語られない密室

夕陽野ゆうひ

第1話『ガラス越しの犯人』

 神波拘置所の門をくぐるのは、その日が初めてだった。


 十二月に入ったばかりの午前中、空は拍子抜けするほどよく晴れていた。青いというより、洗いすぎた布のように色が抜けていて、風だけが冬の匂いを運んでくる。私はコートの前を留め直し、門の横に立つプレートに視線をやった。


 ――法務省 神波拘置所。


 フォントまで、どこか教科書的で、現実感が薄い。私がこれから会いに行くのは、「殺人被告人」だ。そう思い出さないと、ここがただの公共施設に見えてしまいそうだった。


 受付で弁護士会紋章入りの身分証を提示し、手荷物検査を受ける。金属探知機をくぐるとき、いつも少しだけ息を止めてしまう。鳴るはずがないと分かっていても、警告音を想像すると妙に落ち着かない。


「面会ですね。神波地方裁判所の事件の……」


 受付窓口の職員が、用紙をめくりながら私の顔と書類を見比べる。


「はい。真壁惣一さんの弁護人です」


「では、こちらにお名前と所属、それから面会の区分を……」


 ボールペンが渡される。決められた欄に必要事項を書き込みながら、私は壁掛けのデジタル時計に目をやった。午前十時五分。面会時間は最大三十分。実際にはもう少し短く終わることが多いと、先輩弁護士に聞かされていた。


 ガラス越しの受付の奥には、白い壁が続いている。面会室へと続く廊下は見えない。代わりに、待合用のベンチと、自販機の列が視界の端を占めていた。コーヒー、お茶、スポーツドリンク。色とりどりのラベルが並ぶ中、私は無意識に「微糖」と書かれた缶コーヒーを探していた。


 事件の日は、雨だった。


 そう、資料を読んだときに頭に刻みつけた一行が、また浮かんでくる。セレスティア神波十階、角部屋一〇〇三号室。家主であり元会社役員の岡島慎一郎が、室内で頭部を強打され死亡。玄関は施錠され、チェーンロックも内側から掛かっていた。窓も全て施錠。いわゆる「密室殺人」として、ワイドショーの好物になった事件。


 被告人は、元システムエンジニア、真壁惣一。三十七歳、独身。


 受付で面会カードを受け取り、控えの紙を手帳に挟む。番号は「七」。名前の横に、黒いスタンプで「弁」と押されていた。私は自販機でホットコーヒーを一本買い、空いているベンチに腰掛ける。


 缶を両手で包むと、金属越しの熱がじんわりと掌に移った。事件の日の記録には、「雨は夕方から次第に強くなり」と書かれていた。私が今歩いてきたのは、その「雨の夜」と同じ道ではないが、同じ街だ。晴れた舗道を見ながら、私は報道記事の一文を心の中でなぞった。


 ――玄関には、血の付着した折りたたみ傘が落ちていた。


 捜査報告書に引用された、最初期の新聞記事だ。真壁のものと推定、とも書かれていた。推定、という言葉が、妙に軽く見える。


 缶を開けると、甘さの強い香りが立ちのぼった。口をつける前に、受付のスピーカーから女性の声が流れる。


「ただいまより、十時十分の面会を開始します。番号札七番の方は、職員の指示に従って面会室へお進みください」


 私は立ち上がり、缶をゴミ箱の横のリサイクルボックスにそっと入れた。コートの前をもう一度整え、手帳とペンを確認する。


 録音・録画は禁止。メモも最小限。頭の中に残すしかない。


 そう自分に言い聞かせながら、私は重い扉の向こうへと歩き出した。


 *


 一般面会室は、思っていたよりも明るかった。


 天井の蛍光灯が、白い壁と床を均等に照らしている。細長い部屋の両側に、ガラスで仕切られたブースがいくつも並び、それぞれに固定されたテーブルと椅子が向かい合っていた。中央の通路を挟んで、左右対称に配置されている。どのブースも同じように見えるが、壁の上部に取り付けられたデジタル表示には、番号が赤い数字で点灯していた。


 私のブースは、「七」の表示の下だ。


 職員に案内されながら歩いていると、ところどころから受話器越しの声が漏れ聞こえてくる。言葉までは判別できない。ただ、語尾だけが切り取られたような音が、ガラスと距離に吸われていく。


 ガラスの向こう側の椅子には、すでに一人の男が座っていた。


 グレーのスウェット。痩せ型の身体に、生地が少し余っている。顔立ちは端正とまではいかないが、どこにでもいそうな印象だ。髪は短く整えられているが、伸び始めた黒い根元と、うっすらとした無精ひげが、拘置所での時間を示していた。


 目元だけが、写真で見たよりも疲れている。笑っているわけではないのに、目尻に小さな皺が寄っていた。彼は私の方を見て、一瞬だけ視線を泳がせ、それからわざとらしくない程度に軽く頭を下げた。


 真壁惣一。


 事件記録の中で何度も見た名前が、目の前の人物に結びつく。私はブースのこちら側の椅子に腰掛け、受話器を取った。ガラス越しに、彼も同じ動作をする。


「初めまして。弁護人の小峰由衣と申します」


 マイクを通した自分の声が、少しだけ低く聞こえた。真壁は受話器を耳に当てたまま、短く息を吸う。


「……ああ、どうも。真壁です。国選の先生、ですよね」


「はい。当面は私が担当します。よろしくお願いします」


「こちらこそ。わざわざ、ありがとうございます」


 形式的なやり取り。私は手帳を開きながら、一拍置いてから本題に入る。


「まず、今日の面会の目的を簡単にお伝えしますね。検察官から開示された記録と、これまでの供述調書、報道された内容を踏まえて、真壁さんご本人のお話を伺いたいと思っています」


「……はい」


「事件当日のことを、一度、真壁さんの言葉で通して確認させてください。その上で、今後の方針――公判でどう主張するかを一緒に考えていきたいと思っています」


 真壁は、受話器のコードに視線を落とした。指先で、黒いコードをくるりと一巻きさせる。その動きは、本人の意識からは少し外れた場所で行われているように見えた。


「方針、ですか」


「はい。真壁さんは、警察や検察の取り調べで、すでにかなり詳しくお話をされていると聞いています。ただ、それが全て正確かどうか、ご自身でもう一度確かめていただきたいんです」


 私はできるだけ中立的な言葉を選ぶ。責めるのでも、擁護するのでもなく。ただ、「確認する」という姿勢を示す。


「……ニュースと、だいたい同じですよ」


 真壁が、ガラスの向こうで小さく肩をすくめた。


「報道で言ってること。あれが、だいたい、あの日のことです」


「『だいたい』、ですか」


「ええ。細かいところは、なんか、盛られてるなって思うところもありますけど」


 盛られている。バラエティ番組で芸人が使うのと同じ言葉が、受話器越しに届く。私は手帳の余白に、小さく「盛られている」と書き込んだ。


「では……まず、検察官の主張を、私から一度読み上げますね。その上で、『ここは違う』と思われるところがあれば教えてください」


「わかりました」


 私は配布された起訴状の写しを手帳から取り出し、要点だけをなぞる。


「令和……月……日午後七時頃、神波市内のセレスティア神波一〇〇三号室において、被害者岡島慎一郎さんと口論となり、室内にあったガラス製の置物により、同人の頭部を一回殴打し……」


 殺意。頭蓋骨骨折。失血死。法的な文言を、できるだけ感情を挟まずに読み上げる。真壁は、時折視線を落としながらも、途中で遮ろうとはしなかった。


「玄関ドアは施錠され、内側のチェーンロックも掛けられており、窓は全て施錠されていたため、外部からの侵入の可能性はなく……」


 いわゆる「密室」。私は最後まで読み終えると、起訴状を閉じて真壁を見た。


「以上が、検察官が主張している大まかな筋です。これに対して、真壁さんは……」


「はい」


「これまでの取り調べで、『自分がやりました』と認めている、という理解でよろしいですか」


 問いかけると、真壁は少しだけ目を閉じた。天井の方を見上げる。その視線が、一瞬だけ、ブースの上に取り付けられたデジタル時計に触れたのを、私は見逃さなかった。


「……そうですね。僕が、やりました」


 その言葉は、驚くほど淡々としていた。自分の買い物リストを確認するような調子で、彼は言う。


「岡島さんを、殴ったのは、僕です」


「……わかりました」


 私はペン先を一度止める。自白事件。形式だけ見れば、弁護人の仕事は「量刑の軽減」に絞られるケースだ。だが、報道と記録の間には、いくつか引っかかる点があった。


 雨の降り始めの時間。玄関に残された傘。防犯カメラに映らなかった時間の隙間。

 それらはまだ、断片でしかない。


「では、当日の流れを、真壁さんの言葉で教えてください。朝起きてから、寝るまで全て、とは言いません。事件があったとされる時間帯――そうですね、夕方五時くらいから、岡島さんの部屋に行って、そこを出るまでを」


「五時から……」


 真壁は、受話器を握る手に力を込めた。指の関節が白くなる。


「ちょっと、順番があやふやかもしれませんけど」


「構いません。あとで一緒に整理しましょう」


「はい」


 彼は一度咳払いをしてから、ゆっくりと言葉を探すように話し始めた。


「その日は、朝から、特に仕事もなくて。派遣も切られてましたし、ハローワークに行こうかどうか迷って、結局、行かなかったんです」


「はい」


「昼過ぎまでは、家でネット見たり、テレビつけたりしてました。ニュースで、天気予報やってて……そのときは、まだ晴れてたと思います」


 私は手帳に「昼過ぎまで在宅」と書き込む。ここまでは、検察官から聞いた話と大きく変わらない。


「岡島さんのところに行く約束は?」


「ええと……前の日に、電話で。家賃の件で話があるって言われてて。十八時に来いって」


「『家賃の件』というのは?」


「ああ、その……ちょっと滞納してて。派遣切られてから、支払いが遅れてたので」


 そこは、真壁の個人的な事情だ。私は深入りしすぎないよう、話を先に進める。


「では、夕方五時頃から、お願いします」


「はい。……五時くらいに、家を出たと思います」


 彼はまた、天井の方に視線を上げる。時計の数字を目で追うふりをしながら、頭の中の文字盤を探しているようだった。


「そのときは、まだ降ってなかったです。空は、ちょっと暗くなりかけてましたけど。冬ですし」


 私は、手帳に「家出る(17時頃)/雨まだ」と書き込み、その横に小さな疑問符を付けた。天気の分布図を頭の中でなぞる。気象庁の資料では、「午後四時頃から弱い雨が降り始めた」となっていたが、場所によって誤差はある。


「駅まで歩いて……コンビニに寄って、ATMでおろして。家賃の分を」


「コンビニの場所は?」


「うちから駅までの途中にあるところです。チェーンの。いつも行ってるとこ」


 彼は、コンビニの位置を説明する代わりに、「いつも」と言った。その言葉に、生活の痕跡だけが滲む。


「お金をおろして、すぐ出ました?」


「……飲み物、買いました。ホットの缶コーヒー。微糖のやつ」


 思わず、さっき飲んだ缶コーヒーの味が、舌に戻ってくる。私はペンを止め、顔を上げた。


「銘柄まで覚えていますか?」


「え? ああ、いえ。なんか、黄色っぽいラベルの、よくあるやつです。自販機にもありますよ。ここにも、あった気がする」


 真壁はガラス越しに、部屋の端に並ぶ自販機をちらりと見やった。さっき私が使ったものだ。彼は、記憶の中の缶と視界の中の缶を、重ね合わせているのかもしれない。


「その缶コーヒーは、いつ飲みました?」


「……歩きながら。駅まで」


「飲み終えた缶は?」


「ゴミ箱に。駅前の」


 彼は細かいところをよく覚えている。缶コーヒーの色、ゴミ箱の位置。だが、その細かさが、どこか不自然にも感じられた。記憶を辿るというより、「記憶しているべき細部」をなぞっているような。


「駅からは、電車で?」


「いえ。セレスティアまでは、歩いて十五分くらいなので、そのまま歩きました」


「そのとき、雨は?」


「……ああ、その頃には、ぽつぽつ降ってきたかもしれません。傘をさすほどじゃなくて。ほら、たまにあるじゃないですか。顔に当たって、あ、降ってきたな、って気づくくらいの」


 彼は、指先で空中をつつくような仕草をした。頬に落ちる水滴の感触を、思い出しているのかもしれない。


「本降りになったのは?」


「マンションに着く頃には、結構、降ってました。エントランスの前のタイルが、濡れてましたから」


 弱い雨が、マンションに着く頃には強く。時間の経過としては自然だ。私は「駅まで弱い雨/マンション前本降り」と記しながら、最初に彼が「家を出るときは降ってなかった」と言ったことを、頭の片隅に留めた。


「セレスティアのエントランスには、防犯カメラがありますよね」


「はい。インターホンの横あたりに。……あれ、最初は、なんか、落ち着かないですよね。撮られてるのかなって」


 真壁は、カメラの位置を示すように、ガラスの上方を指でさした。


「オートロックは、どうやって開けました?」


「岡島さんに。インターホン押して、『真壁です』って言ったら、ブザーが鳴って、ガチャッて」


「そのときの岡島さんの声、覚えていますか?」


「ええと……『ああ、上がって』とか、そんな感じだったと思います」


 言葉のひとつひとつが、どこか、薄いフィルム越しに聞こえてくる。私は、質問の順番を一度頭の中で組み直した。玄関ドアの前に立つ真壁。チェーンの位置。傘。


「エレベーターで十階まで?」


「はい。十階に着いたら、廊下の窓の外、雨が横に流れてて……あれは、ちょっと印象に残ってます」


「印象に?」


「風が強くて。雨がこう、斜めに……」


 彼は、手のひらを斜めに動かしてみせる。ガラス越しのジェスチャーは、少し滑稽ですらあったが、本人は真剣だ。


「それから、一〇〇三号室の前に行って、インターホンは?」


「押しました。中から、足音がして、ドアが開いて」


 ここから先が、事件の中心――のはずだ。しかし真壁の声色は、先ほどまでとほとんど変わらない。


「そのとき、チェーンは?」


「掛かってなかったです。普通に、ガチャッて」


 私は手帳に線を引いた。防犯カメラの映像、刑事の説明、起訴状の記載。そこには「事件後、玄関ドアは施錠され、チェーンロックも内側から掛けられていた」とある。真壁の証言とも矛盾はしない。問題は、その間に何があったかだ。


「岡島さんは、どんな様子でした?」


「普通に、機嫌悪そうでしたよ。『遅い』って」


「約束は十八時だった、と先ほどおっしゃいましたね」


「はい。実際に着いたのは、十八時ちょっと過ぎてたと思います。エレベーター待ちとかあったので」


 彼は、時計を見るように左手首に目を落とした。拘置所のスウェットには、もちろん時計など付いていない。それでも、癖は残っている。


「部屋に入って、最初に交わした言葉、覚えていますか」


「『座れ』って言われて。ダイニングの椅子に。で、すぐに、『家賃、どうするつもりだ』って」


 私は、そこで一度質問を止めた。岡島の部屋の間取りは、図面で見ている。玄関から入ってすぐの廊下。右側にキッチンとダイニング。奥にリビング、それから寝室。

事件が起きたのは、リビングの真ん中付近、と記録にあった。


「リビングの照明は?」


「え?」


「部屋の明かりです。全部ついていましたか?」


「ああ……どうだったかな。最初は、暗かったような」


 真壁は、眉間に皺を寄せた。


「玄関から入ったとき、廊下の明かりは付いてました?」


「……たぶん。いや、違うか。玄関の照明だけで、廊下は暗くて。それで、岡島さんが、スイッチを、ぽんって」


 彼は、空中を押す仕草をする。


「すみません。よく、覚えてないです」


「いえ。大丈夫です」


 私も、そこで追及を引っ込める。照明の状態は、事件当夜の写真と記録に残っている。今ここで、被告人の記憶と突き合わせる必要はない。


「では、その後のやり取りを、わかる範囲で教えてください」


 家賃の督促。仕事の有無。将来の見通し。


 会話の内容は、想像していたよりも平板だった。真壁の言葉を借りれば、「いつもの感じ」。岡島の口調はきつかったが、特別ひどい暴言があったわけではないらしい。机の上には、書類が広げられていた。真壁の滞納分の一覧。クレジットカード会社からの封筒も混ざっていた、と彼は言った。


「言い合いになったのは、どのタイミングですか?」


「……あんまり、言い合いってほどじゃないですけど。『払えません』って言ったら、『じゃあ出ていけ』って言われて。それで、ちょっと、声が大きくなって」


「そのとき、どこに立っていました?」


「ダイニングの椅子から、立ち上がって。テーブルの横あたりです」


「岡島さんは?」


「向かい側。キッチンとの境目くらい」


 私は図面を頭の中に描きながら、二人の位置関係を確認する。そこから、リビングの真ん中までの距離。凶器となったガラスの置物の位置。


「……すみません」


 突然、真壁が口をつぐんだ。受話器の向こうで、視線が宙をさまよう。


「どうしました?」


「いや、その……この辺からは、調書に書いてあるとおりで」


 彼は、私の顔ではなく、テーブルの上を見ている。


「『カッとなって、近くにあった置物で殴りました』ってあれ。あのまんまです」


「まんま、というのは?」


「書いてあるとおり、ってことです」


 彼は、そこで一度言葉を切った。口の中で何かを転がし、それを飲み込むかどうか迷っている人間の顔だ。


「……自分の言葉で、もう一度説明していただけますか」


 私がそう促すと、真壁は小さく息を吐いた。


「はい。立ち上がって、テーブルの角を回って。リビング側に歩いていくときに、棚の上に、ガラスの……なんて言うんですかね。オブジェみたいなのがあって」


「はい」


「それを、手に取って。そのまま、振り下ろしました」


 彼の右手が、無意識に宙をなぞる。実際の軌道をなぞるには、あまりに簡略化された動きだった。


「何回、振り下ろしましたか」


「一回、です。……たぶん」


「『たぶん』?」


「一回しか、記憶にないです。でも、わかりません。夢みたいで」


 夢みたいで。殺害行為の記憶をそう形容する被告人を、私は何人か見てきた。だからといって、それが真実かどうかは別問題だ。


「殴ったあと、岡島さんは?」


「倒れました。……後ろに。リビングの方に」


「意識は?」


「ないように見えました。声も出してなかったし」


「血は?」


「……出てました。頭から。床に、少し」


 「少し」という表現が、事件記録の写真と結びつく。写真の中では、「少し」は私の感覚よりずっと多い。だが、現場にいた者の主観は、また別だ。


「そのあと、どうしました?」


「……すぐには、何もしませんでした」


 真壁は、受話器を持っていない方の手で、テーブルの縁をつまむように掴んだ。


「立ち尽くしてた、というか。何秒か、何分か、よくわからなくて」


「その間のことを、覚えていますか」


「……覚えてないです」


 覚えていない。私は、その言葉をそのままメモした。「空白」と括弧を付けて。


「やがて、時間の感覚が戻った、と?」


「ええ。……で、通報しようと思ったんですけど」


「『思った』?」


「はい。思っただけで、しませんでした」


 起訴状にも、調書にも書かれていた部分だ。私はあえて、そこをなぞる。


「なぜ、通報しなかったのですか」


「……怖くなったからです」


 真壁は、ほんの少しだけ早口になる。


「自分がやったって、すぐバレると思って。だから、その……逃げようと」


「『逃げようと』」


「はい。すみません。なんか、言い方が、変でしたね」


 彼は自分で言い直した。私は、そこでペン先を止める。


「いえ。事実のとおりで構いません」


「……はい」


「逃げようとして、具体的には何をしましたか」


「玄関に戻って。靴を履いて。ドアを開けて、外に出て……鍵を閉めました」


「チェーンは?」


「……掛けました。中から」


「中から?」


「あ、いや。その……どうだったかな」


 真壁は、そこで言葉に詰まった。受話器のコードを、さっきより強くねじる。黒いらせんが、きゅっと縮む。


「鍵は、中から閉めて、そのあとチェーンを……いえ、違うな。チェーンを閉めてから、ドアを閉めたのかもしれません」


 物理的に矛盾する二つの説明が、彼の口から続けて出てきた。私は、表情に出さないよう、意識してまばたきの回数を抑える。


「どちらかが正しいはずです。思い出せる範囲で、教えてください」


「すみません。そこは、本当に、よく覚えてないです。とにかく、誰にも入ってこられないようにしたくて」


 誰にも。私の頭の中で、その言葉だけが浮かび上がる。誰にも入ってこられない部屋。被害者と加害者と、そして――。


 ブースの上部から、電子音が鳴った。ピッ、ピッ、と短い音が二回。職員が通路を歩きながら、ブースの番号を順に確認している。面会終了十分前の合図だ。


 私は手帳を閉じ、深く息を吸った。この回で、全てを聞き出すことはできない。むしろ、最初から欲張りすぎると、相手の口が閉じてしまう。


「……ありがとうございます。だいたいの流れは、わかりました」


「はい」


「細かいところは、また次回、改めて確認させてください」


「そうですか」


 真壁は、わずかに安堵したように見えた。少なくとも、この場で「なぜ通報しなかったか」を掘り下げられることは、避けたいらしい。


 職員が、通路の端からこちらを見ている。まだ数分はあるだろう。私は、手帳をもう一度開き、ページの端に目を落とした。そこには、最初に書いたメモがある。


 ――玄関には、血の付着した折りたたみ傘。


 今聞いた話の中に、傘は一度も出てこなかった。雨についての言及はあった。頬に当たる水滴、エントランスの濡れたタイル、廊下の窓を流れる雨。だが、傘を開く仕草の話はない。


「真壁さん」


 私は、受話器を持ち直した。


「最後に、一つだけ、確認させてください」


「はい?」


「事件の日、セレスティア神波に行かれるとき――傘は、お持ちでしたか」


 自分の声が、少しだけ固くなったのがわかった。真壁は、一瞬だけきょとんとした表情を浮かべる。


「……傘、ですか」


「ええ。その日の天気については、先ほど少し伺いましたが」


「ああ……」


 彼は視線を落とし、テーブルの端を指先でなぞった。


「持ってませんでした」


 その答えは、拍子抜けするほど、あっさりしていた。


「家を出るときも、駅まで歩いてるときも。傘は、持っていませんでした」


「本当に?」


「本当です。雨、最初は弱かったし。帰りは、どうせ濡れると思ってましたから」


 帰り――その言葉の意味を考える余裕もなく、私は次の質問を挟む。


「セレスティアに着いてから、誰かに傘を借りたり、渡されたりは?」


「ないです。……あ、玄関のところに、傘立てはありましたけど。僕のじゃないです」


 彼は首を振った。受話器越しに、その動きがわずかに伝わる。


「僕、自分の折りたたみ傘、持ってないですから」


 持っていない。私は、指先に力を込めてペンを握った。報道記事は、「真壁のものとみられる折りたたみ傘」と書いていた。捜査報告書では、「被告人所有の傘と同型」と。


「……わかりました」


 そのとき、ブースの上部から再び電子音が鳴った。今度はさっきより長い。職員が通路を歩きながら、「面会終了です」と淡々と告げていく。


「今日は、ここまでにしましょう。また近いうちに伺います」


「はい……」


 真壁は、何かまだ言い足りなさそうな顔をしたが、結局、口を閉じたまま小さく会釈した。受話器を置く音が、ガラス越しに響く。私も同じように受話器を置き、椅子から立ち上がった。


 ガラスの向こうで、真壁が天井の時計を見上げている。その視線を追うように、私も数字を見た。十時三十七分。予定より、少しだけ長く話していた。


 職員に促され、私は通路を歩き出す。背中に、ブースの中のざわめきが遠ざかっていく。扉を抜け、白い壁の廊下に出ると、空気が少し冷たく感じられた。


 受付に面会カードを返却しながら、私は外の光を意識する。自動ドアの向こうには、さっきと変わらない晴れた空が広がっているはずだ。事件の日とは、正反対の天気。


 ――玄関には、血の付着した折りたたみ傘が落ちていた。


 頭の中で、その一文が再生される。真壁惣一は、自分は折りたたみ傘を持っていないと言った。報道か、捜査か。どちらかが、あるいはどちらもが、何かを見落としている。


 自動ドアが開いた。冬の光が、足元のタイルに落ちる。私は一瞬だけ立ち止まり、深く息を吸った。


 最初の面会は、ただ状況を確認するつもりだった。


 けれど、ガラス越しの「犯人」と話した三十分は、私の中に、小さな違和感を確かに残していた。

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2025年12月10日 21:00

語られない密室 夕陽野ゆうひ @yuhino_yuhi

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