第3話 境
境
遥が小さく安堵の息を漏らすと、部屋の空気はようやく緊張の糸をゆるめた。
それでも、どこかでまだ震えが残っている。それは遥の指先なのか、ぼく自身の心臓なのか、判断できなかった。
「……着替えなよ。濡れたままだと風邪ひく」
そう声をかけると、遥は微かに首を振った。
「あとでいい。……もう少し、このままがいい」
ぼくの袖をつまんだままの手が、かえって幼い頃よりも脆く感じられる。
以前は、同じ布団に潜り込んでくるのが当たり前だった。怖い夢を見た夜、雷が鳴る日、熱を出したとき、理由はいくつもあった。
でも今は、違う。遥は何かから逃げるためではなく、ぼくという「境界」に触れていないと自分を保てないのだ。
「律がどこにも行かないって、ほんとうに思っていい?」
その問いはあまりに重く、夜の湿気の中で沈み、絡みつき、ほどける気配がない。
「……いまは、ここにいるよ」
精一杯の答えだった。
その瞬間、遥はようやくぎゅっと目を閉じ、ぼくの肩に額を寄せた。
その体温がじわりと伝わる。同じ血の温度なのに、どこか違う。
ぼくが都市の空気に馴染んでゆくほど、遥は逆に薄れてしまうような錯覚が、抜けない。
窓の外で、電車の鉄のきしみが遠く響いた。
深夜帯へ移ろう街は、光の粒を細かく震わせている。それなのに、この部屋だけは水槽の底みたいに静かで、重い。
しばらくして、遥の呼吸が浅く整い、手の力が緩んだ。眠りに落ちたのだと分かったとき、ようやくぼくは息をついた。
ソファにそっと横たえ、かけ布をかける。
濡れた前髪が額に貼りついているのを指でよけると、遥は微かに眉をひそめたが、目を開けることはない。
──“糸を強く引いた者は、もう片方を弱らせる”。
祖母の声が、どこか遠い井戸の底から浮かんでくる。
あれは言い伝えであって、現実ではない。
そう言い切りたいのに、ぼくらの影の形が日に日に歪んでいることを、ぼくは誰より自分で知っていた。
自室に戻り、机に置いていたノートを開く。
ページの端に、見覚えのない文字があった。
遥の筆跡だ。
まるで、ぼくの空白を埋めるように、細い字で何行も書き連ねてある。
――兄さんが遠くに行きませんように。
――兄さんの糸が、泣きませんように。
胸が詰まり、ノートを閉じた。
その紙の薄さの向こうには、遥の世界のすべてが貼りついている。
逃げ場があるのは、ぼくのほうだけだ。
照明を落とし、ベッドに背を預けても、眠気は訪れなかった。
雨音だけが、ひたすらに一定のリズムで落ち続けている。糸が軋むような、遥の声の余韻が頭の奥でくり返し響く。
(糸が泣く、か。そんなものが本当にあるなら……)
それはたぶん、ぼく自身の心が立てる音だ。
外では、いつのまにか雨脚が弱まり始めていた。
高層ビルの隙間に、微かに光る看板の明滅が見える。
そのどれもが、ぼくにとっては広い世界へ通じる可能性のように思えた。
遥には恐怖でしかないのに。
同じ空気を吸って、同じ場所で育ってきたはずなのに、どうしてこれほど世界が違ってしまったのだろう。
幼いころは、ぼくらの毎日は、もっと近かった。手を握らなくても、互いの存在がすぐそばにあった。
(いつから糸は軋み始めたのだろう。)
ぼくは目を閉じた。
明日になれば、雨は止むだろう。街はまた、いつもの速度で動き出す。
遥はきっとそれについていけない。そしてぼくは、またどこかで呼吸のための隙間を探してしまう。
そのわずかな差が、糸を震わせている。
目を開けると、窓の外に朝の気配が少しだけ滲みはじめていた。
世界がゆっくりと明るむ前の、静かで冷たい時間。
その中で、胸の奥にひっそりと浮上した思いがひとつあった。
(──このままでは、きっとどちらかが消える)
言い伝えのことではない。
現実の話だ。
ぼくらの糸が泣き続ける前に、何かを変えなければならない。
でも、それが“ぼくの世界を広げること”なのか、“遥の世界に留まること”なのか──まだ答えは出ない。
ただひとつ確かなのは、この雨の夜から、ぼくらの道が静かに分岐しはじめたということだけだった。
救済の糸を握るのは 翠川琉亜 @luuana04320
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