わたしの小さな鍵

青川メノウ

第1話 わたしの小さな鍵

佳枝よしえは八十七歳。後期高齢者と言われる年齢だ。

十年ほど前に、夫を病気で亡くした後も、特に不自由なく、独居生活を送ってきたが、ある日、僅かな段差につまずいて転倒し、右大腿骨頸部みぎだいたいこつけいぶを骨折した。

入院して手術を受け、回復したものの、以前のような一人暮らしが難しくなり、遠方にいる息子の勧めもあって、高齢者施設に入所した。


入所当日、若い女性スタッフの案内で、自分の居室に連れてこられた佳枝は、「あれっ?」と思った。

部屋のドアに、ロックがついていなかったからだ。

「あのう、お部屋のロックは?」

と佳枝が尋ねると、

「利用者さんの居室に、ロックはないです」

と女性スタッフは、当然のように答えた。


部屋にロックがないって、変じゃないかしら?

と佳枝は思った。


「どうしてロックがないの?」

「どうしてって、言われても。それがフツーなんですけど」

なぜ、そんなことを聞くのかといった顔だ。

「『フツー』ですか……」

「だって、介護をする時、ロックがかかっていると、私たちスタッフが自由に出入りできないでしょ」

「スタッフの皆さんが、自由に出入りするの?」

「いろんな業務があるので。掃除とか、シーツ交換とか。洗濯物をチェストに返したり」

なるほど。病院だって、病室にロックなどなかったではないか。

施設も病院と同じで、お世話していただくところなのだから、施錠されていたら、スタッフにとって、不都合にちがいない。

に落ちない点もあるけれど、従うよりほかなかった。


「そういえば……」佳枝はふと思った。

自分はこれまでの人生で、一体いくつ鍵を持っていただろう。

細かいものを除けば、主な鍵は三つだ。

家の鍵、自動車の鍵、職場のロッカーの鍵。


まず、定年退職する時、ロッカーの鍵を返した。

免許を返納して、車を処分した時、鍵も手放した。

施設に入る時、家の鍵を息子に預けた。

今の自分には、鍵が一つもない。

物理的にオープンで、無防備だ。

なにもかも、見られて、触られてしまう。

これは問題ではなかろうか。


施設生活が始まると、やはり予想通りになった。

昼間、佳枝が部屋にいない時に、スタッフが勝手に出入りする。

もちろん、業務上、必要あってのことだろうが、あまり気持ちの良いものではない。

夜は夜で、寝ている時に、懐中電灯を片手に、夜勤スタッフが数時間おきに、巡回に来る。

人に寝顔を見られるなんて、若い頃だったら、考えられない。


風呂もトイレも、介護される身とあっては、男性スタッフにも、手伝ってもらわなければならない。

医療や介護を受ける上で、異性に体を見られるのは、仕方のないことで、気にしたり、恥ずかしがったりするのは、ナンセンスだ。

女性スタッフにお願いしたいと、強く要求すれば、聞いてもらえるだろうが、忙しそうに、立ち働くスタッフを見ていると、つい遠慮してしまう。


そもそも、老いさらばえた自分が、恥ずかしがるのは、滑稽ではなかろうか。

本音を言えば、羞恥心も、抵抗感もある。

体は老いても、娘の心をすっかり失くしたわけではないから。

長く生きたぶん、年相応に物分かりが良くなっただけ。

人生、どうにもならないことが、山ほどあるから、しょうがないと、あきらめがつくだけだ。

とはいえ「なにもかも施設の言いなりなんて、ちょっとくやしい」と佳枝は思った。


そこで、佳枝はスタッフを呼び止めて、聞いてみた。

「部屋にロックをつけてもらうことって、できるんでしょうか?」

「申し訳ないですが、それはできません」

とはっきり言われてしまった。

まあ、それはわかっていたことだ。

「じゃ、せめて、チェストに錠前をつけさせてください」

「それもご遠慮願いたいです」

「引き出し一つでいいんです」

「うーん、でも……前例がないですし」

スタッフはしぶっていたが、佳枝は粘り強く食い下がって、最終的には許可された。

やったわ。

胸が躍った。

なにしろ、たとえ引き出し一つであっても、ほかのだれも侵すことのできないスペースを、手に入れたのだ。


「聞いたよ、お母さん。鍵のこと。あまりわがままを言わないようにしてよ」

と面会に来た息子が、呆れ顔で言った。

「だって、なにもかも施設の言いなりなんて、くやしいじゃない? 毎月、高い料金を支払ってるのに」

「まあ、そうかもしれないけど……施設って、そういうものだろ。面倒な利用者って思われないように、スタッフの言う通りにしてよ。で、なにを入れてるの。引き出しに」

「すごく大切なものよ」

「『すごく大切なもの』って?」

「それはね、内緒よ」

と言って佳枝は、悪戯いたずらっぽく微笑んだ。


佳枝の引き出しの件は、スタッフの間でも、時々話題に上った。

「一体何を入れているんだろうね」

「ふつうは、貴重品とかお金とかじゃない?」

「食べ物だったら、困るよね。カビたり、腐ったりするし」


「にしても、あの方だけ、特別に錠前をつけるなんて、おかしくない?」

と疑問視する声もあったが、そういうことを言うスタッフは、施設の隅々まで、あまねく自分たちが管理できると思っているようだ。

だから、利用者がどこかに、鍵をかけるという行為自体が、面白くないのだ。


五年後、佳枝は老衰で亡くなった。

ご遺体の清拭が終わり、両手が胸の上で組み合わされる時に、なにか小さな物が、ベッドの上にぽとりと落ちた。

引き出しの鍵だった。

亡くなるまで、鍵をしっかり握っていたのだ。

お見送りの後、部屋の私物を整理する必要があり、その鍵で引き出しが開けられた。

意外なことに、中にはなにも無かった。

空だったのだ。

初めからそうだったのか、それとも、まだ動けるうちに取り出して、誰かに預けたのか。

今となっては、わからない。


※関連小説 [白い服の女]

https://kakuyomu.jp/works/822139840717158638

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