怪奇作家の恋愛事情
伊阪 証
本編
作品の前にお知らせ
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158
計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
雨の匂いが、分厚い絨毯にまで染み付いている気がした。
標高一千メートル。黒い森に埋もれるように建つこのホテルは、今夜、完全な孤島になっていた。窓ガラスを叩く風雨の音だけが、高い天井のバンケットルームに響いていた。
給仕の私は、銀のトレイを左手に乗せたまま、壁際に直立して呼吸を殺していた。
円卓を囲んでいるのは十人の男女だ。
全員が濡れたコートを預け、正装に身を包んでいるものの、その顔色は全員一様に悪い。まるで葬儀の帰りのような重苦しさが、湯気の立つポタージュの周りに漂っていた。
中央の上座に座るのは、この集まりの主賓である老人だ。
白髪をオールバックに撫でつけ、彫りの深い顔には老人特有のシミが浮いている。彼はナプキンを首元に押し込むと、濁った眼球をぎろりと巡らせた。
「……食わんのか」
しわがれた、しかしよく通る声だった。
その一言に、周囲の十人がびくりと肩を震わせた。
彼らは企業の幹部たちだと聞かされている。普段ならば部下を怒鳴りつけているであろう恰幅の良い男や、神経質そうな眼鏡の女が、この老人一人の前では蛇に睨まれた蛙のように縮こまっている。
「頂きます、社長」
右隣に座っていた太った男が、裏返った声でそう言い、慌ててスプーンを握った。
カチャリ、と銀食器が皿に触れる音が、やけに大きく響く。
それを合図にしたように、他の九人もぎこちない手つきで食事を始めた。
咀嚼音だけが支配する食卓。
誰も「味」の話をしなかった。誰も「天気」の話をしなかった。
ただ、目の前の液体を胃袋に流し込む作業だけが淡々と進む。
私は給仕としての訓練通り、表情を消して彼らのグラスに水を注いで回った。
彼らの視線は、決して老人と合わないように泳いでいる。恐怖、あるいは憎悪。押し殺した感情が、彼らの指先の震えから伝わってくるようだった。
老人は、そんな彼らの様子を愉しむように、ゆっくりとスプーンを口に運んでいた。
ズズッ、と下品な音を立ててスープを啜る。
その音が響くたびに、眼鏡の女が唇を噛み締めるのが見えた。
異常な光景だった。
外は嵐。電話線が切れている可能性すらある山奥のホテル。
そこで行われているのは、親睦会とは名ばかりの、無言の拷問のような晩餐。
私は空になったワインボトルを下げるため、老人の背後を通ろうとした。
その時だ。
ガシャン!
鋭い破砕音が、静寂を引き裂いた。
私が足を止めて振り返ると、老人がスプーンを取り落としていた。
スープ皿の縁に当たったスプーンが、白いクロスの上に赤茶色のシミを作っている。
「……社長?」
太った男がおずおずと声をかけた。
老人は答えない。
椅子に深く背を預け、天井を仰いでいる。
その喉から、ヒュー、ヒュー、という奇妙な音が漏れ始めた。
最初は、誤嚥かと思った。
だが、すぐに違うと分かった。
老人の手が、自分の喉を激しく掻きむしり始めたからだ。
爪が皮膚を裂き、血が滲む。
「社長!?」
「おい、どうしたんですか!」
数人が椅子を蹴って立ち上がる。
しかし、誰も老人には触れようとしない。ただ遠巻きに、異様な光景を見下ろしているだけだ。
老人の身体が弓なりに反った。
白目を剥いた口の端から、蟹のように細かい泡が溢れ出してくる。
ガタガタとテーブルが揺れ、グラスが倒れた。
赤ワインが血のように広がり、老人の痙攣に合わせて波紋を描く。
もっと劇的で、もっと悪意に満ちた何かが、老人の身体を内側から食い荒らしているようだった。
ドサリ。
老人の身体が椅子から滑り落ち、床に叩きつけられた。
手足が床板を激しく叩く。タタン、タタン、タタン。まるで壊れた玩具のようなリズム。
やがて、その動きがピタリと止まった。
見開かれたままの瞳が、虚空の一点を凝視している。
泡混じりの涎が、頬を伝ってカーペットに吸い込まれていった。
雷鳴が轟き、一瞬、室内が青白く照らされた。
その光の中で、十人の幹部たちの顔が見えた。
驚愕。
混乱。
そして――安堵。
誰一人として、悲鳴を上げなかった。
ただ静寂だけが、死体となった老人と、それを取り囲む私たちの上に降り積もっていく。
「……毒だ」
誰かが、ポツリと呟いた。
その声は、恐怖というよりも、決定事項を確認する事務的な響きを帯びていた。
私は震える手でトレイを握りしめ、後ずさることしかできなかった。
現場検証が始まったのは、日付が変わる頃だった。 豪雨をついて強引に到着したパトカーの回転灯が、窓の外で不気味な赤色を明滅させていた。 バンケットルームは封鎖されず、そのまま臨時の取調室と化していた。 私たち従業員は、壁際に並べられたパイプ椅子に座らされ、その光景を眺めていることしか許されなかった。疲労と緊張で感覚が麻痺し始めていた。
「……おかしいな」 遺体を取り囲んでいた検視官の一人が、首を傾げながら呟いた声が聞こえた。 「どうしました?」 刑事らしき男が手帳を開いて近づく。 「瞳孔の収縮、それにこの筋肉の硬直。典型的なテトロドトキシン……フグ毒の中毒症状に見えるんだが」 フグ毒。 その単語に、私の隣に座っていた料理長がびくりと反応した。今夜のコースに魚料理はあったが、フグなど使っていないはずだ。
「じゃあ、死因はそれですか」 「いや、それが妙なんだ」 検視官は遺体の口元をぬぐったガーゼを光に透かし、眉をひそめた。 「吐瀉物からの反応が薄すぎる。この量じゃ、精々指先が痺れる程度だ。大の大人が椅子から転げ落ちて即死するには、桁が足りない」 刑事と検視官が顔を見合わせる。
その時、別の場所で鑑識作業をしていた男が、青ざめた顔で声を上げた。 「警部、ちょっと来てください」 鑑識官は、社長が口をつけていた赤ワインのグラスを指差していた。特殊なライトが当てられ、グラスの縁が妖しく光っている。
「簡易検査ですが、アコニチン反応が出ました」 「アコニチン? トリカブトか」 刑事が素っ頓狂な声を上げた。 「待て待て。フグ毒にトリカブトだと? 相殺でも狙ったのか?」
「いえ、それだけじゃありません」 さらに奥、給仕用のパントリーから戻ってきた別の捜査員が、ビニール袋に入ったコーヒー豆の容器を掲げた。 「キッチンの予備タンクです。奇妙な甘い臭いがします。恐らく、ヒ素化合物かと」
室内の空気が、急速に凍りついていくのが分かった。 フグ毒、トリカブト、ヒ素。一つだけでも致死性の劇薬が、この狭い空間に三つも存在していたことになる。
取り調べを受けていた十人の幹部たちは、互いに目を見合わせることなく、ただ沈黙を守っている。だが、その表情にあるのは狼狽ではなかった。 彼らの表情にあったのは、自分の用意した毒以外にも毒があったことへの、底知れない困惑だった。彼らは全員で示し合わせたわけではない。それぞれが個別に、それぞれの手法で、この老人を殺そうとしていたのか。
「う、うぅ……」 不意に、私の右隣でドサリと音がした。 若い同僚の給仕が、パイプ椅子から崩れ落ちていた。 「おい、どうした!」 警官が駆け寄る。 同僚は床に膝をついたまま、自分の両手を見つめてガタガタと震えていた。 「手が……痺れて、動かないんです……」 「なんだと?」 「さっき、社長の皿を片付ける時に、少しタレが指に……」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。 私も、あの皿を下げた。グラスに触れた。 今、この部屋に充満している空気そのものが、目に見えない粒子となって肺に入り込んでいるような錯覚。 いや、錯覚ではないかもしれない。 私の指先も、微かに熱を持ち、ピリピリと粟立っている気がした。
「換気だ! 窓を開けろ!」 刑事の怒鳴り声が響く。 だが、窓の外は依然として暴風雨だ。開ければ全てが吹き飛ぶ。
逃げ場のない密室。 あの一人の老人の死体を中心に、幾重にも塗り込められた殺意が、飽和して溢れ出そうとしていた。 どれが決定打だったのか。誰が犯人なのか。いや、そもそもこの中の誰一人として、自分が「殺した」という確証を持てていないのではないか。無数の毒が混ざり合い、化学反応を起こし、未知の死因を作り出したとしたら。 私は自分の脈拍が早鐘を打つのを感じながら、目の前の現実が形を失っていくような目眩を覚えた。
嵐が去った翌朝の光は、残酷なほどに白々しかった。 バンケットルームの窓から差し込む陽光は、埃の粒子一つ一つまでを照らし出し、昨夜の惨劇を現実のものとして焼き付けていく。 事情聴取は、ホテルのロビーで行われていた。 私たち従業員は解放されたわけではなかった。現場保存のため、そして「二次被害」の観察のため、ロビーの隅で待機を命じられていた。
私の指先の痺れはまだ消えていない。 それどころか、視界の端にチカチカとした光の点滅が見える。昨夜、あのテーブルの近くにいた同僚の数人が、私と同様に似たような神経症状――吐き気、幻覚、あるいは極端な脱力――を訴えていた。
捜査本部が置かれたフロント周辺から、断片的な言葉が漏れてくる。 それは、聞けば聞けば聞くほど、現実感を削ぎ落とすような内容だった。
「……ええ、専務の鞄から、小瓶が見つかりました」 捜査員が疲れた声で報告している。 「中身は高濃度のニコチン抽出液。スポイトの先端から、スープ皿と同じ成分を検出」 「次は常務だ。上着のポケットから、粉末状の亜ヒ酸。ナプキンに付着していたものと一致」 「経理部長の万年筆、あれは仕込み針でした。先端にクラーレ系の神経毒」 「秘書のコンパクトから、粉砕したジギタリスの葉……」
報告が続くたびに、ロビーの空気は真空に近づいていくようだった。 一人の犯人が、複数の毒を使ったのではない。十人の人間が、それぞれ全く別の毒を、別々の方法で持ち込んでいたのだ。 私は震える手で水を飲もうとしたが、コップを持つ力がうまく入らない。
昨夜のあの沈黙。 あの異様な緊張感。 彼らは「誰が殺すか」を相談していたわけではなかったのだ。 逆だ。全員が全員、「今夜、自分がこの手で殺す」と決意し、実行に移していた。 隣の人間が毒を入れる隙を窺いながら、自分もまた毒を入れるタイミングを計っていた。 あの食卓で交差していたのは、会話ではなく、十方向からの殺意のベクトルだけだったのだ。
「……信じられん」 仮眠から戻ってきた刑事が、押収品リストを見て呻いた。 「示し合わせもなしに、全員が同じ夜に殺そうとしたのか? 偶然にか?」
「偶然でしょうね」 白衣を着た監察医が、気味の悪いほど淡々とした口調で答えた。彼は手元のタブレットで複雑な化学式を弾いていた。 「社長への恨み、あるいは会社の主導権争い……動機は全員にある。だが、誰も『他人も殺そうとしている』とは知らなかった。だからこそ、こんな『奇跡』が起きた」
「奇跡、だと?」 「ええ。通常なら即死する量のアコニチンが、先に混入されていたフグ毒と拮抗しました。そこに強アルカリ性の洗浄剤由来成分――これは清掃担当の重役ですね――が混ざったことで、化学反応が起きた。酸性の毒が中和され、神経毒が変質し……」 監察医は、まるで複雑なパズルの解を見つけた子供のように、わずかに口角を上げた。 「結果として、即死性の毒性は打ち消し合った。代わりに、体内組織をドロドロに融解させながら、神経系を過剰に刺激し続けるという、未知の複合毒物が生成されたわけです」
社長が死ぬ直前、喉をかきむしり、手足で床を叩いていたあの動き。 あれは苦悶ではない。 脳から全身への信号が暴走し、壊れた機械のように身体が跳ね回っていたのだ。
そして、その「未知の毒」は、揮発性が高かったらしい。 社長が吐き出した呼気、倒れた際に飛散した体液。 それらをごく微量吸い込んだだけの私たち従業員が、こうして手足の痺れや幻覚に襲われていた。
「……で、死因はどれなんだ」 刑事が苛ただしげに尋ねた。 監察医は肩をすくめた。 「特定不能です。Aの毒はBによって無効化され、Bの毒はCによって変質した。誰の毒がトドメを刺したのか、科学的に証明するのは不可能です。全員が殺そうとしたが、全員が殺害に失敗し、その結果として対象は死亡した」 「なんだそれは」 「法的には『複合的な化学作用による事故死』、あるいは『原因不明の変死』として処理するしかないでしょうね。殺人罪を問おうにも、因果関係が立証できない」
ロビーのソファには、十人の容疑者たちが座っている。 彼らは一睡もしていないはずだが、その顔つきは昨夜とは違っていた。 怯えはない。 かといって、殺しを遂げた達成感もない。 ただ、自分以外の九人もまた殺人者であったという事実を知り、互いに疑心暗鬼と奇妙な連帯感が入り混じった、虚ろな目をしているだけだ。 彼らは罪に問われないかもしれない。 だが、この先一生、互いに「自分と同じ毒を持った化け物」として睨み合いながら生きていくことになる。
私は吐き気をこらえ、窓の外を見た。雨は上がっていた。 だが、森の木々についた雫が、陽光を受けてギラギラと光っていた。 それはまるで、このホテル全体が巨大なビーカーの中に閉じ込められ、毒の沼に沈んでいるかのような錯覚を私に与えた。 人の悪意が飽和すると、物理的な毒に変わる。そんな馬鹿げた考えが、痺れた頭の中でどうしても拭い去れなかった。
最後の行に打たれた句点が、黒いインクの染みとしてそこにあった。 A4用紙の束。 左上をダブルクリップで留められただけの、飾り気のない紙の厚み。 そこに並ぶ明朝体の羅列が、不意に意味を持たない記号の集まりへと戻っていく。 「…………」 目の前に座る女性――担当編集者は、その紙束の両端を指先が白くなるほどの強さで握りしめたまま、動かない。
会議室の空調の音が、やけに大きく聞こえた。 直前までの嵐の轟音も、パトカーのサイレンも、この部屋には存在しない。あるのは、乾燥した空気と、彼女の浅く速い呼吸の音だけだった。
僕はテーブルを挟んだ向かいの席で、すっかり氷の溶けきったアイスコーヒーを一口啜った。 彼女が視線を上げるのを待つ。 十秒。二十秒。 彼女はまだ、最後のページから目を離せないでいた。まるで、目を離した瞬間に、紙の中から何かが這い出してくるとでも思っているかのように。 肩が、小刻みに震えていた。
「……読み終わった?」 僕が声をかけると、彼女はびくりと身体を跳ねさせた。 「っ、は、はい……!」 裏返った声。 彼女は慌てて原稿の束をデスクの上に置こうとした。けれど、指のこわばりが解けず、バサリと少し乱暴な音を立てて取り落としてしまう。 「す、すみません。私……」 「いいよ、そのままで」
僕は手を伸ばし、乱れた原稿の端をトントンと指先で揃えた。 その拍子に、僕の指が彼女の手の甲をかすめる。 ひやりと冷たかった。 彼女は感電したように手を引っ込め、膝の上で握り拳を作る。 顔色が悪い。 化粧でも隠しきれない蒼白さが、頬に浮かんでいる。 彼女はプロだ。数々のホラー小説を担当してきた実績がある。 その彼女が、視線を僕に合わせようとしない。視界の隅に原稿が映ることさえ避けているように見える。
「……水、飲む?」 僕は自分の手元にあった未開封のミネラルウォーターを、テーブルの上で滑らせた。 ペットボトルが低い音を立てて、彼女の手元で止まる。 「あ……ありがとうございます」 彼女は震える手でキャップを開けようとするが、うまくいかない。 プラスチックが擦れる音が、静まり返った会議室に虚しく響く。
「貸して」 僕は半歩、身を乗り出した。 彼女の手からボトルを受け取り、キャップをひねる。カチリ、という小気味よい音がして封が切れた。 そのまま彼女の目の前に置く。 彼女は縋るようにそれを手に取り、一気に喉へ流し込んだ。 ごくり、ごくり。 飲み下す音が聞こえる。 ようやく人心地ついたのか、彼女がふぅ、と長い息を吐いた。 それでも、まだ僕の顔を直視できない。
「……どうだった?」 感想を求める言葉としては、あまりに短すぎたかもしれない。 けれど、今の彼女に「構成」や「伏線」の話をするのは酷だと思った。 彼女は濡れた唇をハンカチで拭い、小さく首を横に振った。 「……匂いが、しました」 「匂い?」 「雨と、銀食器と……甘い、毒の匂いが。紙の上だって分かっているのに、肺の中に入ってくるみたいで……」 彼女はそこまで言って、言葉を詰まらせた。
そして、恐る恐る、上目遣いに僕を見た。 その瞳には、恐怖の余韻と、それを生み出した人間――僕への畏怖が入り混じっている。 「先生」 「ん?」 「……きつかったです。本当に」 絞り出すような、非難めいた響きがあった。
僕は苦笑して、空になった彼女のコップと、自分のコーヒーカップを並べた。 テーブル越しの距離は、最初よりもほんの少しだけ縮まっている。 「そうか」 僕は揃えられた原稿の束に視線を落とした。 そこには、僕が計算し、組み立て、配置した地獄が閉じ込められている。 彼女がこれほど怯えることは、予想外ではなかった。 むしろ、彼女が怯える顔を想像しながら、あの複雑怪奇な毒のパズルを組み上げた節さえある。 けれど、実際にこれほど青ざめられると、少しばかり胸が痛むのも事実だ。
「……これでも、かなり抑えたつもりなんだけどね」 僕が呟くと、彼女が目を丸くした。 「抑えた……? あれで、ですか?」 「ああ」 「どこをどう抑えたら、あんな……あんな救いのない話になるんですか」 「君が読むから」
「え?」 「君が読むから、直接的な描写はだいぶ削ったんだ。夢に見るといけないと思って」 嘘ではなかった。 本当はもっと粘度のある、物理的な痛みを伴う描写を入れる予定だった。だが、彼女がこの会議室でページをめくる姿を思い浮かべた時、無意識にペン先が鈍ったのだ。
彼女は呆然と口を開け、それから急に耳まで赤くして俯いた。 恐怖による蒼白さが、別の感情の赤色に塗り替えられていく。
「……次は、もう少し優しくしてみようか」 僕の言葉に、彼女は俯いたまま、小さく、けれど確かに頷いた。 「……はい。お願いします。……少しだけ、お手柔らかに」
下弦の月が、黒々とした雲の切れ間から頼りない光を落とした。 刻限は丑三つ時を回っている。 城下町の木戸番所に詰める下級役人の源蔵(げんぞう)は、冷え切った手に息を吹きかけながら、不審な物音の方角へと提灯を向けた。
「……おい、誰かいるのか」 返事はない。 湿った夜風が、路地の奥から生温かい鉄の臭いを運んでくる。 源蔵は十手を帯に差し直し、提灯を高く掲げて路地へと踏み込んだ。 光の円が、石畳の上に広がる黒い水溜まりを照らし出す。
雨は降っていない。それは血だ。 「ひっ……」 源蔵の喉から短い悲鳴が漏れた。 そこに、人が転がっている。 油問屋の主人だ。恰幅の良い男だったが、今は見る影もない。 右肩から左脇腹にかけて、一直線に「断たれて」いた。 着物も、肉も、骨も。まるで豆腐か何かのように、たった一太刀で両断されている。 争った形跡は皆無だった。 悲鳴を上げる暇も、逃げる間もなく、すれ違いざまに斬られたのだ。 懐から小判の包みがこぼれ落ちていたが、手付かずだった。 怨恨か、あるいは狂人の仕業か。 源蔵は腰を抜かしそうになりながら、震える手で拍子木を打ち鳴らした。
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最初の骸(むくろ)が見つかってから、三日が過ぎた。 その間、城下の空気は凍りついたように張り詰めていた。 下手人は捕まっていない。それどころか、被害者は夜ごとに増えていた。 二日目の夜は、夜鷹(よたか)の女だった。 橋の下で客を待っていたところを、首を刎ねられていた。これも一太刀だった。 三日目の夜は、野良犬と、酔っ払いの浪人だった。 浪人は腕に覚えがあるらしく、刀を半分抜いた状態で絶命した。だが、相手の太刀筋の方が圧倒的に速かった。脳天から股下まで、文字通り真っ二つに割られていた。
「……またか」 奉行所の検分役が、吐き捨てるように言った。 源蔵は死体の搬送を手伝いながら、胃の腑が縮むような思いでその傷口を見つめていた。 金持ちの商人。 貧しい夜鷹。 獣。 そして、腕利きの侍。 共通点は何もない。性別も、身分も、善悪さえも関係ない。 ただ「夜、そこにいた」というだけで、平等に、無慈悲に斬り捨てられている。
「辻斬りだ」 誰かが声を潜めて言った。「それも、ただの辻斬りじゃねえ。ありゃあ人間業じゃねえぞ」 噂は、死臭と共に城下へ広がっていた。 長屋の井戸端では、女たちが青ざめた顔で囁き合っていた。 「あれは無念の死を遂げた武者の霊だ」 「いや、他国の忍びが新しい刀の切れ味を試しているんだ」 「藩の隠密が、無作為に人を減らしているらしい」 憶測が憶測を呼び、恐怖の輪郭だけが肥大化していった。
だが、源蔵は現場を見ていた。 霊でも、組織的な隠密でもない。 傷口は常に一つ。太刀筋は常に同じ。 恐ろしいほどの膂力(りょりょく)と、神速の剣技を持った「たった一人」の生身の人間が、夜な夜な町を徘徊しているのだ。 それが何より恐ろしかった。 目的がないからこそ、避けようがない。 善人として生きようが、金を積もうが、あの刃の前では紙切れ一枚と同じ価値しかない。
夜が来る。 源蔵は番所の小窓から、漆黒に塗り潰された大通りを見下ろした。 いつもなら飲み歩く町人たちで賑わう通りに、人っ子一人いない。 風が吹くたびに、雨戸がガタガタと鳴る。 その音が、あの人間離れした辻斬りの足音のように聞こえて、源蔵は提灯の灯芯を震える指でかき立てた。 この暗闇のどこかに、奴がいる。 呼吸をするように人を斬る、顔のない怪物がいた。
「――下手人は、徒党を組んだ凶賊(きょうぞく)と断定する」 奉行所の白洲に、与力の低い声が響いた。 朝の点呼。 ずらりと並んだ同心と、その手先である源蔵たち下っ端役人に向けて、一枚の書状が読み上げられていた。 「目撃者の証言、並びに検分の結果、辻斬りは五名から十名程度の浪人集団による犯行と見做(みな)された。彼らは組織だって行動し、夜陰に乗じて町民を襲撃している。よって、以後は『集団による凶行』として探索にあたること」 読み上げられる言葉の端々には、有無を言わせぬ圧力が込められていた。
源蔵は、砂利に額を擦りつけながら、耳を疑っていた。 (集団、だと?) 馬鹿な、と思った。 源蔵は最初の骸(むくろ)を見ている。 あの傷口は、乱戦のそれではない。たった一人が、たった一太刀で、すれ違いざまに命を刈り取った痕跡だった。 五人も十人もいて、あんな綺麗な死体が出来上がるはずがない。もし集団なら、もっと足跡が残り、物取りの形跡があり、死体には無様な躊躇い傷が残るはずだ。 だが、隣に平伏している同心の背中は、微動だにしていなかった。 彼らも分かっているのだ。 これは捜査の方針ではない。藩の「決定」なのだと。
「たかが一人の浪人に、藩の治安維持を預かる我らが翻弄されている……などと、江戸表に知られてみろ。お家の一大事だ」 点呼の後、厠(かわや)の裏で古参の同心が吐き捨てるように言っていたのを、源蔵は聞いてしまった。 一人が相手では、藩の無能さが露呈する。 だが相手が「組織だった凶悪な武装集団」であれば、苦戦にも言い訳が立つ。 体面。 面目。 ただそれだけのために、あの化け物は「人間たちの集団」へと書き換えられたのだ。
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その日の午後には、城下の高札場(こうさつば)に新しい触書(ふれがき)が貼り出された。 『兇賊、市中に出没これあり』 墨痕鮮やかに書かれたその文字を、町人たちが不安げな顔で見上げている。 「おい、読めるか? 何て書いてあるんだ」 「五人組の浪人が、徒党を組んで暴れているそうだ」 「五人だって? いや、十人とは書いてないか?」 「なんでも、倒幕を企む過激な連中らしいぞ」 役人が触れ回る太鼓の音と共に、嘘は疫病よりも速く伝播していった。
源蔵が市中見回りに歩いていると、すれ違う人々の会話が明らかに変化しているのを感じた。 昨日まで、彼らは「正体不明の幽霊」や「得体の知れない怪物」に怯えていた。 だが今は違う。 「昨夜の呉服屋の主人が殺されたのも、その『集団』の資金集めだろ?」 「なんでも、赤い鉢巻をした男たちの集まりだそうだ」 「いや、黒装束の集団を見たって奴がいる」 人々は、恐怖に「理由」をつけ始めていた。 あの理不尽な辻斬りに、「政治的な目的を持った集団」という輪郭を与えることで、理解可能な恐怖へと押し込めようとしているのだ。
源蔵は、高札の前に立ち尽くした。 そこに書かれた『凶賊一味』という文字。 民衆の口から語られる、ありもしない『組織の影』。 現実には、そんなものは存在しない。 夜の闇に潜んでいるのは、思想も目的もなく、ただ人を両断することだけを好む、たった一人の「個」だ。 だが、その真実はもう誰にも届かない。 藩が嘘をつき、民衆がそれを信じ、噂が尾ひれをつけて拡大していく。 (違う……奴は、そんな人間らしいもんじゃねぇ……) 源蔵は、自分の記憶の中にある、あの冷徹な切断面を思い出した。 あれは、集団の暴走などという熱っぽいものではない。もっと静かで、虚無的な何かだ。 しかし、今や城下町全体が、見えない「賊軍」の幻影に怯え、興奮し始めている。
役人である源蔵だけが、公式発表という名の巨大な嘘と、肌で感じた真実の狭間に取り残されている。 空を見上げると、どす黒い雲が湧き上がっていた。 今夜もまた、誰かが斬られるだろう。 そして明日の朝には、その死体もまた「集団による犯行の一つ」として処理され、嘘の補強材料にされるのだ。 源蔵は寒気を覚え、自分の十手を強く握りしめた。
季節が巡り、冷たい秋風が吹き始める頃には、城下の空気は腐った果実のような、甘ったるい熱を帯びた。 源蔵は相変わらず、夜回りの提灯を提げて歩いている。 だが、その足取りは以前よりも重い。 辻斬りの被害は止まっていた。いや、正確には「止まったことにされている」と言うべきか。あるいは、あまりにも多くの「辻斬りを騙(かた)る事件」が頻発し、本物の影が埋もれてしまったのか。
白漆喰の土塀には、墨で汚い落書きが殴り書きされている。 『世直し天誅組、ここに在り』 『悪代官の首を刎ねよ』 その横には、稚拙な絵で刀のマークが描かれていた。 昼間、路地裏では子供たちが木の枝を振り回し、「天誅!」と叫んで犬を追い回している。親たちはそれを止めるどころか、薄ら笑いを浮かべて見守っている有様だ。
「聞いたか、源蔵さん」 居酒屋の暖簾(のれん)をくぐると、顔見知りの職人が酒臭い息を吐きかけてきた。 「昨夜、隣村の名主が襲われたそうだ。年貢の取り立てが厳しいって評判だったからな。ついに『あの方々』が動いたんだ」 「あの方々?」 「決まってんだろ。お上が手配してる『義賊集団』だよ。五人とも十人とも言われてる、あの英雄たちさ」 職人の目はぎらぎらと輝いていた。
源蔵は何も言わず、ただぬるい酒を啜った。 (違う) 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。 あの辻斬りは、義賊などではない。 善人も悪人も、金持ちも貧しい人も、ただそこにいるだけで斬り捨てる純粋な暴力だ。そこに思想などない。 だが、藩が流した「組織的な反体制集団」という大嘘は、飢えと重税に苦しむ民衆にとって、あまりにも都合の良い「物語」だった。 藩が『凶賊集団』と書けば書くほど、民衆はそれを『我々の代表』と読み替えた。 触書は指名手配書ではなく、彼らにとっての勧誘ポスターとなっていたのだ。
異変が形になったのは、その数日後の夜だった。 源蔵は同心と共に、町外れの街道を見回っていた。 松明(たいまつ)の明かりが、揺らめきながら闇を照らす。
「……おい、なんだあれは」 同心が足を止めた。 街道の向こうから、黒い影の塊が近づいてくる。 一人ではない。十人、いや二十人はいるだろうか。彼らはボロ布で顔を覆い、手には錆びた刀や、研ぎ澄まされた鎌、竹槍を握りしめていた。 「止まれ! 夜分に何用だ!」 同心が十手をかざして怒鳴った。
だが、影の群れは止まらない。彼らの足音は、以前のあの「本物の辻斬り」のような静謐さは皆無だった。ザッ、ザッ、と地面を踏みしめる荒々しい音が、腹に響く。 「我らは天誅組なり!」 先頭に立った男が叫んだ。声を聞けば、昼間は畑を耕しているただの百姓だと分かる。だが、その目は狂信的な光で満たされている。
「藩の不正を正し、世を直す! 我らこそが、あのお触れ書きにある集団だ!」 「そうだ! 俺たちこそが本物だ!」 後ろの男たちも口々に叫ぶ。 源蔵は、背筋が粟立つ思いがした。 彼らは「本物」になろうとしている。 藩がでっち上げた「架空の怪物」の器に、自分たちの不満と暴力衝動を流し込み、実体化させようとしているのだ。
「馬鹿を言うな! 解散せよ!」 同心が刀に手をかけた瞬間、一発の銃声が轟いた。 どこで手に入れたのか、火縄銃の乾いた音が夜気を切り裂く。 同心が呻き声を上げて肩を押さえた。 それが合図だった。 「役人だ! 悪の手先だ!」 「殺せ! 天誅だ!」 群衆が、堰(せき)を切ったように雪崩れ込んだ。 鎌が振り下ろされ、竹槍が突き出される。 そこにあるのは、かつての辻斬りが見せたような洗練された剣技ではない。 ただの数と、激情と、泥臭い暴力の嵐だった。
「ひっ、うわあああ!」 源蔵は提灯を放り投げ、無我夢中で走った。 背後で同心の悲鳴が途切れる。肉が叩かれ、骨が砕かれる鈍い音が響く。 町の方々から、半鐘(はんしょう)の音が鳴り始めた。 火の手が上がる。 米問屋が、役人の屋敷が、あるいはただの裕福な商家が、次々と襲われていく。 「天誅! 天誅!」 歓声とも怒号ともつかない叫びが、夜空を焦がす炎と共に渦巻いている。
源蔵は路地の陰に身を潜め、燃え盛る大通りを見つめた。 そこにはもう、あの「一人の辻斬り」の居場所などなかった。 静かで、冷たく、鋭利だった怪異は、熱狂した群衆の足音にかき消され、物理的な破壊の波に飲み込まれてしまった。 藩がついた嘘が、現実を追い越したのだ。 ここにいるのは、作られた象徴に憑依された、ただの暴徒たちだ。 だが、その暴徒を生み出したのは、間違いなく「辻斬りは集団である」という藩の言葉だった。
目の前を、顔を布で隠した男たちが走り抜けていく。 その手には、奪ったばかりの血塗れの刀が握られている。 彼らは信じているのだ。自分たちこそが正義であり、この暴力こそが救済だと。 源蔵は、燃え落ちる屋根の火の粉を浴びながら、もはや自分が何を取り締まるべき役人なのかさえ分からなくなっていた。 怪物は一人ではなかった。誰もが怪物になれる「物語」がそこに完成していた。
トン、と紙の束がデスクの上で揃えられる音がした。 百枚近い原稿用紙の厚み。 それが放つ物理的な重さが、古い木の机を微かに軋ませる。 さっきまで脳内で響き渡っていた暴徒たちの怒号や、燃え盛る炎の熱気が、その「トン」という乾いた音一つで遮断され、急速に遠のいていく。
会議室には、空調の低い唸りだけが残されている。 「…………」 向かいに座る彼女は、長い睫毛を伏せたまま、吐息だけで呼吸をしている。 第一章の時のように、露骨に震えているわけではない。 けれど、デスクの上に置かれた彼女の手は、指先が白くなるほど硬く握りしめられている。
彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、幽霊を見た時の恐怖とは違う、もっと底冷えするような色が沈んでいた。 「……怖かったです」 「血の量が?」 僕が短く尋ねると、彼女はかぶりを振った。 「いえ。……刃物そのものじゃなくて」
彼女は視線を原稿の束に戻した。 そこには、僕がインクで書き殴っただけの「嘘」が積み重なっている。 「……嘘が、本当になるのが」 消え入りそうな声だった。 彼女の喉が小さく動く。 「ただの作り話だったはずなのに、誰もがそれを信じて、最後には本物の……制御できない暴力になってしまう。それが、お化けなんかよりずっと……」 彼女は言葉を濁し、身震いした。 人間が人間を動かすために吐いた嘘。それが独り歩きして、現実を食い荒らしていく。 彼女はその「構造」そのものに怯えているのだ。
僕は、手元にあった万年筆を指で転がした。 「記録なんて、大抵は穴だらけだ」 僕は独り言のように呟いた。 「情報が少ないほど、人はそこに好きな怪物を住まわせることができる。……歴史も、怪談もね」
「先生も……」 彼女が不意に、強い視線を僕に向けてきた。 その瞳が、僕の奥にあるものを見透かそうとするように揺れている。 彼女は真剣だった。僕が筆先一つで、作中の藩主のように民衆を扇動し、現実さえも狂わせてしまうのではないかという畏怖が、彼女の表情に浮かんでいる。
僕は苦笑した。そして、デスクの上に置かれた原稿の束に、そっと手を伸ばした。 僕の手の甲が、彼女の握りしめた拳のすぐ横に置かれる。 ほんの数センチ。 指先が触れ合うか触れ合わないか、そのギリギリの距離。
「……僕は、そんな大それたことはしないよ」 「どうしてですか?」 「群衆はうるさいからね」 僕は原稿の角を、指先で優しく撫でた。 「僕が動かしたいのは、顔のない千人の暴徒じゃない」
「え……?」 「たった一人。……今、目の前で青ざめている誰かさんの心拍数が上がれば、それだけでいい」
僕の言葉に、彼女は瞬きをした。 意味を理解するまでに数秒。 そして、蒼白だった頬に、じわりと朱色が差していく。 彼女は慌てて視線を逸らし、けれど僕の近くにある自分の手を引っ込めようとはしなかった。
「……趣味が悪いです」 「作家なんてそんなものさ」 彼女は小さく溜息をつき、それから少しだけ安心したように、肩の力を抜いた。 机の上には、暴動の物語が閉じ込められた紙束。 その上で、僕たちの手は、共犯者のように並んでいた。
火曜日。パートからの帰りに雨が降り出した。 傘を持っていなかったので濡れて帰宅すると、彼がすでに帰っていた。 リビングのソファに深く座り、ローテーブルの上にレシートを並べている。月末の恒例行事だ。彼は几帳面で、私は大雑把。だから家計の管理は全て彼がやってくれている。
「おかえり」 彼はテレビから目を離さずに言った。 「ごめんなさい、遅くなって。雨が降ってきちゃって」 「天気予報、見てなかったの?」 「うん。朝は晴れてたから」 「ふうん。……まあ、君らしいけどね」
呆れたような、でもどこか楽しんでいるような声色だった。 私は濡れた髪をタオルで拭きながら、小さく苦笑いをした。 そうだ、私らしい。昔から要領が悪くて、詰めが甘い。彼がこうして管理してくれなければ、私はきっと生活などままならないだろう、と思った。
「あ、それと」 彼が顎で部屋の隅をしゃくった。 「ベランダの鍵、また開いてたよ」 「えっ」 「僕が閉めたけど。不用心だよな、三階なんだから」 心臓が少しだけ跳ねた。 今朝、洗濯物を干したのは私だ。取り込んだのも私だ。閉めたつもりだったけれど、また忘れていたらしい。
「ごめんなさい……」 「泥棒が入ったらどうするんだ。あるいは、君が誤って落ちでもしたら」 彼はレシートの一枚を手に取り、蛍光ペンで印をつけながら言った。 「君はよく躓(つまず)くし、ふらふらしてるから。手すりも低いんだし、気をつけなよ」 「うん。……本当にごめん」 「いいよ。僕が見てる時は、僕が守ってやるから」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのと同時に、なぜか奇妙な冷たさも感じた。 感謝すべき言葉だ。それなのに、胃のあたりが少し重い。 私は逃げるようにキッチンへ向かった。
この家は古い建売住宅だ。リフォームされているとはいえ、構造のあちこちに歪みがある。 特に、二階のリビングから一階の寝室へ降りる階段は、妙に急勾配だ。 おまけに、先週から手すりの金具が一つ緩んでいる。 ガタ、と手すりが鳴った。 「……直さなきゃ」 独り言を呟いて、私は夕食の支度に取り掛かる。 包丁を握る手が、雨冷えのせいか少し震えた。
彼はリビングで、私の買ってきた食材のレシートと、電卓を叩く音を響かせていた。 規則正しくて、管理された音だった。私が野菜を刻む音よりも、その電子音の方が、この家の主(あるじ)の出す音のように聞こえた。 彼が怒っていないか、背中で気配を伺った。 機嫌は悪くなさそうだ。 良かった。 私は安堵の息を吐き、また一つ、自分の至らなさを噛み締めた。私がしっかりしていれば、彼に余計な心配をかけずに済むのに。
「ねえ」 不意に背後から声をかけられ、私はびくりと肩を跳ねさせた。 振り返ると、彼がいつの間にかキッチンの入り口に立って、じっと私を見ていた。 「……生命保険の更新ハガキ、来てたよ」 「あ、うん」 「プラン、見直しておいたから。君はサインだけしてくれればいい」 「ありがとう。……助かる」
彼は満足そうに頷き、またソファへと戻っていった。 私は再びまな板に向き合う。 手すりの緩んだ急な階段。 閉め忘れるベランダの窓。 そして、私の代わりに全てを決めてくれる彼。 全てが日常で、全てが当たり前だった。微かな違和感は、換気扇の回る音にかき消され、私はそれを「幸せ」という名前の箱に丁寧に仕舞い込んだ。
上記の修正を全て適用し、可読性と形式の厳密さを両立させたテキストを提示します。
それから二週間ほど、私はずっと体の調子が優れなかった。 朝起きると、頭の芯がぼんやりと霞がかかったように重かった。食欲も落ちて、パート先で「顔色が悪いわよ」と心配されることが増えた。
「大丈夫? 少し痩せたんじゃない?」 休憩室で、同僚の佐藤さんが私の顔を覗き込みながら言った。「そうかな。ちょっと夏バテかも」 私は笑顔を作って答えた。 「旦那さん、心配してるでしょ」 「うん。すごく気遣ってくれてる。昨日も、栄養ドリンクとかサプリメントとか、いろいろ買ってきてくれたし」 「へえ、優しいのねえ」
佐藤さんは少し不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。 佐藤さんの目には、私がやつれているように映るらしい。けれど、私にはその自覚があまりなかった。むしろ、彼が私の体調を気にして、毎晩のようにハーブティーを入れてくれたり、マッサージをしてくれたりすることへの感謝の方が大きかった。
帰宅すると、リビングのテーブルにはまた新しい書類の束が置かれていた。 「おかえり。あ、そこ気をつけて」 彼がパソコンから顔を上げて言った。 私が足元を見ると、廊下の真ん中に掃除機が出しっぱなしだった。コードが蛇のように伸びている。 「ごめん、掃除の途中だったんだ」 「ううん、ありがとう。私がやるのに」 「いいよ。君は疲れてるんだから」
彼は優しく微笑み、手元の書類をトントンと揃えた。 「それより、これ。こないだ話した特約の追加分」 差し出されたのは、またしても保険の契約書だった。 入院保障の手厚いプランだ。死亡時の受取額も、以前のものより大幅に増額されている。
「もし君に何かあったら、僕が生きていけないからね」 彼は真剣な眼差しでそう言った。 「君はドジだし、最近ふらついてるだろ? 万が一のことがあっても、最高水準の医療を受けさせてあげたいんだ」 「……ありがとう」 胸が詰まった。 私の命に、これほどの価値を感じてくれているなんて。 私は震える手でボールペンを握り、指定された箇所に署名をした。字が少し歪んでしまったけれど、彼は満足そうに頷いてファイルに収めた。
「さ、今日はもう休みなよ。二階の寝室はエアコン効かせてあるから」 「うん」 私はふらつく足取りで廊下に出た。 薬のせいだろうか、視界が少し回った。 階段を上ろうとして、ふと足を止めた。
階段の踊り場――ちょうど足を踏み出す位置に、重そうな段ボール箱が二つ、積み上げられていたからだ。 中身は古雑誌だろうか。少し傾いている。 暗がりだと、つま先を引っ掛けてしまいそうな絶妙な位置だ。
(危ないなぁ……) 一瞬そう思ったけれど、すぐに思い直した。 彼は掃除をしてくれていたのだ。きっと、二階から雑誌を運び出そうとして、途中で電話か何かが鳴って中断したのだろう。彼がそんな中途半端なことをするのは珍しいけれど、私の体調を気遣って慌てていたのかもしれない。 手すりを掴む。 ぬるっ、とした感触があった。 「わっ」 手が滑りそうになる。 見ると、手すりの木枠にワックスのようなものが塗られていた。艶出しをしたのだろうか。まだ乾ききっていない。
(もう、彼ったら張り切りすぎだよ) 掃除をしてくれるのは嬉しいけれど、これじゃあ逆に危ない。 でも、文句を言ったら罰が当たる。彼は私のために、家事を代わってくれているのだから。 私は滑る手すりを避け、壁に手をついて慎重に階段を上った。
踊り場の段ボール箱を跨ぐ時、バランスを崩しそうになってヒヤリとした。 下のリビングから、彼が誰かと電話で話す声が聞こえてくる。 「……ええ、準備は順調です」 仕事の電話だろうか。楽しそうな声だ。
私は深く息を吐き、自分の不注意さを戒めた。 明日になったら、この段ボールは私が片付けよう。 手すりも、ちゃんと乾拭きしておかなくちゃ。彼が転んだら大変だ。 そう心に決めて、私は重い体を引きずるようにして寝室へと向かった。
その夜、私は喉の渇きで目を覚ました。 枕元の時計は午前二時を回っている。隣を見ると、ベッドは空だった。彼はまだ起きているのだろうか、と思った。
私は重い体を起こし、寝室を出た。 廊下は暗かった。 常夜灯のオレンジ色の光が、足元を頼りなく照らしている。 頭がふわふわと浮いているような感覚がある。夕食後に彼が入れてくれたハーブティーが、よく効いているのかもしれない。最近は薬を飲んでも眠れないことが多かったから、彼なりの気遣いが嬉しかった。
喉を潤すために、一階のキッチンへ行かなければならない。 私は手すりに手を伸ばした。 ひやりとした感触。 そして、ぬるりとした油のような滑り。 (あ、まだ乾いてなかったんだ) そう思った瞬間、足元の感覚が消えた。 スリッパの裏が、まるで氷の上に乗ったかのように滑ったのか、それとも何かを踏んでしまったのか。 あるいは――背中に、ふわりと風のような圧力を感じた。 「え?」 声を上げる間もなかった。 私の体は宙に投げ出されていた。
視界がぐるりと回転する。 天井。壁。手すりの影。そして、急勾配の階段の角。 痛みはなかった。 ただ、ゴガッ、という硬くて鈍い音が、頭蓋骨の奥で響いただけだ。 世界が明滅した。
次に気がつくと、私は冷たいフローリングに頬をつけていた。 体が動かない。指先一本動かせない。 それなのに、不思議と恐怖はなかった。ただ、ひどく眠い。
遠くで、誰かの声がする。 「……はい、そうです」 彼の声だ。とても落ち着いている。いつも通りの、頼りがいのある彼の声。 「階段から落ちて……ええ、打ち所が悪かったみたいで」
誰と話しているのだろう。救急車を呼んでくれたのだろうか。また迷惑をかけてしまった。 私のドジなせいで。彼に謝らなければならない。 「ごめんなさい」と言おうとしたけれど、口から空気漏れのような音がヒューと出るだけだった。
足音が近づいてくる。 コツ、コツ、コツ。 視界の端に、彼のスリッパが見えた。 彼は私の顔を覗き込んでいる。逆光で表情は見えない。でもきっと、心配そうな顔をしているに違いない。
「……計画通りです」 彼はポツリとそう言った。 計画? なんのことだろう。保険の見直しのことかな。それとも、次の休みの旅行の計画だろうか。 まあいいや。彼が計画してくれているのなら、きっと間違いはないだろう。
サイレンの音が近づいてきた。 赤色灯の光が、玄関の磨りガラス越しに回転しているのが見えた。 まぶたが重い。 意識が、インクを水に垂らしたように滲んでいく。 ああ、眠い。 このまま眠ってしまえば、明日の朝にはきっと頭痛も治っているはずだ。 そうしたら、また彼のために朝食を作ろう。 階段も掃除し直さなきゃ。
これからの生活のことを考えながら、私はゆっくりと目を閉じた。 記憶が途切れるその瞬間まで、私は明日のことを考えていた。
これは私が死んだ頃の話です。
最後のページをめくる音はしなかった。 彼女の指先が、原稿用紙の最下段、その最後の一行の上で凍りついたまま動かないからだ。 『これは私が死んだ頃の話です。』 明朝体で印字されたその文字列の先には、広大な余白だけが広がっている。 その余白の白さが、雪原のように彼女の体温を奪っていくようだった。
会議室の空気が、重く澱んでいた。 「…………」 彼女は、息をすることさえ忘れているようだった。 顔色は紙のように白い。 喉元が微かに痙攣し、何か言葉を発そうとして、けれど音にならずに飲み込んでいる。 恐怖というよりは、背後から不意に鋭利な刃物で刺されたような、深い衝撃がそこにあった。
僕はデスクに肘をつき、少しだけ身を乗り出して彼女の顔を覗き込んだ。 「……水、いる?」 僕の声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。 焦点が合うまでに時間がかかる。 彼女は今、現代の会議室ではなく、あのどこにでもある建売住宅の、冷たい階段の下に心を置き忘れていた。
「……先生」 掠れた声だった。 彼女は自身の首筋に手を当て、そこが繋がっていることを確認するように撫でた。 「今の……最後の……『頃』って……」 「ん?」 「死んだ、こと……。本人は、最後まで気づいてなくて……」 彼女はそれ以上、言葉を続けられなかった。 語り手は死んだ。 しかも、死んだ後もなお、自分を殺した相手を「優しい人」だと信じたまま、過去形として自分の死を語っている。 その構造の残酷さが、彼女の情緒をかき乱していた。
僕は視線を逸らし、手元のコーヒーカップの縁を指でなぞった。 「複数の事件のパッチワークだよ」 努めて事務的なトーンで言った。 「ニュースの断片、事故の記録、どこかの誰かの日記。それらを継ぎ接ぎすれば、こういう『ありそうな話』になる」
「ありそうな……」 「ああ。こういう人は、たぶんどこにでもいる。気づかないまま階段を降りて、気づかないまま終わっていく人がね」 突き放すような言い方だったかもしれない。 けれど、そう言わなければ、僕自身がこの物語の重力に引かれそうだった。 他人の不幸を切り貼りして、娯楽としてのホラーに仕立て上げる。その行為の醜悪さを、今回ばかりは強く自覚していたからだ。
ふと、視線を感じた。 彼女が、じっと僕を見ていた。 軽蔑の色はない。 あるのは、深く傷ついた子供のような瞳と、そして――そんな話を書かなければならなかった僕への、痛ましいほどの心配だった。
「……先生」 彼女は原稿の束を、宝物か何かのようにそっと胸に抱き寄せた。 まるで、その物語の中にいる、もう助からない「私」を温めようとするかのように。 「……こういう人、助けられる話も……いつか……」 消え入りそうな、けれど芯のある声だった。 「いつか、書いてくれますか」
それは、物語への注文であり、同時に僕という人間への祈りのようにも聞こえた。 人を殺す話ばかりではなく、人を救う話を。 君にはそちら側に行ってほしいのだと、彼女の潤んだ瞳が訴えている。
僕は一瞬、言葉に詰まった。 否定することは簡単だった。「ホラー作家だから」と笑って流すこともできた。けれど、目の前でこれほど真剣に傷つき、これほど真剣に願ってくれる相手に、それはあまりに不誠実だと思った。
「……善処するよ」 僕は短く答え、視線を窓の外へ逃がした。 「君が、最後まで読んでくれるならね」
彼女は少しだけ泣きそうな顔で笑い、それから力強く頷いた。 机の上には、救われない死者の手記。 けれど、それを挟んで向かい合う僕たちの間には、確かな体温が通っていた。
取材当日の朝、彼女は鏡の前で五度目のため息をついた。 オフィスの給湯室にある小さな鏡には、強張った自分の顔が映っていた。 紺色のジャケットに、白のブラウス。派手すぎず、地味すぎず、編集者として常識的な範囲の服装を選んだつもりだ。けれど、襟元のわずかなヨレや、髪の毛の一本のハネまでが気になって仕方がない。
「……大丈夫、ただ座っていればいいんだから」 自分に言い聞かせ、冷たい水で濡らしたハンカチを首筋に当てた。
会議室に戻ると、作家は窓際の席でコーヒーを飲んでいた。 彼はいつも通りだった。 黒のタートルネックに、いつものスラックス。髪はセットした形跡すらなく、それでいて自然な無造作ヘアとして完成されていた。
「落ち着かない?」 彼がカップを置き、悪戯っぽく微笑んだ。 「……吐きそうです」 「大袈裟だな。ただのインタビューだよ」 「先生は慣れてるからいいですけど、私は裏方ですから」
彼女が文句を言いかけたその時、インターホンが鳴った。 びくり、と彼女の肩が跳ねる。
「はい、どうぞ」 彼がリモコンキーを押すと、ドアが開き、機材を抱えたスタッフたちが雪崩れ込んできた。 「おはようございます! 本日はよろしくお願いします!」 ディレクターらしき男性の快活な声。カメラマン、音声、照明。総勢五名の男たちが、狭い会議室を一瞬で占拠していった。
「機材、奥に置かせてもらいますね」 「あ、照明はここから当てます」「窓のブラインド、閉めてもらっていいですか?」 テキパキと指示が飛び交う。 彼女は居場所をなくし、部屋の隅で小さくなっていた。自分たちの聖域だった静かな会議室が、無遠慮な足音と金属音に侵食されていく。 銀色のスタンドが立てられ、眩しいLEDライトが点灯した。 見慣れたデスクが、まるで手術台のように白く照らし出される。
「じゃあ、お二人にピンマイク付けますね」 音声スタッフが、黒い小さなマイクと送信機を差し出した。 「あ、はい……」 彼女は慌てて受け取った。 コードを服の下に通し、送信機を目立たない場所――腰のあたりに固定しなければならない。 ジャケットの裾をめくり、ブラウスの下にコードを通そうとするが、緊張で指が震えてうまくいかない。クリップが滑り、コードが絡まる。 「すみません、ちょっと……」 焦れば焦るほど、指先が冷たくなっていった。 スタッフたちの視線が痛い。
「貸して」 不意に、目の前に彼の手が伸びてきた。 「えっ」 「後ろ向いて」
彼は自然な動作で彼女の手からマイクを取り上げた。 彼女が反射的に背中を向けると、背中に温かい感触があった。彼の手が、ジャケットの裾からスッと入り込み、コードを器用に引き上げる。 触れるか触れないか。 その絶妙な距離で、彼の手指が彼女の背骨に沿って動く。
「っ……」 彼女は息を止めた。 「襟元、少し開けて」 耳元で囁かれる。 彼女が襟を引くと、彼の手が前から回り込み、クリップをブラウスの襟にパチンと止めた。 「はい、これでいい」 あまりに手慣れた、流れるような動作だった。
彼が離れると、一瞬だけ背中が寒くなる。 「……あ、ありがとうございます」
彼女が赤くなって振り返ると、会議室の空気が奇妙に静まり返っていた。 ディレクターが、台本で口元を隠しながら、カメラマンと目配せをしている。 音声スタッフは、マイクのテストをするふりをして視線を逸らした。 誰も口には出さないが、その沈黙は雄弁だった。
『なんだ、この距離感は』 『ただの仕事仲間にしては、随分と……』 そんな「察し」の空気が、強力なライトの光よりも濃厚に漂っている。 彼女だけがそれに気づかず、まだ赤面したまま送信機の位置を直していた。 彼は何食わぬ顔で、自分の席に座り直している。
「では、お二人とも準備よろしいでしょうか」 ディレクターが咳払いを一つして、空気を切り替えた。 「そろそろ本番、回していきます」
「――では、作風の変化について。初期の頃に比べて、最近の作品は少し……なんと表現すべきか、読後感が柔らかくなったという声がありますが」 ディレクターが台本を見ながら質問を投げかけた。 カメラのレンズが、黒い目のように彼を見つめている。 彼は組んだ脚の上で指を軽く合わせ、少し考える仕草をした。
「そうかもしれませんね」 彼は穏やかな声で答えた。 「以前は、読者をただ怖がらせること、突き落とすことだけを考えていました。でも最近は……そうですね。恐怖の先にある、人の弱さや、それを守ろうとする意志のようなものに興味が移ってきたのかもしれませんね」
パイプ椅子に座って横で聞いていた彼女は、思わず膝の上で拳を握りしめた。 顔が熱い。 カメラには映らない位置だが、彼の視線がチラリとこちらに向けられた気がしたからだ。 彼が「恐怖の先」と言った時、彼女の脳裏には、あの毒殺劇の結末や、辻斬りの原稿を読み終えた時の会話が蘇った。 (……私のせいだ) 自意識過剰かもしれない。けれど、彼が筆を緩めた瞬間の、あの「君が読むから」という言葉が、呪いのように耳に残っている。
「担当編集者の田中さんは、どうですか?」 不意に話を振られ、彼女は弾かれたように顔を上げた。 「は、はいっ!?」 「田中さんは、かなり怖がりだという噂を聞きましたが」 ディレクターがニヤリと笑う。 「あ、ええと、それは……その……」 彼女はしどろもどろになった。ホラー担当としてあるまじき弱点だった。なんと答えれば正解なのか。
「彼女の感性は、とても重要なんです」 助け舟を出したのは彼だった。 彼は自然に体を彼女の方へ向け、カメラの画角に二人きりの空間を作り出した。 「僕が理詰めで組み立てた恐怖が、生理的に『怖い』かどうか。彼女の反応は、そのリトマス試験紙として一番信頼していますから」 「はあ、なるほど。信頼関係ですね」 ディレクターが満足げに頷く。 しかし彼女は、信頼という言葉だけでは説明できない、もっと個人的な温度をその言葉に感じてしまい、ただ赤面して俯くしかなかった。
「はい、カット! 次は執筆風景、インサート撮ります!」 場面転換。 彼がデスクに向かい、万年筆を走らせるシーンの撮影だ。
「田中さん、先生の後ろから原稿を覗き込む感じでお願いします。打ち合わせしてる雰囲気で」 「あ、はい」 彼女は彼の背後に立った。 カメラが斜め前方から狙っている。 邪魔になってはいけないと、少し距離を取って立っていると、彼がくるりと椅子を回転させた。
「遠いよ」 彼は苦笑して、自分の椅子の隣――というより、ほとんど肘掛けが触れ合う位置をポンと叩いた。 「こっちに来て見たほうが早い。細かい字が見えないだろう?」 「え、でも……」 「カメラ、回ってるから」 その一言で、彼女は抵抗できなくなった。
おずおずと彼の隣に並ぶ。 彼の肩と、自分の肩が触れた。 ペンの走る音が、すぐ耳元で聞こえた。 インクの匂いと、彼自身の整った体臭が混ざり合い、思考が真っ白になる。
「いいですねー! その距離感、すごくいいです!」 カメラマンが興奮気味にシャッターを切る音が、まるで心拍のようだった。
休憩時間。 緊張の糸が切れたのか、彼女はペットボトルの水を飲もうとして、手元を狂わせた。 「あ……っ!」 キャップが指から滑り落ち、ボトルが傾く。 水がデスクの上の原稿――ダミーの紙束――にかかる、その直前だった。
ガシッ。 横から伸びてきた彼の手が、彼女の手ごとボトルを掴み、寸前で止めていた。 「……っと。危ない」 彼の顔が、すぐ目の前にあった。 覆いかぶさるような体勢。 彼の手のひらが、彼女の手を包み込んでいる。 体温が直接伝わってくる。 「あ……す、すみません……!」 「大丈夫? 濡れてない?」 「はい、大丈夫です……!」
彼女はさっと手を離し、飛び退くように距離を取った。 心臓が早鐘を打っている。 今の動きは、反射神経というにはあまりに自然で、そして――近すぎた。 仕事相手にする接触ではない。 彼女は自分の顔が火のように熱いのを感じながら、必死に「業務上のミス」として処理しようと顔を伏せた。
「はい、今のいただきましたー」 遠くで、ディレクターが小さな声で呟いたのが聞こえた。 「……え?」 彼女が顔を上げると、スタッフたちはニヤニヤしながらモニターをチェックしている。 「いい画(え)、撮れましたねえ」 「ええ、これは使えますよ」
何が「いい画」なのか、彼女には分からない。いや、分かりたくなかった。 ただ、隣で彼が「やれやれ」といった様子で、しかし決して不機嫌ではない顔で肩をすくめているのを見て、言いようのない不安がこみ上げてきた。
「はい、本日は以上で終了です! お疲れ様でした!」 撤収作業が進む中、ディレクターが満面の笑みで二人に頭を下げた。 「素晴らしい素材がたくさん撮れました。オンエアは来月の第二金曜です。ご期待ください!」
「ありがとうございました」 彼は涼しい顔で握手を返している。 彼女も慌てて頭を下げたが、胃の奥がキリキリと痛んだ。
(……放送されるの? これ……) ホラー作家のドキュメンタリーのはずだった。けれど、今日一日を振り返ってみても、そこに「恐怖」があった気がしなかった。 あったのは、近すぎる距離と、甘すぎる空気と、それを隠そうともしない彼の態度だけだ。 彼女は去っていくロケバスの背中を見送りながら、完成した番組を見ることへの恐怖に、ある意味で怪談以上の戦慄を覚えていた。
『金曜ドキュメント・書き人(かきびと)の肖像』 画面右上に半透明のロゴが浮かび上がる。 重厚なチェロの旋律と共に、ナレーターの低い声がリビングに響く。 『今夜の主人公は、現代怪奇小説の旗手。その筆先から生まれる戦慄は、なぜこれほどまでに人々を惹きつけるのか。我々は、その創作の“源泉”に密着した』
画面が切り替わる。 モノクロームの映像で、万年筆が紙の上を走るアップ。 そして、その横顔。 『孤独な作業だと思われがちな執筆。しかし、彼の隣には常に、“ある人物”の存在があった』 カメラがパン(横移動)すると、少し離れた場所に座る女性――担当編集者の姿がフレームインする。 彼女は緊張した面持ちで、原稿をチェックしている。 画面下部にテロップが出る。 【担当編集・田中さん(20代) 彼の一番の理解者】
映像は、取材当日の準備シーンへと移った。 早回しの映像で機材が運び込まれる中、音声スタッフがマイクを渡す場面。 そこで映像がスローモーションになった。 『本番直前、思わぬハプニングが』 ナレーションが煽る。
画面の中、コードに手間取る田中の手元に、作家の手が伸びる。 ピアノのBGMが、少しだけテンポの速い、軽やかな曲調に変わった。 作家が彼女の背中に手を回し、マイクをセットする。 その瞬間、画面が「カシャッ」というシャッター音と共に静止画になり、さらにズームアップされた。 二人の顔の距離。 触れ合う指先。 そこに、ピンク色の文字でテロップが踊る。 【距離感、近くないですか!?】 スタジオのワイプ画面(小窓)に映るタレントたちが「わー!」「えー、キャー!」と手を叩いて笑っているのが見える。
場面はインタビュー映像へ。 作家が穏やかに語っている。 『――恐怖の先にある、人の弱さや、それを守ろうとする意志のようなものに興味が移ってきたのかもしれません』 その言葉の直後、カメラは素早く隣の田中を抜いた。 彼女が膝の上で拳を握り、耳まで赤くしている様子が大写しになる。 そこに、作家の声をリフレインさせる編集が入る。 『守ろうとする意志――』 『(守ろうとする意志――)』 画面には、意味深な明朝体のテロップ。 【その“守りたい人”とは……?】
映像としての文脈が、完全に固定されていた。 怪奇作家の創作論ではない。これは、不器用な編集者へのラブレターとして再構成されている。
続いて、執筆風景の撮影シーン。 彼が椅子をくるりと回転させ、手招きをする。 田中がおずおずと近づき、彼のすぐ隣に並ぶ。 二人の肩が触れ合い、彼が原稿を指差しながら何かを囁く。 田中が何度も頷き、そしてまた顔を赤らめる。 画面には、SNS風の吹き出しコメントが次々と流れる演出が加えられている。 『尊い』 『これは仕事なのか?』 『完全に二人の世界』 『ホラー作家なのに砂糖吐きそう』 ドキュメンタリー特有の「真実を映す」という建前が、この甘い空気を決定的な事実として補強していく。
そして、極めつけの休憩シーン。 田中がペットボトルを取り落とそうとする瞬間。 作家の手が横から伸び、ガシッと彼女の手ごとボトルを掴む。 スローモーション。 互いの視線が交差する一瞬。 重なる手と手。 BGMがクライマックスのように盛り上がり、画面がキラキラとしたエフェクトで縁取られる。 テロップ:【阿吽(あうん)の呼吸。支え合う二人。】 もはや言い逃れのできない映像暴力だった。 偶然の事故が、必然のロマンスへと編集されている。
『彼は言う。恐怖は、人と人の間に生まれるのだと』 エンディングに向けて、ナレーションが総括に入る。 夕暮れのオフィス。 取材を終えた二人が、並んで窓の外を見ている後ろ姿。 逆光でシルエットになった二人の影は、一つの塊のように溶け合って見える。 『その距離が近づくたび、怪談は優しくなる。彼の書く物語が変化したのは、あるいは……その距離が変わったからなのかもしれない』
画面中央に、番組タイトルが再び浮かび上がった。 タイトルは【書き人の肖像 ~恐怖と愛の境界線~】だった。 エンドロールが流れ始め、提供スポンサーのロゴが白く重なる。 二人の後ろ姿がフェードアウトした。最後は彼が万年筆を置く音――コトッ、という静かな音で番組は終了した。 『――続いては、CMのあと、天気予報です』 無機質なアナウンスと共に、画面はビール会社のCMへと切り替わった。
プツン、という電子音と共に、画面の中の光が消滅した。 黒くなったテレビの液晶に、並んで座っている自分たちの輪郭が薄っすらと映り込んでいた。 リビングのようなセットが組まれた会議室の隅で、彼がリモコンをローテーブルの上に置いた。 カタリ、という硬質な音が、静寂を取り戻した部屋に響く。 「…………」
彼女は、膝の上で握りしめた自分の拳を見つめたまま、微動だにできなかった。 顔が熱い。 いや、顔だけではない。首筋から耳の裏、指先に至るまで、全身の血液が沸騰しているようだった。 さっきまで画面の中を流れていた、スローモーションの視線や、意味深なテロップ。それらが網膜に焼き付いて離れない。 恐怖映像を見た時の寒気とは対極にある、どうしようもない熱量。 自分の無意識の仕草が、彼の何気ない優しさが、あんなふうに切り取られ、全国に電波として撒き散らされた。
あれはもう、弁明の余地がない。 「……思ったより、派手な味付けだったね」 彼が、気まずそうに、けれどどこか楽しげな響きを含んだ声で言った。 「編集の魔法というか、なんというか。……怒ってる?」 「……怒って、ません」 彼女は蚊の鳴くような声で答えた。
怒れるはずがなかった。 画面の中の自分は、誰が見ても明らかだったからだ。 怯え、頼り、そして彼に触れられるたびに、分かりやすく動揺していた。あれを「仕事仲間です」と言い張るのは、幽霊を「見間違いです」と言うよりも無理がある。
「ただ……あんなの、知らなかったです」 「あんなの?」 「あんなふうに、映ってるなんて。私、必死だったから……」 彼女はそこで言葉を切った。 必死だった。怖がりな自分を隠そうと、彼の足を引っ張らないようにしていた。 けれど、その必死さが、彼という重力に引かれて、どれほど無防備な表情を晒していたのか。それを他人の目線で見せつけられた衝撃は、どんな怪談よりも心臓に悪い。
ふと、隣の彼が姿勢を変えた気配がした。 ソファの布地が擦れる音。
「……嫌だった?」 短く、静かな問いだった。 彼女は弾かれたように顔を上げようとして、途中で止めた。 彼の顔を直視するのが怖かった。 でも、その声のトーンは、いつもの意地悪な調子ではなく、ひどく慎重で、確認するような響きを帯びていた。
もしここで「嫌でした」と言えば、彼は笑って「次は気をつけさせるよ」と言うだろう。そして、あの物理的な距離は、また元の「作家と編集者」の安全な位置まで引き戻される。 それは、正しいことだ。 仕事としては。 でも。
彼女は、膝の上の拳をゆっくりと開いた。 掌(てのひら)には、じわりと汗が滲んでいる。 「……嫌じゃ、ないです」 絞り出すような声だった。 「びっくり、しましたけど……でも……嘘じゃ、なかったから」
最後の言葉は、自分でも驚くほど素直に出た。 画面の中で、彼の手が彼女を支えたあの瞬間。そこに映っていた安堵と信頼は、紛れもない真実だった。
彼女は、逃げるように視線をテーブルの上へ落とした。 そこには、黒いリモコンが置かれている。 二人の間を隔てるように転がっていた、無機質な棒。 彼の手が、不意に伸びた。 彼がリモコンを掴み、そっとテーブルの端――二人の間から外れた場所へと寄せた。 コトッ。
障害物がなくなったソファの上で、彼との距離が、物理的に遮るもののない空間として繋がる。 「……そう」 彼が小さく息を吐いたのが分かった。 「なら、よかった」 安堵の息遣い。 それだけで、十分だった。
もう、画面の中のテロップも、ナレーションも必要ない。 ここにあるのは、恐怖におののく編集者と、それを驚かす怪奇作家ではない。 ただ、互いの体温を感じ取れる距離に座る、一人の男と女がいるだけだ。
彼女はようやく、そっと顔を上げた。 目が合う。 彼は困ったように、でも優しく微笑んでいた。 そこにはもう、人を突き落とすための計算された冷たさは微塵もない。
恐怖は、人と人の間に生まれる。 その距離がゼロに近づいた時、そこに残るのは、きっと怪談ではなく――。 彼女は赤くなった頬を隠すことも忘れ、彼を見つめ返した。 部屋の照明が、二人を柔らかく包み込んでいた。
怪奇作家の恋愛事情 伊阪 証 @isakaakasimk14
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