雪と春

春山純

雪と春

月末の土曜日、26時。カラオケルームにいた私は、いくら失恋ソングを熱唱しても晴れない気持ちの置き場所に、悩んでいた。誰かと話したくて、O大学陸上部の後輩、勝野晋太郎に連絡した。私は故郷を離れて別の地方の大学に行った。彼は同郷で、私は彼を親しみを込めて「かっちゃん」と呼んでいた。大学卒業後、私と彼は地元に戻った。住んでいる地域は離れていたけど、大学時代の同期は大学のある地方にとどまっている人が多かったから、かっちゃんは貴重な存在だった。

「あ、もしもし」

「もしもし」

「かっちゃん元気?久しぶりやな」

「お久しぶりです」

深夜、急に連絡したのだけど、彼の声色は嬉しそうで、私たちは次の日、いや正確にはその日の夜にご飯に行く約束をした。夜中に電話して繋がると思っていなかったので、約束ができてようやく落ち着いた気持ちになる。私はそのまま朝まで眠ってしまった。気づいた時には5時だった。りんごジュースを飲んだ後のカップを片付け、外に出る。冬の朝は寒くて仕方がない。しばらく公園で時間を潰した後、銭湯に向かった。


朝の銭湯に来ていたのは初老の男性が数人だけだった。女湯には私1人だ。身体中にできたあざを他人に見られなくて済むと思うと、ほっとする。湯船に浸かると眠気も少し覚め、生き返ったような心地がした。コーヒー牛乳を飲んで、出口に向かって進んでいく。卓球台が目に入って、きゅっと胸が締め付けられる気がした。銭湯を後にしてカフェでモーニングを食べた後、公園で時間を潰していた。公園では、若い夫婦と小さな子供が遊んでいる。私と慎治も、うまくいけばこういう関係になれたのかな。センターパートがよく似合う、慎治の顔を思い浮かべる。職場の同僚に紹介された、関東出身の慎治と出会って、もう6年以上になる。2人の関係は穏やかで、彼を紹介してくれた同僚にはとても感謝していた。付き合って2年が経ったのを機に、同棲を始めた。同棲は初めての経験だった。私が作ったパスタを美味しいと言ってくれたこと。一緒にゲームをしたこと。旅行に行って彼と温泉に行って卓球をしたこと。慎治が勝つまで終わらなかったこと。楽しい思い出が次々と湧いてくる。雲行きが怪しくなったのは、今年の春頃だったと思う。同棲を始めて2年が過ぎた頃から、慎治は2年間海外赴任していた。今年の9月に帰ってきたときは、やっと慎治とまた一緒に暮らせる、結婚のことも本気で考えられる、と安堵したものだ。でも、慎治の考えは私と全然違っていた。

「春からアメリカで働いてみないか、って話が来てるんだ」

慎治の目は少年のように輝いていた。慎治に海外で働きたいという願望があることはわかっていた。でも、2年間彼を1人で待っていた私の気持ちも考えて欲しかった。

「向こうに来るか、ここにまた1人で残ってもらうか、どっちかになると思う」

「2人でここに住むんじゃダメなん?私、今年でもう29になるんやけど」

そう言った時に彼の顔が強張ったのが、スローモーションで脳内再生される。あの日を境に私と慎治との関係は変わった。彼は気に入らないことがあると私にあたるようになっていた。最近では、殴られることもある。彼は久々に戻ってきた日本の職場が合わないようで、苛立っているようだった。アメリカ行きの話はあれ以来しなかった。結局どうなるのかわからないままだったけど、私は彼と過ごせる日々を噛み締めていた。2年間待ち続けていた時間が無駄だったと思いたくなかった。きつく当たられても、殴られても。彼との甘い記憶が浮かんで、浮かんで。またいつかきっと幸せな日々が戻ってくるんだって。そう思っていた。

「すいませーん」

足もとに転がってきたサッカーボールに気づかないままだった。子供が蹴ってしまったボールを、父親らしき男性が取りにくる。ため息をついて、細い枝越しに空を見上げた。冷たい風が頬を冷やし、昨日頬を殴られたことを思い出す。テレビを見ていて、アメリカに関するニュースが流れた時だった。

「結局アメリカ行きは辞めたの?」

その一言が癪に触ったのか、慎治は突然炒飯の皿をひっくり返した。どうやら、日本の職場に馴染めなかった彼は、上司との関係が拗れ、アメリカ行きの話も立ち消えになったようだった。彼は私を殴り、蹴り、罵声を浴びせた。もう、限界だった。荷物をボストンバッグに詰め込み、逃げるように家を出た。どこに行っていいのかわからず、遮二無二自転車を走らせていると、駅前に来ていた。足は自然とカラオケルームに向かっていた。慎治と初めて出会った飲み会の、2次会で来た店だった。


公園でぼんやりしているのにも飽きて、港の方へ向かう。まだ昼だったけど、待ち合わせだけが楽しみだった。港の欄干に腕を乗せて、船を眺める。日曜日の港は人でごった返していた。若いカップル、子供連れの夫婦、学生の恋人たち。みんなみんな2人だ。私だけが1人だ。濃いブラウンのコートのポケットから携帯を取り出し、彼から何か連絡が来ていないか見る。何も連絡が来ていないのを確かめると、私はコートのポケットに携帯をしまい、ショッピングモールの最上階に向かう。コートが、慎治に誕生日祝いで買ってもらったものであることを思い出し、涙が出そうになった。


適当に選んでみた映画は、あまり面白くなかった。映画はどんどん進んでいくのに、キャラメル味のポップコーンは全然減らない。1人で食べるにはやっぱり多いね、そう呟いたとしても誰も聞いてくれない。私だけが取り残されているみたいだった。映画の感想を語り合う人々の合間を縫って、早歩きで進んだ。階段を雪崩のように降りて、港へと再び繰り出す。ベンチでまどろんでいたら、待ち合わせの時間が近づいていた。



「春先輩?」

街頭と街灯の間の、暗い壁際にもたれかかって、夜空を見上げていたのが、先輩だった。灰色のマフラーを巻いた先輩が、驚いた表情をする。

「かっちゃん、久しぶりやな」

先輩の笑った顔が、暗がりの中でどこか寂しげに見えたのは、間違いじゃなかった。

「行こか」

先輩に久々に会えたことで、僕の心臓は高鳴っていた気がする。


メニュー表から、先輩が顔を上げる。冬の寒さのせいか、丸い頬がほんのり桃色に染まっていて、見惚れてしまう。だがその後すぐに、ぼくは見たくなかったものを見てしまう。先輩の右目の下と、左頬にあるあざだった。暗がりにいたから、さっきまで気づいていなかったのだ。

「そ、それ、春先輩、どうしたんですか」

僕の声は震えていた。

「え、どしたん、急に」

「怪我したんですか、そのあざ」

先輩の顔がみるみる曇るのが手に取るようにわかった。先輩の視線がふたダビメニュー表に落ちて、いつまで経っても上がってこない。先輩は何か発しかけて、その度に口をつぐむ。何度かそれを繰り返した後、決心したように先輩が言った。

「私が彼氏と同棲してるん、知ってるやんな?」

「はい」

「彼氏に殴られてん」

「え?」

呆気に取られる僕を前に彼女は涙声で続ける。

「殴られて、蹴られてん」

そんな話は今まで聞いたことがなかった。ずっと隠していたのだろうか。気づいたら、涙が頬を伝っていた。涙が頬を伝って、涙が滲んで、視界が白くぼやけて見えなくなる。気づいたら、席を立っていた。先輩の隣に行って、先輩を抱きしめた。強く、強く抱きしめた。


彼との間にあった出来事を赤裸々に話した。かっちゃんは、ゆっくり頷いて聞いてくれた。

「ごめんな、聞いてる方が辛くなるやろ」

「そんなことないです」

切り替えが特徴的なニットの袖で涙を拭いた。かっちゃんの前では、彼のことを忘れていたかった。


一口大の肉を頬張る先輩が愛おしくて、愛おしくて、仕方がなかった。なんでこんなに可愛くて綺麗な顔を殴れるのか、と憤りを感じる。いや、そんなこと忘れよう。先輩との時間を楽しもう。先輩が僕の前で見せる笑顔は素敵で、眩しかった。先輩の長い黒髪の数をずっと数えていた。


食事を終えた私たちは、港へ向かった。欄干にもたれかかり、真っ暗な水面に反射する観覧車の光を見つめる。

「今日はありがとう。かっちゃんに会えて嬉しかった」

「僕も春先輩に会えて、よかったです」

かっちゃんが笑うのを見て、つられて笑った。私、今日は久々に笑ってる気がするな。

「ねえ」

「観覧車乗らない?」考えるより先に、声が出ていた。


「わー、きれい」

立ちならぶビルの窓の光と、その後ろにそびえる山々。僕は言い出したいことを言い出すタイミングを見計らっていた。

「かっちゃんの家どの辺なん?」

「東の方っすね」

「今日、泊めてもらってもいい?」

顔の前で手を合わせて、先輩が言った。

「いいですよ」

彼女は続いて南の方角を向き、イルミネーションで彩られた港の景色に見入っていた。

「あの、春先輩」

「ん?」

「春先輩気づいてたかわからないですけど、大学のとき、僕先輩のこと好きだったんですよ」

「、、、」

「、、え、そうなん?」

彼女は一瞬目を見開いた後暫し沈黙し、絞り出すようにそう言った。

「すみません。こんなときに言うの、ズルですよね」

「え、好き『だった』んよね?」

「それ言わせるんですか」

答える代わりに、抱き寄せた。熱い接吻をした。1月の夜、僕らは宙にいた。


いつもと逆方向、東方面の列車。横並びの席に座って、仕事のことなんて考えたくなかった。ずっとかっちゃんと話していたかった。暖房の効いた車内にいられる時間はあっという間だった。駅から出て、ロータリーの横にある信号を渡る。何か降ってきた気がして、空を見上げた。

「わ、雪やん」


「わ、雪やん」

先輩が空を見上げた。ハイビームを使った金属製の凶器が信号無視をして右から向かってきたのは、そのときだった。先輩を僕の左に無理やり動かし、隠すようにする。

「春先輩、大好きでしたよ」

そう叫んだのが、最後だった。


何もかも失った私が、病院で泣いていた。目の前にいるのは、姿を大きく変えてしまったかっちゃんだった。私と会わなければ。私が星空を見上げずに、もっと早く車に気づいていたら。後悔ばかりが募って、募って、仕方がない。顔を埋めて、彼の服を涙で濡らした。この先どうやって生きていけばいいの。誰か教えてよ。

「春先輩」ってまた言ってよ。好きって言って、抱きしめて。離さないで。そんなセリフも冬の寒さの前には消えてしまいそうだった。暖房の効いた一室で、私はいつまでも、いつまでも、とどめなく涙をこぼした。


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雪と春 春山純 @Nisinatoharu

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