描きかけの青
久遠 燦
1話
私は、元に戻らない変化が怖い。
きっかけは、年長の時の出来事だった。
私は、工作で紙の折り方を間違えてしまった。
広げると、シワがついて元に戻らなかった。
床に落とした紙を何度も撫で、爪でシワを伸ばした。指先に残る折れ目の感触が、どうしても消えなかった。
新しい紙をもらえば済む話だったはずなのに、
それでは「元に戻した」ことにならない気がして、私はどうしても受け取れなかった。
周りの子は、折り方を間違えても気にせず、次の作業に移っていた。
どうしてそれで平気でいられるのか、私には分からなかった。
その時ふと思った。
一度変わったら戻らないのは、紙や物以外にもあるんじゃないか。
そう思った瞬間、名前の分からない不安が、胸に広がった。
先生の声や、周りの子の笑い声が、少し遠くで聞こえていた。
紙の上の一本の折れ目だけが、やけにくっきりと目に入っていた。
小一の時に祖母が亡くなった。
一週間前までは元気だったのに、目の前には冷たくなった体だけがあった。もう、あの温かさは二度と戻らない。
生きていた頃の温かさを思い出そうとして、手に触れてみたけれど、そこにはもう、何も残っていなかった。
その瞬間、私は折り間違えた紙のことを思い出した。
あの時、爪で何度も折れ目を伸ばしても戻らなかった紙の感触――元に戻せないものがあるというあの感覚――が、現実の祖母に重なった。
あの日、祖母の死によって、変わって戻らないものへの恐怖が、私の胸にしっかり刻まれた。
胸の奥がざわつく時、私は絵を見る。
呼吸を整えるために、Xに絵を見るだけのアカウントを作った。
自分で描くわけではなく、同年代の子たちの作品を眺め、いいねを押す。
私は、指で画面を上下に滑らせながら、完成した絵だけを見ていた。
途中の下書きや、描きかけの投稿は、無意識に飛ばしていた。
完成している、という事実だけが、私を落ち着かせた。
*
不安で寝付けなかった夜、「#絵描きさんと繋がりたい」のタグを押して画面をスクロールしている時だった。
デジタルのイラストが並ぶ中、1枚のアナログの絵を見つけた。
青を基調に、光が差し込むような表現の象徴画。
その絵の光の輪郭には、消えていくものをそっと留めようとする気配があった。
生きているものの形を、崩れないように掬い上げているような——そんな手つき。
碧唯(aoi)というユーザーネームのフォロワーの少ないアカウントで、いいねも少なかった。
その絵を見ていると、胸の奥に長いあいだ沈んでいた記憶がゆっくり浮かび上がった。
その絵の青は、昔私が表現したかったけれど、出来なかった青だった。
あれは、小二の時、数回だけ通った絵画教室でのことだ。
その青を見た瞬間、記憶が一気に引き戻された。
初めて美術館に連れて行ってもらったのは、小二になったばかりの時だったと思う。
100年以上前に描かれたという絵が、ガラス越しに静かに飾られていた。
描いた人はもう死んでいるのに、絵だけはここに残っている。
そう思った瞬間、心がひどくざわついた。
私も、こんなふうに残るものを作りたい。
そう親に言って、絵画教室に通い始めた。
でも、綺麗な絵は、勝手に出来上がるわけじゃなかった。
失敗した線も、濁った色も、全部が戻らない形として紙の上に残る。
ぐしゃっと丸めて捨てる勇気もなく、ただ残り続ける。
それが、私には耐えられなかった。
*
「今日は海の絵を描いてみましょう。」
絵画教室の先生の声を聞くやいなや、私は青い水性絵の具を沢山絞り出して、その一色で画用紙を塗りつぶした。
「渚ちゃん。海ってね、一色じゃないの。光の加減で、緑色や、黄色、色んな色が混ざって、海の色になるんだよ。」
先生にそう声をかけられ、周りを見渡す。
色々な色をパレットに載せて絵の具を点のようにおいていき海を描く子。グラデーションで海を描く子。
青一色で一面を塗りつぶしてしまったのは私だけだった。画用紙は一人一枚と決まっていたから、一度折った紙が元通りにならないのと同じで、一度塗りつぶした青は、もう戻らなかった。私は腕で自分の絵を覆い隠した。
*
絵は、完成すれば変化から切り離される。
けれど、その一歩手前には、
二度と戻らない変化を、自分の手で起こす瞬間がある。それが、私には怖かった。
それ以来、絵は自分で描くものではなく、ただ眺めるだけの存在になった。
気づけば、その絵の投稿に感想を送っていた。
長い文章ではなく、色や光についての短い言葉だけだった。
返事はすぐに返ってきた。
過剰でも、踏み込むでもない、淡々とした言葉だった。
それなのに、緊張が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
新作が上がるたびに、私は同じように感想を送った。
絵のどこが好きか、何に目が留まったか。
やり取りを重ねるうちに、私はあることに気づいた。
碧唯さんの絵は、完成しているのに、時間が止まっていなかった。
光は固定されているのに、見るたびに違う場所が揺らいで見えた。
変わらない形の中に、変化の余地が残されている。
それは、私がずっと怖れてきた「不可逆」とは、少し違っていた。
時々、DMで日常の事も少しだけ話すようになった。
「今日は雨でしたね」
碧唯さんからメッセージが届く。
「そうですね。傘、忘れちゃいました」
「私もです笑」
たったこれだけの会話なのに、絵の話以外でも、返事が来ることが、素直に嬉しくて、返信を待つ時間が、少し楽しかった。
けれどある日、更新は途切れた。
何度も同じ投稿を開いては、日付だけを確認した。
新しい通知がないことを確かめて、画面を閉じる。
それを、意味もなく繰り返していた。
その時、私は初めて、自分が「更新」を待っていたことに気づいた。
変化のない画面が続くたび、落ち着かない気持ちが、浮かんでは沈んだ。
*
空いた心の隙間を埋めようとして画材を調べていると、無機質な商品説明が並ぶ中、ひとつのレビューに目が止まった。
「10年経ってもまだ残ってます。」
その一文を読んだ瞬間、心の底で沈黙していた何かが、ゆっくりと形を取りはじめた。
綺麗な絵は、完成すれば変化しないから私を安心させてくれる。
でも、減っていく画材は、使うたびに確実に形を失っていく。
その先に、必ず無くなる瞬間が用意されていることが、怖かった。
画面をスクロールする手がふっと止まり、
気付けば、私は買い物かごからその画材を削除していた。
折ってしまえば一瞬で戻らなくなる紙よりも、
正しく使っているだけで少しずつ無くなっていくものの方が、
私にはずっと怖かった。
*
半年ほど経ってからのことだった。
21時を少し過ぎた頃、久しぶりにDMの通知が光った。
差出人のアイコンは——確かに、碧唯さんのものだった。
胸の奥が一気に熱くなり、指が震えた。
そこには、こう書かれていた。
「こんにちは。碧唯の母です。
遺品を整理していた際に、碧唯のアカウントを確認し、Nagiさんとのやり取りを拝見したためご連絡いたしました。
碧唯は、長い闘病の末に亡くなり、もう半年が経ちます。
個展を開くことが、娘の生前からの願いでした。
来週、東京都…にて、小さな個展を自費で開催します。
突然のご連絡で申し訳ありませんが、よろしければお越しください。」
文末の丁寧な言葉が、画面の中で整然と並んでいた。
さっきまで胸の奥にあった小さな灯りが、静かに消えた。
通知の光だけが、暗い部屋の中で揺れていた。
*
朝、制服のシャツがいつもより窮屈で、体が重く感じた。昨日までと同じはずなのに、どこか違う。変わってしまった体の感覚が怖かった。
茶碗に手を伸ばすと、一口で満腹になった気がして箸を置く。母の心配そうな視線が胸に刺さった。
「渚、具合が悪いの?」
「ううん…大丈夫。」
時計を見ると、もう授業が始まる時間。急いで家を出たけれど、体は重く、動きは普段の倍遅かった。
帰宅すると、母が驚いた顔で制服を見ていた。
「あれ、傘は…?」
外を見ると、雨が静かに降っていた。私の胸も、静かに重く濡れていく。
*
夜、静かになった部屋で、画面の光が少し滲んで見えた。
あれが夢だったらいいのに、と指先が止まる。
でもDMには、変わらず同じ文が静かに置かれていた。
私はしばらくスマホを持ったまま動けなかった。
それでも、返さなきゃと思った。
返さなかったら、碧唯さんの存在まで曖昧になってしまいそうで。
「ありがとうございます。行かせていただきます。」
震える指で、一文字ずつ押す。
送信ボタンを押した瞬間、張り詰めていた糸が切れたように涙が落ちた。
死は、幼い頃から遠くの景色のように眺めては不安になるものだった。
でも今は、画面のすぐ向こう側に座っているように近い。
その近さが、静かに呼吸を奪っていく——過去のやり取りの記憶と、今の現実が重なり、沈んだ心は、そのまま底に触れた気がした。
涙を拭いたあと、深呼吸をひとつだけしてみた。
空気は重いままだった。
それでも、胸の奥には、何かがそのまま引っかかっていた。
*
数日間、食欲がないままだった。
「何か悩みがあるんでしょ?学校のこと?友達のこと?話すだけでも楽になるかもよ。」
そう母に言われて、しばらく黙ったあと、息を吸って、正直に答えた。
「死が怖い」
「は、はぁ?」
母は拍子抜けしたような様子だった。
「分からないからそんな反応できるんだよ!」
そう言って、部屋に駆け込んだ。
布団を被ったら、涙が出てきた。
家族にすら理解されない悩みなんて、友達にもわかってもらえるはずがなかった。
言わなきゃ良かった。
後悔が募った。
*
個展に行く日の朝。
支度をしていると、母が後ろから声をかけてきた。
「渚。昨日のこと、少し考えてみたんだけど……」
母はそこで一度、言葉を探すみたいに黙った。
「正直ね、私はその恐怖を抱いたことがないから、よく分からない。力になれなくてごめんね。」
それから、少し間を置いて、
「でも……分からないままのことって、誰にでもあるんじゃないかな。」
私は、返事をしなかった。
母の言葉は、答えになっていなかった。
けれど、胸の奥で、そのまま動かずにいるものがあった。
クローゼットの前で少し迷って、結局、水色のワンピースを手に取った。
どうしてそれを選んだのか、自分でもよく分からなかった。
*
個展は電車で一時間ほどの場所だった。
つり革を握る手に、じっとりと汗が滲んでいた。
電車が揺れるたび、足元がわずかに不安定になる。
目的地に近づいているはずなのに、遠ざかっているような気もして、
私は何度も路線図を確かめた。
窓の外では、家や看板が一定の速さで後ろへ流れていく。
景色は変わっているはずなのに、どれも同じもののように見えた。
女子高生達の楽しそうな会話が、車内の奥で途切れずに続いていた。
車内アナウンスが「次は、須谷中央。須谷中央です。」と告げた。
*
改札を抜けて大通りに出ると、ひんやりとした風が頬を撫でた。
私はDMで送られてきた位置情報をマップに入力し、それを頼りに歩いた。
少し歩くと、白い3階建ての建物が見えてきた。
前には白い看板が立っている。
「高瀬 碧唯 個展」
建物の前には下りの階段があり、その先のガラス張りの部屋に、壁にかかっている作品が見えた。
ガラス越しに見える青が、思ったよりも近かった。
扉を開けてしまえば、もう戻れない気がして、
私は一度だけ深く息を吸った。
その呼吸さえ、今までとは違うものになってしまいそうで怖かった。
入口に立っている女性は、私を見ると軽く頭を下げた。
40歳くらいだろうか。若い顔なのに、髪には白いものが目立っていた。
「ありがとうございます。」
それだけ言って、名前も、説明も添えなかった。
まるで、今だけ本人が席を外しているだけみたいだった。
私は何も聞かないまま、展示室へ足を踏み出した。
展示室に足を踏み入れた瞬間、外より少し空気が重いと感じた。
年配の夫婦や、私と同じくらいの年の女の子が、静かに作品を見ていた。
誰も声を出さず、足音だけが床に吸い込まれていく。
作品は大小さまざまで、目線の高さに揃えて掛けられていた。
額縁の角には、ところどころ小さな傷があり、
何度も運ばれ、触れられてきた時間を感じさせた。
入口の近くにプロフィールが貼ってある。
「高瀬 碧唯 (たかせ あおい)
東京都出身
受賞歴
第10回 絵画コンクール 小学生の部 優秀賞
小学生 自然絵画コンテスト 佳作
アートコンテスト 高校生の部 審査員特別賞」
下に作品一覧がのっている。
作品の制作歴は、半年前で止まっていた。
隣に飾ってある作品に、足が止まった。
色々な色を点のようにおいて描いた鯨の絵。
その作品には見覚えがあった。
下のプレートに「第10回 絵画コンクール 小学生の部 優秀賞 "わたしの海"」という文字が記されている。
小学生の頃、「絵を習ってみたい!」という私のためにインターネットで母が見つけてくれて、数回だけ通った絵画教室。
視界の端で、この絵とそっくりなものを描いていた子がいた。
でも、それが本当にあの子だったのか、確かめるすべはなかった。
隣の絵に目を移し、壁沿いに並ぶ作品を順番に見ていく。
色や形、筆のタッチを追いながら、ひとつひとつの画面に足を止めた。
右に進むにつれて、段々濃い青が多く使われるようになっていく。描く線も段々と強くなっていっているように思えた。
病状が悪化したから、自分の生きた証を残そうとしたのだろうか——根拠のない妄想が、頭の中で静かに膨らんでいった。
端に飾られていたのは、白い部分が多く残ったままの描きかけの作品。
私は、その描きかけの画面から、どうしても目を離せなかった。
何人かの人が、私の横を静かに通り過ぎていった。
立ち止まる人もいれば、少し首を傾けて去っていく人もいた。
私はその間ずっと、同じ場所から動けなかった。
時間だけが進んで、私だけが置いていかれているような感覚になった。
白い余白と、塗られた青の境目ばかりを、何度も目でなぞった。
もし続きを描く時間があったら、この白は埋まっていたのだろうか。
それとも、最後までこのままだったのだろうか。
息を吸おうとしても、胸がうまく膨らまなかった。
その隣には、「第15回 海 絵画 コンテスト」の作品募集ポスターが貼られていた。
このコンクールに応募しようと考えていたのだろうか。
横には、小さなメモが展示してあった。
「中央から上までを水色のグラデーション。
右上に濃い青。左下に紺色。」
メモと、白いまま残った画面を見比べる。
その数行が、なぜか息苦しかった。
私は一歩、後ずさった。
胸の奥が、ざわついて落ち着かない。
もう、ここにはいられなかった。
胸のざわつきを抱えたまま、入口の女性に小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。」
外に出ると、夕日が建物の壁に長い影を落としていた。
*
帰りの電車で、私はどうしても気になって「第15回 海 絵画 コンテスト」を検索した。
応募するかどうかはまだ決められない。だけど、胸の奥で、小さな『描きたい』という気持ちが芽生えていた。
理由はよく分からなかった。ただ、このまま何も手を伸ばさずに終わる気がして、それだけが耐えられなかった。
駅に着く頃には、描きたい衝動はだんだん強くなっていた。
最寄りの駅前の文房具店で、あの「10年経ってもまだ残っている」というレビューが書いてあった大容量の画用紙が目に入る。
私はそれを手に取り、絵の具と一緒にレジに向かった。
何か変化した証を、ここに残しておかないと、
また元の自分に、静かに引き戻されてしまいそうだった。
*
「ただいま」
「おかえり。え、画用紙?」
横に抱えている画用紙を見て、母が驚いた顔をしている。
「絵、描くことにした。」
そう言って、私は自分の部屋に入った。
机を片付けて、水を用意し、ひいた新聞紙の上に画用紙を置く。
大容量の画用紙は、手をつけなければ、そこにあるだけで変化しない。
だから取り出す時、少し怖かった。
絵の具を筆につけると、絵画教室での嫌な記憶が頭に浮かんでしまった。
*
「完成した海の絵をみんなで見合いましょう。」
先生がそういい、私は腕で隠していた絵をそのまま机の上に置かなくてはいけなくなった。
見せたくないです。と先生にいう勇気もなく、私は恥ずかしい思いで、他の子の作品を見に行った。みんなの絵は、私のものよりずっとずっと綺麗だった。
誰も私の真っ青な失敗作を笑わなかった。
でも逆にその事が、みんなから対等に思われてないみたいで、苦しかった。
*
絵を描こうとすると、あの時の記憶が苦しくなって、それが私を、描くことから遠ざけた。
綺麗な絵を完成させたら、その絵はずっと変わらないものとして私を安心させてくれる。
でも、綺麗な絵を完成させるためには、変化して元に戻らない恐怖に耐えなければいけなかった。
小学生の時の私は、その恐怖には耐えられなかった。
震える手で、私は白い画用紙に絵の具のついた筆をつけた。
筆先が紙に触れると、微かにざらついた感触が指先に伝わる。息を吸い込み、吐き出すと、胸の奥が少しずつ落ち着くのを感じた。
最初の一線を引くのは、まるで長い間閉ざされていた扉を開けるようで、怖くもあり、少し胸が高鳴る瞬間でもあった。筆が紙の上を滑るたび、過去の記憶――小学生の頃、腕で自分の絵を覆い隠したあの日――が淡く頭をかすめる。けれど今は、あの時とは違う。あの恐怖を抱えたままでも、描くことを選んだ自分がここにいる。
青や水色、白を混ぜるたび、
筆を洗う水が濁っていくのを横目に、
胸の奥に引っかかっていたざらつきが、
少しずつ、沈んでいくのが分かった。
私は筆を止め、息を整える。机の上の画用紙は、もう二度と元には戻らない。
その事実が、今も少し怖い。
それでも、この白いままよりは、ましだと思った。
私は無心で描き続けた。
描きかけの青 久遠 燦 @Milai_777
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