第14話 「試した水出し茶と『やってみたい』と言えた日」
昼前のピークが過ぎて、少しだけ客足が落ち着いた。
湯のみと皿を洗い終えたあと、冷蔵庫をそっと開ける。今朝の水出しのお茶が、ピッチャーに半分ほど残っていた。
「タキさん」
「なに」
食器を拭いていたタキさんが、顔だけこちらに向ける。
「この水出しのお茶……」
「うん」
「ちょっと、試してみてもいいですか」
自分で言って、自分で驚く。
「試してみたい」なんて言葉を、この茶屋で自分の口から言う日が来るとは思っていなかった。
「試す?」
「ええと、その……」
言葉を選びながら、グラスをひとつ取り出す。
「ニュースで、熱中症対策の話を見て……水分だけじゃなくて、塩分も大事って。だから、その……」
戸棚の隅に置かれていた、粗めの塩の瓶を手に取る。
蓋を開けて、指先でつまむ。
「この水出しのお茶に、塩をひとつまみだけ入れてみたらどうかなって」
「塩?」
「はい。ちゃんと塩分が取れるほどじゃなくていいので、気持ち程度、というか……ちょっとだけしょっぱいと、体に染みるかなって」
そこまで言って、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
「変ですか」
「別に」
タキさんは、塩の瓶をじっと見てから、少しだけ口元を緩めた。
「昔の人はね、麦茶に塩入れて飲んでたよ」
「そうなんですか」
「真夏の畑とかで仕事するとき。水分と一緒に塩分も取れって」
そう言って、グラスを持つ私の手元を顎で示した。
「やってみなさい」
「いいんですか」
「やってみなさいって言ったの」
「はい」
グラスに、冷たいお茶を注ぐ。氷をひとつ落として、さっきつまんだ塩を、ほんの少しだけぱらりと落とした。
よく見ないと分からないくらいの量。でも、完全に溶けきらない前に、グラスを軽く回す。
一口だけ、飲んでみた。
冷たいお茶の中に、ほんの少しだけ、しょっぱさが混ざる。
それは、「しょっぱい」と分かるか分からないかのギリギリの線だった。でも、そのわずかな塩気が、さっきまでの疲れた体には、妙にありがたく感じられた。
「……変じゃないです」
「どんな感じ」
「ちゃんとお茶なんですけど、飲み込んだあとに『あ、塩だ』って分かるくらいで」
「ふうん」
タキさんは、自分でもグラスを取り、同じように作って一口飲んだ。
「……悪くないね」
「ですよね」
思わず身を乗り出してしまう。
「お茶がいいから、塩で負けないんだね」
タキさんは、もう一口飲んでから、ゆっくりと息を吐いた。
「なんか、内側に水が入ってくる感じ」
「ですよね」
自分だけの勘じゃなかったことに、ほっとする。
「お客さんにも出してみてもいいですか」
勢いで口に出してしまってから、慌てて付け足した。
「もちろん、メニューにするんじゃなくて、サービスっていうか……午後の一番暑い時間だけ、バテてそうな人に、ひと口だけ」
自分でも、話しながら条件を増やしているのが分かる。
「無理なら、いいんですけど」
「原価は?」
「お茶と塩なので……」
「手間は?」
「ひと口ぶんだけなら、そんなに。あらかじめ何杯分か作っておいて、冷蔵庫に入れておけば」
タキさんは、しばらく黙って考えていた。
氷の音だけが、グラスの中でからん、と鳴る。
「午後の一番暑い時間だけ」
「はい」
「明らかに顔が死んでる人限定」
「はい」
「常連には、『今日は暑いから』って言って、先に一言添える」
「分かりました」
「それでやりなさい」
答えを聞いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
「ありがとう、ございます」
「あんたが考えたんだから、あんたがやんなさいよ」
タキさんは、口元だけで笑った。
「失敗したら、そのときまた考える」
「失敗……」
さっきの「ぬるいお茶」の記憶が、少しだけ頭をかすめて、喉の奥がぎゅっとなった。
でも、あのときとは違う。
今度は、自分から「やってみたい」と言った。
それが、いちばんの違いだと思った。
◇
午後一番。
入道雲は、さらに背を伸ばしていた。湖の向こうで、白い山みたいにそびえている。
蝉の声は、さっきよりも大きくなった気がした。風鈴の音も、暑さの中では涼しさより「音がしてる」という事実の方が際立つ。
「いらっしゃいませー」
階段を上ってくる足音が、いつもより重たく聞こえる。額に汗を浮かべた年配の男性と、その奥さんらしい人。二人とも、帽子を手に持って、うちわで顔をあおいでいた。
「暑いねえ」「ほんとに」
口々にそう言いながら、ちゃぶ台に座る。
「お茶、二つお願いできますか」
「はい。ありがとうございます」
いつものように答えながら、カウンターの内側でひそかに深呼吸をする。
熱いお茶を淹れる準備をしながら、冷蔵庫の中の小さなグラスが気になった。
午前中のうちに、試しに三つだけ作っておいた。「水出しのお茶+塩ひとつまみ」。透明なグラスの底に、淡い緑色の液体が揺れている。
「環」
タキさんが、目だけで合図を送ってきた。
「顔、見なさい」
ちゃぶ台の二人を見る。
額から首筋にかけて、汗が筋になって流れている。うちわで顔をあおぎつつ、息を整えている。さっきの防災訓練のチラシの地図が、頭の中で重なった。
ここまで登ってくるだけでも、それなりに消耗するはずだ。
「……あの」
思わず、声が出た。
「よろしければ、最初にひと口だけ、冷たいお茶をお持ちしましょうか」
「冷たい?」
「はい。水出しのお茶に、塩をほんの少しだけ入れたものです。暑い日に、体に染みるので……」
自分で言って、顔が熱くなる。
「お代は、いただきません。今日だけの、暑さ対策サービスというか……」
言い終わる前に、タキさんが横から口を挟んだ。
「熱いお茶は、そのあとでちゃんと持ってくるからね」
年配の男性は、少し驚いたように目を丸くしてから、ふっと笑った。
「そんな気の利いたものが出てくるとは思わなかったよ」
「いいのかい。悪いねえ」
「いえ、とんでもないです」
逃げ道を自分で塞いでしまった気もするが、もう後戻りはできない。
冷蔵庫からグラスを二つ取り出して、盆に乗せる。氷が、からん、と小さく音を立てた。
「お待たせしました。天竜の水出し茶に、塩をひとつまみ入れてあります。まずは、ひと口どうぞ」
二人の前にそっと置く。
男性がグラスを持ち上げ、恐る恐る、といった様子で一口飲んだ。
ほんの数秒の沈黙。
そのあと、彼の肩から、ふうっと大きなため息が抜けた。
「生き返るねぇ」
絞り出すみたいな声だった。
「おいしいねえ」
奥さんの方も、目を細めて笑った。
「しょっぱいってほどじゃないのに、なんか、体に入ってくる感じ」
「よかった」
胸の奥で、ぎゅっと握りしめていたものがほどけていく。
「昔はさぁ」
男性が、グラスを見ながら言った。
「畑で仕事してるとき、麦茶に塩入れて飲んだの思い出したよ。あんな感じだ」
「そうなんですね」
「最近そんなことする人いないからねえ。若いのに、よう考えたね」
若いのに。
その一言が、思いのほか嬉しかった。
「ありがとうございます」
頭を下げながら、自分の頬が少し熱くなっているのを感じた。
そのあとで、いつもの熱いお茶を淹れて持っていった。
湯気の向こうで、二人がうちわを置いて、お茶を口に運んでいる。
「やっぱり、こっちはこっちでいいね」
「冷たいのと熱いの、セットでちょうどいいわ」
そんな会話を聞きながら、カウンターの内側でそっと息を吐いた。
◇
午後の暑い時間帯、塩ひとつまみの水出し茶は、思った以上に活躍した。
境内の階段を登りきって、へとへとになっている人たち。御朱印の待ち時間に、額の汗をぬぐいながらベンチに座る人たち。
そんな中で、タキさんと目を合わせて、「あの人、いっときなさい」という無言の合図が飛ぶ。
「よろしければ、最初にひと口だけ、冷たいお茶を」
何度か同じ言葉を繰り返すうちに、口が勝手に動くようになっていった。
「これ、メニューにあった?」
「いえ、今日は特別でして」
「また来たときも、暑かったらお願いします」
そんな言葉をもらうたびに、胸の内側で、何かが小さく灯る。
東京で働いていたとき、私は誰かの「生き返る」を、こんな近くで見たことがあっただろうか。
資料を作って、メールを送り、数字を積み上げる仕事。そこにだって、きっと誰かの役に立っている要素はあったはずだ。
でも、「ふうっ」と息をつく顔は、画面の向こうには見えない。
ここでは、目の前で見える。
水出しのグラスを空にした人たちが、湯気の立つお茶に口をつける。その順番が、「避難」と「日常」の切り替えみたいに思えた。
「環ちゃん」
片付けの合間に、常連のおばあちゃんが声をかけてきた。
手には、小さな御朱印帳。
「今日のあれ、冷たいの。あんたが考えたの?」
「えっと……はい。タキさんに相談して」
「えらいねぇ」
おばあちゃんは、うんうんと頷いた。
「去年の夏もね、ここ、氷で冷やしたお茶出してくれたんだよ。あれもおいしかったけど、今日のもよかったよ」
「去年も、そんなことを」
「暑いときにね、『暑いですね』って言うだけじゃなくて、『これ飲みなさい』って出してくれるのが、一番ありがたいの」
そう言って、にこっと笑う。
「あんた、そういうこと考えられるようになったんだね」
胸のどこか、東京で固まっていた部分に、その言葉がそっと触れた気がした。
“そういうこと考えられるように”。
今まで、自分が何かを「考えて」動いていい場所にいた記憶が、あまりない。決められた仕様。決められたスケジュール。決められたやり方。
ここでは、「やってみたい」と言えば、少なくとも話を聞いてもらえる。
「ありがとうございます」
噛みしめるように言うと、おばあちゃんは「また来るね」と手を振って帰っていった。
入道雲が、少しずつ形を変えながら、ゆっくりと流れていく。
蝉の声と風鈴の音が、暑い空気の上で、綱引きでもしているみたいだった。
<次回予告>
灼ける一日のあと、ここが「昔から人が逃げ込む場所」だと聞かされる環。
「避難してきた人が、ずっと避難しているだけの場所にはしたくない」という直哉の言葉に、霧の夜にたどり着いた自分を少しだけ許せる夏の夜だった。
次回「避難所と水出し茶の夜」に、ご期待ください。
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遠州七神社 茶屋奇譚 雨野うずめ @siva0012
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