わたしの小さな鍵
青川メノウ
第1話 わたしの小さな鍵
十年ほど前に、夫を病気で亡くした後も、特に不自由なく、独居生活を送ってきたが、ある日、僅かな段差につまずいて転倒し、
入院して手術を受け、回復したものの、以前のような一人暮らしが難しくなり、遠方にいる息子の勧めもあって、高齢者施設に入所した。
入所当日、若い女性スタッフの案内で、自分の居室に連れてこられた佳枝は、「あれっ?」と思った。
部屋のドアに、ロックがついていなかったからだ。
「あのう、お部屋のロックは?」
と佳枝が尋ねると、
「利用者さんの居室に、ロックはないです」
と女性スタッフは、当然のように答えた。
部屋にロックがないって、変じゃないかしら?
と佳枝は思った。
「どうしてロックがないの?」
「どうしてって、言われても。それがフツーなんですけど」
なぜ、そんなことを聞くのかといった顔だ。
「『フツー』ですか……」
「だって、介護をする時、ロックがかかっていると、私たちスタッフが自由に出入りできないでしょ」
「スタッフの皆さんが、自由に出入りするの?」
「いろんな業務があるので。掃除とか、シーツ交換とか。洗濯物をチェストに返したり」
なるほど。病院だって、病室にロックなどなかったではないか。
施設も病院と同じで、お世話していただくところなのだから、施錠されていたら、スタッフにとって、不都合にちがいない。
「そういえば……」佳枝はふと思った。
自分はこれまでの人生で、一体いくつ鍵を持っていただろう。
細かいものを除けば、主な鍵は三つだ。
家の鍵、自動車の鍵、職場のロッカーの鍵。
まず、定年退職する時、ロッカーの鍵を返した。
免許を返納して、車を処分した時、鍵も手放した。
施設に入る時、家の鍵を息子に預けた。
今の自分には、鍵が一つもない。
物理的にオープンで、無防備だ。
なにもかも、見られて、触られてしまう。
これは問題ではなかろうか。
施設生活が始まると、やはり予想通りになった。
昼間、佳枝が部屋にいない時に、スタッフが勝手に出入りする。
もちろん、業務上、必要あってのことだろうが、あまり気持ちの良いものではない。
夜は夜で、寝ている時に、懐中電灯を片手に、夜勤スタッフが数時間おきに、巡回に来る。
人に寝顔を見られるなんて、若い頃だったら、考えられない。
風呂もトイレも、介護される身とあっては、男性スタッフにも、手伝ってもらわなければならない。
医療や介護を受ける上で、異性に体を見られるのは、仕方のないことで、気にしたり、恥ずかしがったりするのは、ナンセンスだ。
女性スタッフにお願いしたいと、強く要求すれば、聞いてもらえるだろうが、忙しそうに、立ち働くスタッフを見ていると、つい遠慮してしまう。
そもそも、老いさらばえた自分が、恥ずかしがるのは、滑稽ではなかろうか。
本音を言えば、羞恥心も、抵抗感もある。
体は老いても、娘の心をすっかり失くしたわけではないから。
長く生きたぶん、年相応に物分かりが良くなっただけ。
人生、どうにもならないことが、山ほどあるから、しょうがないと、あきらめがつくだけだ。
とはいえ「なにもかも施設の言いなりなんて、ちょっとくやしい」と佳枝は思った。
そこで、佳枝はスタッフを呼び止めて、聞いてみた。
「部屋にロックをつけてもらうことって、できるんでしょうか?」
「申し訳ないですが、それはできません」
とはっきり言われてしまった。
まあ、それはわかっていたことだ。
「じゃ、せめて、チェストに錠前をつけさせてください」
「それもご遠慮願いたいです」
「引き出し一つでいいんです」
「うーん、でも……前例がないですし」
スタッフはしぶっていたが、佳枝は粘り強く食い下がって、最終的には許可された。
やったわ。
胸が躍った。
なにしろ、たとえ引き出し一つであっても、ほかのだれも侵すことのできないスペースを、手に入れたのだ。
「聞いたよ、お母さん。鍵のこと。あまりわがままを言わないようにしてよ」
と面会に来た息子が、呆れ顔で言った。
「だって、なにもかも施設の言いなりなんて、くやしいじゃない? 毎月、高い料金を支払ってるのに」
「まあ、そうかもしれないけど……施設って、そういうものだろ。面倒な利用者って思われないように、スタッフの言う通りにしてよ。で、なにを入れてるの。引き出しに」
「すごく大切なものよ」
「『すごく大切なもの』って?」
「それはね、内緒よ」
と言って佳枝は、
佳枝の引き出しの件は、スタッフの間でも、時々話題に上った。
「一体何を入れているんだろうね」
「ふつうは、貴重品とかお金とかじゃない?」
「食べ物だったら、困るよね。カビたり、腐ったりするし」
「にしても、あの方だけ、特別に錠前をつけるなんて、おかしくない?」
と疑問視する声もあったが、そういうことを言うスタッフは、施設の隅々まで、あまねく自分たちが管理できると思っているようだ。
だから、利用者がどこかに、鍵をかけるという行為自体が、面白くないのだ。
五年後、佳枝は老衰で亡くなった。
ご遺体の清拭が終わり、両手が胸の上で組み合わされる時に、なにか小さな物が、ベッドの上にぽとりと落ちた。
引き出しの鍵だった。
亡くなるまで、鍵をしっかり握っていたのだ。
お見送りの後、部屋の私物を整理する必要があり、その鍵で引き出しが開けられた。
意外なことに、中にはなにも無かった。
空だったのだ。
初めからそうだったのか、それとも、まだ動けるうちに取り出して、誰かに預けたのか。
今となっては、わからない。
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わたしの小さな鍵 青川メノウ @kawasemi-river
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