全ての波形は、やがてノイズになる

不思議乃九

全ての波形は、やがてノイズになる

**感情のサンプリングと再構築**


小説という名のトラックを組むとき、俺はまず、情緒という概念を、ただの音源ファイルとして扱う。


誰かの日常に見えるもの、例えば、窓ガラスに溜まった霧、乾いたアスファルトの匂い、遠くで鳴る踏切の音。

これらは、ローファイな環境音として切り出す。


その波形には、生活の微細なノイズが乗っていて、それは、そのまま「生」のリアリティのサンプリングだ。



そして、それとは別に、自分自身の内側から湧き出る、制御不能な感情の塊。


胸の奥がキュッと締め付けられる一瞬の「切なさ」。

それは、ただの純粋なサイン波として抽出し、極度に歪ませて(ディストーションをかけて)扱う。


「絶望」は、低音域を支配する、サスティンの長いベースラインとして配置する。



俺にとって、全ての感情や概念は、その由来や意味を問わない素材だ。



「愛」という波形をサンプリングしたとする。


それは、誰かとの優しい記憶から切り取られた、甘いヴォーカル・ループかもしれない。

だが、俺がそのヴォーカルを逆回転させ、テンポを極端に落とし、さらにリバーブを深くかけるとき、その波形がかつて持っていた「愛」という情緒的な意味は、完全に消滅する。


残るのは、ただ音としての構造だ。



俺は、小説を、この構造の美しさのために作っている。


情緒的な意味を消滅させた波形を、誰も予想しない新しいテンポとリズムに乗せ、再構築する。



誰かの孤独というローファイな環境音のループの上に、俺自身の制御不能な切なさから抽出した、歪んだサイン波を、静かに重ねていく。


それが、読者に「切ない」と感じさせるのだとしたら、それは、感情の波形が持つ本来の意味が、俺の技術によって、新たな、そしてより純粋な構造として再定義された瞬間だ。



全ての創造は、このサンプリングと再構築によって説明がつく。


俺たちが何かを「無から」生み出すという幻想は、もう終わった。


俺たちは、世界という巨大なライブラリから素材を選び、それを切り刻み、編集し、そして俺という人間の孤独なミキシングボードの上で、新しい秩序を与えるだけだ。



しかし、この理論には、唯一、説明がつかないノイズがある。



それは、俺が、その音源を「選んでしまう」という行為に付随する、極めて個人的な衝動だ。



なぜ、何千もの波形の中から、あの「切なさ」のサイン波を、俺は歪ませてでも、トラックのフックに採用してしまうのか。


なぜ、あの窓ガラスの「霧」という環境音に、俺の指は勝手に触れてしまうのか。



これは、理論や技術では説明できない、波形の選択に内在する、感情の残り香だ。


俺が排除しようとした、感情という名の幽霊。



俺は、すべての概念を素材として扱い、情緒を構造に還元しようとしている。


だが、その還元しようとする行為そのものが、俺自身の制御不能な情緒によって駆動されているのだとしたら?



俺がビートメイクをしているのではない。


俺自身の未消化の情緒が、ビートメイクという技術を、自己を表現するための道具として利用しているのだとしたら?



この思考は、俺の、冷徹なスタジオのなかに、不意に湧き出た、予想外の不協和音だ。



俺は、この理論と情緒の間に生じた摩擦熱こそが、本当の創作の原動力なのかもしれない、と感じ始めている。


俺は、全ての概念を素材だと断言する。


そして、この「断言したい」という強い欲求こそが、最もコントロール不能な、唯一の情緒の波形なのかもしれない。



俺のミキシングボードは、今日も稼働している。


そして、その電源は、冷徹な理論ではなく、この説明のつかない熱によって、供給され続けている。

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