【短編】口紅のかほり
春生直
第1話
かあさんの口紅は、椿油の匂いがした。
小さい頃、真似をしてつけては、叱られたりしていた。
子供ながらに、あの、鏡の中で顔がぱあっと華やぐような感覚が好きで、隙を見ては口につけていた。
口紅が特別なものでなくなったのは、いつからだろう。
とうさんが流行り病で死んでしまったのが、よくなかった。
あれよあれよと言う間に暮らしぶりは悪くなり、遊郭に売られていくしかなかった。
昔呼ばれていた名前は、もう他人のように響く。
顔中きっちりと化粧をするのは、遊女のたしなみだった。
商品なんだから、それはそうでしょう、と乾いた心で思う。
トテテテンテン、と三味線が響くお座敷を開けて、瀬山は愛想笑いを浮かべる。
いったいいつまで、この地獄は続くのか。
かあさんは死んだらしい、と風の便りで聞いた。もともと体が弱かったんだから、とうさん無しに生きていけるはずがない。
かあさん、あたしのことも、連れて行っておくれよ。
それを嘲笑うように、瀬山はいたって健康で、風邪ひとつひかなかった。
あるとき、あぜ松の姿が夕食に見えないことに気がついた。
あぜ松は部屋も近い遊女で、瀬山とよく、客からもらった金平糖なんかをかじったりしていた。
「あぜ松を、知らんかえ」
部屋付きの
「瀬山さまは、知らない方が良い」
「あぜ松は、あたしの友達だよ。知らない方が良いだなんて、あるもんか」
そう言うと、禿は沈痛そうな顔で答えた。
「
瀬山は、弾かれたように折檻部屋に急いだ。
あぜ松に、間夫がいただなんて知らなかった。逃げた遊女がどうなるかだなんて、よく知っているだろうに、あの馬鹿。
折檻部屋を開けると、そこには血まみれになったあぜ松が、天井から縄で吊るされていた。
「あぜ松!」
急いで引き下ろすも、もうあぜ松は虫の息だ。
「瀬山かえ。あたしは、もう駄目だよ」
切れ切れにそう言うと、あぜ松はがくりと動かなくなった。
瀬山はしばらく信じられなくて、あぜ松の体をがたがた揺らしたりしてみたが、どうにもならない。
次の日、瀬山はぼんやりとした頭で、仲間の遊女たちと墓を掘っていた。
化粧をする気にもなれなかった。
かあさん、あぜ松、あたしのことも連れてっとくれ。
幸いにして、今日は客がいなくてお茶を引いていたので、ふらふらと遊郭の中を歩く。
「お待ち、お前さん。ひどい顔じゃあないか」
掃除をしている老婆に話しかけられ、焦点の合わない目を向ける。
「せっかく綺麗なんだから、紅のひとつでも、お引きよ。ほら、あたしのを貸してあげよう」
老婆は、貝殻に入った紅を懐から取り出して、ふらつく瀬山の唇に塗った。
「ほうら、べっぴんさんだ」
それは、あの懐かしい椿油の匂いがして。
瀬山はしゃがみ込んで、手で顔を覆った。
【短編】口紅のかほり 春生直 @ikinaosu
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