します。」


 うるせえなぁ。と横に寝転がっている父がぼそっと呟き、録画していたドラマを巻き戻した。

 

 目の前の公園からセミの大合唱が鳴り響いていて、更には扇風機を最大で回していて、よくその状況でサスペンスドラマなんか見れるなと感心した。


 「今日何時に出るの」と問いかけると「これ、あと10分くらいで終わるから11時くらいか」と姿勢を変えずに言葉が返ってきた。


「おけ」と会話を終わらせ洗面所に向かった。

 

 昔どハマりしていた“ウルトラマン“のシールがびっしり貼ってある棚から、ボソボソのタオルを一枚取り出した。


 べっとりした手を洗い流す。執拗にハンドソープを押した。その後に牛乳石鹸で手の隅々まで洗った。この匂いがたまらない、懐かしさに浸りながらそのまま顔も洗い流す。

 

 洗い終えると、すっかりとグレー色になった無地のティーシャツとジーパンに着替える。いつもの格好だ。

 ズボンについたカピカピの米粒を取りながら、「準備できてんの」と声をかける。「もうちょい待って」とまた巻き戻している。

 

「とりあえず冷やしてくるわ」と言い、軽自動車のエンジンをつけに行く。


 外に出ると燦々とした太陽さんの照らしがキツイ。


“太陽さん“って呼ぶようになったのは、子どもの頃の夏休みのある日のことだった。


 あの日、まだ朝のうちはそこまで暑くなかったのに、母が庭先で洗濯物を干していて、ふと空を見上げながら「今日も太陽さんが元気に働いてるわね」って言ったんだ。

 

「太陽さん?」って聞き返したら、母は笑いながら「だって、あの眩しい顔見てごらんよ。まるで頑張り屋さんじゃないの」なんて言うもんだから、子ども心に「ははーん、これは何か面白いことになるぞ」と思った。

 それ以来、強烈な日差しを見るたびに「よっ、太陽さん!」なんて心の中で呼ぶようになった。


 あの頃の俺は、「太陽さん」って呼ぶことで、やけに強い日差しも少しだけ和らぐ気がしたんだ。まるで、きついおじさんに「さん」をつけて敬意を払うみたいな、変な安心感。

 

 もちろん、母の影響が大きかったんだけど、あの「さん付け」はただの冗談じゃなくて、どこか太陽への感謝みたいなものだったのかもしれない。


 今でも思い出すと、母の声が庭先に響いていた。

「太陽さん、今日もご苦労さま!」

 ……いや、太陽はご苦労さまって言われる筋合いないかもしれないけど、なんだかそんなふうに声をかけたくなる日ってあるよな。

 

 俺が「太陽さん」と呼ぶのは、そのときの母の笑顔が一緒に浮かぶからなんだと思う。

 

 そういうわけで、俺が「さん付け」して呼ぶのは太陽さんと、あとは初恋の美山さんだけだ。


 美山さんは名前に「美しい」が入ってるだけあって、あの頃はほんと眩しかったなあ……。とニヤニヤしている自分の顔が車体に反射しているのを見て思わずギョッとした。


 気を取り直して、車の鍵を回して開けた。

 ハンドルに手を添えたとき、ステアリングの熱に「うわっ」と小さく声が漏れた。陽射しに炙られた車内は、サウナのようだった。エアコン全開、窓を全開にしても、生ぬるい風が顔をなでるばかりで、いっこうに涼しくならない。


 ダッシュボードの上に置きっぱなしだった父のサングラスを、借りるような、奪うような手つきで取ると、そのまま顔にかけた。ちょっとだけ、いつもの自分じゃない気がした。


 「ったく、暑すぎんだよ……」

 

 独り言をこぼしながらバックミラーを直し、ゆっくりと車をバックさせた。

 ミラー越しに、家の玄関が見える。影の中で父が、ティーシャツに短パン姿のまま、鍵を探してゴソゴソしていた。

 


 この家を出るたびに、何か一つずつ、子どもの頃の景色が薄れていく気がする。


 

 あの棚のシールだって、もうそろそろ剥がれてくるかもしれないし、牛乳石鹸の匂いだって、いつか変わってしまうかもしれない。


 だけど父だけは変わらない。


 いや、変わろうとしていない。

 まるで時間に逆らうように、いつまでも昭和のまま、ゆるやかにこの家とともに朽ちていくようだった。


 「おーい、冷えてんのか?」


 助手席のドアが開き、父がどっかりと腰を下ろす。

 「エアコン全開だから窓閉めてよ」

 「そうだな、環境にも悪いしな」


 そんな意識あるんだ、と少し驚いたけれど、それを口にするのはやめた。

 代わりに「スモッグ注意報、まだ出てるらしいよ」と言うと、父はふっと鼻で笑った。

 そんなこんなでようやく出発する頃には予定時刻より30分すぎていた。

 

「昔はそんなもんなかった。空が白くなってても、誰も気にしちゃいなかった」

 「で、誰か倒れたりしてたんじゃないの」

 「倒れた奴は運が悪かったってだけだ」

 

 それ、運って言うのかなと思いつつも、もう何も言わなかった。


 走り出した車は、住宅街を抜けて県道に出た。道路脇のフェンス越しに、建設途中のショッピングモールが見えた。どこにでもある景色が、どこまでも続いているような気がして、アクセルを少しだけ強く踏み込んだ。


 「それで、行き先は変わってないの?」

 「おう、あの墓だ」

 「久しぶりだね」

 「ああ、俺も場所覚えてるか不安でな」

 「ナビ入れとこうか」

 「やめとけ。道くらい、思い出してみるさ」


 前を見据える父の横顔は、いつになく真剣だった。そういえば、小学生の頃にもこうして出かけたことがあった。あのときはまだ母もいたけれど、彼女は助手席で、ずっと寝ていた。


 もうすぐ命日だった。


 「途中でジュース買ってこい。墓の前に置いてやるんだ」

 「何がいいかな」

 「そりゃあ、ファンタオレンジだ。決まってる」

 そう言って笑った父の顔が、なぜかものすごく、遠く感じた。


 車はまっすぐ、陽炎のゆれるアスファルトの上を進んでいく。

 光化学スモッグ注意報はまだ解除されていなかったけれど、空はどこまでも、青かった。



 途中、コンビニに寄った。

 父がトイレに行っている間に、冷えたファンタオレンジと、ついでにお茶と塩分タブレットを買っておいた。

 レジのおばちゃんが「あっついねぇ」と言いながら袋詰めしてくれたのに、「ですね」としか返せなかった自分がちょっと情けなかった。


 父はコンビニから出てきたとき、小さなガリガリ君を片手に持っていた。

 「それ、墓にも供える?」と訊くと、「馬鹿言え」と笑った。


 そこから先は、ほとんど会話がなかった。ナビもつけず、音楽も流さず、ただ窓を閉めてエアコンの風音とタイヤのロードノイズだけが車内に満ちていた。


 坂を登る。

 記憶よりも急な坂道だった。


 小学生のころ、母と三人で登ったあの坂。ヒールで苦労してた母に、父が「次からはスニーカーで来いって言ったろ」って少しキレ気味に言ってたっけ。あのとき、母は「お墓参りにスニーカーなんてありえないでしょ」と言い返していた。今なら、どっちの言い分も、ちょっとだけわかる。


 墓地に着くと、セミの声が一段と大きくなった。遠くの木陰で、線香の煙が上がっている。誰か別の家族が来ているようだ。

 俺たちは無言でバケツを取り、水を汲み、雑草を抜いていく。父が軍手を持ってきていた。用意がいいんだか悪いんだか。靴の中に砂利が入って、少しイラついた。


 ---墓石を拭き終え、線香に火をつけたとき、ふと、ある記憶がよみがえってきた。

 ——美山さんのことだ。


 中学のとき、たまたま夏休みの補習で同じ班になって、帰り道が一緒になった日があった。向こうから話しかけてきたのに、俺は緊張してろくに返事もできなかった。


 「手、洗った後って、なんであんなにいい匂いするんだろうね」

 そう言った彼女の言葉が、頭の中に何度もリピートされた。

 たぶん、あの洗面所の匂いは牛乳石鹸だったと思う。家にあるやつと、まったく同じ。


 その帰り道、ちょうど家の前まで来たときに、タイミング悪く、父が表に出てきてて——


 「おう、なんだお前、彼女か?」

 「ちがっ、ちがうし……」

 「美しい山と書いて美山。なるほど、名前負けしてねえな」


 妙に感心したように言った父の顔を、今でも覚えている。


 結局、何も始まらなかった初恋だったけど、父にはしっかりバレてた。

 俺が“さん”付けで呼び続けてしまうのは、あの一言がこびりついてるせいかもしれない。



 「冷えてるからな。今日は特別だぞ」


 そう言って、父が墓前に置いたファンタオレンジの缶をそっと撫でる。

 笑っていたけど、その顔には、少しだけ疲れが滲んでいた。


 ガリガリ君を半分に折って渡される。

 「汚いな」と言いながらも、俺は文句を飲み込んで受け取った。

 歯に染みる冷たさが、妙に心地よかった。


 帰りの車内、父は助手席でうたた寝を始めた。

 信号待ちの合間にちらりと横を見たとき、細くなった首筋と、浮き出た血管が目に入った。

 エアコンが効いてるのに、額にうっすらと汗をかいている。


 ——病院に付き添ったのは、ちょうど先月だった。

 医者の言葉は淡々としていて、逆に現実味がなかった。


 「予後は長くて一年。穏やかに過ごさせてあげてください」

 父は「お前は聞かなくていい」と笑って俺を待合室に出したが、声はちゃんと聞こえていた。


 それでも、父は何も言ってこない。

 俺も訊かない。

 ただ、こうして出かけたり、ファンタを冷やしたり、くだらないドラマを繰り返し観たり。そういう何気ないことが、急にやたらと丁寧になってきた。


 家に着くころには、日がだいぶ傾いていた。

 「夕飯どうする?」と訊くと、父はちょっとだけ考えてから、「冷やし中華でもやるか」とつぶやいた。

 そう言ってドアを開け、よっこらせと立ち上がる。その動きがいつもよりゆっくりで、俺は少しだけ目をそらした。


 靴を脱ぎ、いつもの廊下を歩きながら、ほんの少しだけ、心の奥がすっきりしていた。

 というより、覚悟が少しずつ、形になっていくような、そんな感覚だったのかもしれない。


 洗面所からは、かすかに牛乳石鹸の香りがしていた。

 あの夏の午後、美山さんが一瞬だけこっちを見て笑った、あのときの匂い。

 冷やし中華のタレの味は、母が使っていたやつとは少し違うけれど、それでもどこか懐かしい気がした。


 父は、母の作っていた味を完全に真似しようとはしない。けれど、冷蔵庫の中には、ちゃんとあの練りからしがいつも入っている。



 多分、それでいいんだと思う。



 不器用なやり方でも、続けてくれている。それが、ありがたかった。


 光化学スモッグ注意報は、もう解除されたらしい。

 外の空は、夕焼けがゆっくりと溶けていくように、静かだった。

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変わらないもの 轟ゆめ @yume_todoroki

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