私なら伝えられる
伊阪 証
本編
作品の前にお知らせ
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
乾いた音が、会議室の空気をささくれ立たせていた。 ホワイトボードの上を滑るマーカーの黒いインクが、キュッ、キュッ、と神経質な悲鳴を上げるたびに、私の鼓膜が薄く反応する。 窓のない会議室は空調の音がやけに大きく、長テーブルに並べられたペットボトルの水滴が、蛍光灯の光を鈍く弾いている。
「――というわけで、昨今の違法翻訳サイトおよび無断転載への対抗策として、このプロジェクトが発足しました」
編集長の言葉は、用意された台本をなぞるように滑らかで、それでいてどこか他人事のような響きを含んでいた。 手元に配られた資料の紙面には、ゴシック体で『公式翻訳パートナーシップ制度導入について』と印字されている。 紙の端が少しだけ反り返っているのが目につき、私は指先でそれを押さえつけた。 インクの匂いと、微かに漂う古いエアコンの埃っぽい匂い。
私の関心は、編集長が熱弁する「業界の未来」や「損失額の推移」といった数字の羅列にはない。 スクリーンに映し出されたグラフが右肩下がりに落ち込んでいくのを眺めながら、私は自分の仕事部屋のデスクを思い浮かべていた。
新しい制度。 作家と翻訳者をペアで固定する。 それはつまり、私の書く文章が、他人の手によって咀嚼され、別の言語へと変換される工程に、逃げ場のないラインが引かれることを意味している。
これまでのように、作品ごとにコンペで選ばれた翻訳者が、それぞれの解釈で訳すのとはわけが違う。 一人の人間が、私の言葉のすべてを背負うことになる。 あるいは、私の言葉がその人間に縛られることになる。 どちらにせよ、私の生活リズムや執筆のサイクルに、他人の呼吸が混ざり込むことは避けられないだろう。
それが、ひどく億劫だった。 誰が相手になるにせよ、私のあの一行の改行のリズムや、句読点の打ち方にまで口を出してくるような相手であれば、仕事は泥沼化する。
「では、各先生方の担当翻訳者リストを配布します」
事務的な声とともに、白い紙の束がテーブルの上を滑ってくる。 私の前にも、裏返された一枚の紙が置かれた。 紙の裏面に透ける文字の濃淡だけでは、何が書かれているかは判別できない。 周囲の作家たちが、衣擦れの音を立てて紙を裏返し始めた。
「へえ、僕はまたキャサリンか。まあ、やりやすいからいいけど」 「うわ、新人? これ大丈夫なの? 僕の文体、特殊だよ?」 「あ、この人知ってる。ミステリー専門じゃないの?」
安堵、不満、あるいは純粋な興味。 それらの声がさざ波のように会議室に広がるのを、私は水底から見上げるような気分で聞いていた。 指先が、紙の縁に触れる。 コピー用紙特有の、水分を奪うような感触。
誰でもいい。 仕事ができる人間なら。 私の文章を、私の意図通りに、ただ正確に置き換えてくれるだけの機能としての他者であれば、それでいい。 過度な干渉も、情熱的な議論もいらない。 淡々と、納期通りに納品されるテキストデータ。 それを望んでいた。
私は小さく息を吐き、指先に力を入れて、紙を裏返した。
視界が、白くなる。 いや、照明が強くなったわけではない。 そこに印字された文字列を認識した瞬間、脳の処理が一瞬だけ飽和し、視覚情報が意味を結ぶのを拒絶したのだ。
明朝体で記された、その名前。 漢字とカタカナの組み合わせ。 かつて、私が誰よりも多くその名を呼び、誰よりも多くその筆跡を目にし、そして二度と見たくないと願った文字列。
『翻訳担当:
その横に添えられた『恋愛小説翻訳の第一人者』という肩書きが、悪い冗談のように黒々と太字で強調されている。
驚き、という感情すら遅れてやってきた。 ただ、心臓が一度だけ大きく跳ね、そのあとで不自然なほど静かになった。 鼓動の音が耳の奥で鳴り、周囲の雑音が遠のいていく。
どうして。 その問いが浮かぶよりも早く、横から影が落ちた。
「いやあ、先生は運がいい」
担当編集の軽薄な声が、私の思考の空白に滑り込んでくる。 顔を上げると、彼は人の良さそうな笑顔を浮かべて、私の手元の紙を覗き込んでいた。
「高坂さん、今はもう引く手あまたで、本来なら新規のペアなんて組めないんですよ。でも、先生の作品なら是非やりたいって、向こうも乗り気でね」
乗り気。 その言葉が、喉の奥に小骨のように引っかかる。 彼女が。 あの彼女が、私の作品を訳すことを望んだというのか。
「……そうですか」
私の口から出た音は、自分でも驚くほど平坦だった。 感情のささくれを、理性の皮一枚で無理やり包み込んだような声。
「先生の繊細な心理描写と、彼女の訳文の相性は抜群だと思いますよ。まさにベストパートナーだ」
編集は無邪気に言い放つ。 彼が何も知らないことは明白だった。 私たちがかつて、どれほどの時間を共有し、どれほど言葉を尽くし、そしてどれほど無様な切れ方をしたのかを。 彼はただ、売れっ子作家と売れっ子翻訳者を組み合わせたという、そのパズルの美しさに酔っているだけだ。
「……仕事、ですからね」
私は、喉元まで出かかった別の言葉を飲み込んだ。 『断ります』とも、『よりによって』とも言わなかった。 ただ、プロフェッショナルとしての仮面を貼り付ける。 その仮面の裏側で、胃の腑がじりじりと焼けるような感覚を覚えていた。
角度が悪い。 運命などという言葉を私は信じないが、もしそんなものがあるとしたら、今のこの状況は最悪の角度で切り取られた断面図だ。 互いの実績、文体の相性、業界での立ち位置。 客観的なデータだけを見れば、確かに私たちは「最適な距離」にいるのだろう。 だが、その最適さは、あまりにも皮肉に満ちている。
会議の終了を告げる言葉とともに、周囲の空気が弛緩した。 パイプ椅子を引く音、資料をまとめる音、「じゃあ、のちほど」という挨拶の声。 私は一番最後に立ち上がった。
手元の紙。 彼女の名前が書かれたその紙を、どう処理すべきか一瞬迷う。 小さく折り畳んで、手帳の間に挟み込んでしまえば、その名前を見なくて済む。 くしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に放り込めればどれほど楽か。
だが、それはできない。 これは業務連絡であり、契約の証だ。
私は無表情のまま、クリアファイルを取り出した。 透明なシートの間に、紙を滑り込ませる。 指の腹で丁寧に空気を押し出す。 折り目ひとつつけず、まっすぐに。 まるで、標本にするかのように。
過去を過去として封じ込め、仕事という枠組みの中に完全に閉じ込める。 パチン、と鞄の留め具を鳴らし、私は会議室の出口へと向かった。
廊下に出ると、少しだけ空気が冷たい。 後ろからついてきた編集が、私の背中に声をかけた。
「あ、そうそう。高坂さん、今は海外の講演とかで殺人的なスケジュールらしいんですけど、先生の新作のプロット、楽しみにしてるって言ってましたよ」 「……」 「優先して時間を作るから、早く読ませてほしいって」
社交辞令。 あるいは、挑発。 どちらに受け取るべきか判断がつかないまま、私は口の端だけで笑ってみせた。
「そうですか。期待に応えられるよう、頑張ります」
足早に歩き出す。 靴音が、リノベーションされたばかりの床に硬く響く。
期待。優先。楽しみ。 それらのポジティブな単語が、今の私には、内臓を雑に掴まれるような不快感としてしか響かない。 エレベーターのボタンを押す指先が、微かに震えていることに気づき、私はそれを拳にして握り込んだ。
吐き気がした。 胃の底から、熱く苦いものがこみ上げてくる。 あまりにも整えられすぎた舞台設定に、体が順応を拒んでいるのだ。
喫茶店の照明は、夕暮れの時間帯に合わせて少し落とされていた。 アンティーク調のランプシェードからこぼれる暖色の光が、磨き上げられた木のテーブルに柔らかな陰影を落としている。 落ち着いたジャズが低い音量で流れていたが、私の鼓膜には、入り口のドアが開閉する際に鳴るカウベルの音だけが、やけに鋭く響いていた。
「まあ、そんなに身構えなくても大丈夫ですよ」
向かいの席で、担当編集がメニューを開きながら苦笑する。
「高坂さん、遅れるって連絡ありましたし。前の打ち合わせが長引いてるみたいで」 「……ええ」
私は手元のコーヒーカップに視線を落とす。 黒い液面が、わずかな振動で揺れている。 身構えているつもりはない。ただ、呼吸のリズムが普段より少し浅く、背筋の筋肉が強張っているだけだ。
テーブルの上には、三人分の水と、まだ誰も座っていない席に置かれた空のコースター。 その空白の四角形が、まるで私の心の準備不足を可視化した領域のように見えて、居心地が悪かった。
かつて、私たちがまだ「私たち」だった頃。 待ち合わせの時間は、いつも曖昧だった。 どちらかが先に着いて、本を読んでいれば、もう一人が遅れてやってくる。 その遅れ方も、五分や十分ではなく、時には一時間近くに及ぶこともあったが、私たちはそれを不快だと思ったことはなかった。
『待っている時間が、本を一冊読むのにちょうどよかったから』
そんなふうに言い訳をして、お互いのルーズさを許容していた。 いや、許容というよりも、それが私たちにとっての「最適な距離」だったのだ。 近すぎず、拘束しすぎず、互いの時間を尊重し合う、緩やかな紐帯。
だが、それはもう過去の話だ。 今は仕事相手としての「正確な時間」が求められる。
「今回の新制度第一弾ですからね、やっぱり少し話題性のあるテーマが欲しいところです」
編集がメニューを閉じ、話題を切り替える。 その声には、ビジネス特有の明るさと、暗黙の圧力が混ざっていた。
「先生の得意な心理描写はそのままに、何かこう、フックになるような設定というか」 「フック、ですか」
私はコーヒーを一口含み、その苦みで思考を強制的に覚醒させる。 彼女が来る前に、最低限の方向性だけは示しておかなければならない。 かつての恋人の前で、言葉に詰まるような無様な姿は見せたくなかった。
「……例えば」
カップをソーサーに戻す音が、カチャンと小さく鳴る。 思考の表層に浮かんでいた泡沫のようなアイデアを、精査もしないまま口に乗せた。
「恋愛を、運だけで決める話、とか」 「運?」
編集が少し目を丸くする。
「ええ。サイコロでも、くじ引きでもいいんですけど。自分の意思じゃなく、完全にランダムな要素で相手を選んで、その結果に従うだけの恋」
口に出した瞬間、舌の上にざらりとした違和感が残った。 それは私の作風でもなければ、私が書きたいと熱望しているテーマでもない。 ただ、彼女との再会という不確定要素に心が揺さぶられているせいで、「運」という言葉が漏れ出ただけだ。
しかし、編集は興味深そうに身を乗り出した。
「なるほど、マッチングアプリのアルゴリズムとかじゃなくて、もっとアナログな運ですか。ギャンブルみたいな」 「まあ、そうですね。ギャンブルです」 「分かりやすいし、キャッチーですね。『運任せの恋』か……。今の若い世代には、逆に新鮮に響くかもしれない」
編集は手帳を取り出し、さらさらとメモを取り始める。 そのペンの動きが軽快であればあるほど、私の胃のあたりには重い鉛のようなものが沈殿していった。
「でも」
編集がふと手を止め、ペンの先で顎を突くようにして私を見た。
「先生らしくはない気もしますね。先生の描く恋人たちって、もっとこう、必然性の中にいるじゃないですか」
鋭い指摘だった。 私の心臓が、図星を指された驚きで一度だけ強く打つ。
「……たまには、違う角度から書いてみるのもいいかと思って」
私は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。 嘘ではない。 角度を変えたいとは思った。 けれど、その角度が自分にとって正しいかどうかは、まだ判断できていなかった。
その時、編集のスマートフォンが短く振動した。 彼は画面を確認すると、「すみません、ちょっと急ぎの連絡で」と断りを入れて席を立った。 店の外へ出ていく彼の背中を見送り、私はふう、と息を吐き出して、一人残されたテーブルに向き直る。
静寂が戻ってくる。 いや、店内のざわめきは変わらないのに、私の周りだけ真空になったような感覚だ。
私は自分のノートを開いた。 真っ白なページが、無言のまま私を見上げている。 ボールペンをノックし、ペン先を紙に落とす。
『運の恋』
走り書きした文字は、どこか頼りなく、浮ついて見えた。 その下に、思いつくままに箇条書きを加えていく。
・サイコロでデートの行き先を決める ・相手の言葉をくじ引きで選ぶ ・別れるかどうかもコイントス
書き連ねるほどに、ペンの動きが鈍くなっていく。 インクの出が悪いわけではない。 指先が、その言葉を記すことを拒絶しているのだ。
想像してみる。 自分の人生の選択権を、すべて運に丸投げする主人公。 主体性がなく、責任を回避し、結果が悪ければ「運が悪かった」と嘆くだけの人間。
「……嫌だ」
無意識に、小さな声が漏れた。 こんな人間、私は好きになれない。 自分が嫌悪感を抱く人物を主人公にして、長編小説を一冊書き上げることなど、苦行でしかない。 ペン先が紙の一点で止まり、じわりとインクが滲んで黒い染みを作る。
運任せ。 それは一見、自由で気楽に見えるかもしれない。 けれど、それは自分の感情を殺すことと同義ではないのか。 私が書いてきた恋人たちは、もっと泥臭く、悩み、傷つきながら、自分の足で距離を詰めていったはずだ。 運なんて不確かなものに縋ったりはしなかった。
ふと、ペンを動かし、ページの隅に二つの単語を並べて書いた。
『運』 『運命』
書いたあとで、私はその二つの言葉をじっと見つめる。 文字の形は似ている。 けれど、その間には決定的な断絶がある気がした。 今はまだ、その断絶が何なのか、言葉で説明することはできない。 ただ、この二つを混同してはいけないという、警告のような直感だけがあった。
ノートの上には、私の迷走の痕跡だけが散らばっている。 雑で、粗削りで、愛着の持てないアイデアの残骸。 私は眉をひそめ、逃げるようにノートを閉じようとした。
カラン、コロン。 ドアのカウベルが、先ほどよりも軽やかに鳴った。
反射的に顔を上げる。 入り口から差し込む夕日が、逆光となって入ってきた人物の輪郭を縁取っていた。
そのシルエットを見た瞬間、私の思考よりも早く、身体が反応した。 開いていたノートの上に、バサリと右手を被せる。 まるで、見られてはいけない秘密の日記を隠す少女のように。 その動作の激しさに、近くの席の客が怪訝そうな視線を向けてくるが、気にする余裕はなかった。
逆光の中に立つ人物が、店の中を見渡し、私を見つける。 視線が合った。 時間が、止まる。 数年分の空白が、一瞬で圧縮され、喉元に押し寄せた。
変わらない立ち姿。 少し短くなった髪と、記憶にあるものより上質な仕立てのジャケット。 けれど、その瞳の奥にある、どこか人を食ったような、それでいて全てを見透かすような光の色は、何も変わっていなかった。
彼女は私を認めると、口の端を数ミリだけ持ち上げた。 挨拶の予備動作にも、値踏みするような嘲笑にも見えた。 ただ、隠したノートの下で、私の掌がじっとりと汗ばんでいることだけが、現実の感覚としてそこにあった。
「初めまして、でいいのかな。正式に顔を合わせるのは久しぶりですね」 「ええ。以前、短編のアンソロジーで少しだけご一緒して以来でしょうか」
差し出された名刺を、私は両手で丁寧に受け取った。
『翻訳家 高坂レイ』
シンプルな明朝体で印字されたその紙片は、指先が切れてしまいそうなほど鋭利で、何の体温も帯びていない。 私の記憶の中にある彼女は、いつもインクで汚れた指先をしていたり、マグカップを片手にソファで丸まっていたりしたけれど、目の前にいる女性は完璧な「仕事相手」の装甲を纏っている。 滑らかな素材のブラウスに、無駄のない所作。
「これからはパートナーとして、よろしくお願いします」 「こちらこそ。先生の文章、いつも楽しみに拝読しています」
完璧な敬語。完璧な距離感。 編集が満足そうに頷き、私たちの間に流れる空気を「プロ同士の信頼」と解釈しているのが分かった。 私たちは共犯者のように、過去の泥沼を「以前少し世話になった」という一行のあらすじに圧縮して、この場の空気に馴染ませた。
テーブルの隅、私の手元には閉じたままのノートがある。 彼女の視線が、一瞬だけその表紙を撫でた。 中身を知りたがっているのか、それとも私が何かを隠していることに気づいているのか。 その視線の意味を読み取る前に、彼女はすぐに目を編集の方へ戻した。 まるで、他人のプライバシーには興味がないとでも言うように。
「今回のプロジェクトですが、基本的には先生の原稿執筆と並行して、高坂さんに翻訳を進めてもらいます」
編集が資料を広げ、今後のスケジュールを説明し始めた。
「チャプターごとにデータを共有し、場合によっては翻訳の観点から、表現や構成へのフィードバックも行います。海外展開も同時進行ですので、文化的なニュアンスの違いなどは、高坂さんの意見を積極的に取り入れていきたいと考えています」
フィードバック。 その言葉に、私はわずかに背筋を強張らせた。
「……つまり、プロットや展開の段階から、翻訳家の方の意見が入るということでしょうか」
努めて冷静な声を出す。 私の物語が、私の手を離れる前に、他人の論理で矯正されることへの拒絶感。 それを察したのか、高坂レイはカップに手を添えたまま、穏やかに口を開いた。
「あくまで、先生の書かれる日本語が最優先です。私が口を挟むのは、どうしても翻訳不可能な表現が出てきた場合や、文化的な誤解を招く恐れがある場合だけに限ります」
彼女の声は低く、落ち着いていて、私の神経を逆撫でしない絶妙なトーンだった。
「私は先生の文体のリズムを壊したくありませんから」
嘘ではないだろう。 彼女は昔から、私の書く文章の「リズム」だけは、誰よりも正確に理解していた。 内容についてどう思うかは別として、私の呼吸の継ぎ目を読み取る能力において、彼女以上の人間はいなかった。 それが心地よくもあり、同時に息苦しくもあったことを思い出す。
「それで、さっき話していた次回作のテーマだけど」
編集が話題を切り替えた。
「高坂さんにも共有しておこう。まだ仮案だけど、結構キャッチーでね」
編集の視線が私に向けられる。 逃げ場はなかった。 私は閉じたノートの上で指を組み、喉の渇きを覚悟して口を開いた。
「……恋愛を、運で決める話です」 「運、ですか」 「ええ。サイコロやくじ引き、そういったランダムな要素に、人生の選択を委ねる主人公の話を描こうかと」
口に出した瞬間、空気がわずかに止まった気がした。 高坂レイの眉が、ほんの数ミリ、ピクリと跳ねる。 それは驚きというより、整備された道路に落ちた異物を認めた時のような、瞬時の警戒だった。
彼女はきっと、今の短い説明だけで、私がそのテーマに抱いている居心地の悪さや、動機の薄さを嗅ぎ取ったに違いない。 けれど、彼女は何も言わなかった。 眉間の皺を一瞬で消し去り、職業的な興味を湛えた表情に切り替える。
「なるほど。海外の読者には、『Fate(運命)』と『Luck(運)』の違いは興味深いテーマとして映るかもしれませんね。ゲーム感覚の恋というのは、現代的で分かりやすい」 「でしょう? 僕もそう思ったんだ」
編集が我が意を得たりとばかりに身を乗り出す。
「タイトルや煽り文句も作りやすそうだ。『サイコロが命じるままにキスをする』とか、ビジュアル的な引きも強い」 「翻訳もしやすそうです。不条理なルールに従う人間の滑稽さと悲哀、という文脈なら、シリアスにもコメディにも振れますし」
二人の会話が、私の頭の上を飛び交っていく。 宣伝効果、ターゲット層、翻訳の難易度。 それらの観点から、「運任せの恋」というアイデアは解体され、肯定され、商品としての価値を付与されていく。
私は時折、「そうですね」とか「その方向で」と相槌を打つだけだった。 自分が生み出したはずの種が、勝手に芽を出し、私の意図しない形に枝葉を伸ばしていく。 その成長速度に、私の感情だけが追いついていない。 ノートの中にある「こんな恋人は嫌だ」というメモ書きが、熱を持って表紙の裏から私の指先を焼くようだった。
一時間ほどの打ち合わせが終わる頃には、窓の外はすっかり夜の闇に包まれていた。 「じゃあ、私は会計をしてくるから、二人は先に出てて」
編集が伝票を掴んでレジへと向かう。 取り残された私たちは、荷物をまとめて店の外へ出た。
夜風が、火照った頬に冷たく当たる。 街灯の下、並んで歩き出すこともできず、かといってすぐに背を向けることもできず、私たちは微妙な距離で立ち尽くした。 互いの呼吸音が聞こえるか聞こえないか、その境界線上の距離。
かつては、この距離が一番落ち着く場所だった。 言葉を交わさなくても、相手が次に何をしようとしているかが分かる距離。
「……あの」
彼女が口を開いた。 視線は私ではなく、通りの向こうを行き交う車のヘッドライトに向けられている。
「さっきの案」 「うん」 「本当に、あなたが書きたい恋なの?」
静かな、独り言のような問いかけだった。 非難の色はない。ただ、純粋な疑問として、水たまりに石を落とすように投げかけられた言葉。 その問いの正確さが、私の胸の奥の柔らかい部分を的確に刺した。
彼女には分かっているのだ。 私が、あの安易な設定に納得していないことも、逃げ腰であることも。
「……仕事になるなら、何でも書くよ」
私は、自分でも軽薄だと感じる調子で返した。
「プロだからね。求められるものを書くのが仕事でしょ」 「そう。……なら、いいんだけど」
彼女はそれ以上、踏み込んでこなかった。 ふ、と短く息を吐き、視線を私に戻す。 そこにはもう、個人的な感情の色はなく、完璧なビジネスパートナーの瞳だけがあった。
「楽しみにしています。先生の原稿」 「ええ、期待していて」
編集が店から出てくる気配がして、私たちの会話は唐突に途切れた。
嘘をついたわけではない。 けれど、本当のことだけを言ったわけでもない。 最適解の距離を保ったまま、私たちは互いに違う方向を向いて頷き合った。 そのズレを、まだ修復可能なもののように錯覚したまま。
鍵を開ける金属音が、深夜の廊下に短く反響した。 重いドアを押し開け、自室のスイッチに指をかけると、見慣れた生活空間が蛍光灯の白い光に晒される。 私は靴を脱ぎ、コートをハンガーにかけるまでの動作を、自動化された機械のように無駄なくこなした。 外で張り付けていた「プロの作家」としての皮膚を、一枚ずつ剥がしていくような感覚だ。
鞄をデスクの上に置く。 中から、今日受け取ったばかりの資料の束と、一冊のノートを取り出した。 クリアファイルに挟まれた一枚の紙が、不意に視界に入る。
『翻訳担当:高坂レイ』
折り目のないその紙は、他の資料とは異質な存在感を放っていた。 私はそれをファイルから抜き出すことも、引き出しにしまうこともしなかった。 ただ、デスクのライトの下、ノートの隣に無造作に置く。 彼女の名前が、常に視界の端に見切れている状態。 それが今の私にとっての、逃れられない現実の配置図だった。
椅子に座り、ノートを開く。 昼間、喫茶店で書き殴ったページが、生々しい筆跡で残っていた。
『運の恋』
その文字を見た瞬間、胃のあたりが冷たくなるのを感じた。 ボールペンを手に取り、その周囲に思いつくままの言葉を書き足していく。 文字にすることで、この違和感の正体を突き止めようとした。
・くじ引きで相手が決まる ・選ばれなかったら、そこで諦める ・当たりくじを引いたら、それ以上の努力はしない ・別れが来ても、「運が悪かった」の一言で済ませる
書き連ねるたびに、ペンの先が紙に沈み込む力が強くなる。 インクが滲み、文字が黒く潰れていく。 視覚化されたその「恋」の姿は、あまりにも無機質で、空虚だった。
これは物語ではない。 ただの抽選システムに、人間という変数を代入しているだけだ。 そこには、あの喫茶店で感じたような、皮膚が粟立つような切実さも、呼吸が止まるような緊張もない。 誰が相手でもいい。結果さえ良ければいい。 そんなものが、私の書きたい「恋」であるはずがなかった。
「……違う」
部屋の空気に、独り言が吸い込まれていく。 私はペンを置き、両手で顔を覆った。 瞼の裏に、昼間の彼女の表情が浮かぶ。 一瞬だけ動いた眉。 すぐに消された違和感。
彼女も気づいていたのだ。私が、自分自身の言葉に嘘をついていることに。 その事実が、何よりも恥ずかしく、そして悔しかった。
指の間から、ノートの隅に書いた二つの単語が見えた。
『運』 『運命』
まだ、その定義は曖昧なままだ。 けれど、並べられた言葉を眺めているうちに、ぼんやりとした輪郭だけが浮かび上がってくる。
運とは、空から無差別に降ってくる雨のようなものだ。傘を差すか、濡れるか、それはただの確率とタイミングの問題でしかない。
では、運命とは何か。
少なくとも、私と彼女の間にあったものは、雨ではなかった。 互いに傷つけ合い、言葉を尽くし、決定的な亀裂が入るまで向き合い続けたあの時間は、くじ引きで決まった結果ではない。 もっと重量のある、質量を持った何かだった。
「私たちは、運じゃなかった」
そう書き込もうとして、手が止まる。 それはあまりに感傷的すぎる。小説のネタ帳に書くべき言葉ではない。 ペン先が空中で迷い、インクが乾いていく。
彼女なら、この違いをどう訳すだろうか。 『Luck』と『Fate』。 あるいは『Destiny』。 彼女の的確すぎる翻訳が、私の曖昧な迷いを切り裂いてしまう光景が脳裏をよぎり、私は首を振ってその思考を追い払った。
深夜の静寂の中、冷蔵庫のモーター音だけが低く響いている。 私は深呼吸をして、ペンの持ち方を直した。 感情を排し、物語の核となるべき論理だけを探る。
うまくいった恋が運命と呼ばれるのは簡単だ。 だが、私が書きたいのは、そして私が知っているのは、そうではない形だ。
ペンの先を、ページの最下部に走らせる。
『うまくいかなかった恋にも、意味があってほしい』
書き終えた文字は、震えてはいなかったが、ひどく弱々しく見えた。 それは物語のテーマというより、私自身の祈りに近かった。
意味がなければ、あまりにも救いがない。 あの痛みも、喪失も、ただ「運が悪かった」で片付けられてしまうのなら、私たちは何のために出会ったのか。
その問いの答えは、まだ出ない。 私はノートを閉じようとして、ふと手を止めた。 明日、このノートを彼女に見せることができるだろうか。 この未熟で、個人的な感情が滲み出たメモを。 プロとして隠すべきか、パートナーとして晒すべきか。
迷いは消えなかったが、私はノートを開いたままにすることを選んだ。 デスクライトのスイッチを切る。
ふっ、と視界が闇に沈む。 暗闇の中で、開かれたノートの白いページだけが、残像のように網膜に焼き付いていた。
カーテンの隙間から差し込む午後の陽光が、机の上に一筋のラインを引いていた。 その光の帯は、昨夜から開きっぱなしになっているノートの上を横切り、白い紙面を容赦なく照らし出している。
私はマグカップの縁に口をつけ、冷めたコーヒーを少しだけ啜った。 苦みが舌の奥に残る。 視線は、ノートの最下部に書かれた一行に釘付けになっていた。
『うまくいかなかった恋にも、意味があってほしい』
昨夜の私が、深夜のテンションに任せて書き殴ったその文字は、一夜明けた冷静な頭で見ると、驚くほど陳腐で、感傷的なポエムのように見えた。 恥ずかしさに、耳の裏が熱くなる。 まるで、熱病に浮かされて書いた遺書を、平熱に戻った朝に読み返しているような居心地の悪さだ。
「……安っぽい」
独り言が、乾いた部屋の空気に溶ける。 こんな言葉を、プロットの核として編集に見せられるはずがない。 ましてや、あの高坂レイに見せるなど、自殺行為に等しい。
彼女ならきっと、無言で眉を寄せ、赤ペンで『主観的過多』とだけ書き添えて戻してくるだろう。 その光景がありありと想像できてしまい、私は小さく溜息をついた。
ペンを取り、新しいページを捲る。 昨夜の感傷を埋葬するように、真っ白な紙面に向き直った。 思考を整理しなければならない。 感情ではなく、論理で。
私はページの真ん中に、二つの単語を並べて書いた。
『運』 『運命』
その周囲に、連想される言葉を箇条書きにしていく。 昨日の喫茶店で編集と話した「ギャンブルのような恋」を起点に、その構成要素を分解する作業だ。
『運』の側には、無機質な言葉が並ぶ。 ――くじ引き。確率。当たり外れ。責任放棄。言い訳。
書いていて、ペン先が紙を引っ掻く音が不愉快に響く。 私が「運任せの恋」を嫌悪する理由は、おそらくここにある。 それは「自分のせいではない」という逃げ道を用意するためのシステムだからだ。 うまくいかなくても、サイコロの目が悪かっただけ。 フラれても、くじ引きでハズレを引いただけ。 そこには主体性がなく、したがって傷つくこともない代わりに、何の蓄積も生まれない。
では、『運命』はどうか。 私はペンの手を止め、少し迷ってから、対になる言葉を探り出した。
――あとで意味が分かること。意識していなかった選択の積み重ね。帰り道で、たまたま同じ方向を選んでいたこと。
書きながら、胸の奥がざらつく。 運が「責任の放棄」だとするなら、運命とは「責任の所在が自分にあること」を突きつけられる概念ではないか。
あの時、あっちの道を選んでいれば。 あの時、あの一言を言わなければ。 あるいは、言っていれば。
それら無数の選択肢の中で、私たちがその「結末」を選び取ってしまったのだとしたら。 それは「運が悪かった」で済ませるよりも、遥かに残酷で、恐ろしいことだ。
『運=誰のせいにもできるから嫌い』 『運命=誰のせいにもできないから怖い』
脳内ではそんな図式が成立しているのに、私はそれを文字にすることができなかった。 「怖い」とか「嫌い」といった、感情そのものを表す言葉をノートに残すことを、本能が拒否したからだ。 それは小説家のメモではない。ただの愚痴だ。
私は書こうとした手を止め、視線を窓の外へ逃がした。 硝子越しに見える街路樹が、風に揺れている。
かつて、彼女と別れた日のことも、天気予報は晴れだったのに、突然の雨が降った。 あれは運が悪かったのだろうか。 いいや、違う。 私たちが傘を持っていなかったのは、空を見上げようともしなかったからだ。 互いの顔色と、自分の足元ばかりを見ていて、空模様の変化に気づこうとしなかった。 それは「不運」ではなく、明確な「過失」だ。
そこまで考えが及び、私は慌てて思考を遮断した。 危険だ。 このテーマを深く掘り下げようとすればするほど、記憶の蓋が開きそうになる。
私は視線をノートに戻し、感情語を避けた、あやふやな表現で逃げを打った。
『選んだのか、選ばされたのか』 『たまたまなのに、避けられなかったような気がする』
インクの黒が、白い紙の上に滲んでいく。 それは哲学的な問いのようでいて、その実、核心から目を逸らすための煙幕に過ぎなかった。
ペンを置く。 カラン、とプラスチックの音が机の上に響いた。
ノートを見下ろす。 そこにあるのは、迷走した思考の断片と、核心を避けて通り過ぎたタイヤ痕のようなメモだけ。 結局のところ、私は「運」と「運命」の違いを定義しきれていない。 ただ、「どこまでを自分のせいにできる恋か」という、ひどく個人的な尺度でしか測れていないのだ。
これを物語の骨格にするには、あまりにも強度が足りない。 客観性が欠けている。
「……私ひとりじゃ、無理か」
認めたくなかった言葉が、口をついて出た。 自分の中にあるドロドロとした感情を、綺麗な物語の形に精製するためには、濾過装置が必要だ。
私以外の視点。 私以外の論理。 私の言葉を、私以上の解像度で理解し、それでいて私とは全く違う角度から切り取ってくれる誰か。
ふと、机の隅に視線が落ちる。 クリアファイルの中で、無機質な明朝体が私を見ていた。
『翻訳担当:高坂レイ』
その名前が、今の私には救命浮き輪のようにも、首を絞めるロープのようにも見えた。
彼女なら、この曖昧なメモをどう処理するだろう。 「意味が分からない」と切り捨てるか。 それとも、「つまり、こういうことでしょう」と、私が言いたくても言えなかった言葉を、涼しい顔で当ててみせるか。
まだ、彼女に見せると決めたわけではない。 けれど、このノートを閉じたままでは、一歩も先へ進めないことだけは、痛いほど理解していた。
私は深い呼吸を一つ吐き出し、椅子の背もたれに体重を預けた。 天井のシミを見上げながら、自分の中にあるプロ意識と、個人的な羞恥心が天秤の上で揺れているのを感じていた。
編集部のあるフロアは、独特の熱気と停滞が層になって混ざり合っている。 電話の呼び出し音、コピー機が紙を吐き出すリズム、誰かの早口の罵声、そしてどこかで上がる笑い声。 それらが渾然一体となって、午後三時のけだるい空気を無理やり撹拌していた。
私は自動ドアをくぐり、受付の内線電話で担当編集を呼び出した。
「あ、先生! お疲れ様です。こっちこっち」
パーティションの向こうから、担当編集が手を振る。 その笑顔は明るいが、目が笑っていないことに私は気づいている。 デスクの周りには、校了直前の修羅場を迎えているらしい作家が死んだような目で座っていたり、打ち合わせ中のイラストレーターがラフ画を広げていたりする。
情報の奔流。 その只中に身を置くだけで、私の内側にある静かな湖面が、さざ波立つのを感じた。
「いやあ、わざわざすみません。メールでもよかったんですけど、やっぱり顔を見て話したほうが早いと思って」
編集は自分の椅子を引いて私に勧め、自分はデスクの端に腰掛けた。
「新制度第一弾ですからね。上も結構うるさくて、そろそろスケジュールの見込みだけでも立てておきたいんですよ」
本題に入るまでの助走が短い。 それが、彼なりの焦りの表れだった。 配られた缶コーヒーのプルタブを開ける音が、カシュ、と乾いた音を立てる。
「プロット、どうですか? この前の『運任せの恋』のやつ」 「……ああ」
私は曖昧に頷き、一口だけコーヒーを飲む。 甘すぎる液体が、喉にへばりつく。
「まだ、骨組みを詰めている段階です。ちょっと、迷いがあって」 「迷い? 設定ですか?」 「ええ、まあ。キャラクターの動機と、テーマの噛み合わせが……」
正直に答える。 嘘をついて時間を稼ぐことはできるが、それは結局、未来の自分の首を絞めるだけだ。
「なるほど」
編集は腕を組み、天井を仰いだ。
「まあ、産みの苦しみってやつですね。でも、そろそろ方向性だけでも共有しておかないと、翻訳のほうも準備がありますから」 「そうですね」 「高坂さんとも足並みを揃えないと――あ、噂をすれば」
編集の視線が、私の背後へ飛ぶ。 心臓が、意図せず一度だけ強く打つ。
振り返ると、そこには書類の束を抱えた高坂レイが立っていた。 私服だろうか、それとも衣装だろうか。 淡いグレーのニットに、細身のパンツ。 飾り気のないその格好が、かえって彼女の輪郭を際立たせている。
彼女は私たちに気づくと、小さく目礼した。
「お疲れ様です。別件の契約書、持ってきました」 「ありがとう高坂さん! 助かるよ」
編集が手招きをする。
「ちょうどいい、今ね、先生と新作の話をしてたんだ。高坂さんも少し時間ある? 三人で話そうよ」
拒否権のない提案。 彼女は一瞬だけ腕時計に目をやり、それから私の方を見て、静かに頷いた。
「ええ、三十分くらいなら」
その視線が、私の鞄の中に眠るノートを透視したような気がして、私は無意識に鞄の取っ手を握りしめた。
________________
私たちはフロアの隅にある、簡易的な打ち合わせスペースへと移動した。 丸テーブルを囲んで座る。 私、編集、そして高坂レイ。 三角形の配置。
「それで、さっきの話の続きだけど」
編集が切り出す。
「『恋愛を運で決める話』。これ、高坂さんにも概要は伝えてあるけど、先生としてはどこで迷ってるの?」
問いかけが、ボールのように私に投げられる。 隣に座る彼女の気配が、肌にピリピリと伝わってくる。 私は視線をテーブルの木目に落としたまま、慎重に言葉を選んだ。
「……少し、形が変わりそうで」 「変わる?」 「運任せにする、という設定は残るんですが。その……ニュアンスが。ただのギャンブルじゃなくて、もっとこう、切実なものにしたくて」
言葉にすればするほど、自分の思考がまとまっていないことが露呈する。 もどかしさが募る。 頭の中には、あのノートに書き殴った「不快感」や「違和感」がある。 けれど、それを口頭で説明しようとすると、どうしても感情論になってしまう。
「設定の整理が、うまくできなくて」
私は意を決して、鞄からノートを取り出した。 使い込まれた、黒い表紙のノート。 そこには、私の迷走と、彼女に見られたくない本音が詰まっている。
出すべきか、隠すべきか。 迷いはあったが、このまま沈黙を続けることのほうが怖かった。 ことりと、テーブルの上にノートを置く。 その音が、やけに大きく響いた。
「これに、断片的なメモはあるんです。でも、物語としてどう組み立てればいいか、まだ出口が見えなくて」
私の告白に、編集は「ほう」と身を乗り出し、それからポンと手を打った。
「なら、適任がいるじゃないですか」
彼は顎で、私の隣を示した。
「構成や設定の整理なら、高坂さんの得意分野だ。彼女、元の文脈を汲み取って構造化するの、天才的にうまいですからね」
知っている。 かつて私の支離滅裂な愚痴を、「つまり、こういうことでしょ」と鮮やかに要約してくれたのが誰だったか。
私はちらりと彼女を見る。 彼女は冷静な瞳でノートを見つめ、それから私を見た。
「……設定メモを、一度お預かりして、整理案を作りましょうか」
事務的な、けれど拒絶ではない提案。
「私が読んで、要素を分解して、構造の叩き台を作ります。それを見て、先生がまた違和感があれば修正する。そのほうが早いかもしれません」 「おお、それはいい。餅は餅屋だ」
編集が喜色満面で賛同する。 私は喉の奥で言葉を詰まらせた。
このノートを渡すということ。 それは、あの中に書かれた『運』と『運命』の違いや、『こんな恋人は嫌だ』という私の私的な感情を、彼女に解剖されることを意味する。
「……まだ、全然まとまってないんです」
弱々しい抵抗が口から漏れた。
「字も汚いし、自分でも何を書いてるか分からないような走り書きばかりで」 「ラフでいいんですよ、ラフで」
編集が笑い飛ばす。
「綺麗に清書してからじゃ遅い。生煮えの状態を共有するのが、チームワークってやつでしょう」
チームワーク。 その言葉の明るさが、今の私には皮肉にしか聞こえない。 逃げ道は塞がれていた。
私は観念して、指先をノートの表紙にかけた。 黒い表紙が、指の腹に冷たく張り付く。 ゆっくりと、彼女の方へスライドさせる。
テーブルの上を滑るノート。 それが彼女の領域に入った瞬間、彼女の手が伸びた。
私の指先と、彼女の指先。 触れるか触れないか、そのギリギリの距離で空気が揺らぐ。 静電気のような緊張が一瞬だけ走り、私は反射的に手を引っ込めた。
彼女は表情を変えずにノートを引き寄せ、中身を確認することもなく、パタンと両手で挟むようにして抱えた。
「読みやすいように整理して、明日には返します」
淡々とした声。 そこには、私の逡巡や羞恥心に対する配慮も、あるいは好奇心も、一切含まれていないように見えた。 ただの「仕事」として引き受けた顔。
「……すみません、お願いします」
私は深く頭を下げた。 視界が暗くなる。 その暗闇の中で、私は奇妙な感覚を味わっていた。 自分の内側にあった、言葉にできない澱のようなもの。 それを、ノートという物理的な器ごと、彼女に手渡してしまったという感覚。
それは一種の敗北であり、同時に、どうしようもない安堵でもあった。 自分ひとりでは抱えきれなかった「意味」を、彼女に丸投げしたのだ。
顔を上げると、彼女はもう立ち上がっていた。
「では、私はこれで。整理ができたら、また連絡します」
彼女はノートを胸に抱いたまま、最後に一度だけ私に視線を戻した。 その瞳が、何かを言いたげに微かに細められる。 けれど結局、言葉にはならなかった。
「頼んだよ、高坂さん」
彼女の背中が遠ざかっていく。 私のノートを、私の分身を抱えて。 私はその背中を見送りながら、自分の手が軽くなったことに気づき、そしてすぐに、その軽さが堪らなく恐ろしくなった。
デスクライトの白い光が、作業机の一点を冷ややかに切り取っていた。 周囲には、分厚い英和辞典や類語辞典、現在進行形で抱えている海外ミステリーのゲラ刷りが、城壁のように積み上げられている。
静寂。 聞こえるのは、加湿器が微かに吐き出す水蒸気の音と、私がページをめくる摩擦音だけ。
目の前にあるのは、昼間に預かった黒いノートだ。 私は最初から読むことはせず、指先の感覚で、紙の繊維が少し毛羽立っているページを開いた。 何度も書き直され、筆圧で紙が波打っている箇所。 そこに、作家の迷いが凝固している。
『運』と『運命』。
その二文字の周りに散らばる、殴り書きのようなメモ。 インクの濃淡が一定ではない。ある部分は怒りのように深く沈み、ある部分は自信なさげに掠れている。 私は眼鏡の位置を直し、その乱雑な思考の跡を、翻訳すべき「原文」としてスキャンした。
テキストの背後にある呼吸を読む。 これは、迷いではない。 怯えだ。
私はシャープペンシルを取り、芯をカチリと出した。 作家が残した言葉の隙間に、極細の文字で注釈を加えていく。 他人の思考回路に、自分の論理でバイパスを通す作業。
『運:くじ引き、当たり外れ』というメモの横に、矢印を引く。 『→ 結果に対する責任を、外部(システム)に置ける』
続いて、『運命:あとで意味が分かる』というメモの横へ。 『→ 結果に対する責任を、自分の内側で引き受けざるを得ない』
ペン先が滑らかに走る。 作家は、この二つの違いを感覚的に理解していながら、あえて言葉にするのを避けているようだった。 特に「運命」の項において、筆致が鈍っている。 「怖い」とも「嫌い」とも書いていないが、その行間には拒絶反応が滲んでいる。
私は、作家が書き落とした感情を、容赦なく言語化した。 余白部分に、小さく書き込む。
『※本質的な不安。自分の選択が間違っていたと認めることへの恐怖』
仕事だ。 個人的な感情はない。 ただ、物語の構造を明確にするために、曖昧な部分に輪郭線を与えているに過ぎない。
ページをめくる。 視線が、次のリストで止まった。 『こんな恋人は嫌だ』という見出しはないが、明らかにネガティブな文脈で列挙された行動パターン。
・選ばれなかったら諦める ・当たったら努力しない ・別れても「運が悪かった」で済ませる
ペン先が、空中で一瞬だけ静止した。 その文字列が、文字情報の枠を超えて、既視感のある映像として脳裏に再生されたからだ。
選ばれなかったら諦める。 あの日、雨の中で背中を向けたのは誰だったか。 努力をしなかったのは。 「運が悪かった」と言って、必然だった別れを、タイミングのせいにしたのは。
胸の奥がチクリと痛む。 だが、私はすぐにその感覚を、職業的な分析へとすり替えた。
「……こういう造形、今の読者は嫌うわね」
無意識に呟き、客観的な評価として処理する。 現代のエンターテインメントにおいて、受動的すぎる主人公は共感を得にくい。 これは構造上の欠陥だ。
私はリストの横に、注釈ではなく、キャラクターの定義として言葉を添えた。
『選ばないで済む人』 『選んだことにしない人』
その言葉は、作家の作ったキャラクターを指しているはずなのに、鏡に映った自分を見ているような薄ら寒さを伴っていた。
私は息を吐き、思考を切り替える。 個人の感情を排除し、物語の「骨組み」だけを抽出する。 新しいページを開き、相関図のラフを描き始めた。
丸と矢印、そして対立構造。
『人物A:恋を運に任せる側(責任回避)』 『人物B:偶然の重なりに意味を見出してしまう側(責任過多)』
二つの円を描き、その間に線を引く。 この二人は、根本的に見ている景色が違う。 一方はサイコロの目を見ており、もう一方はサイコロを振った手の角度を見ている。
『二人とも“責任をどこに置くか”の所在が違う』
論理は通った。 これで、作家が抱えていたモヤモヤとした違和感は、明確な対立軸として機能するはずだ。
最後に、その二人の関係性を定義する一文が必要だった。 なぜ、そんなに考え方が違う二人が、惹かれ合い、あるいは反発し合うのか。 シャープペンシルを走らせる。
『角度は合わないのに、距離だけが離れない関係』
書き終えて、ふと手を止めた。 黒鉛の粉が、指先で少し擦れて伸びている。 角度と距離。 それは、物語のメモとしてはあまりに具体的すぎたかもしれない。 まるで、今この机に向かっている私と、このノートの持ち主のことを指しているかのように。
いや、違う。 これはあくまで作中作の分析だ。 フィクションのための素材整理だ。
私は頭を振り、パタリとノートを閉じた。 表紙に、黄色い付箋を貼り付ける。
『設定整理・構成案』
端的な文字。 それですべてを「業務」という箱に封印したつもりで、私は冷めた紅茶に口をつけた。 カップの底に残った液体は、ひどく渋かった。
会議室のドアが閉まり、担当編集の足音が遠ざかっていく。 「じゃあ、あとはお二人で細かいすり合わせをお願いします」という言葉を残して、彼は次の打ち合わせへと走り去っていった。
残されたのは、私と高坂レイ、そしてテーブルの上に置かれた一冊の黒いノートだけだ。 密室の静寂が、鼓膜を圧迫する。 空調の低い唸り声だけが、会話の不在を埋めていた。
「……これ」
彼女が、ノートの上に置いた手を引いた。 その下には、A4用紙が一枚、クリアファイルに入って添えられている。
「直接書き込むのは気が引けたから、構成案は別紙にまとめました。ただ、思考の流れを追うために、ノートのほうにも少しメモを残してあります」 「読みづらくなってたらごめん」と、彼女は付け加えた。 その口調は、昨日の夜に一人で作業していた時の熱量を完全に消し去った、平坦なものだった。
私は「ありがとう」とだけ短く礼を言い、ノートを引き寄せた。 表紙に貼られた『設定整理』という黄色い付箋。 その事務的な色が、私の個人的な迷いを強制的に仕事へと変換していた。
ノートを開く。 見慣れた私の乱暴な文字の隙間を、小さく、整然とした文字が埋め尽くしていた。 シャープペンシルの、硬質で繊細な筆跡。
『運:結果の責任をシステムに転嫁する行為』 『運命:結果の責任を内面化しすぎる病理』
私が感情的に書き殴った言葉の横に、冷静な分析が矢印で紐付けられている。 読み進めるごとに、胸の奥がざわついた。
私が「嫌だ」と感じていた正体を、彼女は「責任の所在」という論理で解剖していた。 私が「怖い」と避けていた部分を、「内面化しすぎる病理」と言語化していた。 まるで、私の脳内を覗き込み、散らかった部屋を勝手に片付けられたような感覚だ。
「……少し、読み解きすぎたかしら」
ページをめくる手が止まっている私を見て、彼女がカップに口をつけながら言った。
「原文の行間を埋めるのが癖だから。余計なお世話だった?」 「いいえ」
私は顔を上げずに答える。
「……助かります。自分でも、ここまで言語化できていなかったので」
悔しさはあった。 けれど、それ以上に、この解釈の正確さに圧倒されていた。 彼女はやはり、私の言葉の一番の理解者であり、同時に一番残酷な観察者だ。
別紙の『整理メモ』に目を移す。 そこには、物語の対立軸が図式化されていた。
『人物A:運に任せて傷つかないことを選ぶ』 『人物B:運命と信じて傷つくことを選ぶ』
簡潔で、残酷な対比。 そして、そのシートの下部にある、小さな備考欄に視線が吸い寄せられた。
『関係性案:互いの定義が逆立しているため、噛み合わない。しかし、噛み合わないからこそ、相手の欠落を埋める形になり、離れられない』
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。 定義が逆。 噛み合わない。 けれど、離れられない。
その一文は、作中のキャラクターに向けられた設定なのだろうか。 それとも、このノートを読み解く過程で、彼女が思い出した「私たち」のことなのだろうか。
文字だけでは、その意図は読み取れない。 ただ、その分析があまりにも的確すぎて、私は指先でその文字を隠すように押さえてしまった。
「これ……」
声が出た。 誰の話ですか、と聞きそうになり、喉元で寸止めする。 そんなことを聞けば、この薄氷のようなプロフェッショナルな関係は崩壊する。 私は強引に、文脈を仕事へとねじ曲げた。
「……つまり、こういう関係性を書け、という提案ですか」
彼女は一瞬だけ視線を泳がせ、それから私の目を見て、淡く微笑んだ。
「物語としては、アリでしょう?」 「アリ、ですか」 「ええ。何でも分かり合える二人より、何ひとつ分かり合えないのに、なぜか隣にいる二人のほうが、今の読者には誠実に映ると思うから」
誠実。 その言葉が、私の内側の柔らかい部分を刺した。 分かり合えないのに、隣にいる。 かつての私たちがそうだったように?
思考よりも早く、言葉が滑り落ちた。
「なんか、私たちみたいですね」
部屋の空気が、凍りついた。 言った瞬間、私は自分の唇を噛み切りたい衝動に駆られた。 失言だ。 もっとも言ってはいけない、「過去」を現在に引きずり込む一言。
私は慌てて目を伏せ、ページをめくるふりをした。 心臓の音がうるさい。 彼女の反応を見るのが怖い。 数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。
やがて、彼女の乾いた声が落ちてきた。
「……そうね。私たちも、分かり合えなかったものね」
そこには、肯定も否定もなかった。 ただ事実として受け止め、そして流そうとする響きだけがあった。
「まあ、だからこそ、いい仕事ができるのかもしれません。……次のページ、構造の案も見ていただけますか?」 「あ、はい」
私は逃げるように視線を次のページへ移した。 会話はすぐに、物語の構成や、登場人物の配置といった実務的な内容に戻っていった。
けれど、テーブルの真ん中に置かれたノートだけが、異物のように存在感を放ち続けている。 私の無防備な本音と、彼女の冷徹な分析が混ざり合った、黒い紙の束。
それが作り出した「新しい間合い」は、以前よりも少しだけ狭く、そして以前よりも遥かに危険なものに変わっていた。 私はペンを握りしめ、二度と口を滑らせないよう、奥歯に力を込めた。
会議室の長机の上には、毒々しいほど鮮明なインクで印刷された、A4用紙の束が散乱していた。 そこに並んでいるのは、私の文章だ。 正確には、私の文章であって、私の文章ではないもの。
「いやあ、参りましたよ。機械翻訳をベースにしてるのか何なのか、文法自体はそこまで破綻してないんですけどね」
担当編集が、渋い顔でこめかみを押さえた。
「読んでみると、なんとなく別の話に見える。不思議なもんです」
海外の違法アップロードサイトから抽出されたというそのテキストは、私の初期の代表作だった。 まだ高坂レイと出会う前、あるいは出会って間もない頃に書いた、未熟で、だからこそ熱量だけは高い恋愛小説。 それが今、海を越えて、誰かの勝手な解釈で上書きされようとしている。
「公式として『決定版』を出すにあたって、まずはこの誤訳のニュアンスを潰しておきたいんです。どこがどうズレているのか、お二人で確認してもらえますか」 「分かりました」 「ええ、やりましょう」
私と高坂レイは、同時に赤ペンを取り、並んで座った。 二本のペンが、紙の上を滑り始める。 カツ、カツ、と硬い音がリズムを刻む。 私たちは無言で、しかし驚くほど息の合ったペースで、文字の羅列を解体していった。
作業を始めて数分で、編集の言っていた「別の話に見える」という意味が理解できた。 単語の誤選択や、構文の取り違えといった単純なミスは少ない。 むしろ、辞書的には正しい言葉が選ばれている。 それなのに、読後感がまるで違うのだ。
「……ここ」
高坂レイの手が止まる。 ペン先が指しているのは、主人公が恋人の手を取ろうとして、怖気づいて引っ込めるシーンだ。
『私は、その指先に触れることを躊躇した。もし触れてしまえば、二度と戻れない気がしたからだ』
原文のニュアンスは「恐怖」だ。関係が壊れることへの、あるいは変質することへの怯え。 しかし、目の前の翻訳文は違っていた。
『I hesitated to touch... because once I did, I felt we would ascend to a place of no return.』
「……『ascend(上昇する)』? これだと、高みへ登るようなニュアンスになってる」
彼女が冷静に指摘する。
「原文は『戻れない』という喪失の予感なのに、この訳だと『新しいステージへ行く』という期待や勇気として解釈されていますね」 「距離は合ってるんです」
私は思わず口を挟んだ。
「触れるか触れないか、そのギリギリの距離感自体は描写できている。でも……」 「向いている方向が逆、ですね」
彼女が私の言葉を引き取った。
「主人公は後ろを向いて立ち止まっているのに、この訳文の主人公は、前を向いて踏み出そうとしている。行動は同じ『躊躇』でも、内面の角度がまるで違う」
角度。 その単語が出た瞬間、私の脳裏にあのノートの書き込みがフラッシュバックした。
『角度は合わないのに、距離だけが離れない関係』
目の前の誤訳は、単なる語学力の不足ではない。
「この書き手は、きっとこの恋をハッピーエンドの予兆として読みたかったんでしょうね」
彼女は淡々と分析を続ける。
「だから、無意識にポジティブな光を当ててしまった。……厄介な誤読です」 「……私の書き方が、曖昧だったのかもしれません」
私は、喉に引っかかった棘を飲み込むように言った。
「恐怖とも期待とも取れるような、中途半端な描写をしたから」
それは作品への反省であり、同時に、私たちの過去への弁明でもあった。 あの頃の私が、もっと明確に「これは恐怖だ」と伝えていれば、私たちは違う終わり方を迎えられたのだろうか。
「曖昧さ自体は、悪くありません」
彼女は視線を紙から離さず、赤ペンで修正線を引いた。
「読み手がどこを見ているか、の問題ですから。……この訳者は、ただ見たかったものを見ただけです」
肯定も否定もしない、フラットな声。 彼女自身は、私の中に何を見ていたのだろう。 聞きたかったが、言葉にはできなかった。
「まあまあ、そのへんの舵取りをするのが今回の『決定版』ですから」
編集がパンと手を叩き、空気を切り替えた。
「お二人で、正しい角度をビシッと決めてあげてください。『これが正解だ』っていうのをね」 「はい」 「ええ、もちろん」
私たちは声を揃えて返事をした。 正しい角度。 それを決める作業は、まるで私たち自身の過去の答え合わせを強要されているようで、赤ペンを握る指先がわずかに汗ばんだ。
________________
一時間ほどの作業を終え、私たちは会議室を出た。 廊下は静かで、私たちの足音だけが響いている。 私の手には、まだ赤字だらけのプリントが握りしめられていた。
修正された文字の群れ。 本来の意図へと矯正された、私の分身たち。
「……高坂さん」
エレベーターホールへ向かう途中、私は何気なく尋ねた。
「こういうふうに誤解されるのって、嫌ですか」 「誤解?」 「ええ。完全に間違っているわけじゃなくて、惜しいところでズレて解釈されること」
彼女は歩きながら、少しだけ視線を天井に向けた。 考えるような、あるいは何かを思い出すような間。
「……完全に間違われるより、たちが悪いですね」
やがて、彼女は静かに答えた。
「『全然違う』なら笑って否定できますけど、『ほぼ合ってる』だと、否定したときにこっちが細かいことに固執してるみたいに見えるでしょう? それが一番、疲れます」
淡々とした口調の中に、微かな疲労の色が滲んでいた。 ほぼ合っている。 けれど、決定的に違う。 その微差を埋めるために、私たちはどれだけの言葉を費やし、そして徒労に終わったのだったか。
「……ですね」
私は短く同意した。 それ以上、言葉を継ぐことはできなかった。 笑うことも、反論することもできず、ただ「仕事仲間」としての同意を装う。
到着したエレベーターのドアが開き、私たちは無言でその箱の中へと滑り込んだ。 閉じていく扉の向こうで、廊下の景色が細く切り取られ、やがて見えなくなった。
密室に残ったのは、修正された原稿と、修正されないままの私たちだけだった。
午後の陽射しが、ブラインドの隙間から縞模様を描いてテーブルに落ちていた。 その光の檻の中に、一枚のレポート用紙が置かれている。
高坂レイが作成した、『作中人物構成案』。 無駄のないレイアウトで整理されたその紙面は、私の頭の中にある曖昧なイメージを、冷徹なまでに解剖していた。
『人物A:選択を運(システム)に委ねる者。責任を外部化し、傷つくことを回避する』 『人物B:偶然の一致に物語(意味)を見出す者。出来事を事後的に編集し、必然と呼びたがる』
文字を目で追うたびに、薄皮を剥がされるような痛みを感じる。 特に『人物B』の記述だ。 「あとから物語として読み直す」「必然と呼びたがる」。 それはまさに、私自身の思考の癖そのものだった。 過去の失敗を「運命だった」と言い換えることで、どうにか自分を保とうとする弱さ。
彼女はそれを、あくまで架空のキャラクターの設定として、淡々と記述している。
「……よく、分析できてるね」
私は声を絞り出した。 称賛の形をとった、降伏宣言に近い響きになってしまった自覚がある。
「AとBの対比構造を明確にしないと、ただの優柔不断な二人の話になっちゃうから」
彼女は私の動揺に気づかないふりをして、シャープペンシルの先で紙面を突いた。
「物語のゴールとして、この二人がどこへ辿り着くか。そこを決めたいんです」 「ゴール」 「ええ。作中では『運命』という単語自体は使わない。それは同意します。陳腐になるから」
彼女は手元の資料に目を落としながら続ける。
「でも、言葉を使わずに、二人が『運命的な到達点』に触れる瞬間は必要です。読者が納得するカタルシスとして」 「……つまり?」 「一度は、恋人として交わるべきだと私は思います」
さらりと、彼女は言った。 それは提案というより、構造上の要請として提示された。
「互いの欠落を埋め合う形で、一度は完全に結ばれる。そこまで行かないと、その後の崩壊も描けない」 「……いや」
反射的に、拒絶の言葉が喉まで出かかった。 私はコーヒーカップを持ち上げ、口元を隠すようにして時間を稼ぐ。
恋人として交わる。 それを書いてしまえば、その先にある「崩壊」も、生々しいリアリティを持って書かなければならなくなる。 それはフィクションの枠を超えて、私自身の古傷を開く作業になるのではないか。
「交わらないまま終わる恋も、あるんじゃないかな」
私は慎重に言葉を選んだ。
「お互いに必要としているけれど、指一本触れずに、ただの軌道としてすれ違う。そういう選択も、物語としては美しいと思う」
逃げだ。 自分でも分かっている。 けれど、彼女はペンを止めて、真っ直ぐに私を見た。 その瞳の奥にある静かな光が、私の言い訳を射抜く。
「先生」
彼女が、あえて仕事上の呼称を使った。
「美しさで逃げないでください。読者は名前を欲しがります」 「名前?」 「ええ。この二人の関係は何だったのか。恋だったのか、依存だったのか、それともただの勘違いだったのか。最後に名前がつかないと、読者は宙吊りにされたままです」 「……名前をつけることで、こぼれ落ちるニュアンスもある」 「それは書き手の傲慢です」
厳しい言葉だった。 しかし、彼女の声は決して荒げられていない。 ただ、翻訳者として「定義」を求める職業的誠実さが、そこにあるだけだ。
「親友として終わるのか、恋人として終わるのか。どちらを『正解』にするか、今の段階で決めておかないと、伏線が張れません」
正解。 その二文字が、重く響いた。 私たちの過去に、正解はあったのだろうか。 どちらかが間違っていて、どちらかが正しかったのだろうか。
もし今、ここで「恋人になるのが正解だ」と決めてしまえば、現実の私たちが選んだ「別れ」は「不正解」だったと認めることになるような気がした。
「……正解を一つに絞るのは、怖いよ」
私は、観念的な言葉で抵抗した。
「一つを選んだ瞬間に、それ以外の可能性が全部死んでしまう。AとBが、恋人にならなかった世界線にも、意味はあるはずだ」 「でも、本は一冊しか出せません。マルチエンディングのゲームじゃないんです」
正論の刃が、的確に急所を突いてくる。 二人の間に、目に見えない溝が走る。
彼女は「定めたい」。 私は「ぼかしたい」。
それは単なる好みの問題ではなく、世界をどう認識しているかという、根本的な「角度」の違いだった。 彼女は、曖昧な原文に正確な訳語を当て嵌めようとし、私は言葉にならない余白の中に逃げ込もうとしている。
沈黙が、会議室の空気を澱ませた。 互いに視線を逸らさないまま、しかし言葉だけが噛み合わずに空転する。
その均衡を破ったのは、私のスマートフォンだった。 短く、無機質な振動音が、机の上で空気を震わせる。 画面に表示された編集の名前を見て、私は小さく息を吐いた。 救われた、と思った自分に嫌悪感を抱きながら、電話を取るふりをして席を立つ。
「……少し、休憩しましょうか」
背後から、彼女の声が聞こえた。
電話を終えて戻ると、彼女は既に資料を整理し始めていた。
「今の段階で結論を出すのは、やめましょう」
彼女は妥協案を提示した。 けれど、その声には納得ではなく、保留の響きがある。
「とりあえず、ラスト直前までは、どちらにも転べるように進めておきます。恋人になるルートも、親友に留まるルートも、両方の可能性を残したまま」 「……そうだね。それなら、書ける」
私は頷いた。 投げやりな響きが混ざったのは、それが解決ではなく、単なる先送りに過ぎないと分かっているからだ。
「では、今日はこれで」
彼女が立ち上がり、一礼して部屋を出ていく。 残された机の上には、彼女のメモが置かれたままだった。
『恋人としても、親友としても終われるように』
矛盾したその指示書きは、まるで今の私たち自身の状態を指しているようで、私は目を逸らした。 どちらにもなれるということは、どちらでもないということだ。 私たちは、角度のズレたままのレールの上で、まだ自分たちの終着駅を決められずにいる。
夕方の編集部は、一日の疲れとこれから始まる夜の活気が混ざり合い、独特の重たい空気を醸し出していた。 会議室の蛍光灯は、窓の外の茜色とは無縁に、無機質な白さを保っている。
「――というわけで、広報部から強烈なプッシュがありまして」
担当編集が、一枚の企画書をテーブルに提示した。
『新制度導入記念・特別対談 ~作家と翻訳者、二人の理想的な関係~』
そのタイトルを見た瞬間、私と高坂レイの表情は、申し合わせたように数ミリだけ凍りついた。
理想的。 その言葉が、今の私たちの現状――角度は最悪だが距離だけが最適という、綱渡りのような関係――に対して、あまりに無邪気な包装紙として被せられようとしている。
「……断る選択肢は?」 「ないですね。制度の顔ですから」
編集は悪びれずに即答し、質問案のリストを配った。
「読者はね、やっぱり二人の『絆』みたいなものを見たがるんですよ。言葉を超えて通じ合う魂、みたいなね」
編集の口から出る常套句が、部屋の空気を薄くしていく。 私は手元のリストに視線を落とした。 そこに並んでいるのは、私たちの複雑な履歴を、安易なキャッチコピーに圧縮しようとする暴力的な問いばかりだった。
『Q1.お互いを一言で表すと?』
私は眉間に皺が寄るのを止められなかった。 一言。 数年間の交際、無数の口論、共有した沈黙、そして決定的な決裂。 それらすべてを、たった一つの単語に還元しろというのか。
「……一言でなんて、無理ですよ」 「まあまあ、そこをなんとか。『最高の理解者』とか『戦友』とか、あるじゃないですか」
編集が軽い調子で言う。
「読者はね、ラベリングしてほしいんです。この二人はこういう箱に入っている関係なんだって、安心して読み進めたい」
ラベル。 標本につけられたタグのようなそれを、私たちの額に貼り付ける。 その箱に入った瞬間、そこからはみ出す感情はすべて「ノイズ」として切り捨てられることになる。
隣で、高坂レイが静かにリストを目で追っていた。
『Q2.仕事上の距離感について。近すぎず遠すぎずの秘訣は?』
彼女の指先が、その質問の上で止まる。 ふと、彼女が顔を上げ、私を見た。 その瞳には、「この距離感が秘訣だなんて、よく言えたものね」という皮肉と、ほんの少しの諦めが混ざっていた。
私たちは何も言わなかった。 ただ、互いに視線を逸らし、その沈黙こそが私たちの「距離」の証明であることを、密室の中で確認し合っただけだった。
「で、問題はこれかな」
編集がペンの先で、リストの下部を指した。
『Q5.作家と翻訳者は、恋愛関係になり得ると思いますか?』
雑誌編集部が付け足したらしいその質問は、あまりに露骨で、そして今の私たちにとっては地雷そのものだった。
「さすがにこれは、今の時代ちょっと俗っぽいというか、セクハラまがいになりかねないから外しましょうか」
編集が赤ペンで修正線を引こうとする。
「仕事の話に徹したほうが、スマートですしね」
その赤線が引かれようとした瞬間、私の口が勝手に動いていた。
「……外さなくて、いいと思います」 「え?」
編集の手が止まる。 隣で、高坂レイが小さく息を呑む気配がした。
私は自分自身の発言に驚きながらも、引くに引けなくなっていた。 なぜ、そんなことを言ったのか。 自分でも整理がつかない。
ただ、「なし」にされることへの抵抗感だけがあった。 この問いを削除するということは、「私たちは絶対に恋愛関係にはなりません」と宣言するのと同義に思えたからだ。 あるいは、「すでに終わったことです」と、過去を完全に抹消されることへの恐怖か。
「……どういう意味で?」
高坂レイが、低く鋭い声で尋ねた。 彼女の視線が、私の横顔に突き刺さる。
「いや、その……」
私は言葉に詰まった。 本心を言えるはずがない。 『まだ終わっていないと思いたいから』とも、『終わったことを認めるのが怖いから』とも。 私は苦し紛れに、編集の方を向いて言った。
「……読者が、一番聞きたがりそうな質問だからです。エンタメとして、フックになるでしょう?」 「あー、まあ、確かに」
編集は納得したようにペンを戻した。
「『なり得ないとは言い切れない』とか、含みのある回答にしとけば、ファンも盛り上がるか。なるほど、先生も商売上手だ」
商売。 そう、これは商売だ。 私たちは商品を売るためのパッケージであり、私たちの関係性もまた、消費されるコンテンツの一部に過ぎない。
「じゃあ、この質問は残しましょう。『お二人ならどう答えるか、楽しみにしてます』ってことで」
編集が明るく会議を締めくくった。 リストに残されたその質問は、まるで時限爆弾のように、黒いインクでそこに鎮座していた。
________________
会議室を出て、廊下を歩く。 編集が先にデスクへ戻り、私たちは少し遅れて歩いていた。 人気のない給湯室の前で、彼女が足を止めた。
「……本当に、あの質問に答えられるの?」
静かな、けれど逃げ場のない問いだった。 彼女は怒っているわけではない。ただ、呆れているようにも、試しているようにも見えた。
「『はい』とも『いいえ』とも言えないでしょう。私たちは」
その通りだ。 『はい』と答えれば、過去の亡霊が蘇る。 『いいえ』と答えれば、現在のこの微妙なバランスが嘘になる。 どちらに転んでも、嘘になる。 だからこそ、私はその問いを残したのかもしれない。
「……答えられないから、面白いんじゃないですか」
私は、精一杯の強がりを口にした。
「正解が出せない関係。名前がつかない距離。それを『理想的』と呼ぶなら、これほどの皮肉はない」
冗談めかして言ったつもりだった。 けれど、その言葉は予想以上に重く、湿り気を帯びて響いた。 彼女は私をじっと見つめ、それからふっ、と短く息を吐いた。
「……あなたらしいわね。相変わらず、結論を先送りにする」
それは非難だったのか、それとも共感だったのか。 彼女はそれ以上何も言わず、踵を返して歩き出した。
カツ、カツ、とヒールの音が遠ざかっていく。 私はその背中を見送りながら、手元のリストを強く握りしめた。
名前をつけること。 ラベルを貼ること。 それは、状態を固定することだ。
もし、私たちが自分たちの関係に「元恋人」というラベルを貼ってしまえば、もう二度とそれ以外のものにはなれない。 「親友」というラベルを貼れば、そこからはみ出す感情は許されなくなる。
だから私たちは、問いを残したままにする。 答えの出ない問いの中にだけ、私たちが私たちでいられる余白が残っている気がしたからだ。
エレベーターの扉が開くと、夜の冷気がロビーに流れ込んできた。 残業を終えた会社員たちが吐き出す白い息に混じって、私たちも自動ドアを抜ける。
「駅まで、ですよね」 「ええ。同じ方向です」
どちらからともなく確認し、私たちは並んで歩き出した。 普段なら、彼女の歩くスピードは私より少し速く、私がそれに合わせようとして無理をするか、あるいは私が考え事をして遅れ、彼女が立ち止まって待つかのどちらかだ。
けれど今夜は、奇妙なことが起きた。 私の右足が地面を蹴るタイミングと、彼女の左足がヒールを鳴らすタイミングが、不気味なほど完全に一致していた。
カツ、カツ、カツ。
二人の足音が重なり、一つの大きな音になって夜道に響く。 示し合わせたわけではない。 ただ、疲労の度合いや、外気の冷たさに対する身の縮め方、あるいは先ほどの会議で共有した思考の残り香が、偶然にも私たちの身体的リズムを同調させているだけだ。
その偶然の心地よさに、私は驚きと、わずかな居心地の悪さを同時に感じていた。
会話は途切れ途切れだった。 次の締切の話。 海外版の装丁の話。 編集の体調の話。 それらは足音のリズムを崩さないための潤滑油として機能し、私たちの「最適な距離」を保っていた。
信号待ちで立ち止まったとき、ふいに彼女が口を開いた。
「……さっきの質問」
視線は赤信号に向けられたままだ。
「もしインタビュー本番で聞かれたら、どう答えます? 『作家と翻訳者は恋人になり得るか』っていう」
唐突な蒸し返しだった。 私はマフラーに口元を埋めたまま、白く変わっていく呼気を眺めた。 彼女は答えを求めているのではない。 私がどういう「理屈」で、あの質問を残したのかを探っている。
「……なり得る、とは答えますよ」
私は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、たぶん長くは続かない、と付け加えます」 「なぜ?」 「相性の問題ですか」 「いいえ」
信号が青に変わる。 私たちは同時に一歩目を踏み出し、また足音を重ねた。
「距離の問題です。仕事なら最適な距離を保てるけれど、恋人として近づきすぎると、見なくていいものまで見えてしまうから」
作家の醜い自尊心や、翻訳者の冷徹な分析眼。 それらは、一定の距離があって初めて「才能」として尊敬し合えるものであり、肌が触れる距離では鋭利な刃物にしかならない。 私たちは互いに相手の刃物で傷つき、血を流した記憶を持っている。
「……作中作の話、ですよね」
数歩の沈黙のあと、彼女が乾いた声で言った。 それは確認ではなく、逃げ道の提示だった。
「もちろん」
私は即答した。
「主人公たちの話です。近づけば近づくほど、互いの粗が見えて、魔法が解けてしまう」
嘘だ。 いや、嘘ではないが、本音の半分しか言っていない。 そして彼女も、私が半分しか言っていないことに気づいている。 その共犯関係のような沈黙が、足音のリズムに乗って流れていく。
「じゃあ」
彼女が少しだけ歩速を緩めた。 同調していたリズムが、半拍だけズレる。
「先生は、その『安全な距離』までしか近づかない恋を書くつもりですか」
責めるような響きがあった。 傷つかないために、見なくていいものを見ないまま終わる、綺麗なだけの物語。 そんなものを書くために、私たちがペアを組んだのかと問われている気がした。
私は足を止めそうになるのをこらえ、視線を前方へ固定したまま答えた。
「いいえ」
冷たい風が、頬を撫でる。
「それ以上近づいたら、壊れると分かっていて、それでも近づいて壊れる恋を書くつもりです」
言葉にした瞬間、胸の奥が焼けるような感覚に襲われた。 それは作中作の構想であり、同時に、私たち自身の過去への墓碑銘でもあった。
私たちは近づき、見たかったものを見ようとし、そして壊れた。 その「壊れた事実」さえも、物語の燃料にくべる。 それが、私が出せる唯一の誠実さだった。
「……分かりました」
彼女の声は、夜気よりも静かだった。
「じゃあ、私もそのつもりで、壊れる準備をして読んでおきます」
彼女はそれ以上、何も聞かなかった。 駅の入り口が見えてくる。 地下へと続く階段の前で、私たちは立ち止まった。
「それじゃ、お疲れ様でした」 「ええ、また明日」
短い挨拶。 彼女が改札の方へ向かい、私は券売機の方へと身体を向ける。 その瞬間、今まで綺麗に揃っていた足音が、完全に乱れた。
カツ、コツ、ザッ。
不規則なノイズとなって、互いの音が遠ざかっていく。 私は一度だけ振り返ろうとして、やめた。
今ここで呼び止めて、さっきの言葉の続きを話すこともできたはずだ。 けれど、それをすれば、私たちは「仕事仲間」という安全地帯を失う。
角度がズレているからこそ、私たちはこうして並んで歩くことができたのだ。 もし角度を無理やり合わせようとすれば、また正面から衝突する。
私はポケットの中で拳を握り、彼女とは違う方向へ向かう電車に乗るために、階段を降りていった。 背中には、冷え切った夜の空気だけが重くのしかかっていた。
会議室の空気が、紙の粉塵とインクの匂いで飽和していた。 長テーブルの上には、赤い修正ペンで切り刻まれたゲラ刷りが、雪崩の跡のように積み上げられている。 壁掛け時計の針は、すでに日付が変わる直前を指していた。
「ふあ……失礼」
担当編集が、手で口元を覆いながら大きな欠伸を噛み殺した。 その生理的な涙目は、長時間の拘束とカフェインの過剰摂取による限界を訴えている。
「でもまあ、山場は越えましたね。誤訳の修正指示は完了。作中作のほうも、プロットの整合性は取れた。あとは……」
編集の指先が、テーブルの一番上に置かれた、まだ空白の多い数枚の紙をトントンと叩く。
「このラストシーンの温度だけだ」
温度。 その言葉が、乾燥した喉に張り付く。
物語の結末。 主人公の二人が、すべての選択を終えたあとに迎える、最後の朝。 そこにどのような光を当てるべきか、私たちはずっと保留にし続けていた。
「読後感として、どういう顔をさせたいですか? 読者に」
編集が充血した目で私を見る。 私は手元のボールペンを、親指の腹で無意味にカチカチと鳴らした。
「……すっきりしすぎないほうが、いいと思います」
慎重に言葉を選ぶ。
「『ああ、よかった』で本を閉じられると、その瞬間に忘れられてしまう気がして。喉の奥に、少しだけ飲み込めないものが残るくらいのほうが」 「でも」
横から、静かな声が挟まる。 高坂レイが、付箋だらけの原稿に視線を落としたまま口を開いた。
「置いていきすぎると、読者は迷子になります。何が起きたのか分からないまま終わるのは、余韻じゃなくて不親切です」
彼女の指摘は、いつも通り正論で、そして「角度」が違う。 私は曖昧さを愛し、彼女は明快さを信じる。 その溝が、ラスト数ページという極限のスペースで凝縮されている。
その時、編集のスマートフォンがテーブルの上で暴れ出した。 バイブレーションの低い音が、板面を伝って鼓膜に響く。 画面を見た編集が、あからさまに顔をしかめた。
「……すみません、印刷所からだ。ちょっとトラブルかも」
彼は慌ただしく端末を掴み、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「外で対応してきます。細かいニュアンスの詰めは、二人で進めておいてください。今の議論、どっちも間違ってないんで、いい着地点を探して!」
言い捨てて、彼は風のように部屋を出て行った。 バタン、とドアが閉まる音が、やけに重く響く。
密室に残されたのは、私と高坂レイ。 そして、まだ結末の書かれていない原稿用紙だけ。
急に、空調の送風音が大きくなった気がした。 ブォーという低い唸りが、沈黙の隙間を埋め尽くしていく。
私はゲラの最終ページをめくったまま、ペン先を動かせずにいた。 白い紙面が、雪原のように広がっている。 そこに最初の一文字を落とせば、もう後戻りはできない。 足跡がつく。 物語が終わる。
「……結局」
彼女が、独り言のようなボリュームで切り出した。
「この二人を、『何の関係』として終わらせるか、ですよね」
核心だった。 恋人か、親友か。 それとも、名前のつかない共犯者か。
彼女は作中のキャラクターのことを指しているはずだが、その問いはどうしようもなく、この会議室にいる「私たち」の輪郭をなぞっている。
「……そこを言葉で決めた瞬間、全部終わっちゃう気がして」
私は、正面からの回答を避けた。
「『彼らは恋人になりました』と書けば、それ以外の可能性が死ぬ。『親友に戻りました』と書けば、恋の熱量は嘘になる。どちらを選んでも、何かを取りこぼす」 「でも、選ばなきゃいけない。……書くんでしょう? 壊れると分かっていて、近づく話を」
昨夜の帰り道で私が吐いた言葉を、彼女は正確に引用して返してきた。 逃げ場は塞がれている。 彼女は私に、過去の清算を迫っているのだ。 物語という形を借りて。
私は小さく息を吐き、ペンを握り直した。
「……とりあえず、台詞や心理描写は後回しにしよう」 「え?」 「状況だけ、先に固める。物理的に、二人がどう動いて、どこに立っているか。それなら決められる」
私は裏紙を引き寄せ、簡易的な配置図を描き始めた。 言葉(意味)から入るのが怖いなら、映像(現象)から入るしかない。
「場所は、二人が出会った場所と同じでいい?」 「ええ。円環構造にするなら、それが一番綺麗です」
彼女が頷く。
「で、立ち位置は?」 「……同じ場所にいながら、少しだけ違う方向を見ている」
私はペンを走らせる。 並んで立つ二人。けれど、視線は交わっていない。
「一度だけ、手が触れる距離まで近づく。……でも、そのあとで」
言葉が詰まる。 その先を、彼女が引き取った。
「……一歩だけ、下がる」
静かな、けれど断定的な声だった。
「拒絶じゃなくて、意志を持って、一歩だけ後ろに下がる。その『間合い』を選び直す」 「……そうだね。選び直す」
私はその言葉を、図の横に書き込んだ。
『一歩下がる』
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かがカチリと音を立てて嵌まった気がした。 まだ台詞はない。 感情の説明もない。 けれど、この「動作」の中にこそ、私たちが辿り着くべき結論のすべてが詰まっている。
私たちは顔を見合わせることもなく、ただそのメモ書きをじっと見つめていた。 ふと、時計の針が視界に入った。
「……あ」
私が声を上げると、彼女も壁時計を見上げた。 終電の時間は、とっくに過ぎている。
タクシーを呼ぶこともできるが、この中途半端な状態で解散して、自宅の静寂の中に一人で戻ることを想像すると、耐え難い孤独感に襲われた。 彼女も同じことを思ったのか、小さく肩をすくめた。
「……今日は、終わらせるしかなさそうですね」
諦めと、奇妙な覚悟が混じった声。
「編集が戻ってくるまで、粘りましょうか。どうせ、朝までは帰してくれないでしょうし」 「そうだな」
私は苦笑いを浮かべ、新しいコーヒーを淹れるために席を立った。 外は深い闇に包まれているが、この会議室だけは、白い蛍光灯の下で時間が止まっている。
これから迎える朝に向けて、私たちは「一歩下がる」ための言葉を探す、長い夜を始めることになった。
テーブルの上には、空になった紙コップの城壁が築かれていた。 コンビニで買い込んだチョコレートの包み紙が、蛍光灯の光を反射して無惨に散らばっている。
朱色のインクで汚されたゲラ刷りの山は、数時間の格闘の末に、ようやく三分の二ほどの高さまで減っていた。 私たちは、機械的な手つきでページをめくり、確認し、承認のサインを入れる。 その作業のリズムは、深夜特有の変性意識の中で、奇妙なほどシンクロしていた。
だが、残りのページが薄くなるにつれて、ペンの動きが鈍っていく。 物語の結末に近づけば近づくほど、朱書きの密度が下がり、空白が目立つようになる。
それは完成度が高いからではない。 私たちが、そこに手を入れることを無意識に躊躇っている証拠だった。
「……ふう」
高坂レイが、ぬるくなったコーヒーを喉に流し込み、大きく息を吐いた。 彼女は椅子の背もたれに体重を預け、天井のシミを見上げるようにして首を回す。 ポキ、と乾いた音が鳴った。
「前にも、こんな時間まで一緒に原稿を触ってましたね」
唐突な言葉だった。 けれど、その声には湿っぽい感傷はなく、単なる事実の確認のような響きしかなかった。
「ああ。デビュー作の改稿のときか」 「そう。私の部屋の、あの小さなローテーブルで」
記憶の蓋が、不意に開く。 狭いワンルーム。 散らかった資料と、飲みかけのマグカップ。 今のような広い会議室ではなく、互いの肩が触れ合うほどの距離で、私たちは一つのディスプレイを覗き込んでいた。
あの頃、私たちは互いの領域を侵食し合うことを、愛だと勘違いしていた。 私が書く一行一行に彼女が意見し、彼女が選ぶ訳語の一つ一つに私が口を出した。 境界線はなかった。 あるのは、溶け合うような熱狂と、やがて来る窒息の予感だけだった。
「あの頃は、何でも一緒に決めようとしていたな」
私は手元のボールペンを回しながら、自嘲気味に笑った。
「夕飯のメニューから、主人公の死に場所まで。二人の総意がないと、何も進められないと思っていた」 「……で、全部一緒に決めようとして、失敗しましたけどね」
彼女が淡々と言葉を継ぐ。 その指摘は鋭かったが、毒は抜けていた。
「どこまで踏み込んでいいか、分かっていなかったんだ」
私は素直に認めた。
「君の領域と、私の領域。その間に線を引くことを、冷たさだと思っていた。踏み荒らすことが、親密さの証明だと思い込んでいた」
私の言葉に、彼女は視線を戻し、少しだけ目を細めた。
「私もです。……あなたの文章を、私だけのものにしたかったのかもしれません」
過去形の告白。 そこにはもう、当時の執着や痛みはない。 ただ、燃え尽きたあとの灰のような、静かな認識だけが残っている。
私たちは互いに未熟で、そして互いに誠実すぎたのだ。 相手を尊重しようとするあまり、自分を消し、やがて相手も消そうとした。
沈黙が降りる。 空調の音が、やけに大きく聞こえる。 それは気まずい沈黙ではなく、嵐が過ぎ去ったあとの海岸のような、凪いだ時間だった。
彼女は新しい紙コップに手を伸ばし、ブラックコーヒーを注いだ。 湯気が揺らめく向こう側で、彼女がぽつりと言う。
「少なくとも、今のほうがやりやすいですよ」
その言葉の意味を、私は痛いほど理解した。 今の私たちは、線を引いている。 角度は違う。 見ている方向も違う。 だからこそ、ぶつからずに隣にいられる。
「……そうね」
私は短く肯定した。
「今の距離なら、誰も窒息しない」
それは、「あの頃には戻れない」という宣言であり、「今の関係が最適解だ」という確認でもあった。 少しだけ寂しい気もした。 けれど、その寂しさこそが、私たちが手に入れた「大人の距離」の代償なのだろう。
私はペンを持ち直し、残りのゲラに向き直った。 窓の外を見る。
分厚いカーテンの隙間から、夜の完全な闇が、少しずつ色を失い始めているのが見えた。 群青から灰色へ。 夜明け前の、一番曖昧で、一番静かな時間が、もうすぐそこまで来ていた。
窓の外が、うっすらと鉛色に変わり始めていた。 深夜の漆黒から解放され、空気が薄い灰色へと溶け出す時間。 会議室の古い蛍光灯の白い光と、窓から差し込む天然の光が混ざり合い、視界が奇妙な混濁をきたしている。
私たちは、疲れ果てた表情のまま、テーブルの端に並んで座っていた。 真正面から向き合うのではなく、同じゲラを覗き込むように、横並びのポジション。 それが、今の私たちには、一番自然な体勢だった。 残された白紙は、作中作のラストページ、わずか数行分だけ。
「……いくか」
私が、空の紙コップを横に避けながら言った。 彼女は言葉を返さず、コクリと小さく頷いた。 私はペンを手に取り、その白い空間に、最初の一文字を落とす準備をする。
「じゃあ、ラストシーンの冒頭は、これでどうかな」
私が口にしたのは、作中作の主人公たちの情景描写だった。
「『二人が、初めて出会った場所の、少し湿った石畳の上に立っている』」
そこには、過去の感傷も、未来の予感もない。ただ、物理的な事実だけ。
彼女はそれを聞き、顎にペン先を当てて、しばし思考する。 そして、ゲラの余白に視線を向けたまま、静かに台詞を提案した。
「『私たちは、一度だけ近づくことができた。これ以上は、たぶん、壊れる』」
彼女の声は、作中人物の台詞でありつつ、夜明け前の会議室にいる私たちの本音を、そのまま翻訳したような響きを持っていた。
「うん……」
私はその一文を聞き、すぐに返すべき言葉が頭の中に浮かんだ。 深読みはしない。 彼女が提示した「警告」に対して、ただ素直に「選択」を返す。
「『だから、私たちは、永遠に壊さない間合いを、ここで選び直す』」
私の声が、彼女の言葉にピタリと続いた。
その瞬間、私たちは横並びの位置関係のまま、同じページの上で視線が交わった。 お互いの言葉が、淀みなく相手に流れ込み、加工されることなく、次の言葉となって戻ってくる。 それは、作家と翻訳者というより、一つの文章を共同で生み出す、共作者の呼吸だった。
私の筆致と彼女の論理が、まったく同じ角度で一つの未来を見ている。 そして、その未来は「壊さない距離」を選ぶという、私たち自身が過去に選ぶことができなかった、もう一つの選択肢だった。
「じゃあ、その『永遠に壊さない間合い』を象徴する、作中の台詞を」
私が提案し、彼女が考える。 彼女が提案した言葉に、私が一文字だけ修正を加える。 そのテンポは完璧なキャッチボールであり、昨夜までの「角度のズレ」は、どこにも見当たらなかった。
私が「ここの言葉は、もう一度『距離』を使おう」と言ったとき、彼女がほぼ同時に、手元のメモでその行を指した。
「あ、それ、いい」
私たちは顔を見合わせ、短く、心からの笑いを漏らした。 緊張感とは無縁の、朝焼けのような、乾いた笑い。
その瞬間、私の頭の中で警報が鳴った。 ――この状態は危険だ。
この心地よさは、私たちが過去に求めて、得られなかった「恋人としてのあるべき姿」そのものだからだ。 しかし、この作業を止めることはできない。
私たちは、その揃った呼吸のまま、作中作のラストの一文までを書き終えた。 主人公の二人が、互いに頷き合い、一歩だけ距離を置く、その最後の動作の描写。
インクが紙に沈み、ペン先が紙面を離れる。 私たちは同時に、ペンを机の上に置いた。
「……こんな感じで、どうでしょうか」
私が尋ねると、彼女は伸びをしながら、軽く肩を回した。
「うん。これなら、読者も納得するでしょう。この微妙な『間』が」
ごく普通の、仕事の確認。 その気楽で、何の圧力もない会話が、むしろ今までで一番しっくりきていることに、私自身が驚いた。
激しい議論や、感情のぶつけ合いでは決して辿り着けなかった、この「空気の軽さ」。 それは、私たちがたった一度だけ体験できた、距離も方向もぴたりと揃った、完璧なシンクロ状態だった。
窓の外の空は、完全に白み始めていた。 夜の帳は閉じ、今、私たちの前には、書き上げられた原稿だけが残っている。
私たちは、完成した原稿の最終確認を終え、編集部内のシステムを使って担当編集にメッセージを送った。
『ラスト案、二人で調整しました。ご確認ください』
送信ボタンを押す、乾いたクリック音。 その音とともに、長かった夜が完全に終わりを告げた。 テーブルの上には、誤訳修正版と作中作の最終稿が、きちんと揃えられて積み上げられている。 付箋は全て剥がされ、朱書きは適切な修正に置き換えられ、どのページも均一の緊張感を保っていた。
窓の外は、もう完全に朝の色になっていた。 早朝の冷たく澄んだ光が会議室に差し込み、散らばった紙コップの影を鋭く切り取っている。
私たちは椅子から立ち上がり、凝り固まった背中の筋肉を伸ばした。 バキバキと小さな音が鳴る。疲労感は極限に達しているが、その疲労はどこか清々しかった。
「……結局、作中のあの二人は」
伸びを終えた彼女が、積まれた原稿に視線を向けながら、半分冗談のように尋ねた。
「“何の関係”になったんでしょうね」 「何だろうね」
私も、少しだけ考えてから答えた。
「一度だけ、恋人になってしまえるくらいの熱量で近づいて、それを知ったうえで、あえて親友に戻った人たち、かな」
互いに見てはいけないものを見たうえで、壊さない距離を選び直した。 それが、私たちの辿り着かせた結末だった。
彼女は目を細め、静かに頷いた。
「欲張りですね。最も熱い瞬間と、最も長続きする関係を、両方手に入れようとするなんて」 「でも、一番マシな選択かもしれない」
私は、その言葉に同意した。 過去を美化せず、未来を無理に約束せず、今この瞬間の「壊れない間合い」を選ぶ。 それこそが、私たちがようやく見つけた、大人としての最適解だ。
________________
私たちはエレベーターホールへと向かった。 誰もいない早朝のオフィスビル。エレベーターが昇降する鈍い機械音だけが響く。
その密室を待つ沈黙の中で、私はふと、勇気を出して言葉を口にした。
「私たちも、そんな感じでいい?」
彼女は驚きもせず、壁のインジケーターを見つめたまま、確認するように問うた。
「“親友”って、ラベルですか」 「ラベルってほど立派なものじゃないけどね。……壊れない距離、って意味で」
私は、自分たちの関係を定義することを、恐れるのをやめていた。 どうせ曖昧なままでは、またどこかで互いの角度が衝突する。 それなら、あえて名前をつけて、その箱の中で遊ぶほうが安全だ。
彼女は、エレベーターのドアが開き、白い光が差し込むのを見つめながら、少しだけ口角を上げた。
「じゃあ、自称親友で」 「自称親友」
私はその言葉を復唱し、その響きが妙にしっくりくることに、少しだけ満足を覚えた。
私たちはエレベーターを降り、ビルのエントランスを抜けて、朝の街へ一歩踏み出した。 早朝の空気は冷たく、徹夜の熱気を一瞬で醒ます。 疲れと、達成感が混ざり合った、浮遊するような心地よさ。
二人は並んで歩き始めたが、すぐにそのリズムは崩れた。
「でもさ」
彼女が唐突に言った。
「“自称親友”なんて、聞きようによってはだいぶ怪しいですよね。わざわざ『自称』をつけなきゃいけないってことは、何か隠してるって意味だし」 「ちょっと」
私は思わず立ち止まりそうになった。
「じゃあ何て言えば満足なのよ。完璧な名前なんてないって、あなたも言ったじゃない」 「そこを考えるのが、作家の仕事では?」
彼女は足を止めずに、軽く煽るような調子で言い放った。
「私の仕事は、あなたが書いてきた言葉を整理することであって、あなたの人間関係のネーミングではない」 「それを整理するのが、あなたみたいに優秀な翻訳者の仕事でしょ!」
私は即座に応酬した。
「曖昧なものを明確にするプロなんだから、私のこの曖昧さくらい、バシッと一言で翻訳してみなさいよ!」
言葉の応酬は軽いが、テンポは鋭く、互いの間合いは完璧に合っている。 昔と全く同じ、仲のいい友人が、どうでもいいことで言い争うときの、あの心地よいリズムだ。
私たちは、他愛もない言い合いを続けながら、朝の雑踏に紛れていく。 遠くから見ると、ただの「仲のいい同僚」にしか見えない二人の背中が、朝日の中で影を長く伸ばしていた。
その頃、ビルの高層階の会議室では、テーブルの上に積まれた原稿の束だけが、静かにその場に残されていた。 誰も見ていないその紙の束には、二人が一度だけ完璧に角度を揃えた、あの夜の真実が、焼き付いている。
私なら伝えられる 伊阪 証 @isakaakasimk14
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