人間の間からこぼれ落ちて
@zeppelin006
人間の間からこぼれ落ちて
その朝、目が覚めたとき、違和感はもう当たり前になっていた。
スマホは鳴らない。通知も来ない。
ニュースアプリを開いても「サーバーに接続できません」の文字が出るだけだ。
外に出る。
マンションの廊下。エレベーター。エントランス。
どこにも人の気配はない。
あの日から、ずっとだ。
最初の三日間は、事故か大規模停電かテロだと思っていた。
十日目くらいで、「これはそういうレベルの話じゃない」と悟った。
店はそのまま。車は道路に停まったまま。信号は点いたり消えたりを繰り返している。
けれど、人だけがいない。
世界から、人間だけが、ごっそり抜け落ちたみたいだった。
食料は、まだ残っている。
最初のうちは、現金をレジ横に置いていったけど、やめた。意味がない。
冷凍食品、カップラーメン、ペットボトルの水。
賞味期限を確認しながら、必要なぶんだけ持って帰る。
電気もガスも、水道も、なぜか止まらない。誰が管理しているのかは分からない。考えるのは、もうやめた。
ひとりになって、どれくらい経っただろう。
最初はスマホのカレンダーで日数を数えていたけど、途中でやめた。
「〇日目」とか、「××時間経過」とか、そんなものを追いかけていたら、余計に頭がおかしくなりそうだった。
今はただ、朝になったら起きて、何かを食べて、街を歩き回る。
誰かがいないか探す。
夕方になったら、マンションに戻る。
それだけの日々だ。
成果は、ゼロだった。
叫んだこともある。
高架下で、河川敷で、公園の真ん中で。
「誰か!」と声が枯れるまで叫んでも、返ってくるのは自分の反響音だけだ。
ビルのガラスが、俺の姿を映している。
そこには、ちゃんと一人の人間がいる。
けれど、その人間がいることを、世界の誰も知らない。
ある日、繁華街の本屋に立ち寄った。
自動ドアはまだ開く。
無人の店内。雑誌コーナー。ビジネス書。自己啓発本。
「人間とは」「つながりとは」「社会とは」
そんな言葉が並んでいるのが、妙に腹立たしかった。
人間は「人」と「間」と書く。
小学生の道徳か何かで、そんな話を聞いた気がする。
人と人との間に生きるから、人間。
誰かと関係を結ぶことが、前提の生き物。
じゃあ、今の俺はなんだ。
人と人とのあいだに、落ちてしまった何かじゃないか。
どちらからも届かない、中途半端な隙間。
誰からも認知されず、俺も誰を認知できない。
そういう「間」に、すっぽり沈んでしまったのだとしたら?
……そんなことを考え始めた瞬間、自分が急に「人間じゃないもの」になったような気がした。
だって、人間じゃないだろう。
誰とも話さず、誰とも触れ合わず、誰の名前も呼べず、呼ばれず。
ただ、空っぽの街を歩いて、コンビニの棚から勝手に食料を取って生きているだけ。
それはもう、幽霊かバグか、どっちかだ。
その夜、部屋に戻っても眠れなかった。
ベッドの上で天井を見つめながら、ゆっくりと一つの結論が浮かんできた。
――終わらせても、いいんじゃないか。
もう十分、生きたんじゃないか。
誰かに惜しまれることもなく、誰かを悲しませることもない。
葬式もいらない。職場も、とっくに消えている。
この世界に、俺の「穴」は、最初から存在していなかった。
じゃあ、消えても大丈夫だろう。
そう思ったら、変に静かに、納得してしまった。
◇ ◇ ◇
夕方、いつもより高いビルに向かった。
駅前の再開発地区にある、二十何階建てのオフィスビル。
一階のエントランスは施錠されていたけれど、裏手の搬入口が半開きになっていて、そこから入れた。
非常階段をひたすら登る。
鉄の手すりを握る手に、じんわり汗がにじむ。
途中で何度か立ち止まり、息を整える。
心臓がうるさい。
これから止めに行く臓器が、今は全力で働いているのが、なんだかおかしかった。
最上階まで行くと、小さな扉と、屋上と書かれたプレートがあった。
押してみる。
重い音を立てて、扉が開いた。
屋上は、思ったより狭かった。
コンクリートの床。給水塔。空調の大きな箱。
その周りを囲むように、腰くらいの高さのフェンス。
ところどころ錆びていて、触るとざらついている。
フェンスの向こう、足元には、街が広がっていた。
ビル。道路。小さな公園。
どれも静かで、動かないジオラマみたいだ。
空は、ちょうど夕焼けの色になりかけていた。
低い雲の端が、オレンジと赤に染まりつつある。
その向こうで、丸い太陽が、ゆっくりと沈みかけている。
フェンスに手をかける。
ここを越えれば、たぶん、一瞬で終わる。
落ちていく間に何かを考える余裕なんて、きっとない。
俺は、フェンスの鉄パイプをつかんだまま、足をかけようとして――やめた。
怖くなったから、じゃない。
少しだけ、太陽がまぶしかったからだ。
オレンジ色の光が、目に刺さる。
思わず目を細める。
それでも、視界から追い出せなくて、じっと見つめてしまう。
……綺麗だ、と思った。
綺麗だ、なんて。
そんな感想を抱く余裕がまだあることに、自分で驚いた。
俺は今、死のうとしている。
この世界から降りようとしている。
なのに、太陽が綺麗だとか、夕焼けがどうだとか、そんなことを考えている。
馬鹿みたいだ。
でも――。
でも、それってつまり、俺はまだ「綺麗」とか「まぶしい」とか、そういうものを感じる身体を持っているってことだろう。
風が吹く。
フェンスの隙間から、冷たい風が頬を撫でる。
髪が揺れる。腕の産毛が逆立つ。
肺に空気を吸い込む。
胸が膨らんで、少し苦しくなって、またしぼむ。
心臓はまだ、うるさく動いている。
足の裏が、コンクリートの硬さを伝えてくる。
膝がわずかに震えているのは、恐怖か、疲労か。
全部、物質だ。
全部、物理現象だ。
人間は「人」と「間」でできている――そう教わった気がする。
けれど、それはきっと、半分しか合っていなかったんだろう。
俺は、他人の間からこぼれ落ちた。
家族も友人も、職場も、SNSも、全部どこかに消えてしまった。
「間」にぶら下がっていた糸は、全部切れた。
でも、それで俺の全部が消えるわけじゃない。
俺にはまだ、皮膚があって、血が流れていて、骨があって、腹が減る。
喉が渇くし、寒ければ震えるし、太陽が目に入れば、まぶしいと感じる。
「間」の外に落ちたとしても、俺自身はまだ、「物」としてここにある。
人間は、もっと物質的なものだろう。
そんな当たり前のことを、どうして今まで忘れていたんだろう。
俺は、人と人との間にある関係を失って、それを「人間であることの終わり」だと思っていた。
けれど、違う。
関係を失っても、俺の身体は勝手に生きている。
脈は打ち、細胞は分裂し、筋肉は働き続ける。
生きているってことは、つまり、こうやって太陽の光を浴びて、風を感じて、足場の固さを確かめられるってことだ。
誰かが見ていようがいまいが、関係ない。
俺は、俺の感覚の中で、ちゃんと存在している。
そう考えたら、急にフェンスの向こうが、もったいなく感じてきた。
今、ここから飛び降りたら、この夕焼けを感じる身体ごと消えてしまう。
太陽の眩しさも、風の冷たさも、二度と味わえなくなる。
この世界に、俺という感覚器が一個減る。
それって、なんか、損じゃないか。
「生きる意味」とか「存在意義」とか、そんな大きな言葉に振り回されていたけれど、
今この瞬間だけ切り取れば、もっと単純でいいんじゃないか。
――俺は今、太陽が綺麗だと思っている。
それだけで、今ここにいる理由としては、十分なんじゃないか。
フェンスから、ゆっくり手を離す。
とたんに、指先がじんじんとしびれた。
握りしめていたせいかもしれないし、緊張が抜けたせいかもしれない。
屋上から見下ろす街は、さっきまでよりも、少しだけ色が濃く見えた。
ビルの壁のグレーにも、微妙な違いがある。
道路の白線は、ところどころ剥がれている。
公園の木の葉は、風に揺れて、夕陽を反射していた。
今まで「死んだ世界」だと思って見ていた景色が、
急に、ざわざわと動き始めたように感じた。
誰も歩いていないはずの歩道に、
まだ消えていない熱の気配がある。
信号機は、誰に向かっているのか分からないのに、律儀に赤と青を繰り返している。
自販機は、ボタンを押せば缶コーヒーを出してくれるだろう。
その缶を開ければ、温度と匂いを感じることができる。
世界は、俺が思っていたよりも、ずっと「生きて」いた。
人間がいなくても、太陽は昇るし、風は吹くし、雲は流れる。
そして、その中に一人だけ、まだ「俺」という人間が残っている。
人間の「間」から落ちたのかもしれない。
でも、物質としての「人」としては、まだ続いている。
だったら、その続きに何が起こるのかを、最後まで見届けてやってもいいんじゃないか。
フェンスから離れて、屋上の真ん中まで戻る。
その途中で、膝が少し笑った。
腰が抜けたみたいに、その場にしゃがみ込む。
しばらく、ただ座って、夕焼けを眺めた。
太陽がビルの向こうに隠れて、だんだん空の色が薄くなっていく。
オレンジから、紫へ。やがて、濃い青へ。
暗くなるのが、少しだけ惜しく感じた。
――まだ、見たい。
そう思った。
明日の朝、太陽が昇るところも。
夜の街で、自動販売機の光がやたらまぶしく見える瞬間も。
冬になって、空気が針みたいに冷たくなる感じも。
全部、俺の身体で確かめてからでも、遅くはないだろう。
ゆっくり立ち上がる。
屋上の扉に向かって歩き出す。
非常階段を降りながら、俺は自分の靴音を数えた。
一段、二段、三段。
そのたびに、膝にかかる衝撃が、俺に教えてくる。
――お前はまだ、生きている。
誰もいない階段に、その感覚だけが、確かに響いていた。
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