SCENE#164 死ぬべきヤツ

魚住 陸

死ぬべきヤツ

第一章:黒いリストと、家族の残像






夜の雨が、大都会のネオンを滲ませる。雑居ビルの一室、冷たいコンクリートの壁にもたれかかるように座る本宮 海(もとみやかい)は、暗号化された端末を凝視していた。画面には、今回の標的――大手金融グループCEO、榊原雄一の写真と詳細な経歴が表示されている。榊原は、巧妙な会計操作と裏取引で巨万の富を築き、自身の罪を隠蔽するために複数の命を間接的に奪ってきた、法廷が手をつけられない「死ぬべきヤツ」の典型だった。







海の心は氷のように冷たい。しかし、その深奥には煮えたぎる炎がある。十年前、両親と妹は、榊原の不始末を隠すための口封じに巻き込まれ殺された。警察は事件を事故として処理し、法は「証拠不十分」の一言で片付け、両親と妹の存在は社会から消された。海にとって、家族を奪った悪が平穏に生きていることこそが、世界最大の不条理だった。







海が手入れをするのは、イタリア製の特殊な小型銃。彼が裏社会で「代行者(イクスキューショナー)」と呼ばれるようになってから五年が経つ。彼が行うのは、復讐ではない。裁きだ。彼はリストの情報を再度確認する。今日の雨音は、あの日の事故現場の湿ったアスファルトを思い出させ、海の決意を一層固くさせた。








第二章:監視者と追跡者の影の距離






海はまず、榊原の生活パターンを完璧に把握するため、彼のオフィスビルに清掃員として潜入した。早朝、誰もいないフロアで、海は榊原が誰にも見せない「隙」を探る。そして彼は、榊原が毎朝、決まった時間に屋上の小さな庭園で一杯のコーヒーを飲むことを知った。その一瞬が、彼の「命の境界線」となるはずだ。






一方、警視庁特捜部の刑事、佐渡は、この数年間に発生した「自然死」や「事故死」の中に、ある共通のパターンを見出しつつあった。犠牲者は全て、法的な裁きを逃れた巨悪であり、その死はあまりにも「完璧に仕組まれた運命」に見えた。佐渡は、この一連の事件の背後に潜む「裁きの代行者」の存在を確信していたが、それを口にしても上層部は聞く耳を持たなかった。







ある昼下がり、海が榊原のオフィスビルの向かいのカフェで監視を続けていると、佐渡刑事がそのカフェに入ってきた。佐渡は、コーヒーを注文する際の海の眼差しが、周囲の喧騒とは隔絶した異常な「無」を宿していることに気づいた。佐渡は直感的に、この男こそが自分が追い続けている影ではないかと感じた。佐渡は海の本当の顔を知らない。







しかし、その背中が醸し出す、世界の不条理を一人で背負うかのような孤独な気配が、佐渡の胸に強い印象を残した。佐渡はあえて声をかけず、ただ静かに見つめることで、互いの正義の間の距離を測った。








第三章:悪の定義と、人間性の残滓






潜入捜査を進めるうち、海は榊原がただの冷酷な悪人ではない側面を目撃し始めた。榊原は確かに裏社会と繋がり、非情な指示を下す。しかし、彼の会社が主催する孤児院への寄付は本物であり、彼の秘書を務める若い女性が病に倒れた際には、一切の費用を自腹で工面し、見舞いに訪れていた。






「俺が汚い手を使い、この会社を巨大な砦にしたのは、守りたいものが増えたからだ…」






深夜のオフィスで、榊原が威圧的な態度を一変させ、古くからの部下にそう語るのを、海は隠しカメラ越しに聞いた。榊原の悪行は、彼自身の「守りたい」という歪んだ愛と防衛本能の結果だったのではないか?家族を失った悲しみと復讐心だけが原動力だった海にとって、この事実は強烈な衝撃となった。






もし、榊原が両親と妹を奪ったことを心の底で後悔し、贖罪のつもりで慈善活動をしているとしたら?彼の「死ぬべき」という定義が、単なる感情的な復讐に変わってしまうのではないか?海は、自分の行為が、正義ではなく、ただの暴力になってしまうのではないかという恐怖に襲われ、計画の実行を一時停止した。








第四章:被害者の静かなる願いと、海の選択






自己の定義を再確認するため、海は榊原が関わった事件の被害者家族を訪ね歩いた。彼らが望むのは、復讐ではなかった。ある老婦人は、夫を奪った榊原に対し、「死んでほしいわけではない。ただ、どうして私たちの生活を壊したのか、本当の理由を聞きたかっただけだ…」と涙ながらに語った。






彼らの望みは、「真実の開示」と「罪の承認」だった。海が提供しようとしている「死」は、彼らが本当に求めているものではないのではないか…海は、自分の復讐が、被害者の静かなる願いを無視し、ただ自分の執着を満たすためだけの行為になっているのではないかと深く苦悩した。







この再確認の旅の最中、海は佐渡刑事が同じ被害者たちを訪ね歩いている痕跡を見つけた。佐渡は法に基づいて真実を、海は力によって裁きを追い求めている。アプローチは違えど、二人が追い求める対象は同じ「法の外の悪」だった。海は、佐渡こそが、自分が持っていたはずの「正義の形」を体現している存在だと感じ、自身が背負う闇の深さを痛感した。








第五章:路地裏の告白と、正義の交差






佐渡刑事は、徹底的な情報収集により、ついに海の正体と過去の事故の繋がりを掴んだ。彼は、海が潜伏する倉庫街の路地裏で、単身、海を待ち伏せた。






「本宮海…お前は裁きの代行者か?」






佐渡は静かに問いかけた。銃を構えることなく、佐渡は自身の胸の内を明かした。






「俺も法ではどうにもならないヤツらを何人も見てきた。お前がやったことは、感情的には理解できる。だが、俺は法を信じている。その信じるものがあるから、俺はお前を追っているんだ…」







海は、目の前の刑事の眼差しに、事件で自分が見失った「諦めない正義」の光を見たような気がした。佐渡は、海に復讐の連鎖を止めさせたいと訴えた。海は初めて、自分の動機、両親と妹のこと、そして自分がこの五年間にやってきたことの全てを、佐渡に吐露した。それは告白であり、懺悔だった。







「俺が止まっても、次の悪は必ず生まれる。そして、次の代行者も…。この世界は、誰かが『死ぬべきヤツ』を決めなければ、回り続けない…」






佐渡は静かに首を振った。






「いや、それは違う。俺たちがすべきは、代行者になることじゃない。法を、お前が裁く必要のない、真に機能するものに変えることだ…」







この対話は、海にとっての最後の「救いの手」だった。しかし、海は受け入れなかった。彼は、自身の罪を清算するため、榊原の裁きを完遂しなければならないと決意していた。海は佐渡の追跡を振り切り、闇の中へと消えた。佐渡は、深い無力感を覚えながらも、海と榊原の運命の交差を、ただ見送ることしかできなかった。









第六章:審判の夜、悪の哲学と終焉






実行の夜。海は、榊原が一人で過ごす郊外の隠れ家であるペントハウスに侵入した。静かな室内で、榊原はすでに海が来ることを予期していたかのように、葉巻を燻らせながら待っていた。二人は対峙した。榊原は逃げもせず、皮肉な笑みを浮かべた。







「ご両親や妹さんには気の毒だった。だがな、お前のような感情だけで動く素人には理解できまい。俺は、この国、この社会という泥舟を沈ませないために、多くの人間的な感情や倫理を切り捨ててきた。犠牲は必要だ。誰かの犠牲の上にしか、安定は築けない。俺は、お前の家族を犠牲にしたことで、数千人の社員と、その家族の生活を守ったんだ。俺は『悪』ではない。俺は『必要悪』だ…」







榊原の独白は、冷酷なまでに合理的で、悪の哲学だった。彼の言葉は、海の復讐心を激しく揺さぶった。しかし、海は、榊原の目が、その言葉とは裏腹に、極度の孤独と疲弊を帯びていることにも気づいていた。榊原自身が、自分の選んだ道に縛られ、逃れられない「死ぬべきヤツ」になっている。







海は引き金を引いた。復讐ではなく、解放のために引き金を引いた。その瞬間、彼の復讐は終わり、家族の記憶への誓いは果たされた。しかし、同時に海は、誰にも裁かれない、最も孤独な殺し屋へと転落した。









第七章:残された虚無と、海の行く先







榊原雄一の死は、世間的には「心不全」として報道され、彼の築いた巨大な帝国は混乱に陥った。事件は、再び世間の闇の中に葬られた。佐渡刑事は、榊原の死を知り、海がやり遂げたことを悟った。






彼のデスクには、簡素なメモが置かれていた。そこには、海が家族の死後、常に持ち歩いていた古い写真が添えられていた。笑顔の両親と妹、一緒に笑っている若き日の海。写真の裏には、力強い文字でこう書かれていた。






「あの日、家族は、世界から消された。だが、世界はまだ、続いている…」






海は、目的を達成したにもかかわらず、深い虚無と痛みに包まれていた。復讐は、家族を戻してはくれなかった。そして、彼は、佐渡という「光」を振り切り、自ら闇を選んでしまった。彼は今、もう誰も追わない…






海は、波打ち際に立ち、遠い水平線を見つめた。彼はもう「代行者」ではない。彼はただ、生きている。そして彼の心には、佐渡の言葉と、榊原の独白が、消えない傷として深く刻み込まれている。






「死ぬべきヤツ」は消えた。しかし、彼がこの世界に残した「悪の連鎖」は、まだ続いている。海は、目の前を広がる海に、自分自身のこれからを問うた。自分は今、誰を裁くべきなのか…そして、この人生をどう終わらせるべきなのか…と。

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