クル・ド・サック・ガール

ふじもりあきら

クル・ド・サック・ガール

第一話 クル・ド・サック・ガール cul de sac girl(袋小路の少女)


 この春、九年振りにこの町、室壁市(むろかべし)に戻ってきた。1年生のうちに編入試験を受けて、2年生から自宅から近いまあまあのレベルの高校、室壁西高校に通うことになった。

 父親の仕事の関係で、だいたい二年ごとに引っ越しを繰り返してきたので、この九年の間で六回目になる。ここには、幼稚園の最終年と小学1年の間だけ住んでいたから、そんなに印象は残っていないが、転校の時に友達を別れるのはつらかった記憶だけはある。ただ、その後五回も住むところが変わったから、だんだんとそんなことは感じなくなっていった。どうせまた数年でここからいなくなるっていうのが理解できてきたから、積極的に友達を作らなくなったのだ。仲良くなっても、必ず友人関係がリセットされるのだから、当然だろう。自分の意思とは無関係な事で発生する理不尽な強制リセットから逃れるすべはないのだから、慣れてしまったというか、順応したのだといえる。

 同じ町に戻ってきたのは初めてだったから、探せば当時の友達はみつかるだろうし、ひょっとしたら同じ高校にいるかもしれないけど、そんな気にはならなかった。九年の間に、当時住んでいた場所も、小学校、クラスメイトの記憶もこんぐらがって曖昧になっていた。小学校だけで四つ通っているのだから、それは仕方ない。転校の時に、寄せ書きとかなんかもらったはずだが、度重なる引っ越してどこかへいってしまい、そもそも仲のよかったはずの友達の名前や顔さえ思い出せないのだから。母親が気を使って、入学式の集合写真をわざわざ見せてくれたが、よみがえってくることはなかった。

 2年生のクラスは、1年の持ち上がりではなかったようだが、同じクラスだったとか、同じ中学出身とか、すでにコミュニティというか、ヒエラルキーは出来上がっているので、努力をしてその中に居場所をみつける気にはなれなかった。どうせ3年生になれば就職・進学であわただしくなるわけで、この一年のためだけに友人を作りたい、なんて情熱はわいてこなかった。なので、クラブにも入らず、放課後は一人帰宅部となった。休みの日はどうしているかというと、ひたすら町の中を歩いている。


 どうして町歩きをするようになったのか、そのきっかけは、小学校高学年、6年生の時だ。引っ越して間もない頃のある夜、TVで何かのロケ番組を家族と見ていたら、母親から

「この場所って、前の前にいたとこだよね、住んでたマンションの近くにあった」

とか言われて、確かにその記憶はあったので、

「そうだね、部屋は五階の端の方だったよね、窓から大きな公園が見えてて」

「そうそう、あそこドッグランもあったよね。学校から帰りのバス、とっくに着いてるはずなのに、けっこうそこで寄り道してたよね」

「え?学校は近くじゃなかったけ、チャイムの音が聴こえてこなかったっけ」

「けっこう遠い丘の上に学校があったから、スクールバスで行ってたじゃないの。歩いてすぐ行ける場所だったのは、その前の学校だよ」

 住んでいた二つの場所が、ごっちゃになっていたのを指摘されたのだ。証拠となるスマホの画像を見せられたので、どちらが正しいかはすぐに分かった。これはけっこうショックだった。暗記は得意だし、記憶力はいい方だという自負はあったので、前に住んでいた場所の事があいまいになっているなんて。さすがに直前の場所の事ははっきり覚えていたけど、それより前はそんなことになっていたのだ。

「気にすることはない、人の記憶はあてにならないものだからね」

 父親からはそうなぐさめられて、そして、人間の記憶がいかにいいかげんなものか、実例をあげて説明してくれた。

「たとえば、こんな話があって、ある有名な作家に、生れ故郷の町から観光大使就任の依頼があったそうだ。小さいうちに離れてしまったので、断るつもりだったが、担当者が熱心で、高齢の母親の勧めもあったので結局引き受けることになった。それがきっかけでその町で講演会を開くことになり、久しぶりに生れ故郷に戻り、幼い頃に遊んだ公園を訪ねると、おぼろげな記憶通りにユニークな形をした古ぼけたモニュメントがまだあって感動したそうだ」

「その記憶が間違いだったてこと?」

「そうなんだ。その事を母親に話すと、その作家がその町にいたのは二歳になる前までで、たしかにその公園ではよく遊んだけれど、記憶が残っているはずがないって」

「赤ちゃんの時の記憶があるっていう人いるけど」

 横から母親が口をはさむ。

「人間の記憶は、三歳から四歳からしか残らないらしいから。それにこの作家の場合、決定的な事実があって、そのユニークな形をしたモニュメントが作られたのは、公園で遊んでいた頃よりずっと後、引っ越した後だったんだ」

「それってどういうこと?」

「作家自身が分析しているんだけど、そもそも、母親から写真を見せられて何度も聞かされた思い出話、その公園で遊ぶのが大好きだったというのが、やがて自分自身の記憶になってしまった。そして、見たはずのないモニュメントは、観光大使就任の際に送られてきた資料の中に公園の傷んだモニュメントの写真があって、たぶんその頃の自分も見たはずだろうと思い込んで、記憶と結びついてしまった」

「そんなことがあるの」

「あるんだな、そういうことが」

「あるあるだね、学生時代の友達と久しぶりに会って、楽しかった卒業旅行の話になったら、連泊したホテルの部屋がくいちがっていて、どっちも絶対自分が正しいって、その場にいなかった一緒にいった別の子に確認したら、どっちも間違ってるって証拠写真付きで返ってきて、あれは笑ったな」

「珍しいことじゃないんだ」

「それから、こんな実験がある。何人かを集めて、ある人が綱渡りをして、足を踏み外して安全ネットの上に落ちるという映像を見てもらう。そして、その人が着ていたのは赤い服でしたって、実は間違っている情報を教える。その後にその人が着ていた服の色をたずねると、多くの人が赤って答えたそうだ、本当は緑だったのに。落下という現象のインパクトが強すぎて、服の色を目で見ていたはずなのに、後からの情報で、記憶は簡単に変わってしまうって証明された」

「じゃあ、どうすればいいの?」

「記憶はあてにならないと実感したなら、正確に記録をつけなさい、それもすぐに、その場で、時間を置かずに」

「どうしてその場でなの?」

「記憶は体験した直後から、急速に忘れてしまうものなんだ。後から記録してももう正確じゃない。だから、残しておきたいものは特に急がないといけない。そして大事なのは記憶は信用しないこと、記録だけを信じなさい」

 それ以来、そのアドバイスを守るようにしている。


 住んでいた場所の記憶があいまいになっているのに気付いて以来、家のまわりをよく観察して、記録するようになった。その時住んでいたのは、古くからある城下町の、旧市街と呼ばれている一角にある古い一戸建ての借家。築五十年以上の日本家屋で、まわりも同じような住宅が狭い道沿いに建ち並んでいる。小学校は歩いて十分、城跡の中にある創立百五十年の伝統校。堀にかかる橋を渡って、「西の丸」と呼ばれている場所の、これもまた古い校舎に通っていた。

 旧市街から出ると、町の様子が一変して、道幅も広くなり、お店屋さんがあったり、高いビルがあったりする。同じ町の中なのに、住宅地だったり、商店街だったり、オフィス街だったり、工場があったり、歩いて回って記録をつけていくと、それぞれ場所によって、明かな違いがあることが見えてきた。そして、それは勝手にそうなったんじゃなくて、ちゃんとした理由があることも分かってきて、ますます興味がわいてきて、町歩きが楽しくなった。

 その町には一年しかいなくて、中学1年生になって引っ越した先は、都市圏の郊外にある新しめの広い住宅街で、対照的なところだった。それがまた町歩きにのめりこませた。成り立ちも歴史も全く違うから、何もかもが新鮮だった。特に新興住宅地は、計画的に作られているから、何もない丘陵地帯が開発されて、何万人も住む町が出来上がる様子は、シミュレーション・ゲームみたいで面白すぎた。正直、友達を作るより、町を調べている方が楽しかったのはある。

 だから、引っ越しが多いことが、ネガティブではなくなり、むしろ次はどんな町へいけるんだろうと、期待してしまうようになった。中三と高一を過ごした港町はそれまでとは全く違っていたし、次の町は二度目だけど、前は小学生低学年だったから、活動範囲も狭く、町の記憶はあいまいだから、昔を懐かしむなんて目的は全くなく、新鮮な目で町歩きができる。途中で気になったものがあったりすると、そこに住んでいる人とかにたまに話しかけることもある。見知らぬ人と話すのは全然苦じゃない。むしろ、知らない人だからこそ、話しやすい。その方が怪しまれないし、目的を話せば、警戒心を解いてもらえる。知らぬ間にノウハウが身についているのだ。


 その日曜日も、いつものように、町歩き用の装備、歩きやすい服、日よけの帽子、足になじんた靴。ポケットにはスマホと身分証明となる学生証、バックパックには携帯バッテリー、ペットボトル、食料、小型の傘、フラッシュライト、古い地図や航空写真のコピー、ノート等を入れて、出発。

 この町は、住んでいる人たちが「何の特長もない」「何の変哲もない」「何の名所もない」と言いがちらしい。引っ越してきたすぐ、母親は近所の方々から口々にそんなことをいわれたようだ。好意的にとらえたら、クセのない、住みやすい町、なんだと思う。でも、実際は違っていて、町を歩いてみれば、これまで住んでいた場所にはない、ユニークなところはいっぱいあるので、みんな気付いていないだけだ。もっとも、日々の暮らしの中で、そんなことを気にする必要はないのだけれど。

 本日の目的地は、室壁市の中心から西側にある「すみやか台」。元は草木が生い茂った丘陵地帯を切り開いた、比較的新しい計画的に作られた住宅地だ。建物の高さに制限がある区域だから、高層マンションとかはなくて、一戸建てが多い。家は千軒以上あるので規模は大きい。スマホの地図サービスのアプリ、マーバラ・マップと、時には古い地図や航空写真と照らし合わせながら、現状を確認するのだ。例えば水路、元からあった小川をコンクリートで固めていたり、蓋をしたりして暗渠にしたり、全く新しく作った場合もある。公共団体のサイトに計画図などがアップされているが、元の地形をどう生かして、どう改造したのか、そのあたりは実際に見てみないとわからない。造成時の技術力や流行で、設計も変わってくるし、上手くできてるなあと感心することもあれば、これはちょっと手抜きじゃないかと首をひねることもあり、わくわくの連続だ。

 東側にある中央入口には、大きな石作りの柱が立っていて、「すみやか台」と住宅地の名前が深く彫りこまれている。午前中いっぱいかかって、住宅地を歩き回った。よくあるグリッド型といわれる道路が格子状に通った作りなので、一筆書きであらかじめコースを考えておいたから、迷うことはなかった。元の地形を生かした公園に入って、木陰にあるベンチに座ってしばらく休憩。用意していたパンを食べる。おしゃれなレストランもあったりするが、ランチの値段は高校生には安くはない。新しい住宅地には、広さに応じて公園を作ることが義務付けられているので、ここにも何か所かある。それぞれ特長があって、それを比較するのも楽しい。

 エネルギー補給の後、今日撮った画像や記録をチェックして、見落としたところがないかを確認。計画通りに回れていたので予定は無事完了。そして、この後どうするか考える。天気はいいし、まだそんなに疲れていないので、ここよりさらに西、少し高いところにある住宅地も見ておくことにする。地図アプリで確認した限りでは、家が百五十軒程度の小規模でありふれた感じだが、だからといってスルーなんかしない。

 ふたたびバックパックを背負って、公園を出て、新たな獲物じゃなかった、住宅地を目指して歩いて行く。狭いアスファルト舗装の道は、少し登ったあと、ちょっと下りになる。すると、数十メートル先を歩いている人影が視界に入った。だんだんと近づいていくと、たぶん同い年ぐらいの女の子だろうと思えた。後ろから近づく足音が聴こえたのか、ちょっと振り向いた顔には見覚えがあった。

 たしか名前は鷹角(たかすみ)、だったはず。クラスメイトの名前ぐらいは頭に入れている。そんなのは簡単なことだ。顔と名前は一致しないのがほとんどだけど。

 なのにどうしてわかったかというと、目立つ子だったからだ。見た目が、というのじゃない。クラスの中では、休み時間も、部屋の隅の席にずっと座って、スマホを見るか、本を読むか、外を見ているか、寝ているかだけで、誰とも話している様子はない。つまり、ステルス性能を発揮していたから逆に目についていたのだ。同類、同族のシンパシーを感じていたけど、もちろん、話したことは一度もない。声は授業中に教師にあてられて聞いたことあるが、いつも小さくて何を言っているかわからない。

 他に通行人はいない。偶然とはいえ、まるで後をつけているかのような状況で、変に思われて通報でもされたらやっかいだ。たぶん自分が誰かは気付いていないと思うけれど、あまり近づかないように、歩みを遅くする。そうすると、その鷹角は、ふっと左に曲がった。やがてその曲がったとこまでいってみると、金属を加工した看板が立っていて、「とりふねが丘」と書かれていた。遠くにゆるやかな坂道の右側の歩道を上っていく後ろ姿が見えた。いや、そっち今から行こうとしている住宅地じゃないか。

 たぶん、鷹角はここに住んでいるのだろう。だからって、後ろめたい事は何一つない。引き返す必要は何にもない。興味があるのは、住宅地なんだから。意を決して、道を上り始める。数歩すすめると、とたんに足が重くなってきた。こんな経験は初めてだ。背中に何か重しでも乗ってきたような、そしてそれがだんだんと増えていくような感触にとらわれた。顔はうつむきがちになり、呼吸も荒くなってきて、ついには立ち止まって、その場にうずくまってしまった。気持ちが悪い。熱中症でもない。ただただ、気分が悪い。これ以上は進めない。これではまるでホラー映画の一シーンじゃないか。目に見えない大きな力で、押しつぶされたような。

 帰ろう。はいつくばって向きを変えて、ふらふらしながら立ちあがり、ゆっくりと坂を下っていった。さっきの看板のところまで戻ると、気分はだいぶよくなってきた。普通に歩ける。そして、後ろは一度も振り返らず、その場から逃げ出した。そう、まさしく全力で走って逃れたんだ、得体の知れないものから。


 月曜日、重たい気持ちのまま、教室に入った。昨日はあの後家に戻ると、母親からは顔色が悪いと心配された。何でもないとは言ったが、自分でもあれが何だったのか見当がつかなかった。恐怖というのはちょっと違う、その場にいたくない嫌悪感とでもいうものなのか。状況が理解できないまま、なかなか眠れない夜を過ごした。

 そして、教室の隅に座る鷹角に目を向けずにはいられなかった。あの住宅地に普通に入っていった。どういうことなんだろう。今までちゃんとは見たことがなかった。この学校のエンジの地味な制服に、セミロングの黒髪。小さな顔に、大きな瞳。小さい鼻にすこしぽてっとした唇。こんな顔だったのか。美人系ではなく、可愛い系でもない。かといって、魅力がないわけでもない。あんまりじっと見ていたら、一瞬目が合ってしまった。いけない、いけない。

 昨日のことなんだけど、と声をかけるべきか。いや、そもそもこっちに気付いていない可能性が大きいから、不審がられるだけじゃないか。そうして何もできないまま、時間だけが過ぎていった。

 そして、週末の金曜日の夜、決心した。原因が何かはまったくわからない。だから、あの場所には二度と近づかない方がいい。理性はそうささやく。しかし、それでは負けじゃないか。今まで住んできた町で、行きたいところには行って、見たいものを見てきたのに、なんでそこだけあきらめる。あの住宅地が中に入るのを拒否していたとしても、それに従う必要はない。負けてたまるか。行ってみよう、中をくまなく見てみよう。そこで対策を考えた。あんな状態になったのは、外からの影響、五感を通して何らかの働きかけがあったのじゃないか。ならばそれをブロックすればいいはずだ。


 土曜日、いつもの週末と同じように家を出て、まっすぐにあの住宅地、「とりふねが丘」へ向かった。そして、誰も周りにいないことを確認してから、用意していたものをバッグから取り出して装着した。視覚を遮断するために安眠用のアイマスクとサングラス、聴覚を遮断するために密閉式イヤホンをつけてスマホから音楽を流す、味覚を遮断するために大量のラムネ菓子を頬張る、臭覚を遮断するために鼻に栓をして衛生用マスクをつける、触覚を遮断するために手袋をつける。これで準備はできた。怪しさ抜群の姿だが仕方ない。前が見えないので、低い姿勢で、手探りで、住宅地へ続く道に足を踏み入れた。

 しかし、万全とはいえないが最善をつくしたつもりの準備もむなしく、先週と同じように、どんどん気分は悪くなり、道端にうずくまった。これ以上は無理か、このまま戻るか。いや、だめだ、ここであきらめちゃいけない。これまで何のためやってきたんだ。

 度重なる引っ越し、転校が、つらくない、さびしくないはずがないじゃないか。でも、町歩きに出会ったおかけで、次にいく新しい町が楽しみで、それを乗り越えられてきたんじゃないか。だから、こんな訳の分からないことで、あきらめちゃいけない。負けちゃいけない。行くんだ、どんなに恰好悪くても。動かない手足を叱咤激励する。

 はいつくばったまま、手を伸ばす、肘と膝で地面をすって少しでも体を前に移動させる。どれぐらい進んだのかわからないまま、もがき続けた。そして、息はだんだんと荒くなり、意識はだんだんとぼんやりしていった。

 背中を何かがさすっている感触で我に返った。何も見えない、何も聞こえない。そりゃそうだ。あわててサングラスとアイマスク、イヤホンをはずすと、人のよさようなおばあさんの顔があった。

「大丈夫かい?」

「はい・・・」

 ゆっくりと立ちあがって腕を振ってみると、倦怠感も気持ち悪さも消えていた。

「元気です、とっても」

「ならいいんだよ、地面にはいつくばって匍匐前進してたけれど、新しいダンスかなんかなのかい?」

「まあ、そんなところで」

「近頃の若い人はよくわからないねえ。ファッションもそんな奇抜なのをするんだねえ」

 ベージュで長めのニットカーディガンを着たおばあさんは首をかしげながら、ゆっくりと歩いていった。その姿を見送りながら、周りを見渡すと、そこは住宅地に入ったばかりの所だった。成功したのだ、なんだかわからないものに勝ったんだ。うれしさがこみあげてきた。

 そこは四つ角になっていて、上ってきた道はそのまま真っすぐ住宅地の奥まで続ている。左右の道は、途中から微妙にカーブしていて先までは見通せない。交差点の右側には公園があって、何本もの緑の木の向こうに、遊具らしいのも見えた。左の道脇には、ゴミの集積場があって、その隣には番号がついた宅配BOXが縦横に大量に並んでいている。百以上はあるから、この住宅地の家の分だけあるんだろう。こんなの見るのは初めてだ。配達業者の人は、いちいち一軒一軒を回らなくても、ここで仕事が全部終わる仕掛けか、おもしろい。

 正面の道をゆっくり歩いて行く。広めの敷地の中に一戸建ての住宅が並んでいる。建物のデザインはそれぞれ違っているが、共通したコンセプトが感じられて、なんだか上品さがある。二つ目の四つ角でも、また左右の道は微妙に曲がっていて、次の四つ角も同じ。そして、その先、広場のようなところに出た。道は歩いてきた一本だけがつながっている。灰色の石が敷き詰められている円形の空間で、その周りを八軒の家が取り囲んでいる。普通の広場じゃない。中央には、縁を赤いレンガで囲んで少し高くした一回り小さな円形、花壇のようなものがあり、真ん中に小さなオブジェ、そして低い木や、草花が植えられている。その花壇に沿って歩くと、一回転して元の場所に戻る。これは、見事なクル・ド・サックじゃないか。

 クル・ド・サックとは、袋小路のことだ。でも行き止まりじゃない。車で入ってくると、バックしないと出られないのが行き止まり。ここは違う。車が入ってきても、道なりに右回りで走れば、自然に車体の方法は逆になりすんなり出られる。行き止まりのようで行き止まりじゃない。昔は法律の関係やらなんやらで、あまり作ることはできなかったらしいが、今は増えているそうだ。でも、これまで見たことはなくて、こんな立派なのがこの町にあったなんて知らなかった。こんなの初めてだ、もう興奮を押さえられない。ということは、この「とりふねが丘」は、クル・ド・サックを中心にして、三重の環状の道で囲まれている、珍しい円形の住宅地なんだ。四つ角の左右の道は、だからカーブしていて丸くつながっているんだ。そういうのが世の中にあるっていうのは知っていたけど、本物が見られるなんて、なんて幸せなことなんだ。

 しかし、次の瞬間、あること思い出して、背中に寒気が走った。こんなのがあることは、地図になかった。スマホの地図サービスのアプリ、マーバラ・マップでは、ごく普通の横長の長方形の住宅地だった。手袋を脱いで、おそるおそるアプリを開く。やっぱり長方形で、現在位置はその中央付近。アプリの立体写真表示機能、マイルアイをオンにすると、その画像と目の前の状況とは全然違う。建物は同じだけど、円形に並んでなんかいなくて、直線的に隣合っている。もう訳がわからない。ためらいがちに指でタップして写真を撮ってみると、これもマイルアイと同じで実際とは違う画像になっている。これは幻を見ているのか。中央の花壇のレンガに手を伸ばすと、ちゃんと感触がある。花にも触れられる。

 恐怖心が全身をかけめぐって、足の震えが止まらなくなってきた。そういえば、土曜のお昼というのに、さっき会ったおばあさん以外に人を見かけない。住人は突然の侵入者をどこからか息をひそめて監視しているのだろうか。悲鳴がもれそうな口を必死で押さえて、走り出した。怖い、ただただ怖い。少しでも早くここから出たい。転びそうになりながら、人生で一番速いスピードで、住宅地を抜けて、坂を駆け下りた。一瞬でも立ち止まると、何かにつかまりそうで。

 家には誰もいなかったので、よろけながら階段を上り、部屋のベッドに倒れ込んだ。行かなければよかったのか。意地を張らないで途中で帰ってくればよかったのか。もうこれ以上かかわらない方がいいのか。撮影した画像は見る気にならなかった。ネットで検索もしたくない。夕食時、両親からは体調を心配されたけれど、「大丈夫」以外何も言えない。

 翌日の日曜日は、部屋に引きこもった。ちっとでも気を抜くと、あの「とりふねが丘」は何だったんだろう、そんな思いがわいてくる。だめだ、ちょっとでも考えてしまうと、恐怖心だけがぶり返してくる。あわてて、普段あまり使わないゲーム機を出してきて、ひたすら頭を空っぽにして、アクション系に熱中するふりをする。


 月曜日、しばらく学校は休みたかったが、熱もないし、理由がみつからない。おそるおそる教室に入ると、相変わらず鷹角は隅の席で一人でスマホをいじっていた。あの場所に住んでいるはずだから、あの場所の秘密も知っているだろう。いや、そんなのはもう知りたくない。かかわりたくない。見ちゃダメだ。それは分かっているはずなのに、いつのまにはそっちに目が向いていた。あぶない、あぶない。

 何事もなく午前は過ぎて、昼休みが終わり、午後の授業の準備をしていると、廊下から入ってきた鷹角はゆっくりと近づいてきて、すぐ横でわざとらしく手に持ったハンカチを落とした。しゃがんで拾ってから立ちあがった瞬間に、耳元で囁かれた。

「今日の放課後、校舎の裏の記念碑のところに来て」

 一呼吸おいて、

「必ず来て、絶対に」

 見た目とはギャップのある有無をいわさぬ強い口調だった。そして、何事もなかったように、自分の席に戻っていった。

 知っているんだ、一昨日行ったことを。全身が硬直するのを感じた。午後の授業の内容は全く頭に入らなかった。そして、放課後、いつの間には教室から鷹角の姿は消えていた。何の話があるのだろう、その後どうなるのだろう、不安しかない。このまま逃げる?でも、どこへ。明日も学校で会うのに。選択の余地はなかった。

 校舎の裏には、石を組み上げた変な形をしたオブジェの室壁西高等学校創立百周年の記念碑がある。学校のホームページのトップに画像があるぐらいの象徴的なもので、有名な卒業生がデザインしたものだとか。アナログ時計が埋め込まれているが、もう動いてはいない。カバンを下げて重い足取りで裏に回ってみると、記念碑の前には誰もいない。なんだがほっとしていると、オブジェの後ろからいきなり鷹角登場。カバンをあやうく落としそうになる。

「来てくれてよかった」

 無表情なのは変わらないが口調に高圧的なところはない。やっぱり逃げると思われていたんだな。

「まあ・・・」

 もし、来なかったらどうなっていたんだろう。いや、考えるのはよそう。

 鷹角はまっすぐに近づいてきた。それに気おされて後ずさりすると、背中が校舎の壁にあたる。鷹角はカバンを持っていない右腕を突きだしてきた。手のひらが左頬をかすめて、壁につく。顔と顔が接近する。壁ドンてこんなに嫌なものだったのか。

「秋門(しゅうもん)さん?」

「はい・・・」

「一昨日、とりふねが丘に来てたよね」

「はい・・・」

 やっぱりどこかで見られていたのか。

「どうして?」

「どうしてって・・・」

「その前の週も途中まで来ていたよね。なんでまた来たの?」

 全部知っていたんだ。

「それは・・・」

「私の後、つけてきたよね」

 後ろを歩いていたのに気が付いていたのか。ストーカーと疑われているのか。でもそれは誤解で、住宅地に興味があっただけで、偶然なんだ。信じてももらえるだろうか、ただの言い訳と思われそうだ。特に一昨日は怪しすぎる見た目だったし。

「つけていたわけじゃなくて、ただの偶然で」

「あんなところに他の用事があるとは思えないけど」

 確かに、ただの住宅地に普通の人はわざわざいかないだろう、誰かの家を訪ねるとか目的がない限り。そんな日は来ないと思っていたけれど、もし問い詰められた場合の答は用意していた。

「高校を卒業したら、大学で都市工学を学びたいを思っているんだ」

 話の方向が全く関係なくなったので、鷹角はぽかんとした顔になった。こんな表情もするんだ。

「都市工学というのは、人が快適に、安全に暮らせる町にするにはどうすればいいかを考えて、実践する学問なんだ」

 鷹角の顔にますます困惑が広がる。

「たとえば、今住んでいる町にどんな問題があるのか見つけて、それを解決するのはどうしたらいいのか、それを考える。災害の危険性が高ければどんな対策をすればいいか、道路が渋滞するならどう改善したらいいか、その原因を調べて、対策、改善の計画を立てて、実行する、それが都市工学なんだ」

「それと、私の話と何の関係があるの?」

「まあ、もう少し話させて。都市の問題点を調べるには、実際に現場にいかないとわからない。研究室にいては何もわからない。実際に歩き回って観察しないといけない」

「だから、あそこにたまたまいたわけ?」

「そう、新しい住宅地は、計画書に従って作られているから、その通り出来ているのか、どんな工夫がされているのか、新たな問題点はないのか、実際に見るととっても参考になる」

「その、都市工学の練習をしていたってこと?」

「そう、休みになるといつも出かけている」

 大学はそっち方向に進みたいと思っていないわけでないが、本当は町歩きはただの趣味にすぎない。でも、ちゃんとした目的があるって理論武装しておけば、不審者扱いはされないだろうと考えていたのだ。

「わかった、そういうことだったのね」

 鷹角はなんだか少しがっかりしたような感じがした。

「一昨日、とりふねが丘に来たのも、その都市工学の勉強のため?」

 ストーカー疑惑を晴らすため熱く語りすぎて、うっかり肝心のことを忘れていた。

「その前の日曜日に、すみやか台、大きな住宅地なんだけど」

「知ってる」

「その中を調査のために歩いていたんだ。そこを見終わって、近くにあるとりふねが丘も見ておこうかなって」

「たまたま立ち寄ってみたってこと?」

「そうなんだ、ただの偶然。そのうちに行くつもりはあったけど。市内の全ての住宅地は回るつもりだったから」

 一回目、気分が悪くなって引き返して、二回目無理やり中に入ってみると、地図や立体写真と異なるクル・ド・サックのある円形の住宅地。もうかかわりたくないと思っていたのに。

「その、鷹角さんは、とりふねが丘に住んでいるんだよね」

「そうだけど」

「一度見たから、もう二度と行くつもりはないからね」

 その話題に触れたくはないので、この場から逃れたかった。

「他になかったら、じゃあ、これで・・・」

「この後予定はある?」

 人の話を聞いていない。

「ないけど・・・」

 ある、と嘘はつけない雰囲気だった。

「じゃあ、私につきあって」

 左腕をぐいとつかまれた。


「これからどこへ行くのかな」

 腕をつかまれたまま、校門を出る。

「私の家まで」

 とりふねが丘か、まあそうなるだろうなあ。学校からは歩いて十五分ぐらいの距離。学校と同じ丘陵地にあるので、横方向への移動、アップダウンの少ない道になる。事情を知らない人がみたら、制服姿の高校生が腕をからめて体を密着させて下校している、なんて仲の良い事と思われてしまうだろうが、事実は逃げないようにしっかり拘束されているだけなのに。

 会話もなにもしないまま、黙々と歩み続ける。例の看板の前まで来ると、またあの不快感の襲われるのを覚悟したが、不思議なことになんにも起こらない。一昨日はあのおばあさん以外出会わなかったのに、今日は何人ともすれ違う。大人から「おかえり」と声をかけられて、そのたび鷹角は笑顔で会釈する。笑うことあったんだ。

 やがて、公園と宅配BOX群が並んだ入口に着く。公園の中からは、遊んでいる子供の歓声が聞こえる。

「ここの角は東一条っていうんだよ」

「そんな名前がついているのか」

「正面の真っすぐな道は東通りっていうんだよ。横の道は、下の方から数えて一条通り、二条通り。ここは一条通りと東通りが交わるところだから、一条東」

「なるほど、わかりやすいな」

「私の家はこの奥だから」

 鷹角は東通りをずんずん進んでいく。二つ目の交差点の角にある家には、ウッドデッキが設けられていて、そこ置かれたアームチェアには、あのおばあさんが座っていた。ラベンダー色のケープのようなのをまとっている。

「おかえり、ルルゥちゃん」

「ただいま、鹿野さん」

「一昨日はどうも」

 目が合ったので、あわてて軽く頭を下げる。

「なんのことだい?」

 けげんそうな顔をされた。服装が全く違うので気付くはずなかったな。

 三つ目の四つ角を過ぎると、その先はあのクル・ド・サックだ。恐ろしくはあるけれど、改めて見ても気持ちは高揚してくる。

「一昨日、ずいぶん熱心に見ていたけど、ここって、そんなに珍しいの?」

「そうなんだ、これはクル・ド・サックと呼ばれていて、」

 思わずこれがどういうものなのか、熱く語りだしてしまった。自然と早口になっていて、ちょっと恥ずかしくなった。鷹角は感心したように、

「そうなんだ、知らなかったな。私たちは小さい頃からぐるぐる広場って呼んでいたけど」

「ぐるぐる広場、なるほど」

「都市工学だっけ、本当に興味があるんだね」

 いやそれは怪しまれないためのカムフラージュで、ただの町歩き好きなんだけど。でも肯定的に言われると、悪い気はしない。

 いつのまにか、立ち止まって話していたのだが、まだ腕はしっかりと握られたままだった。

「あの、もう逃げも隠れもしないので、そろそろ離してもらっても」

「あ、ごめんなさい」

 やっと鷹角から少し離れることができた。

「私の家はそこだよ」

 今立っているところとは反対側、中央の花壇の向こう、建物のことはまだよくわからないけれど、急な角度の三角屋根で、外壁は黒っぽい二階建ての家がそうだった。この広場を取り囲む他の家も、それぞれデザインも違うし、色あいも違っていて、あんなことさえなかったら、何度でも訪ねてみたい、ゆっくりと過ごしたい、落ち着ける雰囲気だ。

 そんな感傷とは関係なく、鷹角からまた腕をとられて、引っ張られていく。

「家族は今誰もいないから、安心して」

 何も安心できないんですが。玄関に入ると、すぐ左の階段を上っていき、

「こっちだから」

 てっきりリビングかどこかに通されると思っていたのに、二階って大体プライベート空間じゃないか、いきなり?しかし、二階でもなくて鷹角はさらに上へ。そこは三角屋根の一番高いところで、天井の両端は斜めになっている。床も壁も天井も明るい茶色の板張りで、家具も同系統の色だ。

「秘密基地、みたいでしょ」

 鷹角はグリーン系のカーペットの真ん中に、小さな木製のテーブルと椅子を並べた。

「少し待っていて」

 そして部屋を出ていった。

 椅子はサイズが小さくて落ち着かないが、それ以上にこの状況に戸惑いしかない。いきなり、よくわからない町に連れ込まれ、屋根裏部屋のような場所に閉じ込められた。これから、どんなことが起こるのだろう、何をされるのだろう。ただ、鷹角に悪意のようなものは感じられなかってので、もうどうなってもいいかと、逆に気持ちは落ち着いてきた。

「お待たせしました」

 鷹角は飲み物を持って帰ってきて、テーブルをはさんで向かい合わせに座った。他になかったので、このとりふねが丘の話になってしまう。

「しっかりとした計画を元に作られた街なんだね」

「そうなの?」

「二軒ごとに、住宅地の間に道があったよね、人と自転車ぐらいしか通れない道。あれは家の裏にもあるのかな」

「うん、あるよ。ぐるっと一周してる。そこを通って他の家に行けるから」

「フットパスていうんだ、昔の路地みたいなもので、安全に行き来できて、地域の結びつきを強くできるしかけなんだ」

「そういうのも、都市工学の知識なの?」

「まあ、そうなるかな」

「どうして、それに興味を持ったの?なにかきっかけがあったんでしょう」

「きっかけ、か」

 なんだか素直に言えそうな気がした。

「それは、記憶はあてにならないって分かったからかも」

「記憶があてにならない?」

 鷹角が一瞬息をのんだような気がした。

「記憶、それがどう関係しているの?」

「話せば長くなってしまいそうなんだが」

「かまわない、教えて」

「この春に引っ越してきたんだけど」

「知ってる」

「これが初めてじゃなくて、何回も、ほぼ二年おきに引っ越し、つまり転校を繰り返してきた」

「そうだったんだ、何回も」

「記憶力はいい方だったので、昔住んでいた場所、家、学校の事は忘れるはずないって自信があったのに、実際はそんなことなくて、忘れていたり、混乱してたり、間違えていたことが分かって、けっこうショックだった。それが小学校6年生の時」

「それだけ引っ越していたら、しょうがないのじゃないかな」

「そうなんだけど、すっかり落ち込んでしまって、そしたら父親から言われたんだ。記憶じゃなくて記録を残しなさいって」

「記録を残すって、どういう意味なの」

「そのまんまだよ、記憶はどんどん消えたり、変わっていってしまうから、文字でも、画像でも、動画でも、記録として残せば、それがなくならない限り、変わらないって。そして、父親が昔見たドラマの話をしてくれた。かつて住んでいた土地の地図を作る老夫婦の物語。今はもう行くことが出来ないその町の思い出が消えてしまう前に、地図という形に残しておこうと、同じ町に住んでいた人を探して訪ねて話を聞いて、少しずつ作っていくという」

「なんだか、切ないお話だね。それで、どうなるの」

「結末は覚えていないって、子供の頃に見たドラマだから」

「そうなんだ」

 本当はその後ネットで検索して結末は知っているけど、悲しすぎて知らないふりをした。

「それで、その時住んでいた町のことを調べ始めた。記憶じゃなく記録に残しておこうって。実際に町を歩きまわって、観察して、記録をつけて。そして、どうしてこんな町にしたんだろう、なったんだろうって疑問がわいてきて、答を調べるようになって。次の町へ引っ越しても同じことを始めて。そういうことは、すでに学問になっているのを知ったのが中一の時」

 鷹角は途中で何度も相槌を打ってくれた。なんだか久しぶりに他人にいっぱい話してしまった。聞き上手なのかもしれない。

「引っ越しがきっかけみたいなのだね」

「そうかも、ずっと同じところに暮らしていたら、そうはならなかったかも」

「それで、転校してきて、クラスで私に目をつけて、気になって後をつけてきたんだよね」

 はい?話聞いてました?どうしてそんな結論になるの。

「学校にいるときに、話しかけてくれたらよかったのに」

 いや、違うだろ、この鷹角って子、やばい人だったの?じっとただ真っすぐに見つめられても、困惑するだけだ。

 全否定の言葉を口に出そうとして、いきなりひらめきがあった。そうじゃないかもしれない。だまって私の言った通りにして、そう強く主張している気がした。そんな表情も、素振りもまったくないのだが、そう必死に訴えている、そう感じてしまったのだ。肯定した方がいいのかもしれないと。

「じ、実はそうなんだ」

 口ごもりながら、続ける。

「転校して、今のクラスになって、初めて教室に入った時から、気になってしまっていていたんだ」

 鷹角の目に安堵の色が浮かんだような気がした。

「やっぱりそうだったんだ。そうじゃないかと思っていたんだけど」

「いつも一人だったから、一人が好きなんだろうなって、話しかけずらくて」

 これは本当。

「秋門さん、悪い人じゃなさそうだから、友達になってあげてもいいよ」

「ありがとう」

 なんでお礼を言わなきゃいけないか、釈然としないものがあったが、たぶん、そうした方がいい、本能はそう告げていた。

「じゃあこれから友達だね、よろしく」

 すっと自然に手をさし出してきたので、握らないわけにもいかない。

「こちらこそ、よろしく」

 その手はあたたかかった。ちゃんとつないだのって、他の人の体温を感じたのって、何年ぶりだろう。

 それからは特に会話もなく時間が過ぎていき、そろそろ帰るからと言うと、引き留められることもなく、わざわざ住宅地の出口のところまで見送ってくれた。外を歩いている人はもういなくて、あのおばあさんの姿も見えない。手を振る鷹角に振りかえして、だらだらとした坂を下っていく。いったい、何だったんだろう、何が目的だったんだろう、なんで家まで連れていかれたのだろう。てっきり怖い人たちに囲まれて「あなたはいったい何を見てしまったのか」「この町のことをどれだけ知っているんだ」「あなたが見たことを誰にもしゃべってはいけない、いいね」とかいう状況が待っていると思ったのに。ただ、友達になりたかっただけ?まさか。結局、状況は理解でいないままで、これからどうなるのか予測がつかないまま、帰途についたのだった。


 火曜日の朝、教室に入ると、音もなく静かに鷹角が近づいてきた。

「おはよう、秋門さん」

「おはよう、鷹角さん」

 ただの挨拶を交わしただけなのに、クラス中が一瞬ざわついたような気がした。昼休みになると、鷹角から一緒に食べようと誘ってきた。ざわつきが一層大きくなったのがはっきり感じられた。今までずと一人ぼっちだった二人がいきなり仲良くなっているのだから、そのいきさつを知りたいとうずうずしているのが手に取るようにわかる。しかし、鷹角は全身から強力な近づくなオーラを放出しながら、腕をとってきたので、引っ張られるように教室を出ることになった。

 放課後、前日に続いて一緒に帰ることになった。ただし、少し間を空けて並んで歩く。

「鷹角さんは、ずっと同じ家に住んでいるの?」

 知り合って間もない時の、ごく普通の会話だ。

「一度も引っ越したことなくて、生まれた時からずっと同じ家。だから引っ越しってちょっと憧れあったりするし」

「そういうものなのか」

「前はどこに住んでいたの」

「九年前は、今とは少し離れた場所で、駅の西口から近いところにあった借家」

「じゃあそのあたりなら、小学校は武妻小だね」

「たしかに、そんな名前だった。鷹角さんは?」

「狩江小学校だよ、家の近くの。武妻小は一年だけいってたんだっけ」

「そう、保育園の最後と小1の二年間だけ住んでいたから。保育園の名前はなんだったっけ、くり・・なんとか」

「くりさお保育園」

「そうそれ、家からちょっと遠かったけど、その頃母親がフルタイムで働いていたから、預かってくれる時間が長いそこを選んだって言ってたな」

「私も同じ保育園だよ」

「え!?そうだったの」

 まさか、昔の顔見知りがこんな近くにいたなんて。

「覚えているよ、秋門さんのこと、同じクラスだったし」

「どうして言ってくれなかったの」

 引っ越しの時に、母親から小学校の入学写真は見せられていたが、保育園の卒園写真はなかったな。いや、見ていたところでわかるはずもなかったか。

「だって、秋門さんはちっとも覚えてないみたいだから」

「それは・・・」

「何度も引っ越し、転校したんだから仕方ないよね、忘れてしまってても」

「ごめんなさい、思い出せなくて」

 本当に申し訳ないけど、覚えていない。だんだん自分の記憶力に自信がなくなってきた。もしかして、今の学校、クラスに、他にもいるかもしれないけれど、転校直後から溶け込む努力を一切しないどころか、会話することも避けていたらか、今さら話しかけてくる人はいだろうな。言われたら思い出すだろうと高をくくっていたが、そうでもなさそうなので、これでよかったんだ。

「まあ、一緒にいたのは一年だけだから、しょうがないよ」

 そうなぐさめられたが、責められているような気もした。昨日家まで連れていかれたのは、思い出す事を期待していたのかもしれない。ならば、なんて残酷なことをしてしまったのだろう。

「今日も私の家に来てほしいな。とりふねが丘の中、案内するよ」

 その提案は興味がないわけじゃないし、断ることなんてできなかった。


 昨日とは違って少し離れて歩いていたけど、入口で嫌な気分にはならなかった。そしてまた何人ともすれ違うし、後ろから走ってきた小学生たちに追い越されたりもした。あのおばあさんは同じところに座っていたので、挨拶をかわす。入ってから二つ目の交差点だから、二条東になる。

 鷹角の家は今日も留守で、カバンを置くとすぐに外に出た。玄関から右に曲がって、隣の敷地との間の狭い道、フットパスに入る。そして、鷹角の家のそれほど高くない塀沿いに右に折れると、背中合わせの家同士の間にも曲線の小道が続いている。

「ぐるっと回れるからね」

 車が通れる広い道と同じように、フットパスもまた円環になっているのか。それぞれの裏庭の間を抜けているので、中の様子がよく分かる。けっこう広いスペースにそれぞれ個性的な庭が作られている。建物と同じように、一つとして同じ物がない。二軒ごとに広い道いに出られる小道が設けられているから、家同士の行き交いが楽にできるのだ。

 鷹角の案内で、とりふねが丘の中をぐるぐる歩き回った。やはり珍しい円形の住宅地で、三本の道路と三本の狭い道の輪があって、その中に家が建ち並んでいるのだ。家の色やデザイン、塀の色や高さ、街灯一本一本も、側溝やマンホールの蓋も、トータルコーディネートされている。

「きれいな町だね」

「うん、私もそう思う」

 しっかりした計画通りに作られて、そして住んでいる人たちもそれをしっかり守っている。だから美しい。あちこちスマホで撮影したかったが、絶対にそうはしなかった。地図や空撮映像と、目の前の風景が食い違うのさえ気にしなければ、住みやすそうで素敵な場所なんだが。いや結局それが大問題で、記憶と記録が食い違ってしまう状態をどうやったら受け入れられるのかわからないままだった。

 これ以上ここにいるとまた気分がおかしくなりそうだったので、帰ることにした。鷹角は前日と同じで、出口まで送ってくれることになった。

 東の端の公園の前まで来ると、鷹角に袖をひっぱられた。

「ちょっと公園によっていかない?」

 意図が飲み込めないまま、後について入ると、もう子供たちは家に帰ったのかがらんとしている。周りには植え込みがあって、滑り台とブランコ、箱型のジャングルジムぐらいの遊具とベンチが置かれている。

「昔はもっと遊具があったんだけど、いつの間にか減ってしまって」

 公園の遊具は、設置基準がどんどん厳しくなってきたのと老朽化もあって、これまで調べてきた公園でも、利用禁止の張り紙が張ってあるのをいくつも見かけた。やがてそれらは撤去される運命なのだ。だから、危険そうには思えないジャングルジムでも、珍しかったりする。

「ねえ、ちょっと上ってみようよ」

 ちっちゃい子ならともかく、高校生の体重を支えられるのか心配になるようなパイプの細さだけど、今となっては低い高さなので、あっという間に一番上に到着。

「ここに座って」

 手招きされて、並んで座ると、この住宅地自体がちょっとした高台なので、ジャングルジム程度の高さでも、東側の見晴らしはいい。すぐ下のすみやか台の広い敷地の向こうに、室壁駅を中心とした昔からの町まで見渡せる。

「ちっちゃい頃はよくここで見ていたんだよね、何年ぶりだろう」

 そうして、顔を向けてきた。

「私たちもう友達だよね?」

「まあ、多分」

 別に拒絶するようなことでもないし、保育園時代を全く覚えていなかったという後ろめたさもあるし。

「それで、お願いがあるんだけど」

 なんか、けっこうぐいぐい来る。こういうタイプだったのか。

「友達なら、下の名前で呼んでほしいかなって」

 まともに話したのって、昨日からなんだけど、ハードル高すぎでしょ。いや、鷹角は保育園時代の記憶はあるから、十年振りってだけかもしれないが。

「保育園の時は、そうだってこと?」

「そうだよ」

 やっぱりそうか。

「じゃあ、ハウトさん、いいよね、これで」

「ええと、ルルゥさん・・・」

「よかった」

 鷹角、じゃなかったルルゥは笑顔になった。なんだかまぶしい。

「それから、もう一つお願いがあるんだけど」

 まだあるのか。

「もう気付いていると思うけど、この町って写真に撮ると目に見えてるのと違うのが写ってしまう」

 ついにその話が来た。

「でも、その理由をたずねないでほしい。たずねないって約束してほしい」

 笑顔とは一転、真剣そのものだった。

「その理由も聞いてはいけないの?」

「うん、ダメ、絶対」

 どう答えたらいいのだろう。

「ただ、これだけは信じて、私、友達でいたいから」

 それとこれとが関係あるのか?やっぱり、昨日あんなこと、人の話を聞いていなくてストーカー扱いのようなことを言い出したのは何か理由があったのか。でも、それすらもたずねてはいけないということか。

「わかった、気にしないことにする」

 とりえず、今はそう言うしかなかった。

「よかった」

 ルルゥはまた笑顔に戻った。


 水曜日になり、今度は下の名前で呼ばれたので、また教室の中がざわついたが、それだけで終わった。そこまで興味ある人はいなかったようだ。

 今日から金曜日まで、ルルゥは放課後に塾や習い事があるとかで、一旦家に戻ってから出かけるそうだ。昨日あんなにぐいぐい来たのは、このためだったのだろうか。引っ越しする度に塾を探し直すのは面倒なので、ずっとオンラインで続けているから、駅前にあるらしいリアルな塾ってイメージがわかない。帰り道は途中までは一緒で、一人だけで右に曲がってバス停に向かった。先週の末以来、日常がやっと戻ったわけだが、違いはあの町とルルゥのことで、どうしても考えてしまう。恐怖心はもうないけれど、何にも決着がつかないままでいるのは、どうにも落ち着かない。それについては質問しないと約束をしてしまっているからどうしようもないのだが。

 そして金曜日、別れる間際にルルゥから明日の話があった。

「また町歩きにいくんだよね」

「天気予報もよさげだから、そのつもりだけど」

「じゃあ、一緒にいきたいな」

 そんな予感はしていたんだよな。

「そんなにおもしろいものじゃないんだけど」

 町歩きといっても、おしゃれなお店に入ったり、ユニークな人の話を聞いたり、変わった建物や看板を発見したり、無名だけれど由緒のある神社仏閣をお参りしたり、かつて存在した施設や鉄道の跡を探したり、そんなことをするんじゃない。ひたすら歩くだけで、時折、側溝や塀やガードレールを見てにやにやするだけなのに、つき合わせるのは無理。

「ハウトさんが好きな事を知りたいから」

 ただただ、つまらないと思うんだけどなあ。

「迷惑はかけないから」

 断る理由を探せないまま、承諾するしかなかった。


 土曜日になった。約束は、朝十時室壁駅西口前広場の馬のオブジェ前に歩きやすい服装で集合。目的地は昨夜悩みまくった末に決めた。いきなり何の変哲もない住宅地を回るのはハードル高すぎ、マニアックすぎる。かといっていわゆる繁華街だと、町歩きの主旨からはずれてしまう。なので、西口から右斜め方向、徒歩十五分にある、縁根川公園(へりねがわこうえん)なら無難だろう。たぶん、この町の人なら行ったことあるはずだし、ルルゥもそうだとは思うけれど、見るところが違うからよしとする。

 室壁駅は市の元々の中心地の西側にある。丘陵地帯の裾野にそって南北に鉄道が敷かれたので、東口が正面になる。当初西口はこじんまりとしたものだったが、宅地開発などで人口が増えてくるとだんだんとにぎやかになってきて、以前住んでいた頃はバスターミナルなどが整備されていた。その後再開発が進められて、今は東口よりおしゃれな感じになっている。

 白馬の像の前で、九時四十五分には待っていると、駅前ターミナルにバスが一台入ってきて、降車場で停車するとルルゥが現れた。白いブラウスにゆったりしたデニムパンツ。肩からを布製のバッグを下げてベージュキャップをかぶっている。制服以外の姿を見るのは初めてだったなあ。

「お待たせ」

「今来たとこ」

 本日のファッションについて何かコメントすべきなんだろうが浮かんでこないので、とりあえず公園の東口につながった道を歩き始める。

「この道から行くのは初めてかも」

 かつて線路が敷かれていたところを歩行者専用に整備したもので、平坦で直線的で安全なので歩きやすい。とりあえずスマホで何枚も写真を撮る。時刻も場所も残るのであとから整理する時に便利。だから、位置情報はあえてONにしている。

「行くのはこれが初めてってことないんでしょ?」

「うん、何回もあるけど、こっちからは初めてかも」

 入口は何か所もあって、大型商業施設からは中央口で、駐車場からだと西口になる。

「ハウトさんはあるの?」

「前の家が近かったから、だぶん何回も。小学校に入学した春にクラスでいったと思う」」

「小学校の高学年の時に、社会科の見学で来たこともあるよ」

「じゃあ、縁根川公園が石灰石の工場の跡地ってことはみんな知っているんだ」

「授業で必ず習うからね。鉱山記念館で展示の説明を書き写してレポート作ったもん」

 公園の名前にもなっている縁根川の上流にかつて石灰の鉱山、縁根鉱山があって、採掘された石灰石が加工する工場まで運ばれてきていたのだ。その鉱山の閉山にともなって工場も閉鎖され、広大な空地の一部に作られたのが公園なのだ。下調べはできている。九年前に住んでいた頃は全く意識していなかったけれど。

 東口から入るとまず目につくのは、芝生の広場だ。天気がよいので、家族連れがいっぱいで、子供たちが歓声をあげながら走り回っている。このスペースには操車場があって、工場で生産された製品を積み込んだ貨物列車が、さっき歩いてきたルートを通って鉄道の本線へ出ていっていたようだ。そのあたりの説明パネルはちゃんと設置されている。廃線マニアとかなら痕跡を探すのだろうけど、今日の目的はそれじゃない。ここでも写真撮影。今日は一人じゃないので、ちゃんと断ってからルルゥにも入ってもらう。

 芝生の上を二人並んで歩いて行くと、広場の北側、川に近い方には大きな池があって、貸しボートなどが浮かんでいる。水は縁根川から引いているようだが、元々は鉱山で採掘した鉱石を舟で運んできて荷揚げしていた場所のようだ。なので、池の縁には舟を寄せる場所への石段がまだ残っていて、今はそれをボート乗り場に利用している。

「私、ボートに乗ってみたいな」

 ボートはオールで漕ぐ二人乗りと三人乗りの二種類で、定番の足漕ぎの鳥の形のはなかった。

「乗ったことないんだよね、二人乗り。家族で来た時も、両親とも水が苦手で」

「ルルゥさんは大丈夫なんだ」

「水泳は得意だよ」

 町歩きとは関係ないにしても、一人なら絶対に乗らないから、これも人生経験かもしれない。オールは漕いだことないけど。

「じゃあ、乗ってみようか」

 待っている人はいなかったので、料金を払ったらすぐにボートに案内された。三十分千円は高いのか安いのかよくわからない。

「私漕いでみたい」

 ルルゥは舳先に背中を向けて座る。オールをつかみ、頬を膨らませて全力で手前に引き寄せると、ボードはぐいっと前進した。

「うまい、うまい」

 思わず手を叩く。Vサインで応えるルルゥだったが、四、五回漕ぐと疲れてしまったようなので、代ろうかと腰を浮かすと、ボートは左右に揺れた。

「怖いからいいよ」

 ボートは池の真ん中まで来ていたので、しばらく漂っていることにした。池の周りには、たくさんの木々が植えられていて、公園のサイトには、椿、梅、桜、ハナミズキ、イチョウ、カエデ、プラタナスなど四季楽しめるように多くの種類があるって書いてあったのを思い出した。

「ねえ、写真とってもらえるかな」

 スマホのレンズをルルゥに向ける。以前はずっと無表情だったのに、今は自然な笑顔を向けてくれくれる。お互いに撮影して、請われるまま画像を交換する。

 にぎやかな公園の中でも、池に浮かぶボートの数は少ないので、二人だけしかいないと錯覚してしまう。

「変なこと訊いてもいいかな、答えにくかったらそう言ってくれていいから」

 なんとなく内緒話をしてもいい雰囲気だったにせよ、ルルゥの質問は唐突だった。

「答えられるものなら」

「どうして、クラスの中で一人ぼっちでいるの?」

 どストレートだな。

「コミュニケーションが苦手には見えないんだけど」

「それは、」

 別に本音をしゃべってもいいかなと思った。ルルゥはちゃんと聴いてくれるだろう。まともに話し始めて一週間にも満たないけれど、信頼できると確信があった。

「何度も引っ越してきたけど、やっぱりそれまで知っていた人と離れるのはさびしい、慣れてしまうことなんてない」

「それは、わかるよ」

「一番つらかったのは、小学1年終わりの時で、ぼちぼち分別がついてきて、まわりも見られるようになっていたかこそ、さびしかった記憶があるんだ」

「そうだったんだ」

「でも避けることはできないし、親を悲しませてはいけないなんて感情も芽生えていたから、なんともないよなんてふりをしていたけど」

「つらかったんだね、本心は」

「そうなんだ、だから、もう新しい友達は作らない方がいいって決めたんだ。なるべく人とはかかわらないでおこうって。その代りに、住んでいる場所のことは調べておこうって、そっちに熱中していたんだ」

「よくわかった、ありがとう。それで転校してきた後も意識的に人を避けていたんだね」

 ルルゥはさざ波がたつ水面に顔を向けた。

「じゃあどうして私と友達になろうって言ってくれたの?本当は嫌だったの?迷惑だったの?」

 静かな口調だけれど、たたみかけるようにぐいぐい来るなあ。あの時は、半ば脅迫的に言わされたような気がするんだが、最終的には嫌な感じは抱かなかった自分がいる。

「そんなことはなくて、ただ、なってもいいかなって思っただけで、それだけ」

「そうか、よかった」

 ルルゥははにかむように笑った。

「それなら、質問を返してしまうけど、どうして教室ではいつも一人でいたの?」

 この流れで、どうしても訊きたくなった。その気になれば友達の一人ぐらいできそうなのに、あえてそうしないようにしていたのは同じって思っていたから。

「私の場合はハウトさんとちょっと違うかも。後悔からだと思う」

「後悔ってどういうことなの」

「昔、友達にひどいことをしてしまった。とっても仲がいい友達だったのに。私のわがままで、そんなつもりはなかったんだけど、大事なものを失わせてしまった」

 なんだか、深刻な事情があったみたいだが、今は詳しく訊くことじゃなさそうだ。

「だから、もう友達を作っちゃいけないって決めた。不幸にしてしまうって」

「それは考えすぎなんじゃ」

「そんなことない、そうしないといけないんだって」

「でも、友達になってもいいよって、言ってくれたじゃない」

「それは、ハウトさんだったから」

「それって、」

「あ、もう時間がきたみたいだよ」

 たしかに、係の人が呼んでいた。あまり揺らさないように、ゆっくりと場所を入れ替わって、今度は自分が漕いでなんとか元の場所に戻った。ボートから下り、そこでもまた撮影をしてから、公園の芝生を横断して、池とは逆側にある鉱山記念館へ行くことにする。縁根鉱山の歴史や石灰石の採掘方法、そしてこの場所にあった加工工場の様子などが展示されている施設で、市民と学生は入場無料だ。

「室壁市の小学生は必ず来ているから、ベンチカットって単語みんな覚えているんだよね」

 ルルゥは鉱山記念館のエントランスにある縁根鉱山の大規模な模型の解説板に手を置く。ここへ来るのは初めてだったので、それが岩盤を階段状に削っていく方法だなんて知らなかった。

 パネルの展示だけでなく、当時使われていた機械や工具類、運搬に使われた舟やトロッコの実物もあった。石灰石のサンプル、工場の加工過程を再現した模型、セメント袋もある。自然環境への影響のコーナーも設けられている。最後は、石灰石採掘ゲームなんてのもあって、こどもたちが集まっていた。

「六年振りぐらいなんだけど、小学校の時かなり詳しく見たはずなのに、印象が全然違うなあ」

「その頃とは、展示内容が変わっているんじゃないの」

「それもあるかもしれないけど、つまらなかった記憶しか残ってないのに、けっこうおもしろいじゃないって」

「それは、受け手の方が成長したからでしょ」

「そうだね、小学生と高校生じゃ見える世界が違うからだね」

 けっこうじっくり見てしまったので、時間はもう昼過ぎになっている。鉱山記念館を出て、屋根のある休憩スペースへ移動する。ほとんどの席は家族連れで埋まっていて、にぎやかなお昼ごはんの真っ最中だ。二人掛けのテーブルを確保すると、ルルゥは布製のバッグを置いた。取っ手には黒猫のストラップが下がっている。中から二段のランチボックスを取り出してフタを開く。一段目がいろんな具材の手まりおにぎりで、二段目には唐揚げ、ミニオムレツ、アスパラのベーコン巻きなどおかずが詰められている。そして、紙コップや皿、フォークを手際よく並べる。昨夜SNSで嫌いなものの質問があったのはそういう事だった。自分一人では大した料理ができないので、それだけで尊敬できる。

「味の保証はできないからね」

 それはおいしいっていうフラグだな、見た目もきれいだし。早速いただきますを手を合わせてから、おにぎりをひとついただく。

「おいしい!」

「よかった」

「わざわざ作ってきてくれてありがとう」

 いつもなら、パンとかその程度の食事だったから、豪華すぎて感謝しかない。

「連れてきてもらったんだから、せめてこれくらいは用意しないと」

「いやいや、わざわざ手間をかけてくれたんだから」

 色鮮やかなにんじんのバターソテーもおいしい。

「にんじん、もう苦手じゃないんだね」

「うん、もう高校生だからね」

 確かに小さい頃は嫌いな野菜のTOP1だった。

「よく覚えててくれてたね」

「まあ、それは忘れていなかったから」

 ルルゥにも何かあったんだろうけど、残念ながら覚えてはいない。

「これからどうするのかな」

「この公園って、ほとんどは鉱石を降ろしたり、工場から積み出したりする場所で、工場跡はほんの一部なんだ。大体が商業施設や住宅地になってる」

「そうなんだ」

「だから、次は工場跡地を見にいこうって思ってる」

「前に住んでいたのは、その住宅地?」

「そう、その頃は知らなかったけれど、小学校に近い家を借りていたんだ」

「その家ってまだあるの?」

「いや、再開発で今は大型のショッピングモールになってる」

「シネコンがあるあそこか。元は工場で、その後住宅地、今はそれもなくなってるんだ」

「その再開発の計画書が公表されているから、ショッピングモール以外の場所も見ておきたくて」

 ごちそうさまとルルゥにお礼を言って食べ終わると、テーブルの上の片づけを手伝った後、一冊のノートを広げた。

「ちっと記録をつけさせて、忘れてしまわないうちに」

 本当は軽量のタブレットが欲しいのだけど、費用の問題でアナログで我慢。後で見返しても分かるように、画像で確認できる部分ははぶいて、要点だけを正確に残しておく。

「いつもしているの?」

「うん、そうしないと分からなくなってしまうから」

 しばらくしてから、ルルゥは他の人には解読困難な文字や数字が並んだノートをのぞき込んで、

「家に戻ったらきれいに整理し直すんだね」

「そう、今日中にしておかないと、不正確になってしまうから」

「そんなに忘れてしまうものなの?」

「前にその話をしたけど、人の記憶って、例えばスマホで撮った動画みたいにまとまって保存されているんじゃないって聞いたことある?」

「そうなんだ」

「断片的に散らばって保存されているから、思い出すっていうのは、動画ファイルみたいに再生するんじゃなくて、そのバラバラの断片を組み合わせて、再構成して、記憶を作り出すんだって」

「思い出す度に、作り直すってこと?」

「そう、だから思い出す度に記憶は変化してしまう。同じ素材を揃えて料理しても、出来栄えや味はその度に違うように」

「それはそうだ」

「場合のよっては全く違う記憶になることもあって、だから、私はこの目で見たんです、って断言されてもそれが本当にあったことの証拠にはならないって」

「そんなにあやふやなものなんだ」

「まあ、それは身をもって体験しているから、記憶は信用しちゃいけないって。だから、記録するんだ」

「記憶より、記録か」

「でもね、記録も全面的に信用しちゃいけない」

「え、それどういうこと?」

「だって、うっかり間違って記録することもあるし、面倒で省略してしまうこともあるし、なんならわざと変更、嘘をつくことすらあるし」

「そんなことあるの?」

「自分しか見ない日記だって、都合が悪い事は書かなかったりするでしょ」

「まあそれはあるかも」

「公式な報告書にだってあるから、実際に見ないといけない」

「そういうことか」

「この場所だって、再開発の計画書とか記録とかちゃんと残っているけど、それを現地で確かめないと信用しちゃだめなんだ。実際、これまで記録と現地が食い違っていたこともあるし」

「だから、自分の足で歩いているんだ」

「ただの興味本位だけどね」

 ノートをバッグにしまって、代わりに折りたたんだ紙を取り出した。

「この場所の時代ごとの地図で、これから歩くルートは決めてあるんだ」

 何枚かの紙を広げながら説明する。

「これからは、ただ歩くだけで、つまんないから・・・」

「いくよ、一緒にいくよ」

 やんわりここで解散を提案しようとしたが、強く遮られた。なら仕方ない。それぞれバッグを持って立ち上がった。

 休憩スペースの隣には、SLが柵の中に保存されている。説明板によると、実際に工場の製品の運搬に使われていたものじゃないが、線路も施設もすべて撤去された公園の中で、操車場だった時代を表す唯一のものになっている。

 その先には小さな池があって、周りをこどもたちが走り回っている。

「その地図見せてもらってもいい?」

「いいよ」

 古地図のコピーを渡すと、突然強い風が吹き抜けて、ルルゥの右手からその紙が離れた。

「ああっ」

 あわててそれをつかもうと右腕を伸ばしてジャンプすると、幸い紙を取ることはできたが、バランスをくずして右足が池の中へ飛び込んだ。とっさに左腕をがっちりつかんだので、体ごとダイビングは阻止できたが、右足は靴も靴下もびしょ濡れになった。

「ありがとう」

「あぶないところだった」

「ごめんね、大事な地図を落としそうなって」

「いや、それより右足が」

 これではルルゥを連れて町歩きの続行はできない。

「じゃあ私はこれで帰るから」

「いや、濡れたままだとバスに乗るのも大変でしょう」

「替えは持っていないからしょうがないよ」

「駅前に戻るなら、家はすぐそこだから、そこで乾かせばいい」

「でも」

 逡巡する理由はわからなくもない。

「今日は家族みんな出かけているから、それでもよかったらだけど」

「じゃあ、いきます」

 断られるかと思ったが、そうでもなかった。公園を出て、駅への遊歩道を途中で左に折れて、鉄道の高架の下を抜ける。東口前の古くからある住宅地の借家はすぐそこだ。リビングに通して、とりあえずジャージに着替えてもらって、濡れた靴下とデニムを洗濯乾燥機に放り込む。靴はすぐには乾きそうもないので、水洗いしたあとはそのまま持って帰ってもらって、家にあるサンダルを履いてもらうことにした。

 乾燥が終わるまでの間、向かい合わせに座って時間をつぶす。

「この部屋だけじゃないんだけど、あんまり生活感ないでしょ」

「きれいに整理整頓されていて、自分の家と比べるとちょっと恥ずかしいというか」

「また引っ越すことを前提にしているので、余計なものを置いてないから、モデルルームみたいな、TVのお宅訪問番組みたいな」

「そんなことないよ、ちゃんとハウトさんの家って感じがする」

「そうなのかな」

「そうだよ、だって」

 インターホンが鳴ったので、ルルゥは話を止めた。立ち上がってモニターをオンにすると、母親の顔が映った。

「母が帰ってきたみたい」

「でも、今日は遅くなるって」

「そう言っていたんだけどな」

 玄関のロックを外してドアを開くと、大きなバッグを抱えた母親が息を切らせて入ってきた。

「ああ、重かった」

「どうしたの、早かったんだね」

「それがねー、いきなりキャンセルが出ちゃって、あれ?」

 荷物を置いた母親の視線が下に落ちた。洗い終えた靴を並べて置いてあったのだ。

「友達と出かけていたんだけど、ちょっと靴を汚しちゃってそれで」

「えー、友達がいたのー、あなたに」

 そこまで驚かなくてもいいじゃないか。

「どこにいるの、どこに」

「今リビングで待ってもらってるけど」

「どれどれ」

 母親はどかどかと廊下を走っていった。あわてて後を追いかける。

「あらー」

 すでにイスから腰を上げていたルルゥの姿を見るなり、大きく口をあけた。

「ごめんなさいね、急に変なとこから声が出て。いらっしゃい。ゆっくりしていってね」

「どうぞおかまいなく」

「そういう訳にもいかないから、ハウトが友達連れて来たなんて何年ぶりなんだから、ええとお名前は?」

「どうも、鷹角です」

 消え入りそうな声だ。

「たかすみって」

 母親は失礼なぐらい顔をまじまじと見た。

「ルルゥちゃんだよね、絶対にそうだよね」

「はい、そうです」

「久しぶりだあ、ずいぶんキレイになったね、まあお母さまも美人だし、お元気?」

「はい、おかげさまで」

「ルルゥちゃん、今はどこの学校なの」

「あの、ハウトさんと同じ学校で、同じクラスで」

「なんですって、昔の友達だれもいないって言っていたのに、嘘ばっかり。どうして黙っていたの」

 責められても何の申し開きもできない。

「その、まあ、昔の事はあんまり覚えていなかったから」

「嘘でしょ、あんなに仲良かったのに。なんて薄情な。学童でも一緒だったでしょうに」

 学童?確かに小学校が終わったら、母親が迎えに来るまで、学童保育に入っていたけど、そこにルルゥがいたなんて記憶は全くない。

「保育園の時から一緒で、学童でも大の仲良しだったじゃない」

 それも覚えていない。恐ろしい事に全く記憶にない。

「たしか、私のお迎えが遅くなったとき、一緒に待ってるってなかなか帰らないでお母さまを困らせていたよね、かわいかったなあ、ねえルルゥちゃん」

「はい、まあ、そんなことも」

 ルルゥは覚えているのか。

「私の事は覚えてる?ルルゥちゃん」

「はい、もちろん」

「おっと、もうルルゥちゃんじゃなくてルルゥさんだね」

「いえ、そんな気にされなくても」

「そうはいかないって、すっかり大きくなったもの」

「ちゃんづけで呼ばれたのは久しぶりで、なんだか懐かしいです」

「だって、私の記憶ではちゃんなんだよね、かわいかった」

「そんな」

「ああ、いろいろ思い出してきた。たしかハウトがルルゥさんちでお泊りさせてもらったこともあったよね。お母さまから、お部屋の一緒のベッドで仲良く寝ていたなんて聞いたもの」

 待ってほしい、ということはあの部屋にはかつて行ったことあるのか。

「はい、そんなこともありました」

「まさかまた仲良くなっているなんて、これも運命かもね」

 母親はなおも額に手を当てて、過去の記憶を呼び覚まそうとしていた。

「そうだ、玄関にあった濡れてた靴で思い出した。学童に一緒にいってた頃かな、私たち家族とルルゥさんと四人で縁根川公園にいってボート乗ったじゃない、覚えている?」

「はい、しっかり」

「私は陸にいて、お父さんが漕いで、子供二人の三人乗りボートで、池の真ん中で風が吹いてルルゥさんの帽子が飛んで、ハウトがそれを取ろうとして立ちあがって、池の中に落ちかけたよね。ちょっと上着の袖が濡れたたけですんだけど」

「そんなこともありました」

「その時の写真どこかにあったけど、ウチ何回も引っ越しているから、どこにあるのかわかんないのよ、ごめんね」

「いえ、その時の写真もらってます。今も持ってます」

「そうなの、それならよかった。そういえば、あの時も今日みたいな白いブラウス着ていた、いえワンピースだったかしら」

「はい、ワンピースでした」

 どうやら、家ぐるみでかなり親しかったみたいだ。なのに、なんにも覚えていない。

 ルルゥは壁にかかった時計を見あげた。

「あの、私この後用事がありまして、そろそろおいとましないと」

「あらそうなの、残念。ごめんなさいね、お茶もお出しせず、ついついしゃべってばかりで」

「いいえ、お話できて楽しかったです。懐かしくて」

「こちらもよ、またいらしてね。ご両親によろしくお伝えくださいね」

「はい、必ず」

 そうして、駅の西口まで送っていくことになった。


「ハイテンションな母親でごめんなさい」

「いいえ、ちっとも変わっていなくて安心したような、なんというか」

 本心は会いたくなかったのは感じ取れた。そうだ、ルルゥだけじゃなく母親までしっかり覚えているのに、自分だけ記憶からきれいさっぱり消え去っていることがはっきりしてしまった。その理由を聞くのは、約束を破ることになるのかもしれないが、もうそのままにしておくことはできそうになかった。

「バスに乗る前に、駅ビルの展望台に行ってみない?」

 室壁駅のターミナルビルは、長らく室壁市のランドマークになっていて、前に住んでいた時からあった。最上階にはかつて大きなレストランがあったらしいが、今は360度が見渡せる展望スペースになっている。エレベーターから下りると、土曜日の午後という時間のせいか、あまり人の姿はなかった。

「もしかして、昔一緒に来たことがあるとか?」

 ルルゥはこくりとうなずいた。そして、二人で西側の窓際の手すりにもたれた。

「どうしてハウトさんの記憶が抜け落ちてしまっているのか、気になるよね」

「それは、知りたいと思っている。それが、約束を守れないことになるのかもしれないけど」

「そうだね、それを説明するには、とりふねが丘の事から始めないといけないから」

 西側の窓の外には、なだらかな丘陵地帯が広がっている。西南方向が戸数千以上のすみやか台で、その奥の斜面にとりふねが丘はあるはずだが、木々に隠れて見ることはできない。

「ルルゥさんとの記憶がないのは、とりふねが丘に原因があるってこと?」

「そう、だから、その秘密を話すとまたこの一週間の私の記憶は消えてしまうと思う。九年前と同じように、ハウトさんの中から。でも、もう無理だよね、ここまで分かってしまうと」

 家族がいないのを確認していたのはこういう状況になるのを恐れていたんだ。ここで耳をふさいでおけば、ルルゥとの関係はこのまま続いていくのだろうか。このもやもやした気持ちを抱えたままでは、それはダメなように思う。

「話して欲しいな」

「どうして、全部また消えちゃうんだよ!」

 その声は悲鳴にも似ていた。こんな激しい感情をぶつけられるのは初めてだ。いや以前にもあったのかもしれないけれど。

「保育園の時、私は友達がいなかった。年長組になって、ハウトさんが入ってきて、とっても仲良くなった。小学校は別になったけど、学童保育が一緒だったからもっと仲良くなって、お互いの家を行き来したりして、家族で遊びにいったり、ずっとこの関係が続くと思っていた」

 ルルゥは、バッグの柄から吊り下げられた古びた黒猫のマスコットを握りしめた。

「これはその頃お揃いで買ってもらったものなんだ」

 それも覚えていない。

「だからハウトさんが遠くへ引っ越しするって知って、つらくて、悲しくて。いってほしくない、どうしたら引き留められるんだろう、そのことばっかり考えていて。それで思いついたのが、絶対に誰にも言ってはいけないって教えられていた、とりふねが丘の秘密を話してしまおう。そうしたら、秘密を守るために、ハウトさんをどこにもいけなくするかもしれないって」

「そんな力があるの?」

 それには答えなかった。

「しょせん、小一の浅はかな考え。結果は秘密を含めて、私との記憶も全部消えてしまった。あんなに仲良かったのに、ただの顔見知りになって、そのまま引っ越してしまった」

 それは相当ショックな出来事だっただろう。

「それは全部私のせい。余計なことをしなければ、遠くにいったとしても、ずっと友達でいられたかもしれないのに。それを自分自身で消してしまった」

 ルルゥは組んだ手に額をおしつけた。

「だから、これからはもう友達を作るのはよそう、友達を持つなんて許されない、そう誓って。それが、高二になって、まさかこの町に帰ってくるなんて、同じクラスになるなんて。でも、私のことは覚えていないし、声をかけるなんてできないと思っていたら、とりふねが丘に現れるんだもの。絶対に入ってこれないはずだったのに」

 やっぱりあの不快感はコントロールされていたのか。

「とりふねが丘のクル・ド・サックもフットパスも、ルルゥさんの部屋も、ジャングルジムも、縁根川公園のボートも、全部一緒にいた場所だったんだね」

「記憶がよみがえるはずないのに、無駄なことってわかっているのに、結局こんなことになってしまって」

「もう一回話してよ、その秘密を」

「ダメだよ、また消えちゃうんだよ」

「大丈夫だって」

「どうして?」

「記憶が消えるって怖い事かもしれないけれど、どうせ、いつかはなくなるものだから。それに、九年たってもまた友達になれたんだから、次も大丈夫。また声をかけてくれたらいい、友達になってあげてもいいよ、って」

 意外な反応だったのだろう。一瞬ぽかんとした顔になったがすぐに笑みがこぼれた。

「そうか、そうだね、きっとそうだ」


 ルルゥはゆっくりと話し始めた。とりふねが丘の秘密を。

「信じられないようなことなんだけど」

 それはそうだろう。そもそもこの一週間の出来事がありえないことばかりだから。

「とりふねが丘と、そこに住んでいる人たちは、別の星から来たの。あの町自体が、乗ってきた宇宙船なわけ」

 そっちだったか。確かに現在の技術では人の記憶をコントロールするなんてできないから、常識外なんだろうなと覚悟はしていたが、秘密組織でも、超古代文明でも、パラレル・ワールドでも、タイム・スリップでも、異世界転移でもなかった。

「宇宙船ってことは、いわゆる異星人ってこと?」

「そうなるね」

 人間と見た目そっくりの異星人って、フィクションの世界だけと思っていたが、その事実は受け入れるしかない。

「それはいつ頃の出来事なの?」

「正確な年は知らないんだけど、ずいぶん昔だって。前にいた場所が住めなくなって、数多くの宇宙船で、一時的に避難してきたんだって」

「住めなくなったって、何かがあったの」

「詳しいことはわからないけど、とにかく脱出するしかなかったとか」

「その星はどのくらい離れているの?」

「かなり遠いところ、何年もかかる距離だって」

 かなりざっくりした話だな。それともルルゥが知らないだけなのか。

「じゃあ、他にも同じような町があるてこと?」

「多分そうなんだろうけど、それは誰も知らなくて、もしかしたら他の星かもしれない」

 あまり情報がないということか。そんな状況でどうやって今まで生き延びてきたんだろう。

「町は、どうやって維持されているの?」

「それは、安全に暮らしていけるためのシステムがあって、いつになったら帰れるのかわからないけど、それまでに散り散りにならないように、外敵から襲われないように、面倒事にまきこまれないように、守られているんだって」

「高度なAIみたいなもの?」

「普遍的知性、universal intellect、略してUIっていうものだそうで、賢いだけじゃなくて、最適な判断をして実行してくれる存在。この場所で暮らしていく以上、ずっと隠れてはいられないので、ある程度社会にとけこまないといけないから、その微妙な調整も全部やってくれている」

 その全知全能のようなシステム、UIの庇護の下にあるってことか。なんだか途方もない話だけれど、納得するしかない。

「人の記憶もコントロールできるってこと?」

「そう、他にもいろいろなことができて、ほら、カメラで撮影すると別の画像や動画にすることもできる」

 それは実際に体験した。たしかに目の前の風景とスマホで撮った画像が違っていた。

「肉眼で見るものは変えられないの?」

「人の目の構造は複雑すぎて、リアルタイムではできないから、別の方法をとるんだって」

「いろいろと詳しいんだね」

「とりふねが丘の家には端末があって、ヒューサヌビ、それがUIの名前なんだけど、質問とかに答えてくれるから」

 ヒューサヌビ、なんだか難しい名前だ。

「どんなことでも?」

「基準があって、その範囲内ならなんでも。ただどんな基準なのかは誰も知らない。というか、ヒューサヌビが決めたことは絶対で、変えることはできないし、その理由も教えてくれない」

「記憶を消す、というのも、そのヒューサヌビが決めたこと?」

「そうだよ、ハウトさんの記憶を消したのもヒューサヌビ。とりふねが丘の安心安全のために最善の判断をする、そういうものってみんな受け入れている」

「なんだか、絶対的な神様みたいだね」

「そう言っている人もいる。頼りになるけれど、時には冷酷にもなるって」

 グループの維持が最優先だから、そうなることもあるんだろうなあ。

「でもね、普段の生活までコントロールしているわけじゃなくて、とりふねが丘に危険がおよぶ可能性がある時だけ。あとは、モラルというか、ルールを守って暮らしていると干渉はしない」

「そのルールが、とりふねが丘の秘密を他人にはもらしてはいけないってことなんだね」

「それは絶対的。だから、私たちは、いい意味でも悪い意味でも、けっして目立ってはいけない、あまり町の外の人とは深くつきあってはいけないって、教えられて育ってきたから。興味を持たれると秘密を探ろうとされるでしょう」

「いつか帰れる日に備えて、息をひそめて暮らさないといけないのか」

 それってけっこう残酷なことじゃないかと思った。

「いつ帰れるかの目途はあるの?」

「ヒューサヌビにたずねても、いつも答えは予測不能って」

「それは百年後、あるいは一万年後かもしれない。ひょっとしたら明日かもしれないってことだよね」

「うん、誰にもわからない」

 いくら人間関係を構築しても、自分の意思とは関係ない外部的要因で、突然そこからの退場を余儀なくさせられる。いつもその可能性は存在し続けるのか。

「ハウトさんはいろんな場所を知っているんだものね。うらやましいな。私はとりふねが丘で生まれて育って、これからもずっと暮らしていく。ご先祖はずっと遠いところから長い旅をしてきたというのにね」

 ルルゥは、これ以上傷つくのを恐れて、袋小路の奥でうずくまっている少女に見えた。でも、クル・ド・サックは行き止まりじゃない。前に向かっていけば、必ずそこから出られる。

「これまで、大都市とか、城下町とか、港町とか、いろんなとこを見てきたけど、ひとつだけ確かなことは、どの町でもその風景が今そうなっているのは、ただの偶然じゃなくて、必ずそうなった原因があるってこと。そこに駅があるのも、そこに道が通っているのも、理由がある。だから、ルルゥさんと再会できたのは、必然だと思う。またこうして仲良くなったんだから、次も必ず仲良くなるんじゃない?」

「うん、信じてみるよ」

 ルルゥは胸のつかえがとれたのかすっきりした顔になっていた。西に傾いた太陽が赤く照らしている。それから二人で下へ降りて、バスターミナルに向かった。記憶が消えてしまっても、また作り直せばいいからと握手をした後、バスに乗るのを見届けた。

 その夜、そして日曜日、時折SNSで連絡を取り合いながら、「それ」が来るのをひたすれ待っていた。

 そして月曜日になっても、記憶は消えなかった。ルルゥがヒューサヌビにおそるおそるたずねてみると、「その必要なし」と回答があったそうだ。



第二話 オブスタクル・ボーイ obstacle boy(障害物の少年)


 集団競技は苦手だ。

 小さい頃から足は速かった。誰にも負けない自信があった。だから、サッカーに誘われた。ポジションはフォワード。ドリブルは練習しまくった。ゴール前でセンタリングを待つなんてしたくない。自分で持ちこんでシュートを撃つ。それだけだ。チームで一番足速くて、ドリブルも一番上手くて、シュートも一番上手いから。

 でも、学年が上がって対外試合が増えてくると、簡単に点をとれなくなった。上手いやつなんていくらでもいた。走るのが速いやつ、ドリブルが上手いやつ、シュートが上手いやつ、いくらでもいた。勝つためならチームプレーが大事になってくるが、練習や試合ならともかく、それ以外でも馴れ合うなんて時間の無駄使い、苦痛でしかない。そして、このまま続けてもレギュラーを続けられる保証がないと気が付き始めた。試合に出ることなく応援だけする、それに何の意味があるんだ。それが分かったとたんに、興味がなくなった。小学校卒業と同時にチームを離れた。

 両親は目立つ活躍をすることを危惧していたが、もうその心配はいらない。町の掟だか何だか知らないが、あなたたちの子供には、そんな才能は元々なかったから。

 中学校はクラブ活動参加が必須だったが、運動系に入るつもりはなかった。適当にどこかの幽霊部員になるか、一人だけでできる部があればそれでもよかった。入学以前の経歴は共有されているようで、勧誘がいくつもあったが、すべて断っていた。

 入部先も決まらないまま、ある日の放課後、クラスのなんとか委員の仕事でいつもより遅くなり、グランドの横を急いで歩いていると、隅の方でちょこちょこ動いている姿が目に入った。

 それは同じ小学校の二学年上の琴吹(ことぶき)先輩で、ハードルを何台か並べて、走っては跳んでを何度も繰り返していた。ハードル走は小学校の体育の授業であったから、競技そのものは知っているが、何をやっているのかわからなかった。

 たぶんじっと見ていたのだろう。それに気付いた琴吹先輩と目があってしまい、こっちへおいでと手招きされたので、逆らうわけにもいかなかった。一応、年功序列は守るタイプなので。

 グランドではサッカー部や野球部とかが狭い空間をシェアしながら練習している。それをよけながら近づいていくと、琴吹先輩はにこっと笑った。

「北住(きたずまい)君、久しぶりだね」

 小学校の時の運動会準備委員会とかいうので、顔を覚えられていたのだ。

「どうも、お久しぶりです、琴吹先輩」

「どしたの、ハードル競技に興味あるの?」

 正直競技自体にはなかったのだが、何をしているのかだけ知りたくなった。

「いえ、何の練習をしているのかと思って」

「ああ、そういうことね」

 琴吹先輩は落胆した様子はなかった。

「ハードルってさ、走って跳ぶ競技と思ってない?」

「そうだと思いますけど」

「そうじゃなくてずっと走る競技なんだ」

「でも、ハードルを飛び越えてるんじゃないんですか?」

「違うんだな、ハードルの直前で、いつもより足をちょっと前に出してるだけなんだな」

 この人何を言っているのかと思った。それが「運の尽き」というやつで、その飛び越え方の実演を交えた説明を聞かないわけにはいかなくなった。踏み切った足とは別の足をどうするかなんて知らなかったから、つい質問までしてしまい、結局十分以上立ち話をしてしまった。

「足が速いからいい記録がでるわけじゃなくて、ハードルを越える技術、ハードリングのテクニックを磨く必要もあるんだ」

「今やっていたのは、ハードリングの練習だったんですね」

「そう、基本練習だよ、サッカーでいえばパス練習みたいなもの」

「それで、記録ってどう計るんですか。ハードルは十台も並べるんですよね」

 琴吹先輩は残念そうに頭をかいた。

「見ての通り、陸上部は部員少ないし、練習場所も狭い。それは他の部も同じだけどね。だから、本当の記録を計るのは大会の時だけだ」

 それって、どうやってモチベーションを保っているのだろう。

「陸上って、タイムとか距離とか競うものだけど、本質は個人競技って思っている。相手は隣のレーンを走っているやつじゃなくて、昨日の自分なんだ」

「自分、ですか」

「昨日より、ハードリングが上手くなった、ハードル間を速く走れるようになった、その積み重ねなんだ。その成果を数字で確認できるのが大会、なのかな」

「自分との戦いですか」

 競う相手は昨日の自分、その言葉に心が動いた。陸上部に入部してハードル競技を始めたのは、この日がきっかけだった。


 琴吹先輩の指導を受けて、基礎練習の繰り返しから始まった。一番驚いたのは、サッカーとは走り方が全く違うことだった。今なら当たり前と理解できるのだが、衝撃ですらあった。目的がはっきりしている反復練習は嫌いじゃないので、ハードリングはどんどん上達していった。初めての大会で、110メートルを走り切った後は、これまで味わったことのない充実感があった。その後、大会に出るたびに記録は伸びていった。先輩が卒業して、2年生に進級したが、ハードル競技をする後輩は現れず、ずっと一人で練習を続けた。陸上部に顧問はいたけれど、技術指導できる人はいなかったので、ネットの情報や動画を見るしかなかった。その類のスクールは探せばあったのかもしれないが、また集団の中に入ることになるので、通いたくはなかった。そして、毎朝の軽いジョギングを欠かさず、食事にも気を付けるようになった。

 3年生になると、真夏に開催される中学生の全国陸上大会の参加標準記録を初めて突破したので、ついにその舞台に進むことができた。学校で壮行会のようなものがあって、壇上に立たされたが、特に高揚感のようなものはなかった。会場が近かったので、琴吹先輩が応援に来てくれたが、結果は予選敗退だった。それでも、初心者の状態からどんどん記録を延ばせていったことへの達成感だけが残った。

 高校は、家から近い室壁西高校へ進んだ。レベルもまあまあだし、けっして琴吹先輩がいたからではなかった。陸上部は中学よりもさらに貧弱な環境で、ハードルを五台並べるのが限界の練習場しかなく、部員も少なく廃部寸前のような状況だったが、ハードルは続けるつもりだったので、大会に出るためにも所属は必要だから入部した。琴吹先輩とは夏までの半年、曜日毎のメニューを作成して、中学時代のように一緒に練習をし、退部後もなにかと気にかけて様子を見に来てくれた。

 先輩が卒業した後は、陸上部にハードルの志望者は増えることなく、また一人だけの毎日になった。そして記録は全く延びなくなってしまった。これは予想していた通りだ。いくらテクニックが向上しても、肉体のメカニックを高めても、いつかは限界が来る。持って生まれたポテンシャル以上のことはできない。それでも、ちょっとでも昨日の自分を上回れることはないか、スマホで撮影した動画をチェックしたり、新たなトレーニング方法を検索したり、もがき続けているうちに3年生になり、最後の大会が迫っていた。


 火曜日の放課後、短時間に制限されている練習を終えて、入念にストレッチをしてから、マネージャーがいるはずもないので、ハードル三台を一人で片づけたあと、やっと帰ることができる。家へ向かう道を早足で歩きながら、今日の結果を思い返して、明日以降のメニューを考える。一人だけになって以来、もうこれが日課なのだ。大会前以外は、土日の練習は禁止だから、完全休養日にするしかない。残りの五日間できるだけ効率よくやらないといけない。なので一週間のサイクルで、曜日毎の内容は決めてある。明日水曜日はストレッチ中心で、木曜日はスタート練習、金曜日は天気さえよければ全力走でフォームチェックをするから、カメラの用意を忘れないようにしよう。

 とりふねが丘の入口から続く直線道路、東通りを奥へ歩いて行くと、前から二人連れが近づいてきた。一人は町内会長の一人娘の鷹角ルルゥだ。一学年下で、小中高一緒だし、この町内に同世代の数はしれているので、昔からよく知っているが、人見知りが激しくて、話しかけてもまともな答えが返ってきた記憶はない。それが今は明るい笑顔をふりまいている。すれちがう時に、

「おかえりなさい」

 これはこの町のルールの一つで、誰彼なく戻ってきた人にはそう声をかけている。ついさっき、いつもの二条東のアームチェアのばあさんとも挨拶をしたばかりだし。

「ただいま」

 こう返すのも身に付いた習慣。

「おかえりなさい」

 もう一人が、最近話題になっているやつに違いない。噂だと、「ヒューサヌビに勝った」とか「手なずけた」「みとめられた」とか言われているらしい。振り返らずにそのままずんずん歩いていったが、なんだか、無性に腹が立つ。鷹角のクラスに転校してきて仲良くなったみたいだが、よそ者じゃないか。この町の秘密を知っているのに、ヒューサヌビはなぜ記憶を消さないのか、何をやっているんだろう。全知全能の神みたいなものだが、これは納得できない。特別扱いするなんて、神だって間違えることはあるんじゃないのか。


 水曜日、昼休みに学食から教室へ戻っていると、廊下でまた二人連れの鷹角とはち合わせた。横のやつにはげまされるような感じで、話しかけてきた。

「北住(きたずまい)先輩、ちょっといいですか」

 どうやらわざわざ3年生の教室がある別の階まで探しに来ていたようだ。SNSのIDなんか交換したことないから、用があったら直接顔を合わせるしかない。

「いいけど、何か?」

「来月のこどもまつり、今年は欠席なんですよね」

 そのことか。とりふねが丘は地域の絆を深めるためとかで、行事の数がやたら多い。「こどもまつり」は子供中心のイベントで、主催は中高生がやることになっていて、小学生以下を楽しませるものだ。

「悪いな、その日は県外だから手伝えない」

「陸上の大会があるんですよね」

「そう、帰ってきたら夜になるので」

「それで勝ったら全国大会なんですね」

 いきなり横からやつが割り込んできた。

「まあそうだけど」

 実際は上位6位に入ればだけど、そこまで説明する必要はないだろう。

「じゃあ、がんばってください」

 鷹角はにっこり笑ってから、頭を下げた。

「ありがとう」

 二人が去っていく後ろ姿を見送る。鷹角って、こんな表情豊かだったけ?それはたぶんやつのおかげなんだろう。それがまたむかつく。


 木曜日の朝、六時に目覚めた後、いつものようにジョギングに出かける。短距離競技にランニング練習は必要ないが、小学校でサッカーを始めた頃からの習慣なので続けているだけで、心肺機能を維持する程度の、負担の少ない内容にとどめている。

 家を出て、ゆっくりしたスピードで東通りを降りていくと、二条東のアームチェアのばあさんとあいさつを交わす。何時からそこに座っているのか知らないが、これもずっと変わらない日課だ。朝日を正面から浴びながら、十分程度軽く走ったところにある公園で折り返して、同じ道を戻ってくる、これがずっと変わっていないコースだ。

 陸上部は夏の大会が終わるまでで、その先は受験勉強一色になる。朝のジョギングは、体調管理のためにも続けるつもりだ。進路の大まかな方向は決めているが、最後の選択はその時の学力次第。ほぼ毎日駅前の塾に通っているが、どこまでの実力をつけられるのかは分からない。現在のレベルは模試の結果ではっきり出るが、最終的にどこまで伸ばせるのかは予測できない。

 人によっては、進路を親から強制される方が楽なんて考えがあるかもしれないが、それだけは嫌だ。自分で悩んだ末に選ぶから、結果にも責任が持てる。どの道を選んだとしても、家を離れて県外の大学へ進むのだげは絶対に譲れない。そして、そのままここへ帰ってこなければ最高だ。

 とりふねが丘に入ると、一条東の角で、南方向から一条通りをカーブしていくる自転車と必ず出会う。この春から、少し離れたところ、室壁駅の東側にある室壁東高に進学した1年生だ。西高と始業時間は変わらないはずだから、毎日すれ違うというのはかなり早い登校になる。なぜそんなに急ぐのかはわからないが。

「おはようございます」

「おはよう」

 元気な声だけ残して、自転車の影は去っていく。1年生なら、選択肢は無数にあって、希望に満ちているのだろうか。あたりはまた静かになる。

 代り映えしない日常、代り映えしない町。そして、代り映えしない自分。回りを見えない壁が取り囲んでいる。このもやもやした気持ちを解消するためには、ここから脱出するしかない。その日をを待っているだけでは永遠にやってこない。それを乗り越えられるのは、自分の足でだけ、そんなことは十分承知している。


 金曜日の夜、駅前の塾の終了時間は、普段より一時間遅い。とりふねが丘方面のバスの本数は少なくなっているから、発車時刻にまだ余裕はあるので、あわてる必要はない。自転車で通っているのはとっくに帰ってしまっていて、教室に残っているのはほとんどが親の送迎組だ。塾がある所は古くからの町の中なので道幅がとにかく狭い。周辺で子が出てくるのを待って停車されるのは、近所迷惑なので禁止されている。違反すれば即やめさせられる。建物の前の数台分の狭いスペースに停められた段階で連絡して、その生徒が降りていくというシステムになっている。なので、順番待ちの高級車があたりをぐるぐる回っているのがいつもの光景。

 隣の席の向井(むかい)もスマホを片手に連絡を待っている。小中とも同じ学校だったが、まともに話すようになったのは、高校に入って塾の同じクラスになってからだ。

「北住は模試の結果どうだったの」

 いつの間にか呼び捨てになっていて、言い方もぶしつけだ。

「まあまあだったかな」

 具体的な結果を言わなくても、そもそも向井の方が成績いいに決まっている。

「私は志望校、A判定だったよ」

 いつものように、至極あっさりとしたものだ。室壁市に古くからある向井病院の一人娘で、家はすみやか台の最上部、敷地が他よりも広い一角にある。県外の有名な医学部に合格できる学力があるが、別にそれを自慢しようとかいうのでもなく、淡々と事実を述べているだけだ。

「それはおめでとう」

「北住はどうなの、最低でもBなんでしょ。陸上部最後までやってるぐらい余裕なんだから」

 内容は母親の小言と同じなのに、嫌味は全くない。実際、向井がA判定の志望校に関してはBだから、お見通しだ。

「今度は地区大会なんだよね。クラブ活動を3年まで続けるなんて私には出来ないな」

 それが本心からの言葉なのはもう分かっている。「私は不器用だから、一つの事しかできない」が口癖で、向井をよく知らなければ、馬鹿にされていると感じるだろう。実際最初は自分もそうだったし、誤解を招く素直すぎる性格で損をしている。

「好きでやっているだけだから。それももうすぐ引退だけど」

「医者には体力が必要だから、スポーツが得意って、それだけで大きなアドバンテージだよ」

 向井と同じように医学の道に進むことに何の疑問も持たれていない。それを否定したことはないし、今のところ別の学部、方向を決めているわけでもない。

「まあ、Bだったよ。まだまだ厳しい」

「よかった、もうちょっとじゃない」

 その「もうちょっと」がどれだけか大変なのに、簡単言ってのける。医者の子供というので、妙な連帯感を持たれているが、境遇はまったく違う。おやじは大病院に雇われているだけだ。向井の家は何代も続いている病院で、その後を継ぐなら、医者としての技量だけでなく、経営者のセンスも必要だから、イージーモードじゃない。なのに、生まれながらに決められたレールの上を進む、そのことを受け入れている。むしろその仕事、役割に誇りを持っている。有名医学部に進むのは、学閥やコネのためで、それがあれば、患者のためにより良い医療が提供できる。命を預かる崇高で難しい仕事なんだから、報酬が高いのは当然でもあるとも。

 自分には無理だ。とりふねが丘の住人のように、掟に縛られているわけでもないのに、なぜ抗うことなく、むしろ積極的なのが、理解できない。

 向井のスマホが鳴った。

「じゃあ、お先に」

「ああ、また来週」

 部屋から手を振って出ていく向井。うらやましいのか、たぶんそうだ。小さい頃は有名になりたかった、人の上に立ちたかった、「ひとかどの人物」になりたかった。現実は、向井のようなのが立派な人間で、自分はちっぽけな存在なんだ。それを受け入れる時期なのに。

 大学進学は、この場所から逃げ出したい、その手段なだけ。目的はあいまいなままだ。


 週末の土曜日、午前中に室壁記念病院へ行く用事があった。室壁駅とその南の小萩駅の間の丘陵地帯にあって、とりふねが丘からは、徒歩とバスで十五分ほどかかる。正門の前にバス停があるので、乗り降りする人は多い。九階建ての中央棟、両側には東棟と西棟を従えて、この市だけでなく、周辺地域で一番大きな総合的病院だ。おやじはこの病院の院長を務めている。医学部では優秀だったらしいが、研究医ではなく臨床の道を選んだそうだ。医者を継げとかいったことは一切言われたことがない。ただ、自分の好きな道を進め、それだけだ。もっとも、参加標準記録が設定された大会と同じように、進みたくても最低限の資格がなければチャレンジすらできない世界なのだが。

 内科、外科など多くの診療科があるが、最近スポーツ医学の分野に力を入れ始めている。スポーツによるケガ、故障の治療、リハビリ、予防プログラム、などが行われているが、元々骨格や筋肉は個人差が大きいし、成長期とそれ以降でも変わるし、細やかな対応が求められるらしい。その上に、動作解析の研究も行われている。その被験者を頼まれていて、月に一度のチェックが今日の用事だったというわけ。これがもっと前から始まっていたら、結果が違っていたかもしれないが、今さらどうでもいい。おもしろそうな分野なので、もっと追及してみたい気持ちもあるから、積極的に協力しているのだ。

 検査を終えて研究室のある西棟を出て、院内の庭園を抜けていくと、正門とは逆の奥の方で、なんだか変な動きをしている人影をみつけた。木陰に立てられた石の柱の周囲をうろうろして、スマホで撮影もしている。やつだった。今日は鷹角の姿はない。顔を知らなかったらただの不審人物だ。視線を感じたのか、振り向くと手を振ってきた。

「北住先輩!」

 なんだか馴れ馴れしいな。近寄ってくると帽子を脱いだ。

「こんなところでお会いするなんて。いえ、当然といえば当然ですか」

「ここでいった何を」

「あ、大丈夫です。許可はいただいているので」

「許可って」

「診察でもお見舞いでもないのに、病院の中に入るのはまずいので、鷹角さんのお父さんを通して、病院の了解はいただいています」

 もうそんな仲になっているのか。なんかむかつく。

「で、いったい何を」

「町歩きが趣味なんです」

 たしかに歩きやすそうな服装ではある。

「この場所、元は縁根鉱山で働く人向けの病院があったのはご存じですか」

「いや、知らない」

「閉山後、その跡地を医療法人とりふね会が引き受けて、新しく病院を建てて、旧の場所から移転したんです」

「その経緯は知らなかったな」

「さっきの石柱は、縁根鉱山病院跡の記念碑なんです。当時使っていた井戸も残ってますし」

「そんなのがあったのか」

「最近は、室壁市のあらたな取り組みで、防災拠点とか、コンパクトシティ構想で重要な場所とされているので、一度中に入ってみたいと思っていて。そういうのを見て回るのが趣味なので」

 その趣味とかには興味ないし、何を言っているのかよくわからないところもあるが、とにかくこの病院の歴史に詳しいのはわかった。

「エコロジーも考慮した建物で、バードストライク対策もされているし、屋上は庭園になっているんですね。断熱効果や紫外線による建物の劣化を防ぐメリットもあるそうで」

 屋上の庭園は、入院患者とその家族の散歩用だけじゃなくそんな役割もあったのか。

「先輩のお父さんは、この病院の院長をされているんですよね、鷹角さんが教えてくれました」

「そうだけど」

「小児科、産婦人科が充実しているって評判だって母親が言っていました。病院以外にもいろんな事業をしているんですね。実は昔とりふね会の保育園と学童保育にいっていたんですよ」

 こいつは転校生だけど、以前室壁市に住んでいたんだっけな。

「介護施設まであるんですよね。いわゆる「ゆりかごから墓場まで」ですね」

 なんでも知っていて、いろいろ覚えているな。その言い方も自然で、おもねっているところはまるでない。そのそつのなさに、またいらつく。なのに、ちょっと話をしてみたくなった。

「よかったら、その屋上庭園、見てみるかい」

「え、いいんですか」

 中央棟の屋上の緑地整備は、おやじの提案だったな。

「部外者は立ち入り禁止では」

「関係者が案内するから問題ないよ」


 元々関係者パスは持っているので、受付で来院者用のパスをもらって渡す。中央棟のエレベーターで、屋上までいくのを選んで乗る。ゆっくりとしたスピードで昇っていき、扉が開くとすぐ目の前に緑の木や花が植えられている庭園が広がる。維持管理がなかなか大変でもあるそうだが。

「病院のWebサイトに画像はのってましたけど、実際に見せてもらうのは初めてです。立派な庭園ですね」

 やつはうれしそうだった。人影はあまりないが、とりあえず西棟側の端まで歩いて行くと、室壁の西に広がる丘陵地帯が見渡せる。右方向には、すみやか丘の数多くの住宅がちらばっていて、左方向には、中学時代から何度も走った室壁市陸上競技場の屋根が小さく見える。

「隣の建物の上にも上がれるんですね」

「西棟の屋上は、災害が起きた時の一時避難所になっている。逆側の東棟の屋上はヘリポートだ」

「さすが災害拠点病院です。設備が充実しているんですね。たしか自家発電装置もあるとか」

「停電しても三日は病院機能が継続できるようになっているから」

 直接かかわっている訳でもないが、そう感心されると誇らしくもある。

「そういえば、今日は鷹角さんと一緒じゃないのか」

「いえ、今日は用があるとかで」

 じゃあいつもは一緒ってことか。なんか、むかつく。

「先輩とはこの間学校でお会いしましたけど、その後に鷹角さんから聞きました。中三の時に全国大会に出場されたんですね」

 鷹角はまだ覚えていたのか、もう三年も前になるのに。同じ中学校だったから、壮行会の席にはいたはずとはいえ。

「そんなこともあったな」

「そして、今度の大会で入賞したら全国なんですね。あの時はよく知らないで言ってしまってすみません。後で調べたらそうでした」

 そんな細かい事気にするやつだったのか。どうでもいいのに。

「ネットに先輩が出た試合の動画がアップされてるんですね。申し訳ないですけど、ハードル競技をちゃんと見たのは初めてで。すごい迫力なんですね、次から次にハードルを跳び越えるのって」

 こうして話すチャンスがあるかどうかなんて分からないのに、わざわざ調べていたのか。その誠実なとこは、まあ、みとめるしかないか。

「いや、ハードルは跳ぶんじゃなくて」

 言いかけて途中で止まった。これって、誰かのセリフと同じだ。

「跳んでるんじゃないんですか?」

「いや、ずっと前へ走る競技なんだ。上に跳ぶとそれだけタイムをロスしてしまう」

「そうなんですね」

 この話、これ以上はやめておこう。

「ところで、鷹角のおやじさんとは面識あるんだね」

「はい、小さい頃にはなんども家にいってるし、遊びに連れていってもらったこともあって。まあ、全然覚えてはいないんですが。あ、この話はご存じですよね」

「まあ、そういう事は、町内で告知されているから」

 部外者の記憶を消すなんてのはしょっちゅうある事じゃないから、そういう重大な情報は共有される仕組みがある。それにしても、その事実を知ったら、普通はかなりショックを受けてそうなのに、へらへらと平然としている。こいつ相当変わっている。

「おやじさんが会社の社長なのは?」

「だそうですね、インフラ系の会社を経営されているとか。会社の名前はよく知っていました。すごいですね、電気、ガス、水道、通信回線、それから建築、道路、土木、補修とか、インフラ全般を網羅しているんですね」

「じゃあなんでそんな会社があるのかも、当然分かっているんだろう」

「それはまあ、部外者を入れずに、町の維持をするためですよね。それと雇用の確保もですか。とりふねが丘以外の仕事もされていますから」

「よく調べているな」

「いえ、町を歩いていると、あちこちで会社名を見かけますから」

 そういうのをチェックするのも趣味なのか、よくわからない。

「こちらの病院では、とりふねが丘の方は働かれているですか」

「そんなには多くない。医師と看護師、技師、合わせても十人はいないだろう」

「そうだったんですね。でも患者としてはみなさんここがかかりつけなんでしょう。鷹角さんもそう言ってましたし」

「それはそう。ならこの病院の役目は分かるだろう」

「どうなんですかね、プライバシーの流出を防ぐため、ですか」

「もちろんそれもあるんだろうけど」

 普段こんな会話を外の人間とすることは絶対にない。ヒューサヌビがみとめたのだから、安心して話していいんだろう。多少踏み込んでも、問題があったらなんとかしてくれるだろうし。

「とりふねが丘の住民は、見た目は人間と同じだけど、遺伝子レベルでも同一っては知っているのか」

「そうなんですか、そこまでは知りませんでした」

「だから、どれだけ精密検査を受けても、異星人だと疑われることはない」

「区別はつかないってことなんですね」

「でも、そんな偶然ってありえないだろう」

「たしかに、遠く離れた別の場所で進化して、たまたま外見は同じになっても、遺伝子まで同じってのはありえないですね」

 飲み込みが早くて助かる。

「じゃあ、どうやったと思う?」

「それは、遺伝子を操作した、そんな技術まであるんですか」

「残念ながら、どうやったかは誰も分からない。情報がないから」

「その、PI、ヒューサヌビは教えてくれないんですね」

 ヒューサヌビへの質問は、回答が許されているものにしか反応しない。それ以外は、「できる」とも「できない」とも、「はい」とも「いいえ」とも返ってこない。ただの無回答だけだ。いつこの星に来たのかも教えてくれないし、元の姿はどうだったのか、どうやって変えたのかも、反応はない。情報がないはずはないが、それを知らせる必要はないと判断されている。

「サモエドって犬種は知ってる?」

「いきなり犬の話ですか。ええまあ、白くてもふもふな大きな犬ですよね。前住んでいたとこの近所で飼われてました」

「そう、体重は30Kgを越えるのもいる。一方、チワワはせいぜい3Kgぐらいで、10倍も違う。おなじイエイヌって知らなかったら、絶対違う種類の動物って思うだろう」

「たしかにそうですね、どっちも可愛いですけど」

「いや、そういう問題じゃなくて、それと同じように、とりふねが丘の先祖と人間は遺伝子的に近かったのだろうけど、外見はまったく違っていたのじゃないかと考えられる」

「遺伝子的には近かった、ですか」

「偶然ではなくて、遺伝子的に近いからこそ、この星を選んだんじゃないかと」

「なるほど、最初から分かっていたってことですね」

「何年、何世代かかったかは不明だけれど、その間に徐々に遺伝子を操作して、今の姿にしたんだろうって推測されている。いきなり子供の姿が変わってしまったら、親子関係が破綻してしまうから。それが正解かどうかは、ヒューサヌビは教えてくれないけどね」

「じゃあ、いつの日か帰る時には、また徐々に元の姿にしていくんですね」

「おそらく」

「で、それがこの病院とどんな関係があるんですか」

「先祖返りって言葉があるだろう」

「はい、隔世遺伝みたいなものですね」

「それがまれに起きるんじゃないかって。胎児の段階で祖先の姿に戻っているケースが」

「そんなことあったんですか」

「いや、そんな情報はないけれど、そういう場合は遺伝子を操作して人間の姿にしているっていう噂はある。あったとしても、共有はされないだろうし。ただ、実際のところ、とりふねが丘の住人は全員この病院にかかっているし、生まれたのもすべてここだから」

「ここにもヒューサヌビの力は及んでいるんですね」

「ここだけじゃない。市内のあちこちに拡がっている」

「遺伝子操作レベルの事が、秘密裏に行われているかもしれないってことですか」

「ただの噂だけどね」

「はあ・・」

 いぶかしげな表情になる。根拠のない仮説を出されてもといったところか。とりふねが丘の住人の先祖の話をしたのは、鷹角の正体は実は人間と異なる姿なんだって、嫌悪感を抱かせようなんてさもしい考えじゃない。記憶が消されてものほほんとしてるやつが、その程度で動じるはずがない。

 そもそもなんでこの屋上庭園に誘ったのか、正直よくわからない。むかついていたのは本当だが、だから何かしてやろうとか思ってもなかったし、どうでもよかった。ただの気まぐれで、どんなやつか多少の興味がないわけでもなかった。そして、不思議なことに、こいつなら何を言っても大丈夫な気がしてきた。とりふねが丘の事を話せる部外者なんて今までいなかったし、ヒューサヌビが信用しているわけだし。

「誰にも言ったことがなかった記憶があって」

 おいおい、いったい何を言い出すんだと自分でも驚いたが、もう止まらない。

「それは不思議な記憶で、厚い黒雲で覆われた空の下、草も木もない荒れ果てた原野が広がっていて、大きな岩や石が転がっているだけで、強い風が吹き抜けている。そのでこぼこの地面を、ただただ走り続けている、眼の前に次々と現れる障害物をさけながら、立ち止まることもなく、行先もわからず」

 言葉にすると、その情景がまざまざと浮かんでくる。

「それがいつの記憶なのかは分からないが、小さい頃からあったのは間違いない。同じ情景は以前は夢でも何回となく出てきたけれど、実際にそんな場所にいったことはないし、映画とか絵とかで見たわけでもない」

 やつからの反応はなかったが、話を続ける。

「そして、走っている自分の姿は人間じゃない。獣のように全身が茶色い毛で覆われて、尖った耳、尻尾もある。なのに、四本足なのか二本足なのかは定かじゃない。そんな鮮明な記憶がある」

 やっと顔をやつに向ける。

「もしかしたら、これは実は先祖の記憶じゃないのか、何の根拠もないけど、そう思っている。つまり、先祖の本当の姿はそうじゃなかったのかって」

 一旦言葉を切って反応を待ったが、何もなかった。

「そして、そんな記憶があるってことは、この病院の目的の噂通りに、自分がその先祖返りじゃなかったのか、遺伝子操作されなければ、本来の姿で生れてきたんじゃないかって」

「そのことは、ヒューサヌビにたずねてみたんですか?」

 意外な質問が返ってきた。

「一度だけ、たった一度だけ訊いてみたことはある。もちろん答はなかった」

 やつは首を傾げた。

「ご先祖の記憶かどうか、先祖返りだったのか、それはわかりませんけど、もしかしたら、先輩がハードル競技をしているのは必然なのかもしれませんね」

「それはどういう意味?」

「障害物があろうとも走り続けるなんて、北住先輩そのものじゃないですか」

 その発想は今までまったくなかった。そういう考え方もあったのか。頭の中で広がっていたもやもやが少しだけ晴れたような気がした。

「なるほど、この話をしてみてよかったよ。つまんなかったかもしれないけど」

「いえ、そう言っていただけると、ありがたいです」

 ここまで来たら、とことんいってしまおう。

「ひとつたずねたい事があるんだが、いいかな」

「いいですけど、何でしょうか」

「自分の記憶が消されたのは、嫌じゃなかったのか」

 言ってしまって、すぐ後悔した。今までろくに話したこともない、まして敵意すら持っていた、そしてそれを感じていただろう相手に、こんなことを訊くのは失礼すぎる。

「いや、すまない。聞かなかったことにしてくれ」

「かまいませんよ、むしろそう思ってくれてて安心しました」

「それはどういう」

「だって、そりゃ記憶を勝手に消されて、楽しいはずないし、頭にこないはずないじゃないですか」

 言葉とは裏腹に口調はおだかやだった。

「とりふねが丘の人みんながそうなのかは分かりませんが、少なくとも北住先輩は、それを理不尽なことだと思ってくれてるのがうれしいんですよ」

「誰だって腹立つだろう、そんなことされたら」

「そうなんです。でも、今さらどうにもならないし、そもそもその事実さえ、知らなかったんですから」

 なんだかずいぶん達観している。

「何度も親の都合で転校してきましたが、それって自分じゃどうしようもないことじゃないですか」

 確かにそうだ。親を選んで生れてくることはできない。

「それは、とりふねが丘のみなさんも同じでしょう。重すぎる束縛からは逃れられない」

 自分たちの境遇を客観的に話されるのはこれが初めてだった。

「記憶がなくなったこと、それを覚えていて、ずっと後悔し続けて苦しんできたのは鷹角さんの方なんですから」

 そんな風に考えていたのか。

「だから、誰かをうらんだってしょうがないし、そういうのは向いていないというか、難しくは考えないんです。これがだめなら別のことすればいい、それがまただめなら別のこと。なるようになるんじゃないですか」

 ヒューサヌビが再び記憶を消さなかった理由。それは分からないけれど、自分にとってはこの出会いが大事だったのかもしれない。

「ま、そんなとこなんですよ。万事いいかげんですみません」

 やつはぺこっと頭を下げた。

「ありがとう、答えてくれて」

 右手を差し出すと、しっかり握り返してくれた。

 それからエレベーターで一階へ降りて、次の目的地があるというのでエントランスで見送った。変わったやつだが、ヒューサヌビの評価は間違ってはいなかったようだ。

 その夜、久しぶりにあの夢を見た。これまでと違って、眼の前にはハードルが何台も並べられていた。いくら越えても越えても、無限にハードルは続いていた。でもそれは嫌じゃなく、心には喜びがあふれて、いつまでも走れそうだった。それは、寝る前に、先輩からの連絡があったからかもしれない。


 六月になった。今年、室壁西高校陸上部からの地区大会へ出場は自分ひとり。普段は存在感ない顧問の引率で、会場の陸上競技場へ向かう。曇天、湿度はまあまああるが、風はほとんどない。

 選手入口の前で、約束通り琴吹先輩は待っていてくれた。

「調子よさそうだな」

 その笑顔は今も変わらない。

「来てくれたんですね、先輩。遠いところまで、わざわざすみません」

「あたりまえだよ、中高通じて唯一の後輩を忘れるはずないだろ、北住」

「はい」

「立派だよ、地区大会まで来たんだから。しっかりこの眼に焼き付けておくからな、その雄姿を」

「ありがとうございます」

 自然に頭が深々と下がった。


 ユニフォームに着替えて、アップを終えた後、待機場所に集合する。むっとした空気の中、見知らぬ他校生たちに囲まれても、これまで通りに特に緊張はしない。ライヴァルは昨日の自分、昨日の記録、それと戦い続けてきた五年間だった。

 記録はシビアだ。自分の持ちタイムでは、全国大会出場ほぼない。琴吹先輩には、時折現在の状態は伝えていたので、口には出さないが、これが最後の公式大会だと分かってくれている。

 「記録より記憶」なんて、これまで成績を残せなかった者へのなぐさめとしか思っていなかった。しかし、今日、琴吹先輩が忘れずにいてくれたことが、これほどうれしいだなんて、想像もしていなかった。決勝に残れる可能性は五分五分だ。もしそうなれば高校名と名前がアナウンスされて、先輩の応援に手を上げて応えることができる。

 予選第二組の順番が来た。係員に先導されて、トラックの中へ足踏み入れた。このスタンドのどこかで琴吹先輩は見てくれている。先輩の記憶に残れば、それだけでいい。記録のためじゃなく、自分を気にかけてくれる人の記憶のために走ろう。初めて味わう清々しい気持ちで、スタートラインに立った。



第三話 ラウンドアバウト・ガール roundabout girl(環状交差点の少女)


 早朝の教室は嫌いじゃない。

 クラスメイトが登校してくるまでの一時間、誰から邪魔されることなく自由に過ごせる。家とは違って、静けさが続く間は、ちょっとした非日常が味わえる。それに、家だと自分の部屋にいても、しょっちゅうお母さまから呼ばれるたりするので落ち着かない。母親のことを「お母さま」と呼んでいる人にはリアルでは会ったことがなく、ごく普通の家庭には似つかわしくないのだけれど、子供から「お母さま」と呼ばれるのが夢だったそうで、物心がつく頃からそう教育されてきたせいだ。今さら別の呼び方にするのも面倒なのでそのままになっている。つまり、私のお母さまは、変な人なのである。お父さま(これもお母さまの教育の賜物)は変なことを強制したりしない普通人だけど、そんなお母さまと結婚したのだから、やっぱり変な人なのかもしれない。年もかなり離れているし。

 中学校から高校に上がると、自転車通学ができるようになった。バスの時間を気にせずに、いつでも好きな時に登校できる。試しにそれまでより一時間早く家を出てみると、独占の空間があることに気付いて、それ以来習慣になった。本当は、もう一人だけもうすぐ現れる。

「おはよう、リセイ」

 そして毎朝定刻通りに多月(たづき)ツバサさんが教室に入ってくる。

「おはよう、ツバサさん」

 小学校の時からずっと新体操を続けているアスリート。背が高くてスタイルもいい。この学校ではクラブの早朝練習は原則禁止だけれど、全国大会出場とか成果を出せば特例で許可されるという合理的なんだかよくわからないルールがあって、唯一適用されている新体操部の、1年生にしてレギュラー。

 中学校から四年間なぜかずっと同じクラスで、入学式早々に声をかけてきてくれて、それ以来の、たぶん一番仲がよくて、休み時間はずっと一緒にいる。「お母さま」とかの単語を自然に連発してしまう私を「箱入り娘かよ!」と突っ込んで、そういうキャラ付けをしてしまった張本人でもある。おかげであんまりしゃべらなくていいポジションを確保できたことは感謝している。

 クラス編成は、先生たちがクラス間のバランスを考慮して決めるらしい。テストの成績だけじゃなく、ピアノが弾ける子を一人は入れるとか、五十メートル走のタイムが偏らないようにするとか。それと、人間関係も重視して、孤立しないよう、なるべくぼっちが出ないようにもしているらしい。私は友だちが少ない方だから、中学校からの申し送りで、高校になってもツバサさんと同じクラスにされたのかもしれない。

 ツバサさんは友だちなんだけど、新体操の練習で朝も放課後も週末も忙しいから、テスト期間で練習がない時しか一緒に下校したことはなくて、休日に遊びに行ったこともあまりない。

「じゃあ、いってきまあす」

 荷物を置くと、朝練に出ていく。

「いってらっしゃい」

 そしてまた教室の中は静かになる。読みかけの本をバッグから出す。

 時間ができるとスマホじゃなくて本を持っていることが多いので、「文学少女かよっ!」って突っ込まれるが、断じてそうではない。「文学少女」は、美しい装丁の分厚いハードカバーを広げているか、薄い詩集を一ページ毎にゆっくり読んでいるイメージ。私は文庫本しか読まない。どんな本読んでるかは聞かれることあるけど、古い小説だよって答えると、それ以上は追及されない。まあ、あんまり興味ないだろうから。少し前の、仕事とか恋をか日常生活を描いた小説ばかりで、どうしてそのジャンルにはまってしまったのかというと、内容がおもしろいってのもあるけど、本当の理由は、人には言えない。変なやつって思われるから。


 きっかけは中学生の時の家族旅行。お母さまは、トラベルとトラブルは語源が同じ(諸説あります)だから、行き当たりばったりこそが旅行の醍醐味が信念の人。その日の朝も事前のリサーチとかはせずに、簡単な荷物だけ持って駅へ行って、路線図から適当に行先を決める。その暴走のアフターケアーするのはいつもお父さまの役目。

 気ままにあちこち見て回って、飛び込みで宿泊して、最終日の夜になり、帰るつもりでもよりの駅へ行ったら、トラブルの発生で電車が止まっていて、待合室で足止めになってしまった。いつ復旧するか目途が付かない状況に、お母さまは喜んでしまって、駅員の人に詰め寄っているクレーマーの見学に行ったりして楽しんでいた。お父さまは、ブレーキ役で同行。私はそんなのに参加したくなかったので、おとなしくベンチに座っていた。何もすることはなかったけど、モバイルバッテリーを持ってこなかったので、充電が少なくなっていたスマホは使いたくなかった。

 そうしたら壁際の棚に、地元の誰かが寄贈した本が並べられているのを見つけた。同じ紙でも段ボールや雑誌だったら廃品回収に出せても、本を捨てるには忍びなかったのだろう。他にはないので、「休暇の終わり」というタイトルでパステル画が表紙の古い文庫本を手に取ってみる。作者は「漆木ミズメ」、知らない名前。カバーのあらすじをみると、短編集みたいだった。ページを開くと、それまで何冊か読んだことあるラノベの文庫と比べたら、文字が小さいのにびっくり。読むのならマンガで、小説はあんまり趣味ではなかったけど、苦手じゃないし、感想文は得意だし、とりあえず最初の話から読んでみる。

 主人公は都会に住む女性で、仕事はOL。仕事の内容はよくわからなかったけど、OLって何か知らなかったから、その時はそういう二文字の職業があると思っていた。CAとかPAとかみたいな。現在年上の既婚男性と不倫が進行中で、旅行に誘われているけど返事はしていない。行くか、行かないか悩んでいると、職場の後輩の年下の男性から告白される。入社した時からいい印象を持っていたので、すぐに断ることができずに、態度を保留してしまう。二人の間で揺れ動く心って、完全な大人向け。

 読んでいくうちに、ひっかかるところが出てきた。まず主人公の年齢。「もうそんなに若くないし」とかセリフがあるので、なんとなく三十代半ばなんだろうなと思っていたら、「もうすぐニ十七だし」と具体的に出てきたので戸惑ってしまった。ニ十六歳で若くないってどういうこと?

 そして、不倫相手となかなか連絡がつかなくて不安感に苛まれるシーンには、どうしてスマホを使わないとと突っ込んでしまった。ちゃんと仕事しているから持っていないわけないし、料金未払いで止まっているなんてありえないし。違った、前を見返してみると、誰もスマホ使ってない、誰も持っていない。

 もしかして、この小説めちゃ古い?でも、通勤の様子とか、町とかお店の描写とか、昔って感じはしなくて、違和感はない。本の後ろの出版の日付けを見てみたら、十五年ぐらい前で、そのぐらいだったらもうスマホはあったんじゃないかな。私が赤ちゃんの頃の写真、スマホで撮ってたと思うし。念のために、ページを前にめくってみたら、元の単行本の出版は、三十年前って書いてあった。そんなに古い時代だったんだ。まだスマホはなかったんだろうな。その頃は二十五歳過ぎたら、若くないって感覚だったのか。

 小説の内容より、今の眼で見た違和感、ずれを探すことが、まるで間違い探しのクイズのように面白くなってしまった。その後の短編も、それ目的で楽しく読んでしまい、運行再開までに待ち時間、退屈しなかった。真面目な人がレストランでタバコ吸うってってどういうこと?とか、「この曲を聞いてほしい」って渡すMDって何?とか、電車に乗るのにわざわざお金で切符買ってるの?とか、結婚したら仕事を続けるかどうかってそこ悩むとこ?とか。

 本を置いてあった棚には、「ご自由にお持ち帰りください」って貼り紙があったので、同じ作家のをまとめて五冊ありがたくいただく事にした。後で調べたら、漆木ミズメという作家はすでに亡くなっていたが、けっこう有名だったようで、そのファンからしたら、こんな読み方は、冒涜しているというか、邪道すぎるのだけど、面白いのだから仕方ない。人には言えないけど。


 家に戻ってから、持って帰ってきた他の五冊も順番にゆっくり読んでいった。どれも書かれた時代は、最初の短編集と同じぐらいで、大人の女性が主人公なのも共通している。有名な方だっただけに、お話としてよく出来ている。そして、日常生活や身の回りを詳しく描写しているので、別のよこしまな愉しみも満足できた。おおまかな内容は、今の感覚との違和感ないんだけれど、細かくみるとありまくりなのが面白すぎた。

 異世界ファンタジーや歴史ものだと、読む前から別の世界、別の時代って分かっているから、価値観とか技術とか違っていても当たり前と受け取れる。転生ものだと、その違いを主人公が全部説明してくれるから、もっと分かりやすい。でも、このちょっと古い小説は、作者はあくまでもその時の「今」を描いているだけで、数十年後の私が勝手にちょっとした「ずれ」を見つけて、プチ異世界ものとして楽しんでいる。だから、今とつながっている過去を、細かく繊細に残してくれているのがいい。

 全部読み終えてしまうと、別のが読みたくなる。駅前の本屋さんにいってみると、同じ作家のはあったけれど、ずっと古い時代の歴史小説とか時代小説みたいなのばかりで、現代を舞台にしたのはみつからなかった。ネットで調べてみると、そういうのはもう「絶版」になっていて、電子書籍ならあるんだけど、ちょっと手が出にくい。じゃあ、同じようなジャンルの他の作家のはどうかなと、三十年ぐらい前に書かれたのが文庫本で置かれていたので、中をパラパラと開いてみたら、普通にスマホ使っている。あとがきに「内容を今の若い読者に合わせて改訂しました」ってあった。この作家はまだお元気なので、アップデートしたみたいだけど、私には、そうじゃない、それでは意味がない。

 ちょっと古い本がある場所、それってどこだろう。マンガとかに出てくる街角の古本屋さん、白いヒゲのおじいさんが店主で、背の高い孫の大学生がバイト、なんてどこにもない、ファンタジーの存在。それで、おそるおそる全国チェーンの古書店に初めて入ってみた。文庫本が並んだ棚を見て回ったが、どれも最近のばかりで、漆木ミズメのはなんにもない。あきらめて出て行こうとしたら、ワゴンセールのコーナーがあって、ちょっと古い文庫本が三冊でいくらとかで安売りされていた。まさかこんなところにと思ったら、ありました。お小遣いには限りがあるけれど、この値段ならと、買い占めてしまいました。

 こうして、私の密かな趣味は始まって、一冊読むのに時間をかけているから、ゆっくりと進行中。今日も朝早い誰もいない教室で、少しずつ、少しずつ、ページをめくって、大切な時を過ごしている。


 土曜日の午後一時、私は制服姿で自転車を押していた。室壁東高校の1年生の土曜日は、毎週お休みじゃない。第一、第三、第五は、朝から学校に行かないといけない。午前中だけの土曜日補習が今月から始まっていて、保護者の方々には好評、みたいだけど、正直やめてほしい。自由参加だから、別に強制じゃないんだけど、担任がまじまじと顔を見ながら「テスト結果がよくなかったと分かっている生徒が、不参加なはずないしなー」と言われてしまっては、逃げ場はない。特別な用事がない限りは、実質強制参加。

 つまり私は成績がよくない。中高一貫の室壁東にしたのも、高校受験から逃れたかったから。制服と校章がかわいいってのもあって、小六の時だけ人生で一番勉強した。小学校の先生は「絶対無理だと思ったのに」と合格を泣いて喜んでくれた。十六年の生涯で唯一の輝ける瞬間だった。そして、これでしばらくは勉強しないぞと誓った。後はよっぽどひどい成績を取らない限りは、高校に上がれるって分かっていたから。

 勉強が嫌い、じゃなくて、苦手なんだ。いや、苦手じゃない物の方が少ない。小さい頃はそうでもなくて、私は特別なんだ、そう思っていた時期がありました。それは祖先が宇宙のどこかの別の星から来たって知った時で、他の人とは違う存在なんだってわくわくした。でも、いつまでたっても、人の気持ちがわかる超能力は使えるようにはならないし、空を飛べるようにもならない。むしろ、みんなと同じどころか、走るのは苦手だし、給食を食べるのも遅いし、絵も下手だし、歌も上手くないし、もちろんテストの成績も。ダメな方の人間だった。お母さまとお父さまは、ずっと何をしてもほめてくれていたけれど、自分がたいしたことないのは思い知らされていた。

 将来の進路とか、希望とか特になくて、なんとなく、ちょっとだけ好きなこともしながら、生きていけたらいいな、程度。だから、ツバサさんが新体操に打ち込んで、夢に向かって進んでいく姿はまぶし過ぎて、くらくらしそう。すごいって思うし、尊敬してるし、心から応援している。輝いている人って大好きなんだ、まあ、私とは無縁の世界だけに。そして、今、眼の前に、あこがれている人がベンチに座ってた。

 室壁東高校は、室壁駅の東側、日暮泉(ひぼぜん)町の小高い丘にある。周りの緑の森の中には、市立図書館とか、美術館や博物館が入った市立の文化会館とかがあって、ところどころ木陰で陽射しがさえぎられた舗装道でつながっている。車は途中までしか入ってこられないので、いつも静かだ。土曜日補習が終わったら、遊びにいく友だちもいないので、すぐに帰ればいいんだけど、気が進まない。登校時は下りで、帰りは上りでもアシスト機能があるから楽なんだけど、照りつける強烈な光が耐えられない。春の頃は快適だったのに、もう溶けてしまいそう。雨の日は我慢できるけど、夏の太陽は大嫌いだ。早く日が暮れないかなと、いつも森の中をうろうろしている。いや、日没までどれだけ時間があるんだよと、自分に突っ込みながら。またバス通学に戻そうかなと真剣に迷っている。

 学校のすぐ隣にあるには、二階建ての昔の図書館。私が小学校の時に、新しい図書館ができたので使われなくなったけど、白い横長の板が少しずつ重なるように外壁にはりめぐらされたノスタルジックな建物で、小さい頃、お母さまにお嬢様風のコスプレで撮影された、(苦い)思い出の場所でもある。その入口の前に置かれたベンチに腰をかけているのは、一つ年上の、鷹角ルルゥさん。かけよってご挨拶したかったけど、それもなんだか恐れ多いので、少し離れたところの木陰から見守ることにした。

 口数が少なくて、冷たい印象を持つ人が多いみたいだけど、本当はとっても優しいお姉さま。面と向かって「お姉さま」と呼んだことはないけど。小学校に入る前、しっちゅう泣いていた私を、いつもにこやかにおだやかに、なぐさめてくれた。それが突然、笑顔が消えてしまって、人を避けるようになってしまった。その理由を知ったのはかなり後になってから。将来を誓い合っていた幼なじみと、無理やり引き離されてただなんて。なんという悲劇、それもまたお姉さまの魅力の一つになっていた。

 白いワンピースに、赤いリボンがついた白い帽子が素敵。何か紙のようなものに眼を落としていたが、不意に立ち上がって、満面の笑顔を浮かべながら誰かに手を振り始めた。近寄ってきたのは、もしかして、あれが噂の秋門ハウト?こうしてはいられない。自転車を置いて、ゆっくりのつもりが、小走りになる。

「こんにちは、ルルゥさん」

 二人の間に割って入るように、元気な声であいさつする。

「あら、リセイちゃん、お久しぶり」

 近くで見ても、やっぱりかわいくて、きれい。昔みたいに頬がバラ色に戻っている。

「今日は学校があったの?」

「はい、土曜日補習の帰りなんです」

「そうなの、すごいね。東高は勉強熱心だものね」

「ついていくのが大変なんです」

 これは本心。そして自然な流れで、紹介してくれた。

「こちら、リセイちゃん。同じとりふねが丘にお家があって、今は室壁東高校の1年生」

「初めまして、水問(みとい)リセイです」

「こちらは、ハウトさん」

「どうも、秋門ハウトです。鷹角さんとは同じクラスで」

 お姉さまからは下の名前なのに苗字呼び?それとも二人きりの時は違うのかな。見た目はごく普通で、お姉さまと釣り合っているのだろうか?

「ルルゥさんには小さい頃からよく遊んでもらってまして」

「そうだね、私は一人っ子だったから、リセイちゃんは妹みたいで、かわいかったから」

 もったいない言葉に照れてしまって、思わず余計なことをもらしてしまった。

「今日は、デートですか?」

「違う、違う!」

 お姉さまの否定、はやっ。でも、明らかにうれしそう。

「ハウトさんのお手伝いというか、同行させてもらっているというか」

 何だそれ。

「室壁市内の、いろんなとこを見て回っているんですよ。今日は日暮泉町の文教地区なので」

 やっぱりデートじゃない。ここは定番コースだし。あんまり邪魔をして嫌われたくないので、これぐらいにしておかないと。

「それじゃ、私は帰りますので」

「またね、リセイちゃん」

 自転車のところに戻って、一度振り返ってみると、楽しそうに話していた。引き離された幼なじみが、九年振りに帰ってきて、運命の再会を果たして、数々の困難を乗り越えたって聞いていたけど、そんな風には見えないな。でもお姉さまが幸せであれば、それは祝福しないといけない。


 長かった期末試験がようやく終わった。解放感があふれる教室の中では、この後遊びにいく相談をあちこちでしている。声がかかることはないので、真っ先に出て行こうとしていたら、

「リセイも行こうよ」

 私をそう呼ぶのは、世界中でツバサさんだけ。人気者だから、何人もの友だちに囲まれて、手を振っている。

「今日はこの後練習ないから」

 それだけはやめてください。一対一ならともかく、他のクラスメイトたちは望んでいないって。一緒にいっても、ファッションにもコスメにもダイエットにも興味ないから、話題が合わなすぎる。

「水問さんもたまにはいこうよ」

 やめて、そんな社交辞令。そんな願いもむなしく、最後はツバサさんに腕を取られて、連行される形になった。行先は、学校の近く、新しい図書館に併設のカフェ。カフェといってもリーズナブルなお値段なので、東高生がよく集まっているらしい。

 結局逃げ出すチャンスはなく、飲み物を手に持って、テーブル席でツバサさんの隣に座って小さくなっていた。この新しい図書館は好きじゃない。スタイリッシュで人気はあるみたいだけど、古い図書館から引っ越す時に、貸し出し回数が少ない本、特に小説は全て廃棄して、新しい本ばかりにしてしまったから、私が読みたいジャンルというか、時代のはほとんどなくなっている。前の図書館のままだったら、漆木ミズメの単行本を開いて、二階の読書室で日が暮れるまで、暑さが和らぐまで過ごせたのに。

 よくわからない内容に、機械的な相槌を打って、この時間が早く終わらないかなと待っているだけだった。そのうちに、話は恋愛方面に転がっていって、ますます口が出せなくなった。そもそも恋愛関係の価値観はみんなとずれているから、かみあうわけがない。とりふねが丘では、町内の人同士で結婚して、子供ができて、がスタンダード。いろんな考え方は時代に合わせて変わってきたみたいだけど、そこだけは譲れない。そういう人生のロールモデルって、周りのクラスメイトからしたらありえないのだよな。私はそれのどこがいけないのか分からない。でも言わない方がいい、また「箱入り娘かよ!」って決めつけられる、という人生経験は積んできたので、黙っているだけ。ここ数年、読んできた小説はたまたま恋愛物、それも大人の女性向けのが多かったので、頭の中には、ピュアなのからドロドロなのまで、いろんなパターンでいっぱいだから、参加してはみたいけれど、それも三十年前の感覚だったか。

「水問さんは好きな人とかいないの?」

 修学旅行の夜じゃないんだから、たとえいたとしても、こんな人前で話せるわけないでしょう。

「まあ、今はいないかな」

「じゃあ気になる人とか」

 ううっ、返事に困る。

「リセイはお嬢様なんだから、いるわけないだろ」

 ツバサさん、かばってくれるのはありがたいけど、私はニセのお嬢様で、本物はお姉さまみたいな人だからなあ。ガラスパーティーションの外に眼をそらすと、以前お姉さまと一緒にいた秋門とかいう人が、制服姿で歩いていた。もしかしてまた待ち合わせ?

「ごめんなさい、ちょっと用事があるのを思い出してしまって」

 あわてて立ち上がって、荷物をつかんで、呼び止める声を無視して、後を追いかける。


 秋門さんは一人で図書館の中へ入っていった。こっそりつけていくと、一階の奥のコーナーで棚に並んだ本を手に取ったりしていた。待ち合わせじゃないのかな?気付かれないように注意していたのに、うっかり目が合ってしまった。でもまあ一回しか会っていないし、私の地味な顔なんか覚えていないはずだから、そっと離れようとしたら、

「やあ、水問さん、水問リセイでしたよね」

 フルネームまで覚えられていた。もう逃げも隠れもできない。

「はい、こんにちは。秋門さん」

「今日は本を探しに来たんですか?」

「ええ、まあ、試験の最終日で学校が早く終わったので」

「西高と同じなんですね」

「あの、ルルゥさんは?」

 これを聞かない訳にはいかない。

「今日はお家の用事があって別行動です」

 それがなかったら一緒だったんだ。

「ここはよく来られるんですか」

「はい、時々、小説をよく読むので」

 これは半分嘘で、ほとんど初めて。

「そうなんですか、どんなジャンルが好きなんてすか?」

「その、古い恋愛小説とか、もう誰も興味なさそうな」

 別に適当でもよかったけれど、他の人と違ってしっかり質問されそうな気がして、素直に答えた。

「古いって、古典文学とか?」

「いえ、三十年ぐらい前のが中心の、現代を舞台にしたのとか。もう普通の本屋さんには置いてないような」

「でも、この図書館、そういう種類のって、なくなってしまったんじゃないんですか」

 やっぱりちゃんと会話を続けてきた。

「よく知っていますね」

「まあ、検索して、昔のニュース記事で見ただけですが、過去五年の貸し出し回数で判断して、当時かなり問題になったみたいですね」

「そうなんですよ」

 思わず声が大きくなったが、ここは図書館だった。なるべく声を落として、

「ベストセラーなんてどこにでもあるじゃないですか。数は少なくても、読みたい人はいるんだから、残してくれてもよかったのに」

 秋門さんは大きくうなずいて、

「図書館の役割って、本を貸し出すだけじゃないですからね」

「そうなんですか」

「水問さんの言う通り、利用者の多い少ないだけで判断するものじゃなく、残すべきものは残しておく責務があるんです。例えば、」

 棚の上に掲げられたプレートを指さした。

「ここは郷土資料のコーナーで、もう手に入らない、一般には流通していない、室壁市周辺の歴史や文化の資料を集めているんです」

「そんなのがあったんですね」

「すべての情報ががデジタル化されて、ネットで検索できるわけじゃなくて、特にローカルなのは、こういう紙の資料にしかないものもあるんです」

 そういえば、この間、古い図書館の前で会った時は、町のいろんなとこを見て回っているって言っていたけど、どういうことなんだろう。

「秋門さんは町の歴史を調べているんですか?」

「歴史というわけじゃなくて、説明が長くなってしまうんですが」

「いいですよ、ぜひ」

 どうでヒマなのだから。

「町歩きが趣味なんですよ。町の中を見て回って、道や橋や水路、公園や施設、建物の並びが、どうしてそうなったのかを調べるんです。たとえば住宅地があれば、住みやすいようにどんな考えで設計したのか、その通りに作られたのかとか、駅前の再開発なら、どんな計画が立てられたのか、前と後でどう変わったのか、どんな効果があったのかとか、朝夕に交通渋滞があれば、何が原因なのか、どうしたら改善するのか、そんなことをしてるんです」

 けっこう熱心に語ってくれたけど、あまりよく分からない。町歩きっていうイメージとかなり違っていた。だぶんけっこう変わった趣味なんだろう。人のことは言えないんだけどね。

「この図書館とか水問さんが通っている東高がある場所、日暮泉町が文教地区に指定されているのは知ってますか」

 ぶんきょうちく?

「えと、何でしょうか」

 初めて聞いた単語なので、どんな漢字なのかもわからない。

「学校とか研究所などの教育施設、それから図書館や美術館、博物館などの文化的な施設以外は建ててはいけないって決まっている地区のことなんです。だから、それ以外のお店とかないでしょう」

「ああ、それで」

 私は静かで好きだけど、クラスメイトは周りに何にもないって不満のようだ。

「今から二十二年前に、文教地区の整備計画が立てられました。それに基づいて、元々ここにあった市役所は今の場所に引っ越して、駅前から東高が移転して来て、図書館を新築したんですよ」

「そうだったんですか」

「ところが、博物館の建設予定地から遺跡が見つかって、工事はストップ。そのうちに、三年前の選挙で、推進派の市長が反対派の候補に負けて、中途半端なままで計画自体が中止になってしまったんです。そのおかげというか、取り壊されるはずだった旧図書館が今も残ってます」

 よかった、なくならなくて。

「つまり、この間は、頓挫した計画が今どうなっているのか確認していたんです」

「止まっちゃたのにですか?」

「成功例より、失敗例の方が逆に参考になるポイントがあるんです。こんな話おもしろくはないでしょう」

「そんなことないです。知らないことばかりで」

 いまひとつ理解できない趣味だけど、きっと楽しいのだろうなあ。自分の足で歩けば歩くだけ、どんどん新しいことに出会えるみたいだ。

「調べていると、どうしても昔の情報が必要になるので、だからここに来るんです」

 そして、手に持った本の表紙を軽くなでた。

「紙に印刷された本って、ちゃんと保存しておけば長持ちするんですよ。むしろアナログの方が丈夫というか。デジタルって、例えばスマホの中のデーター、故障したら一瞬で消えちゃうでしょ」

「お母さまはそそっかしいので、水の中に落っことしたことありました」

 旅先で、吊り橋の上からだったり、海岸の断崖絶壁からだったり、数えきれない。

「それは大変でしたね。クラウドにバックアップがあればなんとかなるかもしれませんが、逆にデジタルだと、内容を変更することも出来てしまう。人間の記憶も、電気信号みたいなものだから、書き換え可能のようですから」

 にぶい私でも、それが何かわかる。

「それは、もしかして、ヒューサヌビのことですか」

 秋門さんは、お姉さまとの大切な記憶を徹底的に消されたんだった。

「すごい力だよね、そんなことができるなんて」

「あの、たずねてもいいでしょうか、失礼なことかも知れないけど」

 たぶん、はぐらかさずにちゃんと答えてくれるんだろう。そんな確信はあった。

「怖くないんですか。また記憶がなくなるかもしれないのに」

 秋門さんは少し笑った。

「そうですね、消された記憶すらないですから。それに、今回はまだ消えていないし」

「でも、いつまた、突然にとか」

「その時はその時でしょう。だって、それを決めるのはヒューサヌビで、自分ではどうしようもないですから」

 あきらめの言葉のようだけど、そんな響きはなかった。

「実際、消えた後でも、また鷹角さんと仲良くなれたんだから、その時はまた仲良くなったらいいんじゃないかって。なるようになるでしょう」

 すごい、それって愛の力?

「ヒューサヌビがいくら消そうとしても無理なこともあるみたいだし」

 愛は最後に勝つってことですか?

「このコーナーにこんな本があったんですよ」

 棚から取り出したのは、「むろかべのおはなし」というタイトルの古い本。

「室壁市周辺の民話、昔話を集めた本で、中に「ふしぎな村」っていう話が入っているんです」

 渡されたので、ついクセになっている発行された日付の確認すると、五十年も前だ。

「悲しい内容なんですが、もしかしたらその村が、とりふねが丘の事じゃないのかと思うんです。解説によれば、元の古い文書があって、それを分かりやすく直したそうです」

 そのページを開いてみると、大きめの文字で印刷されていて、素朴なイラストが添えられている。

「誰がなぜ書いたのかは不明ですが、それが本当にとりふねが丘だったら、ヒューサヌビには消したいもののはず。でも、一度紙に記されたり、印刷されたものは、記憶と違ってすべて消すのは難しい。だからこうして残ったんでしょうね」

 それから、秋門さんは私にあいさつをして、本を借りにカウンターへ向かった。この後どうしようか。もうカフェには戻りたくないし、まだ家に帰る気にもなれなかった。それなら、図書館でこの「ふしぎな村」を読んでみよう。


 むかしむかし、狩江の里(今の狩江町付近)に一人の若い猟師が住んでいました。ある日、山の中で鹿を追いかけていた猟師は道に迷ってしまい、うっかり足を滑らせて、崖から落ちてしまいます。

 気が付くと、猟師は家の中に寝かされていて、傍らには若い娘が座っていました。崖の下で怪我をして意識を失っていたところを娘がみつけて、村の人たちによってその家に運び込まれていたのでした。具合が悪くて起き上がれない猟師は、それからしばらく娘の介抱を受けることにりました。

 ようやく傷が癒えると、猟師は親切な娘に礼を言って、村の仕事を手伝うようになりました。その村はふしぎなことに、いつもうっすらと霧がたちこめていて、はずれまでいくと、足元が見えない程に濃くなって、それより先には進むことはできません。

 猟師はその村に閉じ込められたかっこうでしたが、優しい娘と暮らすようになり、何か月かが過ぎていきました。

 村での暮らしには何の不自由もなかったのですが、時折猟師はふさぎこむようになりました。心配した娘がたずねてみると、狩江の里には身寄りはもういないけれど、何かにつけて思い出され、さびしくなってしまうのでした。

 不憫に思った娘は、村の長に相談しました。すると、十日たったらかならず村に戻ってくること。そして、村のことは誰にもちゃべらないこと。この二つを守るなら、一度故郷に戻ってもよいとお許しが出ました。

 娘に絶対約束は守ると誓った猟師は、霧が晴れて見えるようになった道をたどって、狩江の里に帰り着くことができました。里の人たちは長らく行方知らずだった猟師を歓迎し、お祝いの席が設けられました。嬉しさのあまり、しこたま酒を飲んだ猟師は、うっかりふしぎな村のことをしゃべってしまいました。

 その村の噂はたちまち広がり、その地を治める代官の耳にも入りました。その村は先のいくさで敗れた落人たちに違いない。功名心にはやる代官は、ただちに猟師を捕まえて、厳しく吟味し、軍勢を引き連れて村の成敗に出発しました。

 縄で縛られた猟師の先導で、山を越え、谷を渡ってたどりつくと、そこはただの草っぱらで、人影はおろか、村があったような痕跡すらありません。

 怒った代官は、一太刀で猟師を切り捨てました。そして、軍勢が引き上げてしまうと、突然霧が立ち込めて、その中から娘が現れて、すでに事切れた猟師の亡骸を抱き起こして、「あれほど約束したのに」と、さめざめと涙を流しました。

 やがて霧は娘と猟師も包み込んで、見えなくなってしまいましたとさ。


 おとぎ話って、どれでも結末は、それから二人は幸せに暮らしましたとさ、じゃないんだ。たしかに、これまで読んできた恋愛物はほどんどバッドエンドだったな。どれもが、登場人物は自分の気持ちに正直に生きようとしての結末だった。このふしぎな村は、たしかにとりふねが丘のことなのかもしれない。そう思うと、胸が苦しくなってきた。この話を書き残したのは、この娘だったんじゃないか、運命にあらがってもがいた末の、つらさやむなしさを残しておきたかったんじゃないか、そんな気がした。


 図書館の読書スペースで、物語のこと、お姉さまのこと、そして自分のこととか、しばらく思いを巡らせていると、気付かないうちにかなりの時間が過ぎてしまっていた。外へ出ると、太陽の高さは低くなって、気温は少しだけ下がっていた。自転車に乗って、まっすぐ家に向かう。日暮泉の坂を下って、電車の高架下を抜けて、すみやか丘の住宅の間を走らせる。とりふねが丘の中に入って、いつもとはちょっと道を変えた。二条東の角には、今日もアームチェアのおばあさまがサマーニットのケープを肩にかけて座っていた。

「おかえり、リセイちゃん」

「ただいま、鹿野さん」

 普段のコースなら会うことはないけど、話してみたいことがあって、自転車を降りた。もしかしたら、「まぼろしの村」で何か知っていないかと。

「あの、鹿野さん」

「なんですか」

 あれ、おばあさまは、私が小さい頃からおばあさんだったけど、本当の年齢はいつくだっけ。百歳を超えてはいないだろうか。あのお話、本は五十年前でも、元はもっと前のだったから、百年以上前?それとももっと前?ちゃんと歴史の勉強をしておけばよかった。

「鹿野さん、って」

 そもそもおばあさまは、いつも一人でいるところしか見たことないから、結婚してたのかどうかも知らないし、お子さんやお孫さんがいるのかも知らない。どうして私はいつもノープランなんだろう。これではお母さまと一緒じゃないか。

「あの、とりふねが丘って、昔からこの中の人同士で結婚して、ずっとここで住んでいるんですか」

「なんだい、藪から棒に」

 私のお母さまもお父さまも、昔からの知り合いだし、とりふねが丘の同年代の両親もみんなそうだ。

「そうだねえ、そうでないと、いつか故郷に帰る時に、困ってしまうからねえ。必要な掟なんだろうねえ」

 やっぱりそうだよね。私自身は、「特別」でもなんでもないけれど、この町、とりふねが丘は特別なんだ。

「どうしたんだい。ひょっとして、好きな人でもできたのかい。他所の町の人かい。それで悩んでいるのかい」

「ち、違います」

 あわてて否定したが、おばあさまは、私にはわかっていますよ、とばかりに目を閉じてうなずいた。

「近頃は、仕事とか大学とかで出て行った切りなかなか帰ってこない人もいるからねえ。年を取って帰ってくる人もいるにはいるけど。すっかり考え方が変わってきたのかねえ。そもそも、結婚しない人も増えてきたし。神様がお怒りにならなければいいんだけどねえ」

 神様って、ヒューサヌビのことか。

「私は、そのルールは間違ってないと思います。だって、ここで生れて、ここで育ったんですから」

「みんな、リセイちゃんのような考えならいいんだけどねえ。あら、チリコちゃんおかえり」

「ただいま、鹿野さん」

 ちょうど私の横を、帰宅中の八凪(やなぎ)さんが通り過ぎようとしていた。たしか、室壁市の市役所に勤められているはず。私よりだいぶ年上で、あまり接点はないのだけど、立ち姿がきれいで、とても理知的な方。今日は黒いバッグを持って、お仕事できそうなショートスリーブのブラウスとゆったりしたワイドパンツのコーデが素敵。

「ちょうどよかった、今、リセイちゃんから恋愛相談を受けていたとこなの。どうやら想い人がいるみたいで」

 はあ?そんな話してませんけど。

「そうなんですか」

 明らかに迷惑そうな声。すみません、変な事に巻き込んでしまって。

「いえ、あの、そんなことじゃなくて」

「もう現役じゃないから、いいアドバイスできそうもないので、若い人の意見も聞かせて欲しいのよ」

「私、その分野には疎くて」

「何を言っているの、経験がないわけでもないでしょうに。最近は、会長さんとこのルルゥちゃんのこともあるから、若い人は特に影響されてるからねえ、チリコちゃんもそうじゃないの」

「そんな、もう若くはないですし」

「何を言っているの、結婚はこれからでしょう」

「今のところ、その予定はないので・・・」

「でも、結婚願望はあるんでしょう」

 おばあさま、それはセクハラです。八凪さんは大人の対応をしているけれど。

「まあ、いい出会いがあれば、考えなくもないというか」

「あらそうなの。結婚する人も減ってきて、どうなるのかねえ、この町も」

「それは人それぞれの事情じゃないでしょうか。したい人はすればいいし、したくてもできない人もいますし」

「そんな自分勝手ばかりでは、心配だよ。いつまでも我を通してもねえ」

「そこは自由なんじゃないですか、若い人に言っても響かないというか」

 こんなのここで話しても、平行線のままだ。

「あの、すみません。今日はこどもまつりの打合せがあるので、失礼します。鹿野さん、八凪さん、ありがとうございました」

 いたたまれなくなり、自転車に乗ってその場を逃げ出した。


 すっかり遅くなってしまい、こどもまつりの打合せの場所、一条西の角にある集会所へあわてて急ぐ。こどもまつりは毎年恒例の町内のイベントで、中高生が中心になって、小学生以下の子供に遊んでもらう行事だ。高校3年生は受験勉強とかで忙しいので、1、2年生が主催のメインになり、中学生がその手伝いをしている。今年はお姉さまが実行委員長で、私の担当は会計。計算は苦手だけど、用意するものは毎年ほぼ同じだし、費用は町内会費から出るから、実質の仕事は大人がやってくれる。

 お姉さまの司会ぶりに見とれているうちに、打合せは終わってしまった。私を含めた実行委員が会場の後片付けをしていると、お姉さまから、私に用があるので残っておいてと言われた。 他の人が帰ってしまい、二人だけになると、いきなりお姉さまが詰め寄ってきた。

「今日、図書館で二人きりで会ったんですね?」

 最初は何のことかわからなかったが、

「秋門さんのことですか?」

「そうです」

 どうして知っているのだろうと不思議だったが、とりあえず説明する。

「今日は試験の最終日だったので、学校の近くの図書館に行ってみたら、たまたま制服姿の秋門さんを見かけて」

 お姉さまはじっと私を見つめてくるので、ちょっと照れてしまう。

「続けて」

「きっとルルゥさんも来られているのかなって近づいてみたら、お一人だったので、私のことは覚えていないだろうから、あいさつやめとこうと思っていたら、秋門さんから声をかけていただいて、びっくりしました」

「ハウトさんは記憶力がとってもいいので。一回見たり聞いたりしただけでも、正確に覚えてしまうの」

「すごい方ですね」

「そう、ハウトさんはすごいの」

「ルルゥさんはご一緒じゃないんですかっておたずねしたら、今日はご用事があるとかで」

「母方の実家の集まりに顔を出さないといけなかったので」

「そのあと、少しお話をさせていただいたんです」

「そうだったの」

 お姉さまの視線が少し柔らかくなった気がした。

「いつも一緒におられるんですね」

「今日はたまたまね。リセイちゃんに会えず残念でした」

「私もお会いしたかったです」

「一緒にいられない時は、その間に何があったのか連絡してもらっているから」

 だから私と会ったことを知っていたのか。

「本当に仲がよろしいんですね」

 お姉さまはちょっとはにかんだように、

「まあ、何かあったら困るから」

「それって、」

 私は訊かずにはいられなかった。

「また記憶が消されてしまった時の対策なんですね。秋門さんの行動は全て把握しておかないといけないって」

 お姉さまは驚いたように、目を見開いた。

「そういう事、なのかな?」

「やっぱり心配されているんですね」

「でも、たとえ、記憶を消されても、忘れることはないって言ってくれてるから、安心はしているのよ」

 ちょっとニュアンスが違う気もするけど、お二人が幸せでよかった。ならば、もやもやした思いを打ち明けるチャンスは今しかない。

「あの、一つだけ教えてほしいことがありまして」

「何かな」

「とても言いにくいことなんですが、秋門さんはこの町の人じゃありません。でも、町のルールは、他所の人とは深くつきあっちゃいけない。お父さまが町内会長で、トリフネ・コンストラクションの社長さんの、ルルゥさんがそれを守らなくても大丈夫なんですか」

 お姉さまの表情が少し険しくなった。

「違います。私はルルゥさんを責めているじゃなくて、応援してるんです。この後、どんな困難が現れても、それを乗り越えていってほしいって」

「ありがとう、リセイちゃん。この先どうなるかは、私には分からない。でも、どんなことになっても、もう後悔はしない、そう決めているからね」

「後悔はしない、自分が選んだ道だから、ですね」

「そうだよ、それに一人だけじゃないから。リセイちゃんもそうあって欲しいな」

 私の両手を優しく握って、お姉さまはにっこり笑った。


 新しい朝が始まった。いつもと同じ日常は続いていく。決断はできないまま同じ時刻に自転車で家を出て、同じ人とすれ違う。そして、一人の教室で、ツバサさんが来るのを待つ。

「おはよう、リセイ」

 いつもとは違って、私は立ち上がった。

「昨日はごめんなさい。さそってくれたのに急に帰ってしまって」

 SNSで謝罪はしていたが、やっぱり直接でないと気持ちは収まらない。

「いや、もういいよ。用があったんだから仕方ない」

 荷物を置いたらすぐ出ていくはずのツバサさんは、そのまま私の前から動かなかった。

「それより、西高の制服着た人を追いかけて行ったんじゃなかったっけ?」

 気付かれていたのか。

「あれは、その」

 説明するのが難しいな。

「その人じゃなくて、家の近くの一年先輩の人と仲がいいから、その人がいるのかなって」

「いつもリセイが話している人?社長の娘とかの?」

「うん、そう」

「その人に会いたかったってこと?」

「そうなんだけど、応援しているっていうか、二人が上手くいってくれるといいなって願っているっていうか」

「何か問題があるの?」

「うん、親に反対されているというか、この先どうなるかわからないっていうか」

 ヒューサヌビは保護者みたいなものだから、親で合っているよね。

「大変なんだ」

「大変だと思う」

「そうか」

 ツバサさんは大きくため息をついた。そんなのなんだか似合わないな。

「来週、大会があるけど、リセイは応援に来てくれるんだっけ」

「もちろんだよ。1年でレギュラーメンバーだもんね。絶対に行くよ」

「ありがとう」

「でも私が行かなくても、ツバサさんの実力なら楽勝、大丈夫だよね」

「違う、大丈夫じゃない」

 そんな強い口調で言われたのは初めてだった。

「リセイが来てくれないとダメなんだ」

 私の右手をぎゅっと強く握りしめた後、教室を走って出て行ってしまった。しびれる感触と胸のどきどきを残したままで。ずるいよ、ツバサさん。

 とりふねが丘の大事なルールは守っていかないといけない。でも、抱えている悩みはそれぞれ違うのだから、みんなが同じ方向じゃなくても許されるはず。解決の出口はばらばらでもいいよね、自分が選んだのだったら。



第四話 インフラストラクチャー・マン infrastructure man(下部構造の男)


 始業時刻九時の十分前、八時五十分から朝礼が始まる。本日の予定、連絡事項の発表の後、最後に部長より今年のインターンシップについて簡単な説明があった。明日水曜日から三日間、室壁西高校の生徒三名を就業体験として受け入れるのだが、そのうちの一人、前々から社内で話題になっていた社長の一人娘、御令嬢は経理部担当になったので、それ以外の部署はほっとしているようだ。システム部に来る一名の指導担当者に任命されている私としては、それどころではない。

「うちの部の担当は後出(うしろで)主任なので、よろしく」

「はい、がんばります」

 とは言ったものの、事前に高校の担当者との打合せやカリキュラムの準備やらなんやらで、たった三日間とはいえ負担は大きい。ただ、別の思惑で心待ちにしているところもある。

「みなさんは、主任への協力をよろしくお願いします。本日は以上です。最後に企業理念の唱和を行います」

「安全専一、尽力貢献、和衷協同、不易流行、迅速果断、天馬行空」

 全員起立したまま毎朝恒例の四文字熟語の唱和が終わると、それぞれ自席に戻って、仕事を始める。インフラ工事や保守を専らにしている株式会社トリフネ・コンストラクションの管理本部システム部は、十人あまりのメンバーで、社内のネットワーク、情報機器の管理、業務システムの導入、メンテナンス、そして開発を受け持っている。役目として重要な割りには目立たない地味な部署だ。大学卒業後、入社してから十年以上たち、この春「主任」に昇格したが、業務内容に変化のない下っ端のままだ。

 現在抱えている経理部から頼まれている社内システムの改修の方は、期限がまだ先なのでそこそこにして、インターンシップの準備の最終チェックを優先したが、けっこう手をとられてしまって、丸一日かかってしまった。定時後は、まだ残っているメンバーを尻目に、明日からに備えるという名目で、いつもより早く帰ることにする。

 建物の外に出ると、空はまだ明るく、気温もさほど下がってはいない。蒸し暑い中、駐車場まで歩く。公共交通機関が貧弱な地方都市では、会社勤めのほとんどは自家用車で通勤している。なので駐車場は広く、特に夏は置いてある場所との往復が大変だ。これでも主任になったおかげて、駐車場所が少し建物に近くなっただけましなのだが。

 父親と母親の三人で住んでいる家は、駐車スペースが二台分しかないので、とりふねが丘の入口より手前にある駐車場を借りている。家の車庫に置かれた父親の車は、もう半年以上動いていないが、そのままになっている。そろそろどうするか考えてもいいのではと母親に提案したが、頑なに拒否された。室壁記念病院に何度目かの入院している父親は、いずれ家に帰ってこられたとしても、以前のように自動車を運転できることはないのだから、その事実から目を背けているのは、心情的にわからなくもないが、あまりに非合理すぎる。


 翌日、インターンシップの室壁西高の三人は遅刻することなく集合した。それは当たり前のことだが、かつて初日から大遅刻してきたのがいて、その対応で大変だったというのを先輩から聞かされており、杞憂に終わったのでちょっぴり安心した。中の一人、社長令嬢の顔は町内のイベントとかで見慣れているが、最近すっかり人当たりがよくなったというのが評判らしい。

 まず最初はオリエンテーションを受けてもらう。会社の沿革や多種多様の業務の内容と担当部署、そして本社機能の役割など、会議室で人事部長からの紹介があった。そして、人事部担当者が本社ビルの中を案内して歩いて回ってから、それぞれの部に分かれる。

 三人のうちの一人を、システム部の部屋へ連れてきて、まずは席にいたメンバーに紹介してから、ミーティング・スペースに座ってもらう。部長は今日から出張なので、代わりにベテランの三塚(みつか)さんが、社内での担当業務や仕事の内容など丁寧に説明する。

 三塚さんは、すでに定年退職されていて今は嘱託として勤務している。社内の業務システムが動作するコンピュータが「汎用機」と呼ばれていた頃からこの分野に携わっていて、経験も知識も豊富だ。そして、「納期前は一週間徹夜したもんだ」とか武勇伝のように語る時代錯誤的ではなく、いつもおだやかで、論理的で、尊敬できる人物だ。現在の部署配属以降、ずいぶんお世話になっていて、感謝しかない。ただ、考え方は古いので、そこだけは相容れない。

 最後に順番が回って来たので、テーブルをはさんで正面に座る。

「じゃあ、改めて秋門さんの担当のシステム部主任の後出です」

 名刺は渡さないことになっているので、首から下げたネームプレートを見せる。

「こちらこそよろしくお願いします。室壁西高校2年生、秋門です。」

 秋門ハウト、町内では有名人だが、こうやって面と向かって話すのは初めてだ。見た目はごく普通の高校生にすぎない。今回のインターンシップの指導担当者に任命されたのは気が重かったが、話題の主と直接顔を合わせる機会がある事だけが楽しみなのだ。興味あるのは唯一つ。なぜ、記憶を消されていないのか?

「役職名はつけなくて、名前で呼んでください。他の人も同じで。私も秋門さんと呼ばせてもらいます」

「わかりました、後出さん」

 資料を元に、三日間のカリキュラムについて説明する。希望部署は建築あるいは土木の現場という今時珍しい奇特なものだったが、いきなりは危険すぎるし、さらにこの酷暑では、避けざるをえないというのが人事部の判断で、こちらにお鉢が回ってきたという次第だ。

 就業体験といっても、たった三日間で何ができるかとなると、非常に限られる。なので、部内で協議した結果、ちょっとしたWebプログラミングをやってもらうことになった。フロントエンド開発のフレームワークPers.ls(パース・エルエス)を使って、工事の種類や場所、期間などを選択して工事履歴を検察するツールを作るのが課題。もっと時間があれば環境構築から体験してもらう所だが、そんな余裕はないので、こちらで準備はしておいた。セキュリティ上、実際のデータを使うわけにはいかないので、当たり障りのない情報に絞ったサンプデータのデータベースも用意する。経理部が受け入れる社長の御令嬢の場合は、同じ指導担当者によると、社外秘の情報でも何でも見せ放題で問題なし、だそうなのでそんな気遣いはいらないとか。それでいいのか、わが社のコンプライアンス。

「プログラミングの経験は学校の情報の授業ぐらいですか」

「はい、それ以外で経験はありません」

 専門家になるならともかく、AIがソースコードを書いてくれるから、プログラミング言語の文法や構文を知る必要なんかなくて、論理思考さえ身に着けていればいい。むしろ、そっちの方が重要だ。文系とか理系とかは関係ない。事前のレポートの文章を読んだ限りでは、こちらの設問に対して、適切かつ簡潔明瞭な回答だったので、その点は問題ないと判断した。

「テンプレート、ひな形も用意してあって、適切なコンポーネント、部品を配置してもらうだけだから、心配はいらないですよ」

「フレームワークとか何のことか事前に調べてみてもよくわからなくて、そう言っていただけると安心です」


 昼休みは、人事部主催の昼食会が開かれた。といっても、ただ社員食堂で、インターシップの三人とそれぞれの部の指導担当者、そして人事部二名が一緒にランチをするだけなのだが。様子を見ていると、秋門さんと社長令嬢は仲良さげで、どちらかというと、令嬢がなついているように見えて、その好意を隠す気はないようだった。

 午後からは本格的に始まる。システム部の空きデスクに座って、まずPCを起動して、フレームワークPers.lsのチュートリアルから取り組んでもらう。操作方法を理解したら、練習課題で初歩的なプログラムを作ってもらう流れだ。分からない事があったら訊いてきてと言い残して、自分の仕事に戻ったが、進行状況が気になってなかなか手につかない。

 一時間ほどすると、「できました」と声をかけられた。見に行くと、最後の練習課題まできっちり完了していた。

「わからないところはなかった?」

「はい、チュートリアル通りに動かしたらなんとかできました」

 二、三質問してみても、ちゃんと理解しているようだった。

「よく覚えているね」

「昔から記憶力はだけはいいので」

 記憶は得意か。重要なファクターなのかもしれない。

「じゃあ練習はこれぐらいにして、実際の課題を説明しましょう」

 予定より早くなったが、いくらでも仕様を追加して複雑にできるから、到達点がより高くなる。まずは、作成するシステムのおおざっぱな機能を説明する。

「どんなのを作って欲しいかというと、工事の履歴を検索をするシステムです」

「システム、ですか」

「そう、どんなにちっちゃくてもシステムはシステムだし」

 そして、サンプルとして作った工事履歴のデータベースの内容を見せる。

「工事の名前、種類、場所、期間の日付け、完了したかどうか、などこれだけのデータがあります」

「検索ということは、どんなキーワードで検索するか、まずそれを決めないといけないんですね」

「そういうこと」

 課題の仕様はあらかじめ用意していたから、それに従って作ってもらうだけでよかったのだが、時間もあることだし、設計の段階からやらせてみたくなった。私が発注者ということにして、必要とする機能を具体的に聞き出してもらうのだ。

 インターンシップ一日目の終了時刻までかかって、あれやこれやとちょっと脱線もしつつ、システム設計をまとめた。工事履歴の項目名はなじみのないものも多いので、都度解説を加えると、さらに質問が飛んでくる。なんだか、私の方がついつい熱中してしまっていた。高校生とはいえ、論理思考が出来る人間と話すのはやっぱり面白いのだ。


 二日目は、昨日の成果に従って、システムの作成をしてもらう。想定していたよりも、ボリュームが増えてしてしまったが、完成することが最終目標ではないのであせらないようにと、その旨はしっかり伝えた。午前中いっぱいで七割方まで進んでいたので、この分だとゴールまでたどり着きそうだ。

 昼休みは、システム部のメンバーで食堂へ行く。二日目は配属先でと決められていたので、あらかじめ席は人事部の方で確保されている。全員ではなくて、本日も部長は出張で不在、そしてもう一人は居残り。普段それは、主任に昇格したとはいえ、いまだ部内では最年少の私の役割なのだが、今回は別の主任に替わってもらった。

「プログラミングは順調にいっているかい?」

 コミュニケーション能力に少々難がある面々が多いので、最年長の三塚さんが口火を切ってくれる。昨夜退社前に今回の高校生はなかなか面白いですよと伝えてあったので、興味をもってくれている。

「はい、丁寧な指導をいただいたおかげで、何とか今日中には完成できそうです」

「ノーコードでシステムが作れる時代だけど、ちゃんと使いこなして優秀だね」

 部内では貴重な明るいキャラの課長補佐は、気にかけて何度となくのぞきに来てくれていた。

「いえ、教えていただいた通りにやっているだけで」

「いまどきの高校生は謙虚だね」

 昨日会ったばかりの大人たちに囲まれても、萎縮することもない。自分が同い年だった頃どうだっただろう、多分緊張でしゃべれなかったと思う。

「部屋に一人残られていましたが、何か仕事をされているのでしょうか」

「いいところに気が付いたね、いつもは、後出主任の担当なんだが、どうぞ説明してあげて」

「はい、昔でいう電話番みたいなもので、トラブルはいつ発生するかわからないから、その連絡があったらすぐ対応できるように、誰か一人は残るようになっているんです」

「そうなんですね。トラブルの連絡は多いんですか?」

「まあ、しょっちゅうって訳でもないけど、たまたま誰もいない時に限って大きなトラブルが起きたりするから」

「業界あるある、なんだよね。金曜日の定時直前のタイミングだったり。秋門さんが来てから、けっこう問合せが来てたのは気付いていたと思うけど、重要なのは三件ぐらいで、ほとんどはしょうもない内容なんだけどね」

「しょうもないとは、学生さんの前ではまずいだろ」

 三塚さんにたしなめられると、課長補佐は口に手を当てて、

「しまった、つい機密情報をしゃべってしまった」

 その後も、なごやかに昼食会は終わった。

 午後からは、課題の仕上げに入る。二時間後には完成して、細かい動作チェックをした後に、部内で手が空いている人に集まってもらってデモを行うと、おおむね好評価だった。そして、残りの時間は、明日の十五時からのインターンシップ成果報告会で発表に備えて、システムの概要や、課題の感想のまとめをしてもらったが、それでも時間が余った。

 そこで、予定になかった改良をしてもらうことにする。検索のキーワード、工事の種類は、プルダウンメニューから選ぶ形式にしていて、その選択肢は手入力(実際は用意しておいた工事の種類が書かれたテキストファイルからコピー&ペースト)で作成してもらった。それを、実際の工事の種類が記録されたマスターテーブル、工事種類マスターから、検索画面を開くタイミングで種類名をもらってきて、選択肢にする方式に変更するのだ。

「なぜ、このやり方がいいか、わかりますか?」

「もし工事種類に新しく追加があっても、自動的に選択肢が増えるからですね」

 飲み込みが早くて助かる。


 三日目は、朝から工事現場へ出かける。最近始まった国道のバイパス工事の現場事務所に、ネットワーク機器を設置して通信の確認を取る作業をするためだ。比較的大規模な工事なので、複数の企業と共同で請け負っている。なので、事務所のネットワークは共有のものだ。その状態では、PCから会社のシステムにアクセスできないので、専用の機器を設置しなくてはならない。これまでは、工事の担当者に機材を渡してつないでもらっていたが、今回はあえて訪問して、現場を見てもらうことにしたのだ。

 事務所まで本社から片道三十分、社用車の運転は私で、助手席に座ってもらう。

「現場に興味があるんですよね」

「はい、一度体験できたらなと思っていました」

 変わっているな。社内では口に出さないが、正直なところ現場仕事は避けられるものなら避けたい。会社のメイン事業だし、社会的にも大事な業務というのは理解しているが、やっぱり大変なのだ。新入社員研修で、短期間経験したことがあるだけに、実際に働いている人たちには頭が下がるのみ。

「町で名前をよく見かけていたので、インターンシップ先の候補にあったのでこれはぜひ応募したいなと」

 けっこうテンションが上がっている。応募書類の志望理由の文章も熱が入っていたっけ。

「普段とは違う逆の立場から見たかったんです、工事現場とかを」

 雑談の中でも、町歩きが好きで、都市工学に興味があるとは聞いていたが、本当に社長令嬢がらみじゃなかったんだ。

「トリフネ・コンストラクションは、本当にいろんな部門があって、インフラ工事全般だけじゃなく、住宅の設計、施工、不動産や物流、ガススタンド、ハウジングもやっているんですね」

「子会社も多いですからねえ」

「後出さんのお住まいは、とりふねが丘、ですよね」

 どう切り出そうかタイミングを図っていたが、その必要はなくなった。

「はい、そうです」

「社員の方は、ほとんどとりふねが丘の人と思っていたんですが、そうでもないことに驚きました」

「会社設立の経緯は知ってますか?」

「はい、とりふねが丘のインフラの維持管理でしたね。一社だけで町をまるごと一つ作れるぐらいの」

「元々はそうなんですが、会社存続のためにはとりふねが丘の仕事だけじゃ成り立たない。業務範囲を広げると、とりふねが丘の人間だけでは回らない。だから、社員のほとんどは、とりふねが丘以外の人です」

「システム部もそうなんですか?」

「私の他は部長だけで。でも、社内の主要なポストは今もとりふねが丘の住人です」

「とりふねが丘の方は、いろんな会社、いろんな分野で働かれているんですね」

「ええ、ほかの会社員や、公務員、教師、医者、弁護士、税理士、銀行員、美容師、農業、などなど。宗教家もいます。冠婚葬祭も社会生活には必要ですから」

 住民の顔を順々に思い浮かべる。小さな町だから、どこの家の誰がどんな仕事をしているか、自然と頭に入っている。

「やっぱり、どの仕事に就くかは、決まりがあるんですか」

「そんなのはないし、ずっととりふねが丘に住んでなきゃいけないこともないし。実際出て行った人もいるし」

「がっちり縛られているのじゃないんですね」

「そうなんです。普段の生活で、ヒューサヌビ、この名前はわかりますか」

「はい、PIですね」

「ヒューサヌビの存在を感じることはまずない。その本体がどこにあるのかさえ知らない。だから、秋門さんの存在はみな気になっているですよ」

「そうなんですか」

「ヒューサヌビが人の記憶を操作できることは知っている。小さい頃からそう教えられているから。でも、実際にそういう場面に出くわすことはめったにない。とりふねが丘の住人の記憶が操作されたことはないから、自分たちにはその経験がないんです」

「対象は住人以外、ということですね」

「そう、だから操作されていたとしても、わからない」

「まあ、操作された本人もその記憶自体がないんですから、気付きようがないです。これは実体験ですから」

 あっけらかんとしているとは聞いてはいたが、本当になんの屈託もない。この事実を知ってしまったら、二度ととりふねが丘に近づかなそうなものだが、そんな様子もない。

「実際に操作された人とこうやって話すのは初めてで、それは他の住人も同じです」

「貴重なサンプルなんですね。ヒューサヌビの力が発現した証拠ですか」

 あっさり自分をサンプルを言ってのけるのか。なんだか、この秋門ハウトという高校生に興味がわいてきてしまう。

「そもそも、記憶が消されてたって分かったのは偶然ですから。父親の仕事の関係で、何度も引っ越ししてきましたが、同じ場所に戻ってきたのはここが初めてで。そして偶々とりふねが丘を発見して、厳密にはそうじゃないんですけど」

「どうしてまたとりふねが丘に来ようと思ったんですか」

「それは前にお話した趣味の町歩きなんです。すみやか台を探索していて、地図を見たら近くに住宅地があるなって、ついでにいってみようかというだけで」

「呼び寄せられて、なんてことじゃないんですね」

「まさか、そんなことないです。むしろ拒否されていたというか」

「拒否されていたって?」

「自分の方が、ですか。実は最初にとりふねが丘に入ろうとした時、強烈な不快感があって引き上げたんですが、なんだかくやしいというか、ならば絶対に中を見てやるんだって思って」

 どれだけ意志が強いんだ。それとも好奇心のかたまりだったのか。

「翌週に再チャレンジして、また気分が悪くなったんですけど、そこは気合だけで乗り切って、入ることができたんですよ。そしたら、同じ学校の同じクラスに鷹角さんがいて、なんやかんやあって昔記憶を消されたことがあったと知って、今に至るです」

 この状況を楽しもうとしているのだろうか。とりふねが丘の住民としては、秘密を知っている部外者の存在は、ヒューサヌビがそれを許している以上みとめるしかないのだが、その理由がわからないままなので、一抹の不安がないわけではない。町内会長でもある社長の一人娘のために消さなかったという説もあるが、そんな非論理的な忖度をするはずがない。

「後出さんはさっき、ヒューサヌビの存在を感じることはまずない、っておっしゃってましたけど、とりふねが丘を肉眼で見るのと、地図や航空写真、地図アプリ、スマホで撮った写真が食い違っていることが、最大の存在感じゃないんですか。衝撃的だったんですけど」

「そう言われればそうですね。あれは確かにヒューサヌビの凄い能力です。あまりに日常になっているので、誰も気にしていないのでしょう」

「疑問でしかないんです。円形の住宅地なのに、どうしてわざわざグリッド型に見せるのか、どうしてそんな面倒なことをしているのか」

 これこそが部外者の視点だ。それには踏み込んだ答えをするしかない。

「それは、多分、ヒューサヌビは全知全能の神ではない、からでしょう」

「神ではない、ですか」

「つまり、ヒューサヌビが間違えたからだと思います。神じゃないからミスした」

「ミスなんですか」

「そうでしょう、ミスしたから、秋門さんの言う通り、面倒なことをせざるを得なくなったんです」

「何を間違えたんですか」

「どうしてとりふねが丘は円形の住宅地だと思いますか?」

 すぐに反応はなかった。これはいささか意地悪な質問だった。

「それは・・・どうしてでしょう」

「私たちの祖先が別の星から来たのは知っていますね」

「はい」

「これは仮説にすぎないのですが、祖先は円形の住居環境で暮らしていたんじゃないか、その文化を維持するために住宅地を円形にしたのではないかと」

「なるほと、移民がその先で故郷と同じような町を作るみたいなものですね」

 的確なたとえで話が続けやすい。

「ああ、でもそれだと目立ってしまう。円形の住宅地なんて現在はともかく昔はまずなかったです。円形の堀に囲まれたお城はあったようですが、類例がないので有名ですね」

「そうです。だから、航空写真や地図は、一般的な格子状に見えるように、光学的加工を施しているのでしょう。どうやっているかはブラックボックスですが、おそらくカメラなどのセンサーを検知して、加工、あるいは誤認させているのではないでしょうか」

「安全のために、それをを続けるのは仕方ないのではないですか」

「いえ、技術の発達を読み違えたのですよ。カメラ、航空機、人工衛星、スマホ、ドローンと対応しないといけないものがどんどん増えてきて、ヒューサヌビのリソースの多くがそれに割かれているような気がします。それなら最初から一般的な形にしておけばよかった」

「なるほど、それが判断ミスなんですね。でもおかげでクル・ド・サックが見られたわけで」

「クル?何ですか?」

「いえ、それでは、人間の眼はそのままにしているのはなぜなんですか。リアルタイムで改変することは困難だからとは聞きましたが」

「それはもっと単純な理由だと思います。町の様子が別に見えたら、暮らしにくくないですか」

「たしかに、気分が悪くなりそうです」

「もちろん、カメラとかと違って、視覚という機能が複雑なことも二義的にはあるでしょうが」

「それはやらない方がいいということですか」

「もちろん、とりふねが丘の住人かどうかを判断して、部外者のみの視覚を改変するのは出来るのでしょうが、それなら記憶を操作した方が簡単、なのかもしれませんね」

「いろいろお詳しいんですね」

「ヒューサヌビは秘密主義で、何も教えてくれないので、町内会では有志が集まって、研究のまねごとをしています。そのメンバーの一人ですので」


 やがて道は市街地からはずれ、だんだん山中の上り坂になり、まわりには人家が見当たらなくなってきた。坂の途中、道の脇にあるゲートの前で一旦停止して、警備員に許可証を提示する。そこからは工事関係の車両だけが出入りする一時的な道になる。慎重に少し走らせると、プレハブの現場事務所に到着する。

 「荷物は自分が持ちます」と言ってくれたので、機器類を入れた箱は任せる。事務所の入口で声をかけたが、連絡した時間より少し早く着いたし、昼休憩前なので、中にには誰もいない。とりあえず、事前に渡した手順書に従って、機器類をLANケーブルでつないで、このために持ってきた確認用のノートPCで会社のネットワークへの接続も確認までしてもらう。

 やがて顔見知りの現場の責任者が事務所に戻ってきた。冷却ファンがついた作業着姿だが、顔からは汗が吹き出している。

「おう、久しぶりだな。今日はごくろうさん」

 インターンシップご協力のお礼をしてから、実際のPCで動作確認の後、作業確認書にサインをもらう。

 そして、お待ちかねの現場見学だ。ヘルメットをかぶって、バイパスの工事現場へ案内してもらう。谷に架けられる橋の土台、下部工の基礎工事が始まったばかりなので、構造物はまだなくあまり見ごたえはない。

「すごいですね。ここに五百メートルを超える橋梁がかかるんですね」

、それでも本人は感動したようで、橋の構造とか工法とかあれこれと専門的な質問をしている。もっと近づきたかったようだが、安全のためそこは我慢してもらうしかない。

 一通り見学を済ませた後、関係者に挨拶をしてから、帰途についた。


 山を下る社用車の中、助手席では満足げな表情を浮かべている。

「工事現場の見学は面白かったみたいですね」

「はい、普通なら絶対に入れない場所なので、興味深かったです。連れてきていただいてありがとうございます」

「それはどうも。もっと詳しく見たかっただろうけど、あれ以上は危険が伴うから」

「いえ、インターンシップに参加できてよかったです。大きな工事は、生活、経済、そして防災もドラスティックに変化させるので、すごく大事な事業なんだって痛感しました」

「そこまで感激してもらってうれしいんだけど、どうして興味をもったんですか、都市工学とかに」

「そうですね、きっかけは引っ越しを何度もして、いろんな町に住んだからかもしれません。それぞれ個性というか、特長が違っていて、なぜそうなのかに興味がわいたのだと思います」

「なるほどね、新しい場所や文化を体験すると、脳が活性化されるらしいから、その効果かもね」

「それと、記憶より記録が大事って分かったのもあるかと」

「記憶より記録?それはどういう意味なのかな」

「はい、引っ越しを繰り返すと、以前住んでいた場所のことがどんどん曖昧になっていって、記憶はあてにならない、じゃあ、その町を記録しておかないと、実際に見ていないと、で町歩きが趣味になって、都市の成り立ちとかも知りたくなった、そんな感じでしょうか」

「記憶より記録、ですか。それって記憶が改変されたことの影響があるのかも」

「どうなんでしょう、関係があるのかどうかはわかりません。ただ、今になってみると、偶然とりふねが丘に入ろうとした時に気分が悪くなったのは、あらかじめそうなるようにされていたのかと」

「それはそうかもしれません。とりふねが丘の記憶を消した時に、二度と足を踏み入れないように、強烈な不快感、嫌悪感をいだかせるようにもしたはずです」

「そうですね、そうでしょうね」

 この高校生は、ヒューサヌビが仕掛けておいたトラップを乗り越えてしまった、イレギュラーな存在。つまり、これもまた失敗の一つ。リカバリーするなら再度消せばいいだけだが、それはしなかった。その理由はあるはずだ。

「自分がされているのは事実なんですが、本当に記憶を改変できるのかって、信じ切れないとこもあるんです」

「たしかにどうやっているのかは私たちも分からないからね」

「教えてくれないんですね」

「大抵の事はそうです。推測、仮説ならあります。以前から町内では検討されてきたので」

「そういうことは話しても大丈夫なんですか」

「会話内容とかは筒抜けかもしれませんが、干渉はしてこないので」

「そうでした」

「人の記憶は、写真や録音、録画のようにまとまって保存されているのではないっていうのは知っていますか」

「はい、多少は調べてみました。記憶については他人事じゃないので」

「たしかにそうでした。記憶は断片的に保存されていて、思い出すというのは、そのバラバラな要素をその都度再構成して、あたかも一つのまとまったものだったとして認識する、そんなメカニズムだそうですね」

「思い出す度に、記憶の内容は変わっていく、ですね」

「記憶を再生しているのではなくて、その都度作り直しているから、その時の外的内的な要因で、同じ結果になるはずがない。そしてその行為で、元の部品、神経細胞も影響を受けて置き換わって、記憶全体がどんどん変化していってしまう」

「記憶は記憶した瞬間から変わっていく、なんて言葉もありました」

「おそらく、ヒューサヌビがやっているのは、この記憶の断片、部品の交換じゃないかってことです」

「ですが、部品交換ってどうやるのでしょう」

「今の技術では不可能ですが、まず対象となる人物の脳をコピーを作る、脳をトレースして、仮想空間の中で再現する。そして、どの部品を交換したら、想定した記憶が再構成されるかを調べないといけない。例えばとりふねが丘にいった記憶を、いかなかった記憶に矛盾なく改変するとして、どの部品が対象になるかを特定して、いかなかったとちゃんと再構成されるように、部品を取り替えてはシミュレーションを繰り返して、結果が最適になる方法を見つけ出す。それでやっとその部品を元の脳に書き戻すというか、書き換える。そんなやり方じゃないかと」

「そんなことが、できるんですね」

「ただの仮説ですし、百歩譲って、脳をコピーするのはいつか可能になるかもしれませんが、書き戻す方法は見当がつきません。それも非接触で行われているようですし」

 ヒューサヌビを作ったのは、はるか昔の先祖なのは間違いない。しかし、いわゆるロストテクノロジーとなり、私たちはただ使っているだけというか、使わされているというか、管理されているに過ぎない。

「ヒューサヌビの端末を見たことがありますか?」

「はい、一度だけ。端末というから、タブレットみたいなものかと勝手に思っていたのですが、あれは神棚でした」

「決まった形があるわけでもないんです。神棚だったり、仏壇だったり、木像だったり、様々です」

「神棚の前で手を合わせて声に出して質問したら、頭の中に直接答が返ってくると言われて、真似をしてみましたが、何も起こらなかったです」

「反応するのはとりふねが丘の住人にだけですから」

「必ず手を合わせないといけないんですか」

「そんなことはありません。端末の近くで質問すればいいだけです。それは、他人にその姿を見られても拝んでいるだけに見えるから、そんな習慣になったのかもしれません。少なくとも私はやったことはありません」

「そうだったんですか」

「端末の管理は代々町内会長の仕事なんです。端末にしたいもの、例えばぬいぐるみだって可能で、それを会長がヒューサヌビにお願いすると登録されます」

「どこの家にもあるんですか」

「各家庭はもちろん、とりふねが丘の外にもあります。室壁記念病院の院長室、もちろん社長室にも商売繁盛の神棚として置かれています」

「では他の場所にも」

「正確な数は知りませんが、もしかしたら、役所とか学校、警察にもあるのかもしれません」

「でも、端末の中に何かが入っているわけでもないんですね」

「何もないです。どうしてそれが端末になっているのか、どうして対話ができるのか、誰にもわかりません。物理的な物ですらないかもしれません」

「ヒューサヌビは端末すべてとつながっているんですね」

「どうやって通信しているのか、どうやって情報をやりとりしているのか、それも謎です」

「すごい技術力ですね」

「高度に発達したテクノロジーは魔法と区別がつかない、有名な言葉通りかもしれません」

「その力でとりふねが丘は守られて来たんですね、ずっと」

「集団の維持が最優先事項であるのは、共通の認識なんです」

「他にも何か原則があるんですか」

「はい、一度たずねたことがあります。その最優先事項に反しない限り、住民の幸福を守ることだそうです」

「幸福って、なんだかぼんやりした表現ですね」

「福祉、と言い換えてもいいかもしれません。集団の安全が確保されている限りが前提になります」

「人より目立ってはいけないっていうルールがそれなんですか?」

「そうです。他者から注目されないように、平凡な生活、人生を送る。容姿も、体格も、性格も、能力も、学力も、体力も目立ってはいけない。社長や院長がいても、それは狭い地域の中だけの名士で、いわば、凡人の集まりでなければいけないのです」

「平穏な生活が続くのであれば、干渉してこないってことですか」

「私たちは庇護の下にいますが、その状態が続く限り、存在を意識することはまれで、静かな支配者なんです」

 ヒューサヌビはそれぞれの生活、人生にはほとんど何もしない。全知全能の神のような、その力をもってすれば、例えば遺伝子的病気を直すことだってできるはずだ。しかし、そんな「奇蹟」は起こさない。とりふねが丘の住人の平均寿命は、外の世界と変わらない。平凡であることが徹底されている。

 だからこそ、部外者なのに秘密を知っているこの高校生を自由にさせているのが理解できにない。記憶を消さなくても集団の安全には影響ないと判断されているのだろうが、本当にそれでいいのか、ミスしていないのか、不安はぬぐい切れない。

「実は今回安心したことがあるんです」

 しばらくの沈黙の後、ゆっくりと話しかけられた。

「以前室壁記念病院におじゃまして、そしてトリフネ・コンストラクションで就業体験させてもらって、秘密を知ってからずっと持っていた疑問が解消されたんです」

「疑問があったんですか、それはどのような」

「とりふねが丘のみなさんがいなくなってしまったら、その後どうなるんだろうって」

「私たちが帰ってしまったら、ですか」

「はい、病院やインフラを担っている会社は、この市に、地域に必要なのに、困らないのかって。でも、安心しました。いなくなっても、病院や会社が存続できるように、ちゃんと考えられているだなって」

 虚を突かれて、何も答えられなかった。

「最初はどちらもとりふねが丘の人ばかりで経営されてると誤解してましたが、実際はそんなことなくて、いつ帰られてもいいように、準備はされているんですね」

 必ず帰る日は来る、小さい頃からそう教えられてきたし、それが明日かもしれないのは理解している。しかし、住民同士でそんな話をすることはないし、この日常が続くと根拠なく信じている。たとえその日が来て生活が激変したとしても、自分が生きているうちにたどり着くことはないのだから、あまり考えたくない事実なのだ。ましてや、去った後のことなんて想像外、どうせヒューサヌビが上手くやってくれるだろう程度で。

 この異分子の存在によって、私たちこそが異質であることを再認識させる、緊張感を持たせる、それが目的だったのか。たしかに、町全体にそれまでなかったさざ波が起きている。

「秋門さんの記憶が消されずにいる理由、それが分かったような気がします」

 ようやくそれだけ絞り出した。

「え、どういうことでしょうか」

「ヒューサヌビに選ばれた、そういうことです」

「あの、意味がわからないんですが」

 それはそうだろう。私にもよく理解できない。その意図は、誰にもわからない。

「たぶん、おそらく、何かの役割を期待されているのじゃないかと」

「期待されても、困るんですが。自分ではなんにもできなくて、なるようにしかならないんですけど」

 無責任で投げやりのなようでいて、裏返せば、運命を受け入れてもなお、あきらめない前向きな姿勢、だからなのか。


 本社に戻り、昼の休憩後は十五時からのインターンシップ成果報告会の準備にとりかかる。三人が配属された経理部、総務部、システム部の部課長クラスと、指導担当者、そして人事部が会議室に集合して、大型モニタを前に三人が順番に発表を行う。最初は経理部の社長令嬢、緊張していたが、特に問題はなかった。次が総務部、システム部は最後で、工事履歴検索システムの概要と開発方法、実際の画面のデモ、全体を通しての感想、そして、お約束の質疑応答があって、持ち時間五分をそつなくこなしてくれた。最後に人事部長から講評があって、報告会は無事終了した。

 一旦システム部に戻って挨拶した後、一階へ降りて、関係者で三人を見送った。これで三日間のスケジュールは完了。どっと疲れが出たのは、インターンシップのせいだけじゃない。


 週末の金曜日、三塚さんの送別会が行われた。すでに退職されていて嘱託として働かれていたのだが、今月末で契約終了となる。一般的な定時後にどこかのお店での送別会は、本人が固辞されたので、代わりに平日に昼食会を開くことになった。それさえも断ろうとしていたので、かつてお世話になったという部長が半ば泣き落としのような形で承諾してもらった。なので誰かが居残りをしないといけない。「じゃあ私がやりましょう」と三塚さんが言ったので、部内で総ツッコミが入った。

 結局、いつも通り私が部屋に残ることになり、三塚さん、部長、他のメンバーが出ていくのを見送った。他の部からも何人か参加するようだ。席に座ってモニタを見ていても、自然に三塚さんの事が頭に浮かんでくる。入社後、同じプロジェクトで仕事をしたことはないが、何かと気にかけてくれた。私の父親は体調を悪くしてリタイアするまで、この会社に勤めていた。三塚さんは中途採用で、部署も違っていて、性格も対照的だが、ちょっとしたきっかけて仲良くなり、病院にも何度か見舞いにきてくれている。自慢話の類とかは一切しない人だが、父親との思い出は何度か話してくれた。家族の前では見せたことのない一面は、意外なものだった。私が新卒で入る前にやめているので、もし時期が重なっていたら、それを知る機会があったのかもしれない。

 会社では、建設や土木、各部門の業務や、経理会計、給与計算などで使う基幹系システム、グループウェア、メール、文書管理などの情報系システムは、業界標準やデファクトスタンダードのパッケージを導入しているので、システム部の役割は、システムの新規導入やリプレースが発生しない限り、保守やサポートが主な作業だ。開発の案件は、その補助的なツールに限定されている。本社は現場を支える裏方に徹すべしが会社の方針だが、その中でもさらに地味なのがシステム部なのだ。目立たないけど重要な下支えの役目といえば聞こえはいいけれど。

 かつては社内で独自システムの作成がされていたらしいが、三塚さんたちの代で、完全に内製化を排除してしまった。システム開発が専門でない会社が内製するメリットとデメリットを比較した上での判断だった。その頃は、技術的、業種的に妥当だったのだろうが、オープンソースが一般化して、ノーコードやローコード開発が普及してきた現在ではどうなのかと思っている。

 私は主として、プログラミング言語Nidea(二ディア)を使ってるが、三塚さんは「担当者がいなくなるとブラックボックス化してしまう」とリスクを強調する。ソースコードのバージョンを管理するツールUtuGath(ウツギャス)で回避されているのにだ。今後AIがもっと発達すれば、さらに内製化のメリットは高まるだろう。

 「私たちはいつかいなくなる。定年だけじゃない、突然いなくなるかもしれない。それがいつなのか誰にもわからない。そうなっても困らないように、準備をしておかないといけない」それが三塚さんの口癖だった。そこまで心配していただく必要はなくなりますから、ご安心ください。これまではそう思っていた。それが、あの高校生との会話以来、自分自身の事を言われているような錯覚を抱いている。

 定時になり、三塚さんには花束が贈られ、残ったメンバーの拍手の中、部屋から出ていかれた。おきまりの労いの言葉だけをかける余裕しかなかったのが、心残りとなった。


 土曜日、久しぶりに病院の父親を見舞いに出かける。いったい何回入退院を繰り返したのだろう。家に戻るたびに、目に見えて体力は落ちていった。今度は帰ってこられるのだろうか、それは誰にもわからない。駐車場まで歩いて行くと、黒い麻の日傘をさしたおばあさんと出くわす。毎朝夕、二条東の角でアームチェアに座って挨拶するのが日課だが、日中は町内をぶらぶらしていることが多い。私が小さい頃からすでにおばあさんで、その頃から変わった様子がない。

「おや、お出かけですか」

「はい、ちょっと病院へ」

「おとうさん、まだお悪いの?」

 父親の入院を秘密にしておけるほど、この町内はプライバシー保護の意識が確立していない。

「はい、なかなかです」

「そうなの、また元気な声をお聞きしたいわね」

「ありがとうございます」

 軽く会釈してから、暑さがたまらないので、車を置いた場所へ急ぐ。


 室壁記念病院の中央棟の七階の大部屋はベッドが六台並んでいて、右手奥の窓際に父親は寝ている。

「やあ」

 声をかけると、点滴をしていない右手を弱々しく上げた。かつて子供が何人乗っかってもびくともしなかったその体は、すっかり小さくなっている。イスに腰をおろして、顔を見る。生気は失せて青白く、眼は薄く閉じたままで、何か言いたげに口元は動くが声は出てこない。

 小さい頃は怖かった。腕っぷしが強くて、声が大きくて、なにかにつけても荒っぽくて。そして、頼りがいもあった。あの父親はもうどこにもいない。

 会社では、現場の基礎工事の責任者で、仕事に誇りを持っていた。現場が遠い場所の時は、しばらく帰ってこなかった。その不在の間はほっとしていたが、帰って来たら来たで妙にうれしかった。

 現場には何度か連れていかれたが、埃っぽくて私はあまり好きじゃなかった。私の渋い反応に、顔には出さなかったが、さぞがっかりしていたんだろう。眼を輝かせていたインターンシップの高校生の話をしたら喜ぶのだろうか。

 高校生になると、進路にいちいち口を出してきた。その無理解さに腹が立ち、うっとうしかった。プログラミングなんて実体のないものは、モノ作りとみとめない。古臭い固定観念にとらわれていて、かかわりたくなかった。

 それでも、私が迷った末にトリフネ・コンストラクションに入社した時は、母親だけには喜んだ姿を見せていたらしい。私には直接言わないくせに。

 もう二度と昔は戻らない。現状を認めたくない母親の気持ちは非合理すぎて理解できなかったし、怒りすら感じた。しかし、よっぽど私の方が冷静を装って、自分の気持ちに気付いていないふりをしていただけだった。何もできない無力感をごまかしていただけだった。

 私たちの守護者であるヒューサヌビは何もしてはくれない。それは誰にでもそう、常に公平だ。

 何十年振りかに右手を握ってみた。部厚くてごつごつしていた感触はまだかろうじて残っていた。

 もし今故郷に帰ることが決まったとして、果たして父親を連れて行けるのだろうか。仮定の質問にはヒューサヌビは答えてくれないだろう。

 残された時間があとどのくらいなのか、それを知るすべはない。なるようにしかならない。はるか年下の高校生の言葉を何度もかみしめるだけだった。



第五話 クル・ド・サック・レディ cul de sac lady(袋小路の女)


 夏休みはもう残り少ない。四月、九年振りに室壁市へ戻ってきて、もう五カ月が過ぎようとしている。高校卒業までの二年、何事もなくおとなしく暮らしていこうと誓っていたのに、短期間で生活はすっかり一変してしまった。室壁駅東口から近い場所にある地元では有名な塾の特別夏期講習に参加して、今日は最終日、隣の席にはルルゥがずっといた。オンラインの塾は変わらず続けているが、評判はよさそうだし、ルルゥの猛プッシュもあったので、親の了解をもらって、受けてみることにしたのだ。なかなかハードな五日間であったが、安くはない受講料の元はとれたとは思う。ざわつく教室の中で、テキストをノートをカバンに片づけていると、ルルゥが指先で肩を軽くたたいた。

「これからどうしようか」

 昨日までの四日間は、すぐに駅に向かって、西口ターミナルでルルゥがバスに乗るのを見送っていた。講習は今日で終わりなので、どこかに寄っていこうというお誘いだ。家は徒歩圏内だけど、母親がいるはずなので、選択肢からはずす。そうなると行先は決まってくる。駅ビル西口一階にあるファストフード店だ。部屋を出て、階段を下りていくと、上ってくる北住先輩とすれ違う。同じ西高の向井先輩も一緒だった。二人して難関の医学部を目指しているらしい。

「おう、もう終わったのか」

「はい、先輩たちはこの後もあるんですね」

「受験生だからな、延長戦だよ」

 地区大会は決勝まで残ったが、あと一歩のところで全国大会は逃してしまったそうだ。全ては出し切って悔いはないから、あとは入試一本に専念すると笑っていた。


 まだまだ厳しい陽射しの中、建物を出て、細い路地を抜けて、駅ビルに入る。ファストフード店のバスの発着がよく見える窓際の席に向かい合わせに座って、ルルゥはこの数日の出来事など、あれこれと話す。相槌をうちながら、この半年足らずを思い返す。再会してから、町歩きには、特別な用事がない限り同行してくれているが、面白いのかどうか今でもよくわからない。けっして邪魔にはなっていないし、嫌ではないのだけれど、貴重な時間を浪費させているようで、「楽しいから」と言われても申し訳ない気持ちになる。

 ガラス窓の向こうの歩道は、まだ十七時を過ぎていないので、行き交う人の数はそんなに増えてはいない。その中になんだか気になっている人がいた。年齢はたぶん三十歳前後、髪を短く整えて、ノーネクタイ、白っぽいシャツ姿のサラリーマン風で、引き締まった体つきをしている。ずっとスマホの画面とあたりの景色を見比べながら歩いている。それ自体は普通なんだが、さっきは右から、今度は左から、眼の前を数えただけでも五往復している。つまり、明らかに道に迷っていた。ルルゥもそれに気がついたようだった。

「あの人、迷子になっているのかな。地図アプリ使ってるようだけど」

 アプリがあっても、そうなる人がいるのは知っている。歩き疲れたのか、その人は一旦立ち止まると、額の汗をハンカチでぬぐって、こっちへ近づいてきた。そして、ファストフード店に入ると、飲み物を注文して、隣のテーブル席にどかっと腰を下した。どこかへ電話するのかなとそれとなく見ていたが、その様子はなく、ぐったりしている。

「あの人に声をかけてもいいかな」

 小声でささやくと、ルルゥはにっこり笑って、

「ハウトさんならそうすると思ってた」


「あの、ちょっといいでしょうか」

 その人の背中がびくっとなって、不審そうな表情になった。今まで迷子になった小さな子に声をかけたことはあるが、年上の人にはどうしたらいいのかはよく分からない。とりあえず、怪しい者ではないと思ってもらうしかない。

「二人は室壁西高校の2年生なんですが、さっきからこの店にいてたまたま外をみていたら、もしかしたら、道に迷われているんじゃないと話になりまして」

「今日は塾があったので、その帰りなんです」

 二人の顔を順繰りに見比べられる。余計なお世話なんだろうが、困っていたのは間違いないし。

「この町の地理にはそこそこ詳しので、何かお役に立てればと」

 その人は大きくくため息をついた。

「いやー、やっぱりそう見えたよね。正直困っていたんだ。相談もできないしね」

 どうやら少しは信用してくれたようだ。そして、御総(おぼう)アシタと名のった。こちらも席を移動してから、名のり返すと、

「秋門さんと鷹角さんね。鷹角さんて、たしかトリフネ・コンストラクションの社長さんと同じ名字だね。親戚かなにか?」

「ええ、まあ」

 ルルゥはごまかす。

「そうか、珍しい苗字だけど、やっぱり地元だね」

 納得してくれたのでよしとする。そして、経緯を話してくれた。

「たまたま隣の市に会社の出張で来ていて、仕事の方は順調に終わったから、週末だからゆっくり帰ろうと、自費で一泊することにしたんだ。実は、生まれも育ちも室壁市で、中学校を卒業するまで住んでいたんだ。それでなつかしくなって、ホテルに荷物を置いてから、今はどうなっているんだろうと来てみたわけ。こんな機会はめったにないからね」

 ということは、十五年ぐらい前に引っ越したのだろう。

「駅に着いて、西口を出てみたら驚いた。家は西口の方向だったので、なじみ深い場所だったのに、まったく違う町だった。駅から家までの道順は覚えていたから、多少変わっていても大丈夫だろうと思っていたのに、目印になるようなのは何にもなくて、スマホの地図みても、どこに住んでいたのかさっぱりわからない。駐在所にかけこんで、私の元いた家はどこでしょう、って聞くのもばかみたいだし、あきらめて帰ろうとしてたら、声をかけてくれたわけ」

 なるほど、事情は理解できた。

「それは大変でしたね」

「外歩きは慣れているけど、こんな経験は初めてだよ」

「御総さんが室壁市から引っ越したのは何年前になるんですか」

「そうだね」

 指折り数えて、

「十三年と半年足らずになるね」

「それでしたら、見覚えなくて当然です。八年前に西口の再開発が始まって、それ以前とは全く変わってしまったそうです。建物やお店だけでなく、駅前のロータリーが拡大されて、道も新しく引き直されたとか」

 道歩きの趣味が役に立ったな。

「そうだったんだ、若いのによく知ってるね」

「そんな、大したことないです」

 本当にそうなんだが、ルルゥはなぜか得意げだった。

「それで、御総さんが室壁市いた時の住所覚えてますか?」

「住所?それがね、生れてからずっと同じ場所で、借家ではあったんだったんだけど、元々記憶が苦手で忘れてしまったんだ、申し訳ない」

「いえ、そんな」

「誰かに聞くにしても、あいにく両親はもうこの世にいないし、実家に戻って探せばわかるんだろうけど、すぐに行けるような距離じゃないしね」

「ならば、SS(Social Security)ナンバーカードはお持ちですか?」

「SSナンバー?証明書代わりに、肌身離さず持っているよ」

「もしよろしかったら、隣のコンビニエンスストアのマルチコピー機で戸籍附票というのが取れるんです、有料ですけど。戸籍附票には住所の履歴がのってます。御総さんは室壁市の学校に通っていたので、おそらくそこにあるんじゃないかと」

 御総さんはあきれたように口を開けた。

「よくそんなこと知ってるね、市役所かどっかに勤めているの?」

「いえ、ただの高校生です」

「そこまで教えてもらったら、やらないわけにはいかないね。戸籍附票だね」

 御総さんは立ち上がると、勢いよく店を出て行った。

「元気になったみたいだね」

「住所がわかれば、家の場所も特定できるんじゃないかな」

「私もびっくりしたよ、どうしてあんなこと知ってるの」

「まあ、引っ越しで住民票の異動は何度もあったから、自然とね」

 すぐに御総さんは戻ってきた。

「もらって来たよ」

「室壁市の住所はのってましたか」

「あった、あった」

「ではそれをスマホの地図アプリに入れたら、現在の場所がわかるはずです」

「ちょっと待ってよ」

 しかし、御総さんは顔をしかめた。

「出てこないね」

「あの、住所を見せてもらっていいですか、個人情報ですけど」

「いいよ、どうぞ、どうぞ」

 紙を受け取って、確認する。これって見覚えがある。九年前に住んでいた家の近くじゃないか。

「わかりました、この住所はもうなくなっていて、別の名前になっているんです」

「そんなことあるの」

「古い住所でも地図アプリの検索に出ることが多いみたいですが、そうではなかったんですね。この住所の場所は、もうありませんが、縁根鉱山から採れる石灰石の加工工場の、そこ働いていた人たちの住宅地として整備されたところです」

「おやじが勤めていたのは、それ系の会社じゃなかったはずだけど」

「御総さんが生まれるよりずっと前に、工場は閉鎖されているので、その頃は地元の不動産会社に売却されて普通の住宅地になっていました」

「ええと、歴史学者かなんかやっているの?」

「いえ、ただの高校生です」

「じゃあ今はどうなっているのかな」

 御総さんのスマホのアプリを操作して、

「ここです。その町を含めて一帯は大型ショッピングモールになっています」

「そうだったのか。町ごとなくなったなんて、思ってもなかったなあ。跡形もないのか」

 御総さんはがっかりしたようだ。家どころかその周りすべて消えているという事実は、相当ショックを受けるものなのだな。それも時間を作って足を運んで来たのに、期待が裏切られた形だから、なおさらなのだろう。なくなったものは今さらしょうがないとは思えないのが、普通の感情なのかもしれない。その頃の画像はネットで探せば見つかるかもしれないが、それでは納得は無理か。他に方法はないものだろうか。

「せっかくですから、学校を見られたらどうですか」

「学校か、中学まで通っていたなあ」

「この住所なら校区は武妻小学校と室壁第二中学校のはずで、小学校はここから近いですよ」

 ルルゥも賛成してくれる。

「そうですよ、わざわざ来られたんですから」

「場所は変わっていないはずです」

 御総さんは顔を上げた。

「武妻小学校、なんだか聞き覚えはあるなあ。ここからどのぐらいの距離です?」

「徒歩で十五分ぐらいかと」

「十五分かあ。もう歩きたくないなあ。そうだ、タクシー使います。一緒に来てくれますか」

「かまいませんが、鷹角さんは?」

「私も、もちろん」


 タクシーは駅前の乗り場ですぐつかまえられた。武妻小学校にはあっという間に着いた。校門の前で降りて、御総さんは柱に埋め込まれた校名が書かれたプレートをゆっくりなでた。

「これ、覚えてる」

 表情がだいぶ明るくなった。中に入ることはできないので、低い塀に沿って歩いてみる。

「ここって、ハウトさんの母校でもあるんですよね」

 ルルゥは別の小学校だったから、なじみはない。

「たった一年しか通っていないので、あまり印象には残ってないんですが」

「そうだったのか。私はがっつり六年だったから懐かしいなあ。校舎も変わってない。だいぶくたびれているけど」

 まだ夏休み中なので、子供の声は聞こえないが、校庭をフェンス越しに見つめる御総さんの目には走り回っている姿が浮かんでいるのかもしれない。

「たしか、通学路はこっちだったな」

 首を曲げて、学校から北方向に伸びている道を指さした。

「ちょっと歩いてみていいかな」

「どうぞ、どうぞ」

 再開発の対象にはなっていない地区なので、古い街並みはそのまま残っている。

「このあたりは見覚えある。駄菓子屋とかあったはずだけど、もうないなあ」

 かつてはお店だったと思われる建物も、すでに看板は下されて、他と見分けがつかなくなっている。

「道はこんなだったかなあ。歩道はなくて、もっと狭かったような」

「歩道部分は、以前側溝だったようですね」

 歩道のところどころにあるグレーチング、金属製の格子状のフタのすき間から、流れる水が見える。

「そうだった、溝があった。雨の日は、葉っぱを浮かべて競争して遊んでいたなあ」

 やがて道は大きな通りに出て、片側二車線と中央分離帯の向こうへ渡る横断歩道は近くにはない。

「再開発で、道路の幅の拡張工事が行われたところです」

「そうか、こんなに広くなったんだ」

 御総さんは感慨深げに左右を見渡した。

「すっかり変わってしまったことを、改めて感じるよ」

 そして、振り返って、

「ここまでつきあってくれてありがとう。おかげで懐かしい場所も見られたし、来たかいがあった。声をかけてくれなかったら、なんにもないまま、帰るところだった。ほんとにありがとう」

「少しでも思い出の場所が見られてよかったです」

 町歩きの成果が多少なりとも人の役に立ったのはこれが初めてだった。

 御総さんはまたタクシーを呼んで、三人で室壁駅まで戻った。そして、改札口に入っていくのを二人で見送った。


 夜になって御総さんからSNSで連絡があった。別れ際に会社の名刺を渡されたので、SNSのIDの交換もしていたのだ。内容は、あの後いくつか記憶がよみがえってきて、どうしても中学校も見てみたくなったとの事だった。明日の午前中に行って、それから帰るつもりだが、学校の場所は以前と同じなのか、地図アプリのルートでいいのか、教えて欲しいそうだ。

 どうせ明日は町歩きの予定だったので、案内しますよと返信したら、それは迷惑かけすぎると固辞された。ここまで来たら最後までつきあおうと、問題ないですからと説得したら、最後は折れてくれた。すぐにルルゥに予定変更の連絡をすると、自分もついていくと返ってきた。そこまでしなくてもと思ったが、室壁第二中学校の卒業生として責任があると、強く主張するので、結局断れなかった。


 翌朝、改札口で待っていると、御総さんが頭をかきかき現れた。

「いや申し訳ない。後で読み返したら、厚かましいお願いをしてしまって申し訳ない」

 どうやら昨夜はかなり飲んだそうで、酔った勢いだったようだ。まだアルコールが抜けていないのか、あまり元気そうには見えなかった。

「せっかくの休みなのに、また個人的なことに巻き込んでしまって」

「大丈夫です、まだ夏休み中で、もともと外出するつもりだったので」

「そうですよ、これも何かの縁ですから」

「そうか、夏休みか。でも、そう言ってもらうと、ちょっと安心しました」

「それで、中学校に行く前に、以前住んでいた場所に案内させてもらいたいんですが」

「たしかショッピングモールになってるんでしょう?」

「正確な場所が分かったのです。徒歩で行ける距離なので」

「いいですよ、ぜひ」

 あの後に、当時の住宅地図で家があった地点を調べたのだ。先月のトリフネ・コンストラクションでのインターシップの後、ルルゥの父親、つまり社長と直接話す機会があって、会社が持っている地図データを自由に見てもいいよと言われた。それで、システム部の後出さん経由で、いつでもどこでも閲覧できる権限をもらっていた。住宅地図の他に、都市計画図、測量データ、衛星写真・空中写真など、貴重な情報にアクセスできる。住宅地図は一戸建てに住んでいる人の苗字がのっているので、教えてもらった住所には確かに「御総」とあった。その家の緯度・経度を調べて、地図アプリに登録しておいたのだ。

 少し歩けば大型ショッピングモール、目的地は建物の中ではなく、屋外の駐車場の一角だった。まだ車は停まっていなかったので、両手を広げて、

「このあたりがそうです」

「なんか実感わかないなあ」

 それはそうだろう。舗装された地面の上に、白線が長方形に描かれているだけで、昔の痕跡は何も残っていないのだから。

「地図と照らし合わせると、こちら側に道があって、塀がここ、建物はこのあたりからです」

「門から入って、踏み石が三つ、玄関は右端にあったから、ドアを引いたら、正面がリビング、テーブルがここ、その奥がキッチンで、左に和室があって、そこから出られる庭には柿の木があって、その根元に犬小屋があって」

 御総さんは軽く目を閉じて、ゆっくり歩きながら、家の中の様子を脳内で再現している。右腕を真っすぐ上に伸ばして、

「和室の上が子供部屋だから、このあたりで、ずっと友達と遊んだり、寝ていたりしたんだよなあ」

 そうして、夢から醒めるのを惜しむように、静かにまぶたを開いた。

「やっと昔の家に帰って来られたような気がするよ。ありがとう」


 室壁第二中学校はちょっと遠い場所なので、大型ショッピングモールからタクシーに乗って、街路樹がきれいに手入れされた片側一車線の道路を南へ向かう。すみやか台の東側を通って、右にカーブすると、住宅の間にまだ田畑が点在しているエリアになる。小学校は街中にあったが、中学校は郊外で、この道沿いではなく、途中から狭い道を入った奥にある。なので、手前で車を降りて歩いて行くことにする。

「自転車通学なら、きっとこの道だったと思います」

 今日はルルゥが案内役をつとめる。

「ああ、たしかに見覚えがある」

 十三年ぐらいでは、このあたりの風景は変わっていないようだ。五分も歩かないうちに、学校に到着する。

 校門の前に立って、御総さんは扉越しに中の様子をうかがう。

「周りと同じように、ここも見た目は一緒だね。校舎はそのままだ」

「私が入学する直前に体育館の建て替えがあったので、それぐらいじゃないでしょうか、変ったところは」

「あの体育館か。雨漏りがひどかったからなあ。雨が降ったら練習で使えないとか、訳がわからなかった。下半身強化だとかで、床の掃除ばっかりさせられたなあ」

 小学校と同様に、敷地内には入れないので、塀にそって歩く。

「校舎の壁の時計も新しくなっている気がするなあ」

 そして一周して校門の前まで戻ってくると、御総さんは首を振って、うつむいた。

「だめだ、やっぱり思い出せない。中学校まで来てもダメだった」

「どうしたんですか」

「超個人的で、かなり恥ずかしい話だけど、わざわざここまでつきあってもらったのだから、聴いてくれるかい」

「もちろんですよ」

「昨日の夜、不意に思い出したんだ。中学校の卒業式の日に約束していたことを。その約束した相手の名前が出てこない」

「約束をされたんですか」

「ああ、五年後の、二十歳の集まりの時に、絶対またここで会おうって。家の引っ越しはすぐだったし、高校は県外の学校に決まっていたから」

「そうだったんですか」

「情けないことに、すっかり忘れてしまっていて、ひどい話だよね。だから、その日にはここには来なかった」

「卒業後連絡はとられなかったんですね」

「今だと簡単にネットでつながるんだけど、その頃はまだ携帯電話を持っていなかったからね。スマホはまだ出てなかったのかなあ。携帯を持っているのはクラスの半分もいなかったはず」

 十三年ぐらいでそんなに変化したのか。

「おまけに高校は全寮制で自由はなくて携帯は禁止だったしね。そのうちに忘れてしまったのかなあ」

「何人ぐらいの方と約束されたんですか」

「一人、たった一人なんだ。同じクラスの仲のよかった女の子で、もう会う事はないって分かっていたから」

「どんな人だったんですか」

「だんだんと甦ってきた記憶だと、たしか背は高い方で、メガネをかけていたはず。顔もおぼろげながら浮かんできたんだけど、肝心の名前が出てこない。「ちーちゃん」って呼んでいたはずだけど、苗字も名前もわからない。それで学校へ行けばもしかしてと考えたんだけど」

「もし分かったらどうされるつもりだったんですか」

「今さらだけど、あやまっておきたくて。思い出した以上は、そうしないといけないって。でも、調べようにも、その頃の物とか、手元には何も残ってないし」

「もしかしたらその人の名前、わかるかもしれません

 黙って考え込んでいたルルゥが突然声を出した。

「本当ですか!」

「立ち話もなんなので、落ち着いてお話しませんか」


 中学校の近くのカフェは、手作りワッフルと自家焙煎珈琲が売りだ。素朴な造りの店内の窓際のテーブル席についた。ルルゥと何度か来たことがあるが、今日はワッフルを食べている余裕はないので、注文は冷たい飲み物だけ。

「一つ年下のお友達のお父さんが中学校の先生をされているんです。たしかその頃、室壁第二中学校にお勤めだったと思うので、もしかしたら、お家にその年の卒業アルバムがあるかもしれないって」

 友達の父親の職歴まで把握しているのか、すごいな。

「なるほど、卒業アルバムなら顔写真がのっているから、名前がわかるかもしれませんね」

「もしなくても、私の家の近所には、室壁第二中学校の卒業生がたくさんおられるので、声をかけていけば必ず見つかると思います」

 さすが町内会長の一人娘だ。

「いや、そこまでしてもらって申し訳ないな」

「大丈夫ですよ。それより、先ほどの話、私のお友達に伝えてもいいでしょうか。ちゃんとした理由があると説明しておかないと」

 卒業アルバムは、個人情報保護関連で問題になっているからな。

「もちろんかまいません」

「わかりました」

「お友達に、こんな面倒な事頼んでもいいんですか」

「喜んで手伝ってくれると思います」

 ちょっと気になったので、

「そのお友達って、誰なの?」

「リセイちゃんですよ。お父さんは、今は室壁一中の数学の先生なんです」

 水問さんのことだったのか。恋愛小説ファンって言っていたから、この手の話は好きなのかな。それなら父親の経歴を知っているのも納得だ。


 ルルゥはスマホのSNSで連絡を始めた。

「今は家にいるので、これから調べてくれるそうです」

 しばらくすると返信があった。

「みつかったそうです」

 おおっ、ルルゥの洞察力にちょっと感動してしまった。

「それで、3年生のクラスは何組だったのかって質問です」

 御総さんは顔を伏せて、小さな声で、

「それも覚えていなくて」

「御総さんのお名前でさがすそうです」

 結果3年3組だったので、その中でメガネをかけた女子三人の名前が送られてきたが、思い当たるものはなかった。

「同じクラスだったのは間違いないんですよね」

「それはさすがに大丈夫です」

「全員の顔を見てもらった方が早いかな」

「そうですね。リセイちゃんは持って行こうかって言ってくれてますが」

「それは大変だから」

 他にもお客さんはいるので、暑いけれど外のテラス席に移動して、スマホのビデオ通話をつないだ。


「ごめんね、リセイちゃん。急にお願いしたりして」

「あの、ご挨拶させてください」

 ルルゥは御総さんにカメラを向ける。

「どうも、御総です。このたびは申し訳ないです」

「いいえ、そういう事情でしたら、協力させていただきます」

 水問さんがアウトカメラに切り替えると、卒業アルバムの3組全員の顔写真のページが映った。女子生徒を一人ずつアップにして移動させていくと、食い入るように見つめていた御総さんが、

「この人です。メガネをしていないけど、間違いない」

 メガネの子をさがしていては、みつかるはずがなかった。

「おかしいな。確かにかけていたなずなんだけど」

「うんうん、それはわかるよね」

 ルルゥも水問さんもうなずいているみたいだ。撮影の時だけはずしていたのかな。

「お名前は、八凪チリコ、ええっ、まさか八凪さん!」

 名前を読み上げた水問さんの声が上ずった。

「ええっ、八凪さんだったの!」

 ルルゥも驚いている。

「その人は、知り合いなの?」

「知り合いもなにも、とりふねが丘の人だよ」

 室壁二中の校区だけれど、まさかそうだったとは。

「髪型は違うし、顔の印象も違うけど、よく見たら面影はありますね」

「でも、メガネをかけているとこ見たことないです」

「いつもコンタクトなのかな」

「メガネかけたら似合いそう」

 けっこう好きなこと言っている。

「お知り合いだったんですね。いやー、世間は狭いな」

 御総さんは名前がわかって安堵したようだった。

「八凪チリコ、ちーちゃん、確かにそんな名前でした。その、今はどうしているんですか」

「はい、市役所の、室壁市の市役所の市民文化部に勤められてます」

 市役所、教師、医師、後出さんが言っていたことをふと思い出した。

「ということは、今も室壁市に住んでいるんですね」

「ずっと同じところです。あ、まだ独身で、結婚されていませんよ」

「そうですか」

 御総さんが何度も何度もお礼を言った後、通話を終了して、また店内に戻った。


 飲み物の氷はすっかり溶けてしまっていたので、改めて注文し直す。

「これからどうされますか。八凪さんに直接連絡することはできますけど」

 ルルゥの提案に、御総さんは首を振った。

「いや、それはできません。今さらですから。手紙を書いてもいいですか。申し訳ないですが、それを渡してもらえたら」

「それでよいのでしたら。便箋か何かお持ちですか?」

「手帳の切れ端にでも書こうかと」

「ちょっと待ってください」

 ルルゥは席を立って、お店の中で売られている手作りのレターセットを持ってきた。

「これでよろしければ」

「助かります」

 グレイのネコのイラストがついていて、三十代手前の方にはちょっとファンシーな気もするが、本人がそれでいいならかまわないだろう。御総さんはバッグからペンを取り出して、手紙を書き始めた。丁度新しい飲み物が運ばれてきたので、それを飲みながら、おとなしく待っていた。やがて書き終えると、便箋を半分に折って、封筒の中に入れた

「これをお願いします」

 ルルゥはそれを受け取りながら、

「差し出がましいようですけど、お手紙に御総さんの連絡先は書かれているんですか」

「いえ、今さら伝えても迷惑でしょうから。ただただ謝罪するだけです」

「もし、八凪さんからたずねられたらどうしましょうか」

 名刺をもらっているし、SNSのIDも知っているからな。

「そんなことがあったら、わからないと答えてください」

「それでよろしいんですか?」

「はい、約束を守らなかった、守れなかったのは、一方的に自分が悪いだけですから。いくら謝ったとことで、もう取返しはつかないし、過去は戻らない。約束を忘れたどころか、名前すら覚えていないろくでもないやつですから、私は」

 その痛烈な言葉に、何も口をはさむことはできなかった。

「ただ、万が一、ちーちゃんが自分にも非があったんじゃないか、そんなことを少しでも思っていたのなら、そんなことはない、全部自分が悪いのだって伝えたい、それだけなんです」


 駅へ戻るタクシーの中で、御総さんは窓の外を流れる景色を眺めながら、まるでひとりごとのようにつぶやいていた。

「記憶は得意ではないからって、いくらなんでも、どうして忘れてしまったのかなあ、情けない」

 あまりの落ち込みように、何と言っていいのかわからない。

「申し訳ないね、いつまでもうだうだしていて。昨日の夜、唐突に思い出してしまって、それ以来後悔ばっかりでね」

「でも、まあ、ちゃんと名前が分かって、手紙も書かれたんですから」

 こんなのなぐさめにもならないなあ。

「そうだね。決着つけられたもの、二人のおかげ、いやもう一人、三人のおかげだからね」

 少しでも話を変えよう。

「室壁市へ帰ってきたのは、これが初めてだったんですね」

「そう、中学卒業以来。帰る先がなかったからね。父親はたまたま転勤してきただけで、母親がここの人だったんだ。二人の結婚は母親の実家から大反対されていたようで、仕事があるから市内に住んだままだったけれど、覚えている限りでは、母親の実家に行ったことは一度もないし、実家の話が出たこともないし、どこにあるのかさえ教えてくれなかった。反対の理由は結局知らされないままで」

 そんな過去があったのか。これは失敗だったかもしれない。

「父親の転勤で引っ越すことになって、母親は室壁を思い出すような物は全部捨ててしまったんですよ。よっぽど嫌だったのか、縁を切りたかったのか。同じタイミングで県外の全寮制の高校に進学していたから、引っ越し先に帰省してびっくり、前の家にあった物は何も残ってないんだもの。それからは顔を合わせるたびに、二度と室壁には足を踏み入れるなって言われてたなあ」

「御総さんの物も捨てられてしまったんですか?」

「さすがにそれはなかったですが、全部父親の実家に送ってしまって、だからもう手元にはないんです。小さい頃の写真も、卒業アルバムも」

「もしかして、そのお母さんの気持ちをくんで、無意識に室壁の記憶を封印したのかもしれませんね」

「そうだったのかなあ。亡くなってから一年経って近くに出張に来るなんて、偶然とはいえ遺言を破ったことになるのかなあ」

 どうしても重い方向になってしまう。

「そんなことはないんじゃないですか。むしろ、記憶の底にたまっていたものを解消できたんじゃないでしょうか」

「決着を付けたと考えると、供養にもなるのかな。母親と実家の間で何があったか分かりませんが、それはもう知らない方がいいでしょう」

 室壁駅に着いて、改札口に入った後も、御総さんは何度も何度も頭を下げてから、ホームへの階段を上っていった。ルルゥと一緒に、できるだけ元気よく手を振って見送った。


「今日はルルゥさんがいてくれてよかった。学校の案内もそうだけど、御総さんの約束の相手、みつからないとこだった」

「たまたまだよ、それにみつけたのはリセイちゃんだし」

「いや、ルルゥさんのおかげだよ」

「ありがとう。リセイちゃんにも連絡しておくね、無事に帰られたって」

 ルルゥがスマホを操作している間に考える。町歩きの知識で住んでいた家の場所は特定できるけど、人を探し出すのは、人とのつながりがないと無理だ。それは、いい町作りも同じで、いくら机上で素晴らしい計画を立てたところで、実際に歩いてみて、人の話をよく聞いてからでないと、ただの空論だ。

「あとは手紙を届けないとね」

「そうだね」

 八凪という人がどんな反応をするのかは分からないけれど、直接渡した方がいい。

「それで、お願いがあるんだけど、一緒に行ってくれないかな」

「面識ないんだけど、大丈夫かな」

「だって、御総さんに最初に声をかけたのはハウトさんだし、いきさつを一番よく知っているからちゃんと説明してくれるでしょう。私は冷静にできる自信がなくて」

「それはかまわないけど、そもそも八凪さんは約束のこと、覚えているのかな」

「そんなことない、絶対に覚えているよ」

 その口調は激しかった。

「中学卒業からたったの五年だよ、忘れるわけない。その日を待ってたと思う。それで会えなかったんだから、絶対心に残っている。だって、私だって九年間忘れなかったんだよ」

 そんな風に受け取っていたのか。それなら同行しよう。

「わかった」

「よかった。でも、どうして御総さんは忘れてしまっていたんだろう。そりゃ、悪いのは御総さんなんだけど、誠実そうで、あんなにしょげていたし、悪い人じゃないと思うんだけど」

「それは不思議なんだよな」


 ルルゥは八凪さんのSNSのIDを知らないので、自宅に電話をかける。とりふねが丘全戸の連絡先を登録しているそうだ。信じられないが、町内会長の家族としては当たり前らしい。幸い八凪さんは自宅にいて、詳しい事情はおいておいて、届ける物があることだけ伝えて、訪問の了承をもらった。同行者がいることも付け加えて。

 バスに乗って十五分、八凪さんの家は、とりふねが丘の二条通りの北、入口から上がっていくと、例のおばあさん、鹿野さんの家の角を右に曲がって少し歩いたところにある。門柱のベルをルルゥが押すと、返事があって、少しやりとりをした後、ドアが開いた。

「どうぞ、中へ」

 ルルゥが車中で説明してくれた通り、背が高く、意志の強そうな顔立ちで、今は編んだ髪を左肩の前に垂らしている。

「いったいどうしたの。わざわざ渡したい物があるってことだったけど」

 視線が動いたのを感じたので、まずは自己紹介だ。

「初めまして、秋門ハウトといいます」

「あなたがそうなのね。八凪チリコです。それで、どんな用件なのかな」

 ルルゥとの約束通り、説明役を引き受けよう。

「単刀直入に言いますと、御総さん、御総アシタさんから手紙を預かっています。御総さん、覚えておられますか」

 それに対する返事はなく、表情はまったく変らなかった。

「とりあえず、上がって。話はそれから聞きましょう」

 案内されたのは、ソファとテーブルが置かれた部屋で、八凪さんと向かい合って座った。そして、昨日からの経緯を順序だてて話す。

「昨日、鷹角さんと塾の帰りに、室壁駅前で道に迷っておられた御総さんにお声をかけました。たまたま隣の市に出張に来ていて、昔住んでいた場所がなつかしくなって訪ねてきたものの、西口前の風景が様変わりしていて、戸惑っていたそうです」

「わざわざ親切なこと」

 その言い方にトゲがあること感じずにはいられなかった。

「それで、家があった場所はもうショッピングモールになっていることを伝えて、せっかくなので通っていた小学校を案内させてもらいました」

 反応がなかったので、先を続ける。

「それで一旦お別れしたんですが、夜になって思い出したことがあるので、中学校も見てみたいと相談がありました。それで、今朝、鷹角さんと一緒にまた案内させてもらいました。そして、十三年以上前の約束について、手紙を渡して欲しいと頼まれました」

「これがその手紙です」

 ルルゥは八凪さんの前に、そっと封筒を置いた。

「ここで読んでもいいかな」

「それは、八凪さんのですから」

 封筒を持ち上げて、中から便箋を取り出して広げると、眉ひとつ動かすことなく読み始めた。そして、最後の一枚から目を上げた後、大げさにため息をついた。

「届けてもらって、ありがとう。お手間かけました」

 これ以上話すことはないという合図だった。帰ろうとして腰を浮かせると、

「あの、」

 ルルゥが押し殺した声で叫んだ。

「八凪さんは、御総さんを覚えてたんですよね?」

 八凪さんの顔色が初めて変った。

「鷹角さん、もうこれ以上は・・・」

 ルルゥを遮ろうとしたが、

「もちろん覚えてはいました。そんな人もいたっけ程度ですけど。こんな謝罪の手紙なんていらなかったのに」

 八凪さんから冷たい言葉が返ってきた。

「でも、約束のことは」

「約束は忘れてはいないけど、行くはずがないでしょう。中学生の約束なんてバカバカしい。子供の約束を破った程度で、こんな手紙をよこしてバカじゃないの」

「あの、あの、そこまで言わなくても。そりゃ悪いのは御総さんですけど」

「昨日初めて会った人の肩を持つのね」

「そんなつもりでは・・・」

「ずっと忘れていればよかったのに、なんで今さら思い出すのかなあ」

 そして、ショックを受けているルルゥにかまわず、

「もし今後話す機会があったら伝えておいて。何とも思っていないって」

 それから少し冷静さを取り戻した声で、

「わざわざ足を運んでくれてありがとう。それだけは感謝します」

「わかりました。それでは失礼します」

 まだ何か言いたげなルルゥの腕を取って促すと、急いで八凪さんの家を出た。


 両手をわなわなと震わせているルルゥをなだめながら、歩いてすぐの鷹角家へ向かう。二階の部屋に入ると、それまで抑えていた感情が爆発した。

「ひどいじゃない。あんな冷たい人だなんて知らなかった」

 予想外だった八凪さんの反応に、怒りは収まらない。

「今さらだったのかも知れないけど、言い方ってものがあるでしょう。そりゃ全ての責任は御総さんなんだけど、それにしたって、バカじゃないのって」

 ルルゥにとって思い入れのある「約束」、過去の記憶を、くだらない物扱いされては黙ってはいられないだろう。

「どうしてずっと横で黙っていて、何も言ってくれなかったの」

 矛先がこちらに向いてきたので、気になっていたことを話すしかない。

「御総さんからは止められていたけど、連絡先を知りたいのか訊ねるつもりはあったんだ」

「興味なさそうだったけど」

「そうなんだ、そんなの含めて全部本気じゃないような感じがしたので、やめたんだ」

「本気じゃないって、どうでもいい、何とも思ってない、むしろ迷惑っていう態度が?」

「そう思わせたかったんじゃないかって。わざと人を怒らせるようにして」

「それは、まあ、私の知っている八凪さんらしくないかも。あれは演技だったの?」

 ルルゥの気持ちはだいぶ落ち着いてきた。

「普段の八凪さんを知らないから、断定はできないけど、ルルゥさんが違和感を感じるのなら、そうなのかも」

「でも、どうして」

「詮索されたくない、何か深い事情があるのかもしれない。そうなると、これ以上立ち入るのは失礼なのかなって」

「そうだったのか、それで何も言わずに帰ってきたんだね。じゃあここまでにしておいた方がいいのかな」

「あれは明確に拒絶されたと思うから、どうしようもできないしね」


 ルルゥは、まず手紙を渡し終えたことだけを水問さんに連絡した。

「ねえ、これ見て」

 スマホの画面には。思い出したことがあるので、鹿野のおばあさんに会ってみる、と返信があった。以前、八凪さんについて何か知っていることがあるようだったからと。

「止めた方がいいよね」

 家を飛び出して、二条北の角へ急ぐ。そこにはあたりをきょろきょろしている水問さんが立っていた。

「ああ、ルルゥさん、鹿野さん見当たらないんですよ」

「よかった」

「よかったって、どうしてですか」

「それがね。リセイちゃん」

 どう切り出していいものか、ためらっていると、突然声がかかった。

「何をしてるの、こんなとこで」

 東通りを上ってきた北住先輩だった。

「先輩こんにちは」

「集まってって、何かあったの?」

「先輩こそ、どうしたんですか」

「いや、ちょっと病院に用事があって、その帰りだけど」

 北住先輩には確認しておきたい事があった。

「丁度よかった、室壁二中の十歳ぐらい上の先輩で、御総さん、御総アシタさんて人ご存じないですか。スポーツをやっていたはずです」

「御総ね。たしか、サッカーの人かな」

「ご存じなんですね」

「小学校の時、サッカークラブにいたから、そこの出身ですごい選手がいたって。二中の時に強豪校にスカウトされて、その時は大学生だったかなあ、サッカー部が強いとこ」

「有名な人だったんですね」

「クラブやめちゃったから、その後の事はよく知らないけどね」

 ルルゥはスマホであわてて検索する。

「すごい、いっぱい出てきた」

 高校、大学通してレギュラーで、インタビュー記事や、全国大会のゴール・シーンの動画、大学卒業後の進路は一般企業なんて情報まであった。

「もっと早く調べておけばよかった」

「その人がどうしたの」

「さっきまで一緒だったんですよ」

「へえ、帰ってきているんだ。でも、何で?誰なのか知らなかったのに?」

「はい、偶然が重なって」

「またそれか。秋門が歩けば何かが起きるんだろうなあ」


 北住先輩を別れた後、水問さんを連れてまた家に戻った。ルルゥから八凪さんとのやり取りを説明する。時々求められると、助け舟を出した。

「それでは、これ以上かかわらない方がいいってことなんですね」

「八凪さんもそうして欲しいのだろうし」

「わかりました。じゃあ、鹿野さんには何も言わないことにします。昔、八凪さんに何かがあったような匂わせしていたもので」

「ごめんね、折角活躍してくれたのに」

「それはいいんです。私も楽しかったし。でも、どうして御総さんがスポーツ選手って分かったんですか、秋門さん」

 説明をする程でもないが。

「まずは見た目からですね、そうですよね、鷹角さん」

「はい、それは思いました」

「中学校を案内した時、雨の日は体育館で練習してたって言っていたので、屋外競技だろうから、北住先輩に訊いてみただけです」

「有名な選手だったんですね」

「それではっきりしました。八凪さんが御総さんの事をあまり覚えていないっていうのは嘘だったって」

「本心じゃないってことか」

「中学から有名で、高校以降も活躍していて、室壁市出身なんですから、サッカーに興味がないならともかく、その名前を見ないでいることは難しかったでしょう」

「たしかにそうですね」

「逆に目に入らなかったとしたら、わざとそうしていたでしょうから、意識していたことの裏返しじゃないかと」

「やっぱり言いたくない事情があるんでしょうね」

 この件はもうルルゥたちとは話題にしないことにしよう。それが、八凪さんの意に沿うことなのだから。


 それから水問さんが帰った後、しばらくルルゥと一緒にいて、御総さんに役目が完了したことを伝えた。用意してあるからというルルゥのお母さんの言葉に甘えて、もう十五回目となる鷹角家の夕食をいただいた。もちろんその前に、関係各所へ連絡はさせてもらった。

 夜になり、車で送ろうかというルルゥのお父さんの厚意は丁寧にお断りして、バスに乗って帰宅した。そして、自分の部屋で、PCの電源を入れて、ビデオチャットツールを起動した。約束の時間通り、後出さんとはすぐにつながった。

「お休みのところすみません。後出さんしか頼れる人がいなくて」

 後出さんには今回の事情を説明して、助けを求めていたのだ。

「いいんですよ。依頼の件、御総さんの両親の結婚の頃はまだ小さくて、八凪さんたちが中三の時は、すでに県外に出ていたから、詳細はよく知らないので、母親に確認してみました」

「ありがとうございます」

「まず結論から、御総さんのお母さんはとりふねが丘の人でした」

「やはりそうだったんですね」

「どうしてそう考えたのですか」

「御総さんは自分を記憶力がないと言われてましたが、大事な約束をピンポイントで忘れるのは、真面目な性格の方なので不自然でした」

「なるほどね」

「そしてお母さんが引っ越しの際に全てを捨てたのも辻褄があいません。実家を思い出させるものが嫌なら、室壁にいた時からそうしていたはずです」

「たしかに」

「見えざる力が働いている、それから逃れようとしたなら、ヒューサヌビではないかと。お父さんが部外者であるなら、お母さんが関係者だろうと」

「とりふねが丘外の人間との結婚を反対されて、縁を切る形で出て行ったそうです。反対の理由は母親も知りませんでした」

「御総さんが中学生の時に何かあったんですね」

「小学校はとりふねが丘と校区が違っていて、中学校で同じになり、そこで八凪さんと知り合ったようです。それは偶然なんですが、お母さんはそうとは受け取らず、とりふねが丘の人間は、息子をに取り込もうとするのか、奪おうとするのかと激怒して、中三の時に実家に抗議したようです」

「その事を八凪さんはある程度は知らされたのでしょうか」

「それは間違いないでしょう。八凪さんのご両親も巻き込まれたそうですから、知っていたと思います」

「そうすると、やはり御総さんの記憶を改変したのはヒューサヌビでしょうか」

「おそらくそうですが、本来なら記録として残っているはずが、それがないのです、秋門さんの時と違って。わずか四年しか離れていないのにかかわらず」

「なぜなんですか」

 後出さんはその疑問には答えなかった。

「ヒューサヌビの原則はご存じでしたね」

「はい、最優先事項は集団の維持です」

「御総さんのお母さんの具体的な行動は不明ですが、それを脅かすような、たとえば秘密の暴露を示唆したのかもしれません」

「それで、御総さんの八凪さんに関する記憶を消した、ということですか」

「お母さんの、とりふねが丘は息子には関わらせないという要望に沿ったものだったのでしょう」

「以後関係を断ち切るために、端末を含めて室壁の時の物全て捨ててしまった、ですね。どこかに端末が隠されているかもしれないと警戒したのでしょうか」

「実際に効果はなかった。ヒューサヌビの影響下にずっとあったはずです」

「どんなに遠く離れてもですか」

「そうです、とりふねが丘の住人の動向は常に捕捉されていますから。そもそも御総さんの記憶の改竄も微妙でしょう」

「どんなところが微妙なんですか?」

「御総さんは、八凪さんの名前は忘れていましたが、同じクラスだったとか、周辺の記憶は残っていいました。約束があったこと自体を思い出したのですから、消去は不完全だったのではないですか」

「たしかにそうです」

「お母さんを納得させるため、表面上は記憶が消えたように見せかけていたが、本当はそうではなかった。だから、記録に残っていなかった」

「どうしてそんなことをしたのでしょう」

「いくつか理由は考えられます。二つ目の原則を覚えていますか」

「最優先事項に反しない限り、住民の幸福を守ること、ですね」

「つまり、とりふねが丘の人であるお母さんの希望をかなえ続ける必要があった。ただし、集団の維持に沿った範囲で」

「他に何か守るべきものがあったのですか?」

 後出さんは時々質問には質問で返してくる。

「御総さんの記憶が突然甦ったのはなぜだと考えますか?」

「それは、これまでのお話からすると、お母さんが亡くなられたから、でしょうか」

「そうですね、それで間違いないでしょう。もう御総さんの記憶が消えたと装う必要はなくなった。そして、記憶が回復するきっかけ、トリガーは、室壁市に来ること、だったのはないですか」

「だから昨夜約束を思い出したと。でも、八凪さんの名前は忘れたままだった。もし、昨日駅前で出会わなかったら、そのままだったはずで」

「ヒューサヌビが因果律までコントロールできるとは思いません。思いたくないというか。御総さんの出張は偶然でしょうし、秋門さんたちと遭遇したのも偶然、水問さんのお父さんが卒業アルバムを持っていたのも、全て偶然でしょう」

 昨日ファストフード店で御総さんと会ったのはヒューサヌビの力?そうだったとしても、地図を見て右往左往している人がいたら、絶対に自分の意思で声をかける。

「先ほどの理由の二つ目は、おそらく御総さんの出自でしょう」

「それは、お母さんがとりふねが丘の人で、お父さんは無関係の人だからですか」

「そうです。秋門さんの記憶は完全に消しても、御総さんはそうはしなかったのは、とりふねが丘との関係を残すためです」

「これまで、安全のために、目立ってはいけない、他所の人とは深くつきあってはいけないというルールがあると聞いていますが」

「その通りです。その一方で、遺伝子の多様性もまた集団の健全な維持に必須です。ヒューサヌビの遺伝子操作の技術は高度なものだとは思われますが、外部の遺伝子を集団の中に取り込む、自然交配もその選択肢の一つなのでしょう」

「人工的な多様性だけでなく、それも最優先事項である集団の維持に必要だと」

 病院の屋上での北住先輩との話が頭をよぎった。

「その通りです。推測の域を出ないのですが、そのために御総さんが将来とりふねが丘に加わってもらう可能性を残したのではないかと」

「八凪さんとの記憶の一部をだけを消したのも、その延長線上と考えていいんですね」

「おそらく。ただ、可能性だけで強制するわけではない、それはこれまでの不干渉の原則と変わらない。状況を用意するだけで、最後は個人の判断に委ねられます。それは、秋門さんと」

 ここで後出さんは珍しく言い淀んだ。

「その、社長のお嬢さんについてもそうだとしか」

 なるほど、ヒューサヌビの計算ずくか。

「しかし、それはあくまで副次的でしょう。以前、秋門さんの記憶が消されずにいる理由は、ヒューサヌビに選ばれたから、危険性はないと判断された上で、何かの役割を期待されているのじゃないか、と言いましたね」

「はい、覚えています」

「今回の件も含めて、やはりその考えは間違っていないと意を強くしました。トリックスターのような役割でしょうか」

「トリックスター、ですか」

「悪い意味ではなく、秋門さんの行動で、日常生活に埋没して惰眠を貪っている、とりふねが丘の住人たちの目を覚まさせるためではないかと」

「そんな、大げさすぎます」

「いえ、それでいいんだと思います。そのままでいいんです。何気ない行動が、今回のように大きな波を起こすように」

 後出さんは口元をふっと緩めた。

「私たちはヒューサヌビについて何も知らない。どこに存在するのか、何を動力源にしているのかさえ。ここは石灰石が採れる地域ですから、それと関連する鉱物が原料なのかもしれません」

「だからこの場所を選んだんですか?」

「それも分かりません。とにかく、何も知らないのです」


 後出さんとの長い通話が終わった後、御総さんからもらった名刺を出して、裏にSNSのID、そして戸籍附票にあった現住所を書いた。ルルゥに連絡して、明日一緒に八凪さんに渡そう。それをどうするかはご本人次第だ。自己満足かもしれないけれど、八凪さんに感じた、後悔の念とルルゥに向ける無意識の敵意を、少しでも和らげられたらと思った。

 後出さんが語る自分の役目なんて、どうでもいい。室壁市に戻ってきて、人との繋がりが拡がって、見えている世界に変化があった。この先にどんな事が待っているか、ルルゥとの関係がどうなるのか、なんにもわからないけれど、逃げも隠れもしないから、好きにしてくれたらいい。なるようにしかならないのだから。

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