魔術師は恋ができない

野田御文

1

 職場を退勤すると、すでに街の明かりはまばらだった。冷たい風が頬を刺して、結城深璃ゆうきみりはマフラーを鼻あたりまで引き上げた。

 毎日同じ顔ぶれ、同じ業務。勉強から仕事に変わっただけで、変わりばえしないルーチンが続くのは同じはずだ。みんな仲良くなんて幻想だし、そんなことは学生時代から分かっていた。

 泣きたいほど辛いわけじゃない。それなのに、職場で毎日のように浴びる小さな言動の棘がジャブのように心を弱らせていく。目に涙の膜が張っていくのが分かって、深璃は勢いよく顔を上げた。

 駅までの道は、終電間近なこともあって人通りもない。泣いてしまったって構わないと思うのにそれすらできない。

 素直で真面目なだけでは、どうやら社会では通用しないらしいと気付いたのは、就職活動が始まってしばらく経ってからだった。

 さいわいにして学業は嫌いではなかった。公式や年号を覚えたりするのは得意ではないけれど、どうしてその公式ができたのかや、教科書には載らない歴史上の人物の人となりなどに知識を広げることは楽しかった。

 大学に入ると、直接卒業には影響しない授業も受けるほど興味の幅は広がった。4年次のぎりぎりまで1限から4限まで詰まった授業数には友人達も首を傾げるほどだった。

 けれど勤勉さや知識は、堂々とした立ち振る舞いやコミュニケーション能力に比べれば、社会では何の評価も与えてくれはしない。

 深璃にノートを借りてばかりだった学部生が、バイトに明け暮れていた友人が、2つ、3つと内定を勝ち取っていく。

 置いてけぼりの状況の中、辛うじて引っかかった中小企業の事務員が、今の深璃の肩書きだった。最低賃金に近い基本給に、終電ぎりぎりまでの残業。仕事を早く終わらせようと努力すれば、その分誰かのしわ寄せがやってくる。おかげで最近は休日の読書すらままならず、ベッドに倒れ込んだまま機械音声が分かりやすく話す雑学動画を垂れ流して1日が終わる日々だった。

 頼られるとはっきり断れなくて、なし崩しに了承してしまう自分にも問題があるのは分かっている。それでも今日の上司からの発言はあんまりだった。


「なんで終わってないの、って……。手持ちの仕事が多いって言ったのに無理やり押し付けたのはそっちじゃんか」


 小さく呟いた愚痴は、白い息となって空気に消えていく。このまま虚しさも悲しみも全部大気に溶けて消えていってくれればいいのに。

 ことの始まりは、同じ部署の先輩からの業務の押し付けだった。自分の業務を終え、久しぶりの定時退社ができそうだとデスクに広げた水筒をしまっていると、隣デスクの先輩から声をかけられた。


「結城さん、もう仕事上がり?やば!私、持ってる仕事全然終わんなくて。今日、どうしても抜けられない用事あるのに帰れそうにないの。どうしよう、超困る!」


 最初こそ適当に受け流して帰ろうと思っていた。

 けれど、あまりにも横のデスクで困った、終わらない、もうすぐ時間が来てしまうなどと言われ続けると、困っている彼女を置いて帰社することに罪悪感を覚え始めた。正直、横で聞かされる愚痴のBGMに耐えかねたのもある。そんな流れで結局、業務の分担を申し出てしまった。

 彼女の直接ではない業務への愚痴は、いつしか当たり前のように分担依頼に代わり、今ではよろしくと丸投げれる始末だ。

 上司に相談したけれど「結城さんは仕事早いもんね。真面目だし。ほんと助かってるよ」と解決する気のない口先だけの労いに終わってばかりだった。

 じわじわと業務の負担が増え、深璃がパソコンの画面と睨めっこしているのを尻目に先輩が退社するのが常になった頃、大きめの案件を上司から持ち掛けられた。

 名目上、仕事のできる新人を引き上げたいという理由だったけれど、体よく押し付けられる犠牲者が他にいなかっただけなのは深璃にも分かった。

 手持ちの業務が多いことを理由に断ったが押し通され、挙げ句言われたのが「なぜ終わっていないの、僕が上に怒られちゃうんだけど」とはどういった了見なのか。

 部下の言葉をきちんと聞かず、無茶な業務量を割り振る管理能力のなさにも、自己保身にしか意識が回らない責任感のなさにも腹が立つ。

 そんな人間が平気で評価され、上に行って自分より高い給料を支払われるのが会社という組織なのだということがむなしかった。

 先輩のように仕事を押し付けて楽をする人間と自分は同じ価値として扱われていることも、おそらく社会で楽に生きていけるのは先輩のような人間なのだということも悔しかった。それは、深璃が生きてきた人生で重きを置いてきた価値観が馬鹿を見るのだという証左だった。

 だけど、どうしたらよくなるか分からない。よりよく生きようと努力しているのに、その努力は一向に報われる気配はなくて、自分が進んでいる方向が正解に向かっている途中なのか、努力の方向をずっと間違えているのかさえ見えない。


「どこか、違う。誰も、私を知らないところに行きたいな」


 ふと、以前動画で流れてきた異世界へ行く方法を思い出す。

 オカルト界隈では、東京の駅にある盛り塩を蹴れば異世界へ行けるとか、エレベーターを決まった順番で止めれば異世界に行けるとか、そんな噂が語られている。その中に、「飽きた」というものがあった。確か、六芒星の中に飽きたと書いて、その紙を持って眠ると異世界へ行けるというものだ。

 盛り塩を蹴るなんて罰当たりだし、エレベーターの順番はやり方が複雑だけれど、「飽きた」ならできそうだ。

 玄関の鍵を開け、カバンとマフラーを床に落とす。コートをハンガーにかけ、水筒は水につけただけでもえらいと、なけなしの自己肯定感を上げる。


「あれ、飽ってどんな字だっけ……」


 頭が空転してとっさに漢字が出てこない。少し考えたけれど、すぐに、なんだっていいやと思いなおした。

 こんなものはただの気休めで、疲れた心をなぐさめるための遊びなんだから。

 メモ用紙にボールペンで六芒星を書いて、その中に「アキタ」と書く。

 床に座り込んだら、もう立ち上がる気力もわかなくなってしまった。立ち上がるためにベッドにひじを置くと、布団のやわらかな触感に反射的に顔をうずめてしまう。せめて化粧くらいは落とさないとと、まどろみの中で思いながら、深璃の意識は静かに沈んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月16日 19:00

魔術師は恋ができない 野田御文 @sue0303

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ