追憶

辛口カレー社長

追憶

 特急電車が停まらないその駅に降り立った時、最初に私を出迎えたのは、圧倒的な乾きだった。

 六月の湿り気を帯びた風が吹いているはずなのに、駅前のロータリーは、まるで何十年も雨が降っていない砂漠のように乾いて見えた。アスファルトの隙間から伸びた雑草は緑色を失い、白っぽく埃を被っている。


 私はジャケットの襟を正し、誰に見られるわけでもないのに、わざとらしく腕時計を見た。午後二時を少し回ったところだ。東京では、まさに今頃、私のいない会議室で、私の処遇についての複雑な議論が交わされているはずだ。そこから逃げ出すために、私はあてもなく北へ向かう電車に飛び乗り、名前も知らないこの町で降りた。そして、駅前から続くメインストリートへと足を向ける。

 かつては、ここが町の心臓部だったのだろう。頭上には錆びついたアーケードが、巨大な獣の肋骨のように覆い被さっている。太陽の光はその骨の隙間からまだらに降り注ぎ、路面に幾何学きかがく模様を描いていた。

 そこは、見事なまでのシャッター商店街だった。右も左も、灰色、紺色、あるいは塗装の剥げた茶色のシャッターが、頑として沈黙を守っている。

「奥田時計店」

「ブティック・エレガンス」

「おもちゃのハトヤ」

 看板の文字だけが、かつてここに商いがあり、生活があり、人々の笑い声があったことを亡霊のように主張していた。

 歩いているのは私だけだ。私の革靴がアスファルトを叩く音だけが、乾いた反響音となってアーケードに響く。


 いつも思うことがある。一日中シャッターを閉ざし、外界との接触を断っているこの家々の住人は、一体どうやって生活の糧を得ているのだろうか、と。

 建物の二階部分には、洗濯物が干してある家もある。生活の気配は確かにあるのだ。だが、一階の店舗部分は死んでいる。年金暮らしなのか、それとも不動産収入があるのか。以前、ネット上の暇つぶし記事で「シャッター通りでも店主が困らない不動産のカラクリ」のような見出しを目にした記憶があるが、スクロールするのも億劫で、中身は読まなかった。

 結局のところ、ど田舎のシャッター商店街がどうなろうと、経済のことわりから外れた場所で彼らがどう生きようと、私の知ったことではない。私はただ、自分を取り巻く都会の喧騒と、人間関係の軋轢から逃れたかっただけなのだ。死んだように静かなこの場所は、今の私にはあつらえ向きの墓場のように思えた。

 ――寂れた街に、金でも落としてやるか。

 そんな偽善的な、あるいは自暴自棄に近い言い訳を心の中で転がした。


 百メートルほど歩いただろうか。完全に色が褪せて判読不能になった看板の呉服屋と、シャッターの前に古びたプランターが並べられた金物屋の間に、奇妙な空間を見つけた。そこだけ、時間が止まっているのではなく、別の時間が流れているような佇まいだった。

 赤レンガ造りのファサード。すすけたように黒ずんだその壁面は、昭和という時代が吐き出した煙草の煙を全て吸い込んだかのような重厚さを醸し出している。ショーウィンドウには、蝋細工の食品サンプルが並んでいたが、長年の紫外線でスパゲッティは白くなり、パフェのクリームは黄色く変色していた。入口の真鍮しんちゅうのドアノブは鈍く光っており、そのノブには「営業中」と手書きされた小さな木製のボードが吊り下げられている。

「珈琲 レンガ」

 看板の文字を心の中で読み上げる。店の外からでは、営業しているのか、していないのか、分からない。しかし、私は吸い寄せられるように、その重苦しい木製のドアに手を掛けた。

 ――カラン、コロン。

 ドアを開けると、予想以上に大きく、そして澄んだ音色のベルが鳴った。その音は、店内の静寂を切り裂くというよりは、静寂の一部として溶け込んでいくようだった。

 一歩足を踏み入れると、外界の初夏の空気とは違う、ひんやりとした冷気が全身を包んだ。古いエアコンの匂い、焙煎されたコーヒーの香ばしさ、そして、微かな古書の匂いが混じり合った、独特の喫茶店の空気だ。

 照明は極端に落とされている。飴色に変色した天井のペンダントライトが、ビロード張りの赤い椅子をぼんやりと照らし出している。

 私は入口で立ち止まり、目が暗さに慣れるのを待った。

 ――数秒の沈黙。

「いらっしゃいませ」

 奥のカウンターから声が掛かった。私は、その声の若さに面食らった。

 カウンターの中から出てきたのは、腰の曲がった老マスターでも、白髪の品の良いマダムでもない。白いシャツに黒いサロンエプロンを締めた、若い女性だった。

 歳は二十代後半、あるいは三十の手前くらいだろうか。黒髪を後ろで一つに束ね、化粧っ気のない、しかし整った顔立ちをしている。この化石のような店には似つかわしくない、瑞々しい生命感がそこにあった。

「お好きな席へどうぞ」

 彼女の声は落ち着いていて、よく通った。

 私は軽く会釈をし、窓際の四人掛けのテーブル席を選んだ。窓ガラスはすりガラスになっており、外のシャッター街の荒廃をうまい具合に遮断している。

 店内に他の客はいなかった。BGMもない。ただ、厨房の奥で、冷蔵庫のモーターが唸る低い音だけが、通奏低音のように響いている。

 私が席に着くと、すぐに女性店員が水の入ったコップとおしぼりを持ってきた。コップを置く所作が、すごく丁寧で好感が持てた。音を立てないように、小指をクッションにしてテーブルに触れさせ、それからガラスの底を置く。その一連の動作に、マニュアル化されたチェーン店の接客にはない、ある種の気品のようなものを感じた。

「ご注文はお決まりですか?」

 彼女は手元の伝票にペンを走らせる準備をする。

 私はメニューを開いた。手書きの文字が並んでいる。

『ブレンドコーヒー 400円』

『レモンスカッシュ 450円』

 価格設定も昭和のままだ。

「アイスカフェオレと……」

 少し迷って、私はメニューの下の方にある文字を指さした。

「フレンチトーストを」

「かしこまりました。フレンチトーストは少々お時間をいただきますが、よろしいですか?」

「構いません。急いでいないので」

「ありがとうございます」

 彼女は微かに口角を上げ、一礼してカウンターへと戻っていった。

 私は彼女の後ろ姿を目で追った。背筋が伸びていて、歩き方に無駄がない。

 経営者は親で、娘が手伝っている。そんなところだろうか。この客入りの少なさだ。アルバイトを雇う余裕があるとは思えないし、そもそもこの町に若い労働力が残っているとも思えない。

 もしかすると、彼女もまた、このシャッター街に囚われた人間の一人なのかもしれない。親の介護か、あるいは私のように都会で何かにつまずいて、この琥珀色の殻の中に逃げ帰ってきたのか。

 私は出された水を一口飲んだ。カルキ臭さのない、よく冷えた水だった。


 手持ち無沙汰になり、私はテーブルの上を見回した。

 シュガーポット、陶器の灰皿、星占いの自販機。そして、テーブルの片隅、窓枠との隙間に、小さなメモ帳のようなものが落ちているのに気づいた。店の備品だろうか。いや、それにしては装丁に個人の趣味が出すぎている。

 手の平に収まるサイズの、黒い革表紙のメモ帳だ。使い込まれて、角が丸くなっている。

 私は周囲を見回した。店員はカウンターの中で調理に集中している。卵を溶くリズミカルな音が聞こえてくる。

 魔が差した、というやつだった。私はそのメモ帳を手に取り、パラパラとめくる。中は、几帳面な、しかし少し丸みを帯びた文字で埋め尽くされていた。


『5月12日 8:40 起床。燃えるゴミの日』

『5月13日 午後、銀行へ記帳にいくこと。』

『5月15日 醤油、洗剤、電球を買う。』


 他人の生活の断片。極めて個人的で、そして驚くほど退屈な記述の羅列だった。

 ――不用意だな。

 私は心の中で毒づいた。こんな誰も来ないような店だからと油断しているのだろう。メモ帳を置き忘れる客も客だが、テーブルを拭くときに気づかずに放置しているこの店も店だ。さっきの水や接客で見直した評価が、少しだけ揺らいだ。所詮は、終わった町の、終わった店なのだ。

 私は興味を失い、メモ帳を元の場所に戻そうとした。その時、ふと開いた最後のページに目が留まった。そこだけ、ペンの筆圧が違っている。日常の備忘録ではなく、心の叫びを刻みつけるような、強く、太い文字。

 ページの真ん中を占領するように、その一文は書かれていた。


「人生が、もっと単純ならいいのに」


 その言葉は、鋭い棘となって私の記憶の古傷を刺激する。

 私は息を呑んだ。

 ――知っている。

 この言葉を、私は知っている。一九七三年のアメリカ映画、『追憶(The Way We Were)』。

 バーブラ・ストライサンド演じるケイティーが、ロバート・レッドフォード演じるハベルに向かって放つ台詞だ。

 政治的思想の違い、育ちの違い、生き方の違い。愛し合っているのに、どうしても分かり合えない二人が、互いの溝の深さに絶望するシーン。


「Wouldn't it be lovely if we were old? We'd have survived all this.」

 ――年をとっていればよかったのに。そうすれば、こんな苦しみも乗り越えていただろうに。


 その文脈の中で語られる、単純(Simple)への憧憬。まさか、こんな日本の片隅の寂れた喫茶店で、あの台詞に出会うとは。

 私は再びメモ帳を凝視した。前のページまでの「醤油」や「銀行」といった生活感あふれる記述と、この切実な一行の落差。

 ――このメモ帳の持ち主は誰だ?

 映画の公開時期を考えれば、リアルタイムで観て心に刻んでいる世代、おそらく六十代か、それ以上だろう。

 かつては情熱的に生き、愛や理想に燃えていたが、長い人生の果てに、ただ「醤油」と「ゴミの日」に埋もれる生活に行き着いた老人。あるいは、今の私のように、どうしようもない人生の袋小路で立ち尽くしている人間。

 不思議な親近感が湧いた。私もまた、今まさに思っていたからだ。

 会議室での吊るし上げ、派閥争い、妻との冷え切った関係、住宅ローンの残高。絡まり合ったスパゲッティのような私の人生。

 単純であれば、どんなにいいか。

 ただ起きて、飯を食い、働き、眠る。それだけで満たされる単純さが欲しいと。


「お待たせしました」

 不意に声がして、私はビクリと肩を震わせた。慌ててメモ帳を手で隠すように押さえる。

 女性店員が、トレイを持って立っていた。彼女は私の動揺に気づいたのか、気づかないふりをしているのか、変わらぬ穏やかな表情でテーブルの上に品物を並べ始めた。

 厚切りのフレンチトーストからは、バターとメープルシロップの甘美な湯気が立ち上っている。二層に分かれた美しいアイスカフェオレのグラスには、細かい水滴がついている。

「ごゆっくりどうぞ」

 彼女は最後に、新しい紙ナプキンを一枚、そっと置いた。

「ありがとう」

 私が顔を上げると、彼女はにこりと笑った。それは営業用の作り笑いではなく、どこか内気で、しかし芯のある微笑みだった。

 窓からの逆光を受けて、彼女の輪郭が柔らかく光る。

 美人だ、と思った。

 都会の派手な美しさではない。古い家具のように、静かで奥行きのある美しさ。

 こんな場所でくすぶっているのが惜しいほどだ。看板娘としてSNSで売り出せば、遠方から客が押し寄せるかもしれない。

 ――いや、余計な世話か。

 彼女には彼女の「複雑な」事情があるのかもしれない。

 私はフォークを手に取り、フレンチトーストを口に運んだ。表面はカリッと香ばしく、中はプリンのようにトロトロだった。卵液が芯まで染み込んでいる。噛むと、じゅわりと甘さが広がり、疲弊した脳髄に糖分が染み渡っていくのを感じた。

 ――旨い。

 思わず溜息が出た。こんなに丁寧に作られたものを食べたのは、いつ以来だろう。

 コンビニのサンドイッチや、接待の席での味がしないコース料理ばかりだった最近の私にとって、このフレンチトーストは、忘れかけていた「生活」の味がした。

 アイスカフェオレの氷がカランと音を立てて溶けた。

 私は皿を空にし、グラスの結露を指でなぞった。

 満たされた胃袋とは裏腹に、心の中に刺さった棘はまだ抜けていない。


 『人生が、もっと単純ならいいのに』


 手元のメモ帳が、まだそこにある。持ち主は、まだ取りに来ない。おそらく、常連客の誰かが置き忘れたのだろう。店員も気づいていない。

 私はジャケットの内ポケットから、万年筆を取り出した。普段、契約書へのサインにしか使わない、モンブランの万年筆。

 ――何をしているんだ、俺は。

 理性が止めるのを無視して、私はメモ帳の最後のページを開いた。

 見知らぬ誰かの、魂の叫び。その隣の余白に、私はペン先を落とした。

 黒いインクが、安い紙にじわりと染み込んでいく。


『人生は、複雑だ』


 ケイティーの願いに対する、ハベルの諦めのような、現実を受け入れた者の返答。

 映画の中で、二人は結局別々の道を歩む。愛だけではどうにもならない複雑さが、人生にはあるからだ。

 さらに、その言葉の下に、小さく書き添えた。


『それでも、ここのフレンチトーストがあれば、少しはマシになる』

 

 ペンのキャップを閉じる音が、妙に大きく響いた。

 私はメモ帳を閉じ、元の位置――窓枠とテーブルの隙間に戻した。まるで、最初からそこにあった秘密のように。

 これは、顔も知らない同志への、私なりのエールであり、共犯の証だった。このメモ帳を再び開いた誰かが、私の下手くそな字を見て、苦笑いしてくれることを願って。


「ごちそうさま」

 席を立ち、レジへ向かう。女性店員が小走りでやってくる。

「ありがとうございました。八百五十円になります」

 千円札を出し、お釣りを受け取る。彼女の手は温かかった。

「雨、降りそうですね」

 ふと、彼女が窓の外を見て言った。見ると、いつの間にか空が曇り、アーケードの外が薄暗くなっている。

「そうですね。でも、駅まではすぐですから」

「お気をつけて」

 彼女の声を背中に浴びながら、私は重いドアを押し開けた。

 外に出ると、湿った風が頬を撫でた。先ほどまでの乾いた空気は消え、アスファルトからは雨の匂いが立ち上り始めていた。

 シャッター商店街は相変わらず沈黙している。だが、私の足取りは、来る時よりも幾分か軽かった。

 ――人生は、複雑だ。

 会社に戻れば、また面倒な問題が山積みだし、妻との関係が修復できる保証もない。シャッター街の店主たちの生活も、あの美しい店員の未来も、決して単純なものではないだろう。

 それでも……それでも、複雑なままで、とりあえず次の一歩を踏み出すくらいの力は湧いてきた気がする。

 ポツリ、と雨粒が額に当たった。

 私は駅に向かって歩き出した。

 背後のレンガ造りの店の中で、誰かが私の落書きを見つける瞬間を想像しながら。

 

(了)

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