おかしな二人3(雪道を歩く二人)

ロッドユール

おかしな二人3(雪道を歩く二人)


 ――まだ、誰にも見せていない小説がある。



 何でこの人とこうなったのか、まったく分からなかったけれど、私たち二人は並んで暗い深夜の雪で白く覆われた道を歩いていた。

「・・・」

 私は隣りを歩く田中さんを見上げる。田中さんはとても背の高い人だった。


「明日も雪なんですかね」

 コチコチのロボットみたいに田中さんがギクシャクと訊く。

「さ、さあ・・」

 私もコチコチの古いカラクリ時計みたいにギリギリと音がしそうに首を傾げる。

 そんなぎこちないどうでもいい会話から私たちは始まった。


 その背の高い私の隣りを歩く田中さんは、つい数時間前までまったく知らない人だった。誰のどんな関係だったか――、それすらも忘れてしまっていた。

 京子の友だちだったか、美智の職場の同僚だったか、緑子の知り合いだったか、爽子の同級生だったか、まったく思い出せなかった。酔った勢いもあったのだろう、縁とは不思議なものだと、この時、私はなぜかその酔った頭で感慨なんかを深く思った。


「雪やみましたね」

 田中さんが空を見上げる。

「はい、そうみたいですね」

 私もつられて見上げる。



 昨日の夜から降っていた雪は、いつの間にかやんでいた。



「・・・」

「・・・」



 



 夜の雪道は、時間まで凍ってしまったみたいに静かだった。

 

 雪を踏みしめるググッ、ググッというくぐもった音だけが世界の音だった。



 ――この世界に無駄な言葉なんか一つもない。深夜に一人小説を書いていて、なぜか私はそう思った。


  

「柿ピーって、あれでおかきとピーナッツの割合が難しいですよね」

 田中さんが突然言った。

「えっ、・・、か、柿ピーですか・・?」

 私は田中さんを見る。田中さんはいつも何か突然だ。なんか脈略がない。飲んでいる時もそんな感じだった。

「おかきが欲しい時にはピーナッツばかり出てくる。ピーナッツが欲しい時にはおかきばかり出てくる」

「はあ・・」

「でも、全体のバランスは、よく出てきているんです。おかきもピーナッツも多過ぎず少な過ぎず」

「はあ・・」

 なぜ今柿ピーなのか、田中さんが何が言いたいのかまったく分からなかったけど、何とかこの沈黙の間を埋めたかったのだろうなとそれは分かった。でも、田中さんは、ちょっと変わった人だった。



「・・・」

「・・・」

 そして、また会話は消えた。



 雪が音を吸収することを私は、最近になって本で読んで知った。それで、雪の積もった日は、妙に空気が静かなのかと合点がいった。



 二人でぎこちなく雪道を歩きながら、でも、私たちはこれからつき合うのだろうなと、それがなぜか分かった。



 私は人気のない夜に雪道を歩くのが好きだ。そこには完璧な孤独と静寂がある。なんの混じりっ気もない静寂と孤独。車すらほとんど通らない静かな田舎町の深夜。そこに漂う微かな音すらを、さらに雪が吸収していく。雪国独特の静けさがそこにある。

 

 

「和佐田さんは美人ですよね」

 田中さんがまた突然そう言って、私を見た。

「えっ」 

 私は田中さんを見る。やっぱり、田中さんはいつも何か突然だ。

「モテるでしょ」

「全然、モテませんよ」

「嘘ですよ」

 急に田中さんは興奮して力強く言う。

「えっ」

 私は驚き、目をぱちくりさせながら田中さんを見返す。

「絶対嘘ですよ」

 田中さんは、私を鋭い目で見つめてくる。なぜいきなり田中さんがそんなにそこにこだわるのかが分からなかった。

「モテるでしょ」

「モテます」

 だが、その勢いに思わず私はそう答えていた。

 実際、正直、物心ついた頃から私はモテた。私は、まったく自覚がなかったのだが、小さい頃から周囲に、あんたは相当美人だよ、とよく言われた。しかし、それでもまったく自覚はなく、特に意識することもなく、ここまで来てしまった。

「田中さんもモテますよね。背が高いし」

「僕がモテるわけないじゃないですか。逆に女の子が僕を見てキャーって逃げていきますよ」

 田中さんは怒ったように言う。私は何か田中さんの地雷を踏んでしまったみたいだった。

「そうなんですか」

「そうですよ」

 田中さんは興奮している。

「でも、背が高いじゃないですか」

「顔がよくて背が高いからモテるんです。僕は顔が怖いから、背が高くても恐いだけなんです」

「そうなんですか」

「そうなんです」

「・・・」

 私にはそんな風には見えなかった。

 


 誰かを愛している時、愛しているってことが分からなくなる。

 でも、その愛が終わった時――、それが突然分かったりする。



「田中さんて身長いくつなんですか」

「百八十五です」

「そうなんですか百九十あるかと思ってました」

「ないです」

 田中さんは不機嫌そうに言う。

「・・・」

 私はまた地雷を踏んでしまったらしい。



 私は人知れず、少しずつ、少しずつ、私の出会った小さな言葉たちを紡いできた。日々の些細な言葉。吹けば消えてしまいそうな言葉。弱くて――、弱過ぎて誰も気づくことなく踏みつけられていく言葉――。

 私はそんな言葉たちを拾ってきた。



「何かスポーツされてたんですか?バスケとか」

 何とか挽回しようと、私はよせばいいのにさらにその話題に突撃する。

「サッカーやってました」

「なんか怒らせちゃいました?」

 やはり、どこか田中さんは不機嫌そうだった。

「いえ、そういうわけではないですが、背が高いと、必ずバスケやってました?って訊かれるんです。時々バレー」

「ああ、なるほど」

「訊く方は一回でも、答える方は、もういろんな人に百万回くらい同じこと言っているわけで・・」

「ああ、なるほど」

「そういうことなんです」

「背が高いって色んな苦労があるんですね」

「はい・・」



 小説を書いていると、この世界を全部言葉に出来る気がする。

 愛も心も、生きているってことも――。それが私の傲慢さ。

 


 雪国の冷たさが、酔って少し火照った体と、暖房の利き過ぎた居酒屋に長時間いてのぼせた体に心地よかった。

「なんか気持ちいいですね」

「僕は寒がりなんです」

 やっぱり、話が合わない。

 どうも、不思議と田中さんとは話が嚙み合わない。

 

 つき合うどころか、なんだか険悪な方へ方へと話がいっているが、しかし、この人とつき合うことになるという私の中の奇妙な確信はなぜか揺らがなかった。


「猫ってなんであんなにかわいいですかね」

 話題を変えてみた。

「僕は犬派です」

「・・・」

 やっぱり、噛み合わない。 


 それでも私たちは、並んで暗い、でも、雪のせいで妙に仄明るい雪道を歩く。



 心のない言葉。世界は残酷な言葉で溢れている。言葉は人を傷つけてばかりだ。私はそんなの嫌だった。

 だから、私はある日、小説を書き始めた――。



「明日も雪なんですかね」

 今度は田中さんが私に訊いてきた。

「ふふふっ」

 私は笑ってしまう。

「何で笑うんですか」

「それさっきも訊きましたよ」

「あ、そうでしたね」

 田中さんは罰が悪そうに、後頭部をポリポリとかく。田中さんも何とかこの空気を変えようとしているらしい。それが伝わって来る。でも、なんか不器用な人だった。

「ふふふっ」

 でも、私は田中さんのそういうところが好きだった。



 この雪の降り積もった夜のような、まだ静かな心。まだ恋が始まっていない、その萌芽さえ始まっていない静かな心――。


 静かな心。


 まだ静かな心。


 でも、種は撒かれている。


 こんな時が私は一番好きだ。


 いつ芽が出て来るんだろう。それを待っている――、そんなまだ静かな時――。

 


 雪国の冬は尋常じゃなく寒い。ましてその深夜。足先も指先も冷たさを通り越し、痛みに変わっていた。

 私たちはいつまで歩くんだろう。というか私たちはどこへ行くんだったか・・。


 でも、悪くない。

「うん、悪くない」

 私は一人力を込めて呟く。

「えっ?」

 田中さんがそんな私を見る。

「ううん、なんでもない」

「・・・」

 田中さんは、不思議そうにそんな一人妙に明るい私を見ていた。



 あの小説は、多分、一生誰にも見せないと思う。なんとなくそんな気がした。



 私は夜空を見上げる。



 誰にも読まれない物語。そんな物語があってもいいんじゃないかな。

 

 


 私はそう思う。



「誰にも読まれない物語ってどう思います?」

 私は田中さんを見た。

「えっ、う~ん」

 田中さんは、突然の変な質問に腕を組んでその高い身長ごと大きく首を傾げる。

「いいんじゃないですかね」

 そして、私を見て言った。

「なんかそれはそれでおもしろそう。哲学的っていうか」

「ですよねぇ」

 やっぱり、私たちは、合う。そう私は確信した。



 私には、まだ誰にも見せていない小説がある――。


 そして、新しい物語の予感がある――。




                     おわり

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