サブちゃんって、誰?(名前を覚えられない男の物語)

esquina

一話完結。


夏の夜、線路脇にある居酒屋のカウンター席に、二人の男が並んで座っていた。眼鏡をかけた、白髪混じりの男は小坂健一。その隣に座っているのは古沢昌治。緑色のメッシュを入れた長髪を後ろで束ねている青年で、数ヶ月前に、小坂と同じ施工現場に 入社したばかりだった。


「そういえば、小坂さんのお名前って、健一さん……でしたっけ? 何で、現場でサブちゃんなんすか?」

古沢が席につくなり思い出したように尋ねると、小坂は少し驚いたのか、後頭部を掻き目を丸くした。

「僕の名前なんか、よく知ってるね…。ええと、君の名前は何だっけ?」

「え?……昌治です」

小坂は困ったように、もう一度尋ねた。

「いや……君の、苗字……なんだっけ?」

「……古沢です」

今さら名前を聞かれたことに、古沢が少なからず違和感を覚えながら答えると、小坂は片手を鼻先で揃え、軽く謝罪した。

「古沢君か!ごめん、ごめん。何回聞いても人の名前が覚えられなくて」

古沢は、齧歯類のような前歯を剥き出して笑った。

「分かります。僕も、うちの猫たちの名前が出てこない時あって、3匹いるともう、色々めちゃくちゃですよ」

「3匹も猫飼ってるの?うちは犬だよ。ただ……僕は本当に犬の名前しか覚えられないんだけどさ」

古沢は、手に引っ付くほどよく冷えたジョッキを掴み、再度尋ねた。

「でも、どうして "サブちゃん" って呼ばれてるんですか?


小坂は眼鏡を外し、おしぼりで顔を拭いた。

「うん。"サブちゃん" は、僕のあだ名でね。理由があるんだ。実は…僕は、本当にすぐに人の名前を忘れちゃうんだ。子どもの頃から、ずっとそうなんだ」

「はぁ……でもそれって、さっきも言ったけど、誰でもありますよ」

古沢が油の染みたメニューを手に取りながら言うと、小坂は壁に連なる色褪せた短冊メニューを見つめ、ゆっくり首を振った。

「うん。そうなんだけど…。でも、ちょっと違うんだよ」

「違うって、どういうふうに違うんですか?」

小坂のため息混じりの口調に、古沢はメニューを畳んで傍へ押しやった。

「あまり楽しい話じゃないんだけどね…」

小坂は困ったような顔で古沢を見たが、彼は好奇心に満ちた悪気の無い顔で、次の言葉を待っていた。彼は諦めたように、ポツポツと話し始めた。

 

「僕が小学生の時……学校の教室で仲間とふざけてたら、友だちが教壇の花瓶を割っちゃったことがあった……すぐに先生がやって来て “やったのは誰だ?”って聞かれて……」

彼は気まずそうに鼻の先を掻くと、また続けた。

「僕はうっかり、好きだった女の子の名前を言っちゃったんだ。驚いたその子は、僕を見て “嘘つき!”って、泣き出しちゃった。青いリボンが頭の上で震えてて、誰かが、僕の横で黒板消しを叩いた。チョークの粉が僕の喉を塞いで……もう何も言えなかったよ」

古沢は、裸電球がぶら下がった天井を見上げて考えた。なぜ好きな女の子の名前を言ってしまったのか、理解できなかった。考えていると、浅葱色のジンベイを着た店員がやって来て、突き出しの枝豆を置いて去って行った。

その間、小坂は小さな目を細め、正面を見つめたままだったが、先を続けた。

「頭に浮かんだ名前が、その子の名前だけだったんだ」

古沢の疑問を察したような口ぶりで言うと、分厚い掌でジョッキを掴んだ。

「それから、名前を言うのが怖くなっちゃった。また間違えたら? って思うと……」

小坂は、ゆっくり喉を鳴らしてビールを飲み干した。それを見た古沢も、納得したような顔で、無言のままそれに倣った。


「よく冷えてるなあ、キクね〜」

小坂がぎゅっと目を閉じると、店の脇を電車が通過した。店内の酒瓶が棚の中でガチャガチャ鳴り、パイプ椅子に乗せた足の裏に振動が走った。小坂は、電車が通過するのを待って、また続けた。

「それからしばらくはさ、クラス中から責められたよ。嘘つきって言われて、誰も口を聞いてくれなくなった……だから、もう人の名前を呼ぶのをやめちゃった」

彼は、ジョッキのビールの残りを流し込み、店員に振って見せた。

「でも、仕事……不便ですよね?」

古沢が心配そうに尋ねた。

「うん。でも、この仕事に就いてからも、ずっと名前を呼ばずにごまかしてきた。だけど――長期作業の現場だと、そうもいかなくなってね」

店員からジョッキを受け取って口へ運ぶと、きめ細かい生ビールの泡が鼻先を包んだ。小坂は、先ほどよりも落ち着いた様子で口を開いた。

「この先、どうしようかなって考えたよ。どうやったら普通に名前を覚えられるんだ?って。本当に、これまで何百回も考え続けてきたんだ。紙に似顔絵を書いて、自作のカルタみたいなのを作ったこともあった。でも、その時は覚えている気になっても、例えば宿題とか、漫画を読むとか、他のことをすると全部忘れちゃってる」

それを聞いていうるちに、古沢は受験勉強を思い出した。そして「人の名前」を覚えることが、小坂にとっては「勉強」なんだと理解した。

「それで、どうしたんですか?」先を促すと小坂が話を続けた。

「それで、途方に暮れてたんだ。無理だ、みんなの名前なんて覚えられない!って」

「そしたら、ちょうどその時、うちの犬が僕のそばに来た。心配そうに僕を見上げてたから言ったんだ。大丈夫、お前の名前は忘れないよ。だって、僕が付けたんだから。そう言って、ハッとしたよ。そうか、「逆」だ!僕が名前を付ければ忘れないって」


古沢は、首を傾げ、上目遣いに小坂を見た。

「名前を付ける?……誰に?」

その質問は小坂を喜ばせたようだった。

彼は陽気な笑顔を浮かべて答えた。

「つまりね、自分で名前をつければ、忘れないんじゃないかって思ったんだ。僕じゃなく、彼らに名前を覚えてもらうってこと」

小坂のツヤの良い頬は、アルコールでほんのり赤く染まっていた。彼は続けた。

「それで翌朝、言ってみたんだ。 "僕はすぐに名前を忘れちゃうから、みんなのことをサブちゃんって呼んでもいいですか?" ってね。現場の全員が笑ったり、首を傾げたりしてた。でもこっちは大真面目だった」

「サブちゃん!って呼ぶと、ときどき二人か三人が、一緒に振り向いちゃったりすることがあった。僕は、ああ、ごめん、あごひげのサブちゃんに用事です、とか、いやいやそっちのロン毛の方の、とか言ってね…!」

古沢は半ば口を開き、呆れたように聞いていた。

「それで、仕事はうまくいったんですか?……みんな、返事してくれたんですか?」

「うん、少なくとも無事に終わった。で、みんな呼んだら、返事してくれたよ。でも、ひとりだけ、どうしても返事してくれなかった人がいた。仕方ない、そう思った……」

「まぁそうでしょうね。うちの母ちゃんが、他人の立場に立って考えるのは、難しいっていつも言ってますよ……」

すると突然、小坂はグッと身を乗り出し、古沢に顔を近づけた。

「そう!正にそれだったんだ。僕は、後で知ったんだ。彼は左耳の聴力がほぼ無くて、右側に回れば返事してくれたんだ」

「ああ…!」古沢は目をぐるっと回して見せた。

「その時、僕は誰かを名前で呼べるって事が、嬉しくてしょうがなかった。そして誰も怒らない、それが、ありがたかったよ」

そう言って、彼は半分ほど残っていたジョッキを、古沢の目の前で左右に振った。

「でさ、最終日に、缶ビールが配られてね。みんなで乾杯したんだ。そうしたら今度は、みんなが僕のことを "サブちゃん"って呼び始めたんだよ」

ここまで聞けば、彼がなぜ "サブちゃん" と呼ばれるか、古沢にも理解できた。

「そうだったんですね」

小坂に頷いて見せたが、しかし、彼にはまだひとつ疑問が残った。古沢がその疑問を口に仕掛けた時、小坂の上着の携帯電話が鳴った。

彼は古沢に片手で詫びて、受話ボタンを押した。

「はい。……なに?え?サブのエサ?……ドッグフードは酸化するから。冷蔵庫だよ」

通話を終えて顔を上げると、古沢が大きな前歯を剥き出して笑っていた。

「小坂さん、もしかしてサブちゃんって」

小坂は薄くなった頭を掻いて答えた。

「そう、犬の名前!」

二人は席を揺らして笑いあった。


居酒屋の脇を、また電車が通過して行った。

店内は轟音に包まれたが、カウンターの二人は、いかにも居心地良さそうに並んでいた。














 



 



 

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